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愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

三 世家・列伝

 公的なものであれ私的なものであれ、過去の人物の行状、言行を記すことは、いつの時代にも行われたにちがいない。単なる事実の記録といってしまえばそれまでであるが、その場合にも事実の選択や文字の取捨があろう。ましてや後世に伝えたいという意志が強く働いている場合には、たくまずとも毀誉褒貶の色合いがにじみ出ることになる。「太田見良字資斎、伊予大洲加藤侯の士也。学をこのみ医を学びて京師に遊ぶ」と述べる『近世畸人伝』(寛政二年・一七九〇・伴蒿蹊)などは、その種の中で最もよく文学的完成をみたものの一つであろう。ここでは伊予において書かれたものの数点について触れる。

 勧善録

 写本で伝えられている本書は、その体裁が整然としていないので、推測を加えつつ述べる外はない。冒頭「勧善録叙」とあり、「勧善懲悪の方は国を治るの大典なり。されば昔より孝悌力田の者をば、或は其租税を復し、又は其虫役を除かるる事、強ちに其人を賞し其徳を揚るのみにあらず。人々をして皆傚ふて善に移らしめんとの事なるべし」と顕彰の教育的効果を述べ、「某幸ひに諸郡統治の職に在りて、官吏の告る所を聞くに与れり。今記録間に抜書して是を管内に広む。敢えて文飾を加へざる事は、其実を失はん事を恐れてなり。且つ山翁漁児の賤しきをして誦し易く暁し安く、食間の口語たらしめ自然に感発興起する事有りて、聯か国家の淳風を助けん事を庶幾ふ而巳」と、その目途とするところを語っている。文末に「宝暦十一辛に巳(一七六一)春正月 鈴木良辰識」とあるから、成立年代は明らかである。
 巻末に「勧善録附」という見出しのもとに、「今歳宝暦十一辛巳年、将軍家御代替ニ付、諸国為御巡見上使有之、四国筋御巡見使ハ大河内善兵衛様、市岡左膳様、遠山織部様也。同年四月下旬松山領御通行之節、於当領孝心者有無之儀御尋ニ付、左之通書付を以郡奉行より差出侯。下賤之身として其名を官使二達する事、偏二難有事二而、実二忠孝之大徳也。御領孝心者其名而巳を略々顕はす」として、「周布郡高松村百姓茂左衛門」「久米郡樋口村百姓久左衛門」「同郡西之岡村百姓半六」「和気郡馬木村百姓喜兵衛」「久米郡川之内村山伏宝積院」「同郡山之内村百姓金松」「同郡志津川町村百姓伝次郎」「野間郡山ノ内村百姓九右衛門」「浮穴郡井虫村百姓清七」「久米郡南方村佐七郎家来九郎兵衛」「温泉郡桑原村百姓新助」「同郡小坂村百姓杢左衛門井姉」「同郡北済院村百姓伝九郎娘比佐」「城下府中町商人細物屋半右衛門」「同小唐人町寡玄」「三津町商人神島屋久左衛門」の名を列挙し、「右之十六人ハ大公儀御巡見使ニ以書付差出侯分 松平隠岐守内郡奉行 桧垣浅之助 大西八三衛門」とある。これとそれに付けられた後に触れる調査報告書の類が恐らく鈴木良辰のいう「記録」であり、それをもとに書いたものであろう。しかし現存する写本では十人がとりあげられているに過ぎない。「抜書」であることも考えられるが、誤写錯乱脱落もあるようで、速断はできない。巻頭目録の後に「鈴木物右衛門輯」とあり、「越智郡朝倉上村幸七」(この人物は前掲一六人の中にはない)の項の末に「越智桑村郡御代官兼 鈴木惣右衛門」とあるのが同一人物とすれば、編者は東予の人鈴木惣右衛門良辰ということになり、かつ「抜書」だけでなく編者の地元の「幸七」を加えて一書をなしたと言えよう。
 それぞれの項は、例えば「和気郡馬木村百姓喜兵衛、老母二孝心の趣左之通二御座侯」のごとくに書き出した調査報告書(この場合は「未五月 馬木村庄屋与兵衛」とあって、庄屋単独で書いているが、組頭等の連名の場合もある)と、それに対する「右之者常々孝心を尽し候段相聞二付、為御褒美弐人扶持被下置」という措置が示される形式をとっている。内容的には、当然のことながら「喜兵衛年四十五歳二罷成候へ共、母介抱之為無妻二而御座侯。
尤村方之者も妻を持候様申候得共、母介抱之為無妻二而相暮中候由」などと孝行美談がちりばめられているが、紋切り型の美辞麗句が多く、孝養についても類型的な把え方が目立ち、人間的な苦悩が伝わってこないのは、役人の作文であるからであろうか。
 この種の人物伝は諸藩にあるはずで、『予州大洲好人録』(川田資潔撰、寛政一二年刊)はその最も完備したものと言えるが、今は触れない。

