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愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

二 一遍上人

 近世文学には一遍上人及び遊行上人が、様々な形で登場する。次にそのいくつかを挙例する。

 謡曲

 『誓願寺』は崇高清逸の気品高い三番目物で世阿弥作である。一遍上人が熊野の本宮證誠殿に参詣し、託宣の四句の偈を賜って京都に上る。誓願寺で一人の女が一遍上人の念仏札を所望する。念仏称名の人はすべて往生するとの答えに、女は「誓願寺」の額の代りに上人の揮毫になる六字の名号の額をかけよと言って消える。後シテの和泉式部の精霊が、極楽の歌舞の菩薩となって現れ法悦の一差しを舞う。
 『遊行柳』は世阿弥の『西行桜』に触発されて創作された観世信光の作品である。西行法師に「道の辺に清水流るる柳かげしばしとてこそ立ちどまりつれ」と詠ませた陸奥白河の関のほとりの老柳の精霊が、遊行上人の回向を受けて草木成仏の寄特を遂げ報謝の舞を舞うという曲である。一遍上人の教えを信奉した歴代の宗主は、諸国を遊行して念仏教化を行ったところから俗に遊行上人と呼ばれた。この作品のワキも「われ一遍上人の教えを受け」た「諸国遊行の聖」である。この謡曲には『一遍聖絵』や『一遍上人絵詞伝』において、弘安三年奥州下向の途次、白河の関で西行の歌を関の明神の宝殿の柱に書きつけたこと、また遊行第一九世尊皓上人が文明三年葦野での修行の折、枯木の柳の精が老翁と化して現れ、十念を授かった喜びを歌に詠んだと言う話が背景にあるのであろう。
 『一遍上人』(近世初期の作、作者未詳)のワキは一遍上人で、西国行脚を志し、難波の阿弥陀が池で、シテの姥に、昔本多善光が信濃の善光寺の如来をここから引き上げた由来を聞く。これは一遍が善光寺に文永八年春と、弘安二年に参拝したことに、善光寺縁起を結びつけたものであろう。

 『北条九代記』

 延宝三年刊の雑史『北条九代記』(浅井了意著か)巻一〇の一二「改元付蒙古の使を追返さる井一遍上人時宗開基」の章に、建治元年「鎌倉藤沢時宗念仏の流儀草創す。開山一遍上人は伊予国の住人河野七郎通広が次男なり」として、その一代記が描かれている。一遍には初め二人の妻妾がいたが、ある時碁盤を枕にして寝ていた二人の女房の髻が、小さな蛇となって鱗を立てて食い合っていた。それを見た一遍は執心愛念嫉妬の恐ろしさと輪廻妄業因果の理を知り、発心して比叡山に上り、一一年修行し知真房と名乗る。熊野本宮の証誠殿に参籠した。一切衆生の往生は「南無阿弥陀仏」の六字の名号をもって決定業とすべきことを霊夢の中で感得し、「六字名号一遍法、十界依正一遍体、万行離念一遍證、人中上々妙好華」の七言四句の偈頌を授かり、この偈の頭の四字を集め「六十万人」とし、それを念仏札に作り、一遍と号を改め、諸国を巡回して結縁した。やがて信濃国佐久郡伴野で踊躍歓喜のあまり、踊念仏をした。相模国藤沢に道場を建て兵庫の観音堂で遷化した。「一遍上人時宗の流儀今の世までも退転なし」とある。

 戦記類

 重見右門著の『予陽盛衰記』(元文四年刊)第七章に「遊行上人由来の事」がある。石手寺縁起で有名な浮穴郡荏原村の八塚右衛門三郎の転生がすなわち一遍上人であるとした点に特色がある。別府七郎左衛門通広の子は幼名を徳寿丸と言い、後に別府弥七郎通秀と称した。「通秀は前生右衛門三郎が事跡を詳しく尋ねて」ひたすら菩提心を起こし、久米郡に一つの伽藍を建立し、石手寺と号した。通秀は発心して智真坊と法名をつけて諸国行脚に旅立った。これが一遍上人である。また代々の宗主は諸国を遊行するから遊行上人とも陀阿上人とも言うが、「願満ちて、後住に譲り、閑居したる人藤沢に住すなり。されども、諸国行脚の内は滞居の寺庵あり。予州には殊に開基の地なればとて、道後に法厳寺と号して廻国の砌この寺にいますなり。」とある。一遍上人が河野家ゆかりの三島明神へ参詣されたとき、歌一首詠進したところ、「風も吹かざるに幣帛やや暫く動」いた。「六時不断の隙なき中にも、三島の事をば深く信仰ありしとなり」とある。『予陽河野家譜』(慶長年間以後成立)巻二にも通信の三男通広(河野七郎)は風早郡別府に住んだので別府を氏とし、息男は七人いたが、二男が通秀で三男は出家して聖戒上人と言い、四男も出家して一遍上人と号したとある。割注して「童名聖衆丸、出家而号随縁、又智真房時宗開祖也」とある。

