データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

一 文芸作品中の四国遍路

 弘法大師信仰に基づく聖地巡礼である四国遍路は、中世末から近世にかけて一般に普及し、好個の素材として文芸にも取り上げられることになった。四国遍路の記述は、すでに中世初期の『梁塵秘抄』の歌謡をはじめ、『今昔物語集』の説話、狂言『六人僧』などに見られるが、近世になると四国遍路が庶民信仰として定着し、説経節『かるかや』をはじめ、草双紙、浄瑠璃、歌舞伎などに描かれている。

 『かるかや』

 説経節。寛永八年(一六三一)四月刊。説経正本には他に『かるかや道心』(寛文初年頃)、古くは室町時代末期の絵入り写本『せつきやうかるかや』がある。大筑紫筑前国苅萱の庄の領主加藤左衛門尉繁氏は、花見の宴の折に落花に無常を観じて道心をおこし、高野山にのぼって出家遁世の身となる。残された奥方とその胎内にあった石童丸が十余年後はるばる高野山に繁氏をたずねていくが、奥方は麓の宿で、姉娘は留守居の館で死ぬ。繁氏は誓文に背くことになるので現世では親子と名乗り合うことができなかったが、弥陀の浄土で名乗り合い、善光寺の親子地蔵といわれたという。全体は繁氏の発心遁世譚であるが、道心と妻子への恩愛の情の葛藤を描く発心譚の形式から見ると、この説経節はむしろ残された家族の哀話の方が前面に出ているのが特徴である。
 この母子の高野ゆきに加えられた劇中劇のような位置に立つのが、麓の宿の主人が語る弘法大師誕生譚と母あこう御前の四国八十八か所放浪の話である。夫君からも父君からも三国一の悪女と嫌われた大唐国の姫君あこう御前はうつぼ舟にこめられて日本をさして流され、讃岐の海岸に漂着してとうしん大夫という漁師に拾われる。そこで黄金の魚が胎内に入る夢を得て男子を出産するが、その子金魚丸の夜泣きと長泣きのために浦人に疎んぜられ、子をつれて流浪の旅に出る。母子が難行苦行を重ねた「その数は八十八所とこそ聞こえたれ。さてこそ四国遍路は、八十八ヵ所とは申すなり」とあって、その金魚丸がのちの弘法大師空海であり、母子の放浪のあとが四国八十八か所遍路のはじまりとなったという説話を記している。この説話は俗伝として広く流布したらしく、『四国遍礼功徳記』(元禄二年)を著わして大師信仰の功徳譚、霊験譚を集めた宥弁真念は、その末尾に「然るに世にしれ者ありて、大師の父は藤新大夫といひ、母はあこや御前といふなど、つくりごとをもて人を售。四国にはその伝記板に鋟、流行すときこゆ、これは諸伝記をも見ざる愚俗のわざならん」と慨嘆している。

 嵯峨天皇甘露雨

 近松門左衛門作の時代浄瑠璃で、正徳四年(一七一四)に竹本座で上演された。九月に没した竹本義大夫追悼興行のために書いた最初の作品である。嵯峨天皇の皇弟大海原皇子が悪右馬丞仲成、守敏法師をひきいて反逆を企て、天皇を嵯峨の離宮に幽閉して帝位を奪おうとするが、仲成の女婿の判官橘勝藤、仲成の子の仲経夫婦が力を合わせて皇子一味を滅ぼすに至る顛末を描いたものである。外題は、五段目に弘法大師が守敏法師との法力比べに勝ち、甘露法雨を降らせて旱魃に苦しむ百姓を救い、天下の静穏を保った条に拠っている。舅を殺して帝への忠義を貫く勝藤、父の敵となった夫への情と敵討の義との板ばさみで苦しむ花世、父の敵を討つために勝藤の老父浜頼を人質にとり、代わりに我が子を飢死させてしまう仲経夫婦、仲経への義理から自害もかなわぬ浜頼などの煩瑣な義理詰めと愁嘆場を連続させて劇は進行するが、とくに仲成の悪霊が三悪道に転生する因果話などは著しく興を殺いでいる。この劇の中盤四段目で、花世と仲経の妻が亡父、亡児の菩提を願って四国へ渡り、八十八か所の霊場を巡るのが、「四国へんろ」の道行である(資835・836)。伊予の部分はきわめて簡略な記述であるが、四二番仏木寺をはじめ、伊予すだれ、菅生山、伊予の小富士、浄瑠璃寺、道後の湯、伊達染浴衣、正月桜、石手寺、三島宮、佐礼山、国分寺、三角寺、石鎚山などの霊場、名勝、名物などを七五調のリズムにのせて連鎖的につらね、紀行的雰囲気を盛り上げている。この遍路の趣向は、弘法大師の法力とともに、大師の八百八十年忌をあてこんだのと、初代義太夫没後の追悼の興行であることによるのであろう。

 歌舞伎

 なお、四国遍路の案内記である『四国遍路道指南』が貞享四年(一六八七)に出版され、元禄二年(一六八九)には『四国遍礼功徳記』『四国遍礼霊場記』が相ついで刊行されるなどの四国八十八か所巡礼の盛行にともなって、元禄四年(一六九一)九月には京都万太夫座で『四国遍路』という歌舞伎が上演されている。これは、狂言本見返に座本山下半左衛門が今夏の四国下向の折に四国遍路の巡礼が利生を受けたのを見て舞台にかけたという口上があるが、冒頭に「一ばんにれうぜんじ、れうぜんの、しやかのみまへにめぐりきて、万のつみもきへうせにけり」と巡礼歌を配した新奇な出だしを見ると、四国遍路が流行した当時の時流にのった興行であろう。伊予国主みよしくない家の家老吉川かぢ右衛門のお家乗っ取りの陰謀と、それを抑える忠義の弟かつ右衛門、やみ討された義兄の仇を討つため若衆姿で敵をさがすくめ川長九郎、長九郎と夫婦約束をするみよし家の姫君みさきの前、夫の仇を討つ金を得るために、傾城に身をおとすおふさがからんだお家騒動物であるが、全体は四国遍路の奇特で命を助かった、おふさの娘お長を尼にして住持にすえるまでの、えんみょう寺再興談の形式をなしている。五三番円明寺、五四番延命寺がそれにあたり、この寺を一五番札所と誤っていることを見ても、順礼の盛行をあてこんだのにすぎないことは自明であるが、耳目をひいたらしく後年まで評判をとった。