 却睡草

 著者安井右内煕載は松山藩士、文政元年(一八一八)野間郡九王村に隠棲し、同十年三八歳で没したといわれている。齢而立に及ばずして隠棲した理由は不明であるが、早世しているところから生来病弱であったとも考えられる。文政元年という年は『却睡草』の跋文を書いた年であって、この隠棲と本書の執筆の動機との間には、どれほどかの因果関係があったものと想像されるが、後考を待つ以外にはない。
 眼文は、南洋高焚のものと自跋と二つあるが、次に自跋を引く。

  楚人ニ嘗テ玉ヲ献ズル者アリ。コレヲ石トシテ三タビソノ足ヲ刖ラル。コレヲ玉トスル者ノ罪ニアラズ。ソノ鑑ニ乏シクシテコレヲ誤ル。則チコレヲ石トスル者ノ罪ナリ。余コノ書ヲ編ムヤ、私ニ子孫二胎スノミ。素ヨリ世ニ公ニスル為ニアラズ。方今ノ時、風俗ハ廃頽、士ハ忠信・廉能ヲ忘ルルニ似タリ。況ンヤ礼義・仁徳ノ如キハ、已ニ地ヲ掃ク。コノ書ヲ以ツテ人ニ強フルコトハ、則チソノ刖ラレンコト幾バクゾヤ。カカルガユヱニ敢エテ人ニ示サント欲セズ。若シ偶明主・志士ニ遇ヒテコレヲ胎サバ、則チソノ益亦少ナカラズ。是ニ於イテ姑クコレヲ櫃ニ収メ、以ツテ善傑ヲ侯ンカ。然ラズシテ人ニ示サバ但ダ譏リヲ速ニスルニアラズヤ。以ツテソノ覆醤ニ供ユルナリ。果シテコレヲ石トスル者ノ罪ナリヤ。(原漢文)

 本書は上、下二冊から成っているが、上は歴代藩主にまつわる逸話を中心とし、全部八四章、下は藩士の言行を記して、全部四九章、総計一三三章を載せている。各章長短あって、数行の短いものから数ページに及ぶものもある(資料編文学参照)。学を宇佐美淡斎に学んだこともあって、淡斎の言動については特に詳しいが、「先生の下を治めらるる事、全く聖人の道に依れり。其仁心至厚、風紀を教導せらるる故、誠に古循吏の風也。可惜是を国家の政に不被用事」とか「先生の為人、高邁飄逸、千仞の孤松の如し」とか「惜哉、先生七十に不満して卒去せられたり。かやふの先生は幾年も生延玉はばと思へり」とか、敬慕の念を表明することしきりであり、その奥には、諸章によく目につく「戦国の武士は皆此風也」「戦国の士は左こそあらん」「物事今時の如くに軽薄ならず、踏込強き処を挙し也」「風俗衰へぬる世には見習度事也」「世を憤りし者と見えたり」という評語に見られるような、当世の風俗、武士気質、施政のあり方に対する不満、怒りが渦巻いていたと見るべきであろう。
 国を憂うる士としての気慨がこの書の筆をとらせたのは事実であるが、やたらに智仁勇の徳目をふりまわすことをせず、逸話自体の叙述はむしろ淡々としているため、すぐれた伝記となったように思われる。

