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愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

二 四国遍路紀行

 近世になって世情が安定するとともに四国遍路は盛んになっていったが、近世以前から近世にかけてのまとまった四国遍路資料はごく限られたものしかない。そのうち、嵯峨大覚寺の空性法親王が寛永一五年(一六三八)八月より一一月にかけて四国霊場を巡行した折の記録『空性法親王四国霊場御巡行記』や、それから一六年後の承応二年(一六五三)七月から一〇月にかけて四国を巡った京都智積院の僧澄禅の『四国遍路日記』などは、もっとも初期の遍路資料として貴重なものである。また、これらは霊地巡行の記録であるとともに、各地の風俗人情に触れた体験的紀行文としても注目される。以後、四国遍路が一般に普及するとともに多くの文人墨客が霊地を訪れるようになり、いくつかの遍路紀行が残されている。岡西惟中の『白水郎子記行』、大淀三千風の『日本行脚文集』、十返舎一九の『方言修行金の草鞋』などはその代表的なものであろう。

 空性法親王四国霊場御巡行記

 本書は伊予史談会蔵の写本によれば、内題を「嵯峨御所大覚寺宮二品空性法親王二名州御巡行略記」という。真言宗本山の一つ洛西嵯峨大覚寺の空性法親王の四国霊場巡行に随行した太宝寺の権少僧正賢明が命によって執筆したものである。空性法親王は後陽成天皇の弟にあたり、若年にして嵯峨大覚寺門跡准后尊信に従って密教を修行され、あとを継いで大覚寺門跡となっている。四国霊場御巡行は六八歳の時のことである。また、筆録者の賢明は跋文に太宝寺の僧であることが記されているのみで、その経歴は明らかではないが、澄禅の『四国遍路日記』によれば太宝寺は皇室との縁が深く、寂本の『四国遍礼霊場記』に「菅生山太宝寺大覚院」という院号が見えるから、大覚寺との関係が深かったことが推測される。法親王の御巡行に太宝寺の沙門が随行したことは自然なことであったのであろう。この記録は、四四番菅生山太宝寺を起点に讃岐、阿波、土佐を経て再び太宝寺に至る、足かけ四か月の日数を費した旅の記である。八十八か所の札所のみならず、各地の有名な神社、仏閣、旧蹟などに足をとめてその歴史的記述にも意を用いている。伊予に関する記述が全体の約半分を占めており、その中には河野・越智系図に見られる伝承をふまえ、中国の名勝に筆が及ぶなど、その該博な知識を窺わせるが、とくに南朝方の諸将と遺跡に関する記述が詳しい。法親王の巡行にふさわしい内容を持ち、七五調を基調とした流麗な詞章をつらねて格調高い紀行文の態をなしているが、一面具体的な記述に欠け、現実感に乏しいうらみがある。

 四国遍路日記

 この日記は、現在宮城県塩釜神社に写本が残されている。筆者の澄禅は肥後国球磨郡の生まれで、新義真言宗の本山の一つ京都智積院の僧である。この遍路は澄禅四一歳の時のことであり、承応二年(一六五三)七月一八日に高野山をたち、一〇月二六日結願まで九一日間の旅であった。この旅の記は、巡拝した寺社の縁起や里程の紹介のみならず、各地の庶民生活に目をとめて、人情・風俗・言語・宗教などの細かな観察なども記しており、四国の地方史の資料として、また江戸初期の遍路の実態をよく伝える資料として価値が高い。伊予路の部分を見ると、四二番仏木寺、四四番菅生山太宝寺などの縁起説話や、四五番岩屋寺の迫割岩の話、四六番浄土寺に詣でた折に宿った久米村武知仁兵衛など、各地の正直篤信な人たちへの感銘、五五番三島宮や六二番宝寿寺における旧知の僧との語らい、石鎚山の雪景の印象、六五番三角寺への山道の険阻と紅葉の美景への賛嘆などに筆を費している。なかでも、弘法大師練行の場と伝えられ、一遍上人再出家の幽境岩屋寺と、四国八十八か所巡りの元祖衛門三郎ゆかりの五一番石手寺の記述は詳しい。澄禅が記す衛門三郎転生譚は、伊予国浮穴郡荏原の庄の強慾な長者として知られる衛門三郎説話とは異なり、伊予の大守河野殿の下人で石手寺の熊野一二社の掃除番であったとする珍しい説であるから、次に引いておく。