 随筆・地誌

 西鶴述作の地誌『一目玉鉾』(元禄二年刊)の巻二「遊行寺」の項に、「開山一遍上人は伊予国河野通信の弟也。後宇多院建治元年に熊野神勅をうけて爰に時宗寺を立給ふ。正応二年八月十日に迁化」とある。遊行寺は神奈川県藤沢市にある時宗の総本山清浄光寺の異称。「河野通信の弟」は「孫」の誤り。黒川道佑述作の地誌『雍州府志』(貞享元年序)の巻六の『遊行鏽土』は、東山清水山の麓の法国寺の辺りの土赭で、茶亭の壁を塗るのに用いる。俗に遊行土と称するとある。随筆『翁草』巻六一の「一遍上人踊念仏の歌の事」の条に。一遍上人は隆蘭渓に法を聞き、歌学に勝れていたこと、このため今もこの法流の者は、連歌をよくすること、昔ある人が一遍上人の踊念仏を嘲笑した時「はねはねよ躍らばをどれ春駒の法の道にははやきばかりぞ」と返答されたという逸話をのせている。静山著の『甲子夜話』(続編)巻二〇の一三に、「聞く。遊行上人始て廻国ありし時の路を、今も遊行街道とて、例に仍てその路を遊行あることとぞ。」とあって、代々の上人廻国のこと、今の上人の遊行のことが筆録されている。巻八〇の一は、静山が江戸へ行く途中、寛政一二年一一月二六日藤沢で宿泊した時の記事で、「路すがら、遊行上人旅宿の札見えたれば、此駅につきぬるほどに、上人はいつか帰りたまふと聞けば、一昨日帰寺有りたりといふ。此ところは音に聞し遊行の道場、一遍上人の画軸はここに蔵たるを思い出たれば」拝見を希望して『一遍上人絵詞伝』拾巻を見せてもらう。巻九四の一六にも、徳川家と藤沢清浄光寺との関係について述べられている。

 演劇

 歌舞伎の筋書本である絵入狂言本『一へん上人記』(作者未詳、元禄頃上演か。資813)では、死亡した武蔵の国越前の庄みちひろの総領小二郎が発心して、藤沢で開山一遍上人の法統を継承する一遍上人になり、みちひろ亡き後のお家騒動を仕組んだものである。これは『一遍上人絵詞伝』の第一巻の「一遍上人……ハ伊予国河野七郎通広か子也。建長年中に法師になりて、学問なとありける比、親類の中に遺恨を挿む事有て、殺害せむとしけるに、疵をかうふりなから、敵の太刀を奪取て、命は助にけり。発心のハしめ此事なりけるとかや。」にヒントを得ての脚色であろうか。通広の後妻命婦院が弟太郎左衛門と共謀してお家乗っ取りを企むのは、元禄歌舞伎の常套の仕組みである。先妻の惣領小二郎はそれを察して出奔し、藤沢で出家して一遍上人となっている。そこへ彼の妹であるとよ姫・さよ姫、また彼女らの許婚らが悪人にお家を追われて来て、一同再会となるという趣向である。忠臣の子を身代りに立てての働きで、やがてお家再興となるが、本作の仕組みの中心はそこにあり、早く家を出た一遍上人は脇役であって、劇中さして重要な働きはしていない。僅かに兄妹再会の場を作るだけの役割で、一遍上人らしい人間像は窺えない。通広の子ということで一遍上人と関係づけられているが、生国は武蔵であり、伊予との関係も出て来ない。とよ姫の許婚右門の介は出家しようとしてとよ姫が忘れられず、妻恋う鹿に思いあくがれるといった元禄男で、宗教的な雰囲気も少ない。悪人に斬られたとよ姫が地蔵菩薩の霊験で命助かるのは、これも当時多用の趣向で、霊験の宣伝臭の強い、便宜的なものである。こういう仏の身代りは開帳物に多い。当月は開山の一遍上人の御年忌に当っているとあるので、それにちなんだ上演であったかもしれない。「一七日がその間御せっほう有、大念仏のおどりをはじめ、御ほうじ」があるのは、劇の終りにするフィナーレの踊りで、ここで役者全員揃って踊念仏をしたのであろう。一遍上人その人を描いた作品ではないが広い意味ではやはり一遍物の一つといえるであろう。

