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愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

三 伊予の産物

 伊予の産物を当時の百科事典である『和漢三才図会』(正徳三年)についてみると「半夏上品也 胡麻 大豆以豆腐造佳 素麺松山 鮑水崎 紫草大洲 鰮宇和島 鯵同 白藻来島 盆山石同ク撒石 奉書杉原紙 隼白峯 簾葭最細笑ナリ サユミ布」とある。これが妥当であるかどうかは問題もあろうが、こうした物が県外へ売り出されていたとみてよい。それがまた当時の文学にどのように登場するかをみていくことにする。

 伊予簾

 『和漢三才図会』は伊予簾を細茎の蘆を編んだ予州産のものと言い、『雍州府志』(京都の地誌)は茶亭窓間に揚げる伊予国産細竹の簾だと言っている。近世に入ると伊予簾は、民間、特に茶店でよく用いられたようである。「かけてよいのは伊予簾、かけてわろいは薄情」(阿国歌舞伎歌)と言われる伊予簾は、「半ば揚げたる伊予簾」(烏帽子折)は伏見の田舎家、「後ろの亨の屏越に。伊予簾巻かせて」(根元曽我)「誰もないぞと伊予簾二人が姿木隠に」(お染久松袂の白しぼり)は待合、「今日は伊予簾に風もりて」(西行法師墨染桜)は草庵、「印しを見世に伊予簾」(夏祭浪花鑑)は船頭の住家と種々の場所で用いられ、『東海道四谷怪談』(鶴屋南北)五幕目では「正面、縁側つきの亭屋台。伊予簾かけあり。」と舞台にも用いられている。『忠臣蔵年中行事』(黙阿弥)は明治一〇年の上演であるが、なお「伊予簾を下ろしあり」と舞台に使用されている。
 文学が現実を反映しているとすれば、伊予簾の文学の多出は、当時の庶民生活で伊予簾が広く用いられたことを示している。『大洲旧記』によれば、伊予竹は露の峰以外には生せず、「むかしは村中に生じて、凡そ古銀七拾貫目程も売りたり」とある。今の金額では七千万円位であろうか。かなりの量の伊予簾が京阪で用いられたのに対し、それだけの量産はなされていたのである。ところがある年「驕奢長ずる故也」と伊予竹の自生地一か所をのぞき焼き払い、百姓を耕作に向けさせたという。これを機に伊予簾の生産は減少していったのであろうが、文学の上ではそれを感じさせない。やはり藩にも実入りのよい伊予簾の生産は継続されたとみてよい。
 伊予簾は源氏物語・枕草子等王朝文学に登場するところから、伊予の湯桁同様、風雅のよすがとされた。俳諧では付合に「伊予」の項に「索麺、温湯」などとともに「簾」をあげている(類船集)が、『時勢粧』では「道後帯手ふれてやるも永き日に/伊予簾の内でうまん心根」の例がある。発句でも「空蝉のきなく簾や伊予の介」(崑山集)がある。「薫やいよ簾をもれて更衣」(吾伸・芋がしら)のような優雅な句もある。
 伊予簾を詠んだ句はほかに多いが、注目すべきは来遊の俳人と伊予俳人との交流の媒に伊予簾が用いられている点である。岡西推中が松山を去る時、久松一知軒は「又のあし伊予簾の秋を忘れずに」と詠み贈ると、惟中は「讃岐円座かしこまり月」と、これから行く讃岐の名産で答えている。大淀三千風も今治の江嶋山水に「金風のうちぞゆかしき伊予簾」の一句を贈っている。また江戸において芭蕪の弟子其角邸では「かけて待つ伊与簾もかろし桐の秋 其角/つはるをみれば文月の瓜 彫棠/衣うつ身をうたたねにぬくもりて 粛山」(雑談集)と歌仙を巻いている。支考の弟子廬元坊が伊予の川之江を訪れた時も、「翠簾は此国の名産なればと目にあたるままに涼しさやすだれにはこぶ浜の秋」(藤の首途)と詠んでいる。
 伊予における俳諧の選集もある。早く元禄九年の坂上羨鳥編『簾』に伊予簾の意のこもっていることはいうまでもない。羨鳥が高野山、吉野等をめぐった時の俳諧集で、簾をかかげて上方を見て来た意もあろう。「節間鏥て花の香ぞ堰く伊予簾」(羨鳥)の一句を収める。文政六年には万外編『伊予簾』二冊があり、東の万外が伊予を訪れ詠み交した句を集めている。やはり簾をかかげて伊予を見た意をこめる。嘉永元年、桃源舎樵柯編『伊予すたれ』は『高根』『友千鳥』に継いで伊予一国の選集を意図したものである。この二集には直接伊予簾を詠んだ句はないが、その古典的盛名がかく俳諧集に命名させることになったのであろう。
 和歌にも中島広足の「伊予簾たれも音せぬ春の日は軒のつばめぞむつ語りする」など幾つかあるが、伊予簾は実用、風雅両面から近世文学の中で一つの地位を占めていることが認められる。

 近松の書簡

 晩年の近松が松山の酒造家後藤小左衛門に宛てた書簡が残っている(資849)小左衛門が近松に索麺、柄糸、塩鶴の三品を贈ったのに対する礼状である。このうち素麺は食する以前に美しさにみとれ、「冬の日の糸遊とも申すべく申候やらん」と言い、目ばかりに振舞うて珍客ならでは出さないと賛めている。柄糸も上方では見知らぬ珍しいもので、塩鶴も食するを楽しみにしていると書いている。
 近松のこの素麺は『和漢三才図会』『類船集』のそれと同じもので、『万買物調方記』(元禄五年)の「伊予索麺。伊予松山の名物」、『俳枕』(延宝八年)の「白ゆふやかけて涼しき伊予そうめん 一鉄」も同じものであろう。道後素麺と言われており、年代的にみてこれは今日の五色素麺の前身である。近松のことぼからみてやはり色美しく染めたものであったろう。『風姿紀文』(宝暦三年)に「すだれの縁の伊予ざふめん。箸より猪口へ滝津浪」、『みをつくし』(明和六年)にも「伊予のお葛籠馬に素麺」とある。

 宇和の鰯

 『玉葉和歌集』に「宇和の郡の魚」と詠まれていたものが、『和漢三才図会』では鰮、鯵とされていた。『本朝食鑑』にも鰯の頃に伊予の宇和島をあげてある。西鶴の作品をみると『男色大鑑』巻二の三には「宇和の郡の魚焼きかほり。いかに下下なればとて。」と『玉葉集』を踏まえた表現があるが、『西鶴大矢数』第六八には「鰯よせくる宇和嶋の穐 西鶴」の句がある。
 その他石鎚山の鷹、みかんなどがある。伊予染は近松『嵯峨天皇甘露雨』の「四国へんろ」に、「伊達染浴衣」とあるのがそれであろう。ほかに「ねずみの伊予染にすれば、けつかうおはれをするはな」(江戸水幸噺)、「わたくしはネ、今着て居る伊予染を不断着にいたすよ」(浮世風呂)などとあり、『守貞漫稿』『本朝世事談綺』にも解説がある。
 伊予の産物が文学に登場するということは、それだけ伊予の生産が向上し、中央との交易が盛んということの反映でもあるが、伊予簾以外には文学の素材として独自の存在を主張するほどのものは見当らないようである。