  中古ヨリ石手寺ト号スル由来ハ、昔此国ノ守護河野殿トテ無隠弓取、四国中ノ幡頭ナリ。石手寺近所ノ温ノ泉ノ郡居城ヲカマエ猛威ヲ振フ。天正年中迄五十余代住ケルト也。扨、右ノ八坂寺繁昌ノ砺、河野殿ヨリモ執シ思テ衛門三郎卜云者ヲ箒除ノタメニ付置タル。毎日本社ノ長床ニ居テ塵ヲ払フ。此男ハ天下無双ノ悪人ニテ慳貪放逸ノ者也。大師此三郎ヲ方便ヲ教化シテ真ノ道二入度思召ケルカ、或時辺路乞食ノ僧二化シテ長床二居玉フ。例ノ三郎来リ見テ、何者ナレハ見苦キ躰哉ト頻テ追出ス。翌日又昨日居玉フ所二居玉ヘハ又散々ニ云テ追出ス。三日目二又居玉フ、今度ハ箒ノ柄ヲ以テ打擲シ奉ル。其時大師持玉ヘル鉄鉢ヲ指出シ玉ヘハ此鉢ヲ八ツニ打破ル。其時此鉢光ヲ放テ八方二飛去ル。衛門三郎少シ驚、家ニカエレハ嫡子物二狂テ云様ハ、吾ハ是空海也、誠二邪見放逸ニシテ我ヲ如此直下ニスル事慮外ノ至也、汝力生所ノ八人ノ子共ヲ一日力内二蹴死ヘケレトモ、物思ノ種ニ八日可死云テ手足ヲチゝメ息絶ヌ、其後次第~~‘ニ八人ノ子共八日二死セタリ。其子ヲ遷セシ所トテ八坂ノ近所ニ八ツノ墓在リ、今ニ八墓ト云。

 後悔した三郎は髪を剃り、四国中を巡行して子供の菩提を弔う。二一度の辺路行の間、大師も姿を変えて随行し、三郎の慈悲心の堅固なのを見てとると三郎の前に姿を現わして、生涯一度の望みを叶えてやると約束する。三郎が河野家の子に生まれることを望むと、大師は三郎に石を握って往生することを教える。三郎は一二番焼山寺の麓に往生したが、やがて河野家の世継の子孫が生まれて三日目に左手を開けると三郎の名を記した石を握っていたので、この石を込めた本尊を据えて安養寺を石手寺と改めたという。衛門三郎発心譚に、空海の飛鉢説話、玉の石の後日譚を含む詳細な説話の記録として注目される。澄禅は伊予路を過ぎるにあたって「凡与州ノ風俗万事上方メキテ田舎ノ風儀少ナシ。慈悲心薄ク貪俗厚、女ハ殊二邪見也。」と感想を記している。次の讃岐についても「凡讃岐一国ノ風儀万与州ニ似タリ」と記しており、瀬戸内側の両国の風俗・人情と、「惣テ阿波ノ風俗貴賤トモニ慈育ノ心深シ」「凡土州一国ノ風俗貴賤トモニ慈悲心深キ」と記された阿波・土佐の印象を比較することも興味深い。

 文人の遍路紀行

 伊予路の旅を記した俳人の最初の紀行文として知られる『白水郎子記行』は、談林派の俳人岡西惟中が天和元年一一月に妻を失ったのを機に行脚を思い立ち、四国・中国地方を巡った旅の記録であり、天和三年(一六八三)に刊行された。天和二年四月に大阪を発ち、四月一〇日三津浜に上陸、六月末日まで松山に滞在した。この間松山の俳人たちと交わり、武家や神職に『伊勢物語』『源氏物語』『徒然草』の講義をなし、俳諧を広めるなど、多大の影響を与えている。また、近隣の寺社や旧蹟を訪ねており、六月二〇日には五二番石手寺に詣でて住持と語り、寺宝の什物を模写している。四四番菅生山太宝寺、四五番海岸山岩屋寺のことを聞いて是非にと参詣を望んだが実現せず、その幽遠なさまを聞き書きするにとどめた。七月一日に松山を発って風早に向かい、菊間、今治、大三島、壬生川などの俳士を訪ねて、九月末に高松から帰阪した。霊地巡拝を意図した旅ではなかったが、巻一の冒頭に「涙河」と題する亡妻追悼の文章を掲げるなど、無常迅速の寂寥の思いがつづられ、また談林派随一の論客らしい真摯な態度が文章にもあらわれている。
 次いで、惟中の来遊から三年後の貞享二年(一六八五)には、仙台の俳人大淀三千風が七年間に及ぶ全国行脚の途次伊予を訪れている。その俳諧紀行『日本行脚文集』の巻五は「四国遍路海道記」と題されており、同年六月に丸亀を発ち、阿波、土佐を経て、伊予の南端平城から、宇和島、菅生山、松山、今治、宇摩郡を経て、讃岐から大阪へ向かうまでの旅行記である。その間、観自在寺に参詣して、柏坂の峯渡りに九州・四国の山なみを遠望し、宝原(今の芳原か)に下って山口臣常宅で『徒然草』を講じ、仏木寺、明石寺を経て大洲城下に泊り、盤珪和尚再興の禅刹を訪ねている。次いで、内子村を通って菅生山奥院(岩屋寺)に向かい、胎内くぐりや瀬登不動、役行者の岩屋、七尺の卒都婆などの奇景を詳述している。一節をあげておく。