 読本

 淡海子述作の『操双紙』(明和八年序)に一遍上人・遊行上人のことが描かれている。本書は江戸の名物として評判の高かった冠髪香の本舗両国橋畔五十嵐兵庫の妻が、妾を嫉妬して殺害した事件を種に創作されたものである。その後この中で「十七、浅草寺開帳竜灯の事」の条に、「ことし(明和七年)浅草寺の観世音開帳ありて、参詣群衆の事みな人知る所なり、藤沢寺時宗の上人、この開帳に夜参りし給ふ折から、竜灯を見給ふと江戸中こぞって沙汰しあへり」とあり、続いて「十八、遊行上人の事」の条には、「亀山院の弘長年中の頃かとよ、伊予国の住人に、河野七郎通弘が二男、別府通秀といふ人」がいて、二人の妾の黒髪が蛇のようになっていることから発心し、知真と号して修業、熊野の証誠殿に参詣して神勅を受け諸国遊行して法を広め念仏札を配り、「後相州藤沢の道場、藤沢山清浄光寺を草創し給ふ、是を一遍上人と申なり、今の遊行上人迄五十三代なりとぞ、江戸神田山日輸寺も遊行寺と申す。此所に遊行したまひて、かく竜灯などをも拝み給ふとの風聞ありし、その外利益まのあたりなれば、わかき老たるをしなべて、みな御札をぞいたゞきける。」とある。一遍上人が妾の嫉妬ゆえに出家したところから、この女の愛欲の供養者として遊行上人が登場するのである。

 パロディ化仮名草子

 近世文学の特徴の一つは、歴史上の著名な人物や英雄をパロディ化して卑俗滑稽化するところにある。安楽庵策伝著『醒睡笑』(元和九年序、寛永五年跋)の巻二の「賢だて」の一三に、一遍の法灯を継ぐ遊行上人に関白秀次から、「上人は霞の衣霧の数珠あまけはなれぬそら念仏かな」という歌があった。これは雨気離れぬ空に、尼気の離れぬ空念仏を掛けた悪口である。それに対する返歌は「水鳥は水に入りても羽もぬれず海の魚とて塩もしまばや」である。これは水鳥が水にぬれず、海魚に塩がしみぬように、私は在俗の女人の中に入って仏法を説いても、戒を持しているから御心配なくの意である。秀吉がこのことを聞いて「更に詮なき作法や」と言って法国寺(京都下京遊行町にあった)を建立して贈った。「名僧となのらずとても善知識(高僧)身をふくにこそ人は秋風」と最後にある。巻六「恋のみち」の七に、時宗の寺に長阿弥という喝食がいた。心引かれる女がいたが言い寄る便りもないので、代作を依頼すると、「あぢきなき長阿弥陀ぶの決定は往生よりも望みなりけり」と詠んだ。巻七の「思の色を外にいふ」の一四に、天台・禅宗・時宗の僧三人が歌を詠んで遊ぽうと言うことになり、時宗は「歌道に心がけの家なり。まづ詠み給へ」と言われたので、「唐土より日本にひょっと踊りでて須弥の辺を遊行上人」と詠んだ話がある。巻七の「癈忘」の三に、真言宗の老僧の所のこざかしい弟子達が一のつく祖師の名を言って、豆腐を争うときに、「時宗の開山一遍といふあり」とある。巻八の「頓作」の一九に、法華僧が近頃栗毛の馬を手に入れて時宗栗毛と名付けたので、その理由を聞くと、「とかくこの馬をどりたがる」。すぐに時宗僧も葦毛の馬を買うて法華葦毛と付け、「とかくかの馬口が強さに」といった話がある。
 浅井了意作の『曽呂利狂歌咄』(寛文一二年刊)の巻三に、一遍上人が京都滞在の時、召使っている尼たちを、連歌師紹巴が何尼かと尋ねると、上人は旅衣の洗濯をしていると答える。その後は『醒睡笑』巻二とほぼ同じである。また巻三には長老が空の理を醒悟していると聞き、遊行上人が訪問してみると、座禅ではなくて居眠りをしていたので「夜昼の念仏してだに覚束な眠り居りては如何のちの世」と詠むと、長老は「跳はねしける雀の心とて鷲のすみかを如何で知るべき」と返事したとある。
 一遍が歌をよくしたことから、遊行上人や時宗僧の歌や連歌に関する笑話が多く生まれたのである。