 今治夜話

 全部で五巻からなる。巻之四には「詩歌井発句之部」、巻之五には「今治賦」の題が付いている。巻之四は『鈴木助左衛門日記』からの歌の抜書、藩主定基公等の詠歌抜書であり、巻之五は今治の地誌で、当地の地名、産物、風景、習俗、神社仏閣、伝承、名所、旧蹟、方言等々を、例えば「新規店名、酒に京菓子、雛扇子、金物、塗物と唐物茶器、金魚、植木屋、湯屋、髪結、牡丹と紅葉は冬季にて、玉織、敦盛は雑の食類、天窓で蛸は丸設、元ぶく丸は曠商ひ、地島の人前月々に殖、家敷、船数年々の賑ひ、いよいよいやますふたなの幸を、戸毎に諷いつ挊て躍、今治はそもよいやなならでや夜は明ぬぞと、誉るもむべなり」といった調子の文章を交えて羅列している。「今治賦」と名づくる所以である。
 巻之一、巻之二、巻之三はそれぞれ一八章、三四章、四八章から成り、藩主および藩士の伝記あるいは逸話が収められている。藩主では「安心様」すなわち初代松平美作守定房とその時代の記事が多く、藩士では江島為信と戸塚家すなわち筆者戸塚政興の祖にかかおることがやや多いように思われる。藩草創期の功労者たる為信は当然としても、自家のことに筆を及ぼしているのは、巻之一昌頭に、

  ○安心様、御八歳之時、遠州掛川城於、権現様従御籠之鳥御拝領遊被候節、戸塚助太夫・和田半右衛門御供にて御前へ罷出候事、和田家古記録に之有云々。
の記事を置き、この章末に
  慶長十六年辛亥年御八歳、掛川城於、東照宮御鷹狩之御旅館の御時也。戸塚助太夫政次当年十一歳なり。和田も児輩にて御伽相勤しものなるか。此咄は御先祖様御幼年語り伝へし事なれば、是れを此書の初に記し置侍る。

と述べているところからも肯れるところである。もっとも先祖の顕彰を事としてのみ筆をとったのでないことは、彼のために付言しておかねばならない。
 巻之四で、「常味嬢子」の歌四首を引き、

  常味いらつ子と称し奉りしは御五十九ほどまでの御事にて、その後芝山中納言持豊卿御門入の後、理子を御名参られ侍りしとか、あや子とよみ参らすと、文化十四年丑の六月三日夕、停信尼の御もとにて写しとり、はた承りしままをしるし侍る。                                   政 興
とあり、巻之五の「今治賦序」末には、
  文化十四年丁丑初冬、十里上懸於東都司馬楽亭題。
とある。同じく巻之五には、
  ○稲束池、別所村在。当御代、寛政七年乙卯自文化十四年丁丑春至凡二十三年而成就、当丑従八箇村之中河原稲作之初。
とあり、巻之五末の広沢惟直の跋の日付は「戊寅冬」となっている。「戊寅」は文政元年(一八一八)に当たる。これらから考えて、本書の成立は文政元年となろう。と共に、「今治賦序」にある「十里上懸」は、同巻に、

  ○蛸、或八曰夕、鮹ハ龍宮ノ文章士ナリ、故二章魚卜云フ。文人海二浮ンデ釣レバ、則チ章魚大イニ集ル。此同好ノ相倚ル者ナリ。
     鮹釣リニ題ス                    十里上県
   昔聞ク白楽ヲ迎フルニ 住吉漁翁卜作ル 今治ノ章魚釣リ 漁翁住吉ヨリモ豊ナリ
   苔衣きたる親父の蔵建てて衣着ぬたも帯を買う哉

とある狂詩狂歌の作者「十里上県」と同一人であり、戸塚政興の狂名と見なければなるまい。「司馬楽亭」もまた洒落気たっぷりの彼の住居の亭号であるかも知れない。

 西条(りっとうに答)記稿

 写本一冊。西条藩中の諸人士の言行を約八〇章にわたって記したもの。巻首に序文らしいものが付いている。今その全文を引く。

  予幼き頃より、聞くままを何くれとなく記せしが、予が子孫に私せんとの心なり。江戸邸内の諸士の事に及ばざるは、数百里を隔てぬれば、十に八九は洩しぬべし。その残れる一つ二つをのせば、人物の乏しき嫌ひありて、又事の実不実も慥かならねば、これに及ばす。さはあれど、御在所の人に連及せる人はのせたり。是を題して『庭の忍ぶ』と云ふ。

 文中「子孫に私せんとの心」と言い、『庭の忍ぶ』と題すると言うところからみれば、教訓的な意図をもっての制作であることは明らかである。禎瑞堤の工事に功のあった竹内立左衛門についての讃美は随所に見られ、また、「武士の意地、かやうにこそ有りたき」例話の多いことからもそれは言えよう。もっとも個人的な身の処し方に限らず、例えば、