  是ぞ八十八ヶ第一の奇怪、大師神変をふるひ給ふ地なれば、大かたにやはあるべき、胎内くゞりは五十丈ばかりの岩山部而、央は其の峡一尺四五寸の細燈、日かりもなきに身を峙て、苔髭にとりつき、五十間ほど這ひ出でぬれば、さらに別世界あり、又此の山に白山の銅社、廿二の階をのぽりしが、頂上は丈ばかりにして、下は数千丈の玉はしる底ふかし、眩われかのけしきもなく、局 蹐に石根颱がごとく、戦掉下りぬ、本院の窟のうちには、瀬登不動とて、秘仏まします、又十二の階をあがり、役行者の岩屋、それよりこなたの峙路よく向上ば、万丈の岩屏、中壇に七尺有余の卒都婆、堂々と立てり、これ第一の奇妙、黄金色の中に、梵文鮮に見えたり

 さらに、浄瑠璃寺、葉坂寺から江原(荏原)の町に入り、大森彦七の古城を訪ねて自作の謡『彦七』と面影が違わないことを偲び、西蓮寺、浄土寺、石手寺に参詣して、道後の湯に疲れをいやしている。この巡拝の記述は七五調の道行文の体をなしており、道後温泉については、伊予の湯桁、鷺の湯の神話、湯の記を想い起こしている。また、貞門派の俳人秦一景を訪ねたが不在で逢えず、太山寺、須賀寺、円明寺、泰山寺、八幡寺、沙礼寺などの巡拝の旅を続け、今治では江島山水に手紙を送り、国分寺、香園寺をすぎて、永見から四国第一の高山石鎚山を眺望して讃岐へぬけている。霊地巡拝と俳友歴訪の旅の記であるが、所々の発句、付句、和歌などを交えた達文の紀行文である。
 また、江戸後期の文政四年(一八二一)には十返舎一九の合巻『方言修行金の草鞋』の第一四編「四国遍路旅案内」が出版されている(資836~848、伊予関係分のみ所収)。『金の草鞋』は、奥州の住人で僧侶の筑羅坊と狂歌師の鼻毛延高が江戸から関東一円、北陸、京阪を経て、宮島、四国、長崎に至る道中記で、文化一〇年刊の初編から天保五年刊の二五編に及ぶ長大なものである。未曽有の大当たりをとった『東海道中膝栗毛』の余勢をかって出したもので、二人が滑稽や洒落をつくして狂歌旅行を展開していく内容は滑稽本といってよい。それを挿絵を中心に描いて草双紙に仕立てたものである。一九は「四国遍路旅案内」の冒頭に、先年道後温泉を訪れて高知・徳島を遊覧した折に主な霊場はすべて参詣しているので、出版の求めに応じて遍路紀行を著したと記している。全体に卑俗な笑いと狂歌を組み合わせた戯作で、遍路行の苦労や霊場巡りの信仰心などはうかがわれないが、各地の庶民風俗を巧みに描き出している。また、各霊場の御詠歌について、

  この御詠歌といふものは、何人の作意なるや、風製至て拙なく手爾於葉は一向に調はず、仮名の違ひ自他の誤謬多く、誠に俗中の俗にして、論ずるに足ざるものなり、されども遍路道中記に、御詠歌と称して記しあれば、詣人各々霊前に、これを唱へ来りしものゆゑ、此双紙にも其儘を著したれども、実に心ある人は、此の御詠歌によりて、只惜信心を失ふことあるべく、嘆かはしき事なるをや。