 パロディ化・浮世草子

 西鶴述作の『諸艶大鑑』傍題「好色二代男」(貞享元年刊)の巻一の二に、「是をおもふに、人間遊山のうはもりは、色里に増事なし。此道に身を染、八宗見学、女色一遍上人の進めに、女良買は、抑より太夫にかかるがよし。」とある。仏教の八宗の教養を合わせて修得した八宗兼学の時宗の開祖一遍上人は、女色・男色の様々な色道に遊んだ末、女色に勝るものはないと悟った、色道の達人だと言うのである。西鶴作の『好色盛衰記』(貞享五年=元禄元年刊)の巻五の二に、「ある男此道にそまりて、……まぶぐるひ古今の開山一へん上人と名に立、天職から、大夫残らずよい事をしてとりけるを」とあって、遊女の情夫となって遊ぶことは古今の第一人者で、色道一宗を建立した開祖一遍上人と仇名にうたわれた、と言うのである。『西鶴俗つれつれ』(元禄八年刊)の巻五の二に、「色道の宿もさだめず一ヘん上人に藤沢を越て江戸にくだりしに。」とある。ここでも、一遍上人は色道の開祖にとりなされている。
 西沢一風作の『新色五巻書』(元禄一一年刊)の巻五の一に、「野郎、影子の口聞ほどの者は一遍上人」とある。「野郎」は前髪を剃って野郎頭になった歌舞伎役者、「影子」は舞台に出ず専ら色を売る若衆、それらを一遍は(一度は)皆買うて遊んだとの意で、言葉の遊びに用いてある。
 江島其磧作『傾城禁短気』(宝永八年刊)の巻六は見出し語に「分里一遍上人六十万人色道往生の事」とあり、目録には第一「色里一遍上人大臣共へ色道の教化」とあって、全体的に一遍上人をもじって書かれている。一遍上人が、女色一遍(一途)に打込み、色道修行の結果粋の悟りを開き、いまだ初心の大臣達に傾城買の奥儀を授け、あまねく諸人を教化するという趣向である。「教えの道も一色の一色、女色を四方にひろめん。是は好色の功者一遍と申晬にて候。」とあるのは先に見た謡曲『誓願寺』ワキの次第一名乗のもじりで、「六十万人決定往生の御札」
は「親より譲りの六十万両決定皆になしと、此一重紙子になった所が、傾城買の思ひ出。」と洒落てパロディ化され、親の遺産六〇万両にとりなされている。また本書の巻一の第二では大夫退廓の別れの盃を「年構へな女郎さま方はあやかりたいと、遊行上人の御札戴くやうに、御盃を頂戴遊ばす事」と念仏札のことが比喩に使用され、また『諸艶大鑑』の「女色一遍」の箇所も剽窃されている。
 西鶴をはじめとする浮世草子では、一遍は好色一遍の聖にとりなされ、遊行は遊興、好色道の開祖とされる。これは一遍上人が妻妾をつれ歩いたこともからんでいるであろう。極楽浄土の法悦を現世の遊里の悦楽に置きかえたところに、近世のたくましいパロディの精神をみることができる。