  文政度の大水は、枯木の方より押来りし故、御城下東手のみ難儀に及びしが、午年の大水程にはあらず。町は本町が始めにて、御家中は四軒町が始めゆへ、皆々高みを択みし故と見えぬ。次第に家数増し、低きみとも論ぜず家を建並べぬるゆへ、大水の度には難儀しぬ。古人のおもんばかり、遠きにありと、感に堪へず。

とか、

  伊達覚右衛門は寡黙簡淡にして、よく政体を解し得ぬる人のよし。或人の咄しに、願文数通ある中に、文言誤字多く認め直さしめんと同じ席の人いひければ、覚右衛門、いづれも是は何の字の誤と見らるるほどならば、夫にて事済みぬ。是を下げなば又出るまでいかほど手の掛るべき事、さて弁ずれば然るべしと断ぜられしとぞ。余風泰然、正に見る如し。

とかのように、広い視野に立っての施策や体制の改善をも含めての武士のあり方に資することをねらっているのである。さすれば序文は謙辞にすぎないのかも知れない。だからこそ、

  享保の度、御入部の時、錦きれ少々御入用の儀ありしに、西条町にはなくて、今治城下と丸亀城下とへ人を遣し調へし事、郡方の帳面に見へしが、僅か百年余り隔り今時は又別なる事なり。

などと、時勢の移り行きを静かに見ることもできたのであろう。
 ところで本書の成立年代は不明であるが、本文中に見えるもっとも新しい年次が「天保五年」(一八三四)であること、「これらの事『西条誌』にくわしくありぬべければここにもらしぬ」の文言があり、『西条誌』は天保一三年の成立であること、「奥前神寺を小松より打毀ししは文化元子年の祭礼の時」とし、その折暴徒退治に活躍した栗本三十郎について、「予幼年の時、三十郎江御山騒動咄しきかせよと、毎も所望してけり、今ははや四十余年の星霜を経しかば、鬼を欺く三十郎も苔むす下に名のみ残りぬ」と述べていて、三十郎の活躍と筆者がその話を聞こうとした時との時間的ずれは不明ながら、文化元年(一八〇四)から四〇年後は弘化元年(一八四四)に当たることなど考え合わせれば、弘化年間(一八四四~一八四七)ごろの成立と見て大差なさそうである。
 筆者その人もまた未詳であるが、文中竹内立左衛門に触れて、「予母はいとけなき頃は常にゆききせし」とあり、また、「予父十九歳にて諸士の末へ召出され」「立左衛門と同船せしに、父の刀柄真田緒にてまき、同じ下げ緒つけ居しを見て、御用人をも勤めし人の子か」と尋ねたとあり、これが禎瑞の「築立より数年の後也」とある。立左衛門は寛保元年(一七四一)生まれで、寛政六年(一七九四)に没していること、前引の文化元年に近い時期に「予幼年の時」であったことを仮りに一〇歳とすると、弘化年間には還暦近くになっていると考えられることから逆算して、天明年間(一七八一~一七八八)ごろの誕生ではないかと思われる。立左衛門の言葉に「御用人」とあり、これが筆者からは祖父に当たるから、筆者もまたそのような身分の藩士であったと考えられよう。さらに、

  小川七左衛門、江戸にて下谷辺に御使にまゐりけるが、争論の事あり。其後御屋敷を立退き、その相手を仕留めける。其段御聴に達しけれども、公儀の御人のよしにて、召帰されては公儀へ御憚りも多しとの思召にて、予州へ参り浪人せよとの御内意ありて、予州へ下りければ、御内々下大町にて屋敷地を下され、耕作いたし渡世せしが、幾程なく御入部遊ばされし刻に、当人は御召帰ほとなく御扶持下され、子供は三人とも召出されし也。かく私闘の事にても、武士道にかく事なければとや、かく御捨遊ばされず、難有き御事ども也。これ予祖也。事の序、此事に及び感泣腮に交はる。

と述べている所がある。筆者が小川七左衛門の裔とすると、小川某と名乗ったと見るべきであろうか。
 過去の人物の言行を記した書を世家・列伝と称して一括し、資料編第四章の資料目録に挙げただけでも二九部に及ぶ。ここでは伊予の人の手によって書かれ、ある程度の文学的達成を遂げているもののうち四部のみについて概観するにとどめた。