と辛辣な御詠歌批評を記しているのは、遍路の普及による信仰の卑俗化への厳しい批判をこめたものとして、当を得ている。
 その他、遍路に関する記述として知られているものを挙げると、まず、はやく寛文四、五年(一六六四、五)に記された『桂井素庵日記』がある。これは著者一三、四歳の時の日記で、寛文五年正月一八日の条に、伊予の新町の久太夫という四七、八歳の男が娘のや屋一六歳を連れて四国遍路の途中、土佐の地で播州から来た仁兵衛三三歳の遍路行と行きあい、や屋が仁兵衛と通じてかけ落ちしたので久太夫が公儀に訴え出たこと、また、六月二九日の条には、土佐の画師の子道全が伊予から来た遍路に認められて予州抱えの薬師の養子に入った話が記されている。
 つぎに、『四国巡礼日記』は寛政四年(一七九二)に西条氷見の十亀亀蔵、孫惣、常吉の三人が同行した遍路記である。二月二七日六三番吉祥寺を札始めとして巡拝を遂げ、三月一六日小松の六二番一の宮(宝寿寺)に札納めをした巡礼日記で、天候や悪路に悩みながらそちこちに善根宿を求めていく遍路巡拝のさま、霊地を拝した感動、名勝・旧蹟に接した驚きなどが、多くの句を配して具体的に記されている。
 文化元年(一八〇四)の四月に四六番浄瑠璃寺から遍路に出た英仙本明の『海南四州紀行』は、各霊場の寺内の配置を記した詳細な記録である。札所への道順から、楼門、太子堂、その他の堂屋、墓碑、寺鐘などの説明、本尊の形容、寺の縁起、寄進額などが詳述されている。その他、遍路行の衣装や必備の携帯品、携帯食、薬品などを列記し、さらに、食料の調達、宿所、手荷物の用心、金銭の準備、小用の心得まで細かな心配りが記されており、実際の遍路行の様子を知りうる貴重な資料である。
 新居来助が文政二年(一八一九)二月から四月にかけて土佐から伊予、讃岐、阿波を巡った遍路日記『四国日記』は、前掲の『四国巡礼日記』と同じく遍路行の苦労を伝える一庶民の記録である。遍路で泊まりあわせた他の遍路の動向、道々で見聞した庶民の生活ぶり、通過した城下町の繁栄のさま、名物・特産物の由来、路銀の使途、手形改めなど詳述している。記行文学的な雰囲気には乏しいが、霊場・名勝・村里などの伝承も書きとめている。
 江戸後期の天保三、四年(一八三二、三)ころに安芸の鞆の浦の住人と思われる人が多度津から東廻りで四国を遍路した『四国紀行』は、霊地のたたずまいと自然の風物を写して信仰心をこめた上質の紀行文である。二月九日に鞆の浦を出立し、阿波、土佐を経て三月二四日に伊予に入り、四月一四日まで二一日かかって伊予の霊地を巡拝しているが、菅生山、道後の湯、石鎚山などの記述に見られる多くの和歌を配した流麗な文章は、深い信仰心と豊かな国学的教養を兼ね備えた人物の旅の記であることをうかがわせる。
 一方、天保五年(一八三四)に書かれた『哥吉回国物語』は、通例の遍路記とは異なり、土佐の幡多郡平田村の百姓で一四歳の哥吉が、四国遍路の途次同行の母弟と死別し、数奇な運命をたどった次第を藩に届け出たものである。幼少の時に実父と死別し、母と生別して縁戚に貰われた哥吉が、不具となった養父の意を帯して養母義弟と遍路に出るが、松山領太田郡桜井村で痘熱のために弟を失い、母も悲嘆と放浪の旅の疲れから阿波の三好郡白地で病死してしまう。帰郷のつてもなく途方にくれた哥吉は、衣食住にこと欠き、辛酸をなめながら托鉢行脚を続けるが、途中で出会った予州の研の栄蔵という回国の職人を頼って、八幡浜から九州の佐賀関に渡る。その後は帰国のあてもないままに栄蔵について筑前、豊前、長崎から熊本、さらに山陽、山陰の各地を回り、京阪から北陸、東海を経て江戸、奥州に向かい、下野国で栄蔵の病気のために公の知るところとなり、尋問ののち帰国を許されたのであるが、その次第が克明につづられている。
 また、幕末の北地探検家として知られる松浦武四郎(弘)は、天保四年に家を出て一〇年間にわたり各地を歴遊したが、その間の天保七年一九歳の時に四国八十八か所の霊場を巡り、弘化元年(一八四四)に参拝紀行『四国遍路道中雑誌』を書いている。霊場の地勢、本尊名と作者名、境内の様子、霊場間の地理などを詳しく記し、各地の著名な社寺、大師伝説、特産物、及び法華津村の穴御前、楠村の臼井の御来迎、石鎚山の女かへし、水禅定などの名勝・奇景についても筆を及ぼしている。
 嘉永四年(一八五一)二月に小池又左衛門が伊予から四国遍路に出た折の日記『四国道中日記帳』は、遍路に出るにあたっての餞別のメモや巡拝した霊場の絵図を記したものであるが、その後に中世の霊験説話や法話、報恩譚などがたんねんに記されている。遍路関係では衛門三郎発心譚が「石手寺因縁」と題して詳細に記されている。
 その他、明治一七年(一八八四)に土佐の中越善平夫婦が四国路を経て高野山に詣でた『四国中並二高野道中記』も残されており、明治になって世相が変わっても四国遍路は素朴で強固な庶民信仰のあかしとして盛行していたことが知られる。