 俳諧

 西鶴著の『独吟一日千句』(延宝三年四月亡妻の初七日の追善興行)の第四に、「弥陀の国迄卯の花の波/一遍の経帷子やしぼるらん」とある。「一遍の経帷子」とは死者を葬る時死者に着せる白い帷子に、一遍上人の七言四句の仏徳を鑽仰した経文を書いたものであろう。西鶴はそれを亡妻に着せてやったのであろう。また第六に「荒布かりほす法の衣手/大杓子上人諸人すくはれて」とある。「上人」は一遍上人。京都寺町通の聞名寺(大炊道場)に上人の什物として「和布の杓子」というものがあって、廻国の際携えたものらしい。『熱田宮雀』(延宝五年刊)の「黒衣衆生をすくふ杓子掛(西鶴)/酒はニヘんに一ぺん上人(兼頼)」は単なる数字的駄洒落。『大坂檀林桜千句』(延宝六年刊・友雪編)の第三に、「遊行の柳いま遊び寺 益翁」とある。『飛梅千句』(延宝七年刊・西鶴編)の第三に、「たて笠台笠引馬に角(西鶴)/爰に遊行お江戸の日に威を見せて(西波)」とある。『みつかしら』(天和元年刊)の花の巻に、「罪重し当座にかけてわたさるゝ(西鶴)/局狂ひや一遍上人(賀子)」とある。遊行を遊里の遊びにとりなした談林特有のパロディである。『西鶴大矢数』(延宝九年刊)の巻一の第七、八八句目に「是からかたき岩屋の上人」とある。「岩屋」は第四五番の札所岩屋寺。一遍上人は文永一一年三六歳の時六箇月にわたってこの地で苦行し一応の悟りを開いた。
 『夏つくば』(元文二年自序)に「大覚禅師の坐禅の室に人て 遊行上人おどりはね申てだにもかなはぬを居眠してはいかゞあるべき 短夜を禿の母の異見哉 紀逸」とある。『続一夜松前集』(天明六年刊)には「宿次の駕にゆらるゝわらは病(几菫)/遊行の数珠の音も尊とき(如瑟)」とある。『続一夜松後集』(天明六年刊)に「老が身に娵の襖を笑はれて(星府)/遊行の札のけふばかり出る(月渓)」とある。『玉海集』(明暦二年刊)巻一に、「柳に札を付てゆくをみて 札つけて送るは遊行柳かな」とある。『新花摘』(寛政九年刊・蕪村著)の蕪村の句に「麦秋や遊行の棺ギ通りけり」とある。旅で死んだ遊行僧の野辺送りである。『蕪村句集』(天明四年刊・几董編)には「よらで過る藤沢寺のもみぢ哉」がある。『六百番誹諧発句合』(延宝五年 風虎編)では「遊行札押」が春の季題として六回取り上げられているが、それは一月一一日に藤沢清浄光寺で、一遍上人みずから刻したと言う六字名号の札を刷り、これを截つ行事による。榎本其角著『雑談集』上(元禄五年刊)に、「遊行寺」とそこで詠んだ亀翁と尺卿との発句二句が出てくる。芭蕉の紀行『奥の細道』の元禄二年八月一四日の記事に、遊行二世上人である他阿上人が敦賀市曙町の気比明神で「砂持」をされたことに思いをはせ「月清し遊行のもてる砂の上」と句作している。砂持の儀式はその後も代々の遊行上人がこの地に来るとすることになっていた。芭蕉の訪れる少し前にも四四世の尊仁上人の砂持神事があった(『俳諧四幅対』参照)。芭蕉の許六宛の元禄七年六月一五日付けの書簡に「愚画御望之上は、片時も早くと存乍、此方まはり合、遊行上人の道筋あしく侯。」とある「遊行上人」は道筋の序詞である。

 雑俳・川柳

 雑俳撰集『俳諧武玉川』(寛延三年~安永三年 慶紀逸編)に、「遊行の供の口が利き過ぎ」(初編)「遊行の札をさがす綻び」(三編)がある。『誹風柳多留』(明和二年初編成立。柄井川柳ら編)の「我寺に成ルと遊行ハ追出され」(二編)は藤沢遊行寺の住職になると教化のため諸国遍歴に出ることをいう。「西行と遊行は春の錦也」(五二編)は西行桜と遊行柳のしゃれ。「藤沢の鼠ハ諸国遊行なり」(七三編)の「鼠」は鼠衣のこと。「遊びゆく僧ハ浮世のかゝりう人」(七九編)「飯焚キの主を見知らぬ遊行寺」(八九編)「西行を見に遊行から船にのり」(九二編)は吉原の桜を見に遊行上人が柳橋から船に乗ったとの洒落。他に「衆生済度にくにくにを遊行する」(一〇六編)がある。『誹風柳多留拾遺』に「欲づらのはったを遊行ひたひで見」(三編)は、悪心のある者には一遍上人が覚って遊行札を与えなかったとの洒落。他に「そば切に遊行の供の口か過」(八編)「やわらりと遊行のますで痛がらせ」(一〇編)がある。また「衣かけ柳も冬枯に丸はだか」「突出しの開遊行ほど塩みがき」「後家ビクリ二枚重ネの遊行札」「ばかな板擢遊行寺へ願をかけ」「一遍上人ふし尺のわるい客」「日限り地蔵へ遊行も五十日」「遊行の柳雲水の雅になひき」などがある。