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愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

一 戦記物

 歴史的な変動の集約的な顕現とも見える戦乱があり、数年あるいは数十年、時には数百年を経過すると、それらの事跡を記録しておこうとする人々が出てくる。これらの人々の執筆の直接的な動機はさまざまである。希有な体験の記録を留めようとするもの、過去の栄光の失われるのを惜しむ気持、今の世をかんがみる手だてとして、あるいは行く末を見きわめる眼を持とうとして、などなどである。それにしても、それらの人々の目の前に残されている記録はわずかである場合が多い。また、たまたま手にすることのできた記録類には、齟齬があり誤りがあり不可解なことがある場合が多い。繁簡思い通りでない場合もあろう。これらの記録類に命を与え、史的な展開の中に位置づけるには、豊かな想像力を必要とする。記述する筆力もなくてはかなわぬものであろう。
 記録類が想像力によって蘇り史的な流れを形づくるところに、文学的な読みの可能性も生まれてくる。戦記物の誕生である。時代が下れば、これらの戦記物もまた多くの他の記録類の中に横に並んだ姿でとらえられることになるのである。歴史的な事跡としての戦乱あるいはその記録、あるいは戦記物を、自己の思想的な裏付けとして、または読み物創作の素材として用いるような著述も生まれてくる。これもまた戦記物である。戦記物は、歴史的事実やそれらの記録を踏まえているだけに、歴史史料的性格を持つが、筆者の想像力と判断力と筆力(すなわち表現力)の産物なるが故に、文学作品としての享受を拒否するものではないのである。

 戦記物にあらわれた伊予

 近世になっておびただしく出現する戦記物の中で、四国関係のもののほとんどは、長宗我部元親(一五三八~一五九九)の四国統一から豊臣秀吉(一五三六~一五九八)の四国支配を中心にして、その前後を含む期間を記述していると言ってよい。別の言い方をすれば、河野氏の盛衰のあとを受けた時期である。ここでは『元親記』『長元記』『南海治乱記』『四国軍記』等について述べる。
 『元親記』上中下三冊は、奥書に「此三冊は雪蹊恕三大禅定門卅三天の御年忌に当たり、御一生界を記し、御影前に備ふる者也。寛永八年五月一九日 正重」とあることから明らかなように、元親の没後三三年忌に、正重こと高島孫右衛門尉重漸によって完成されたものである。「御一生界を記」すという本書の性格から当然のことであるが、元親の父覚世の代から記述を始めて、元親一代に四国全域を統一する過程(上、中)と、秀吉に降参して土佐一国を領することになり、豊後の陣、小田原の陣、高麗の陣への参加(下)を記述することで終わっていて、伊予との関わりは、上巻の「北伊予三郡之侍共降参之事」「久武兄内蔵助打死之事付内蔵助有馬湯治之事」、中巻の「予州北の川陣之事」「大津の城に御座有し一条殿を被流事」「予州美間陣之事」の五章にすぎない。それも上巻の「北伊予三郡之侍共降参之事」を例にとれば、「先讃岐境川のロ城主妻鳥采女降参して、親父助兵衛尉人質に越え、さて其より西三郡仁井西条馬の郡之侍分、馬立、新前川、金子、石川、曽我部彼等降参して人質出し」という程度のものである。もっとも、元親の事跡をまとめて一書をなす意図から言えばそれでよいのであるが、それだけに終わらないところも若干ながらある。中巻の「予州北の川陣之事」に「爾処、登川、『暫時矢を留給へ、腹を切らん』と云ふ。さて矢を留る処に、最後の酒盛して、『誓願寺』を一節うたひ、門を開きて登川長刀を打振て出で、桑名太郎左衛門、依岡左京に言葉をかけ、『元親の御名代の両人を、一太刀恨み申さん』と、一同に突いて出で散々に働く」とある描写には、中世の軍記物語のかげがさしていよう。
 同じ中巻の「大津の城に御座有し一条殿を被流事」には、

  (一条殿の)御台所と二人の若君姫君は、前かど岡豊の城へ御座成りしを直ちに留置きて、御使を被立たり。誠に枝を連ねし御かたらひ、鴛鴦の衾も破れはて、御独身に成り給ふ。御身より犯されし罪なれば、今更悔むに益はなし。哀れなりし事ぞかし。既に城下へ船をよせ、『急ぎ船に召され候へ』と攻め出だし申す。比はきさらぎ上旬なり。此城の広庭に古木の松あり。此松に藤懸りて有り。一条殿、御名残にとて、此藤に短尺を掛けをかれたり。
    すみなれし庭の藤なみ心あらば此春ばかり色香匂ふな
  とあそばさるる。其春此藤の花さかず。奇特なる事と申しけり。扨予州ほけ津と云ふ所へ船にて送り捨てられし也。

という一節もあって、物語的色合が一段と濃くなっている。
 万治二年(一六五九)に、立石正賀によって書かれた『長元記』二名『長元物語』)は、多少の出入りはあるものの、『元親記』の抄記と言ってよい体裁のものである。伊予に関わる記事は、その割には多い。

  一、伊与国へ元親公弓矢御取掛リノ時、御家中ヱ仰セ聞カセラルルハ、河野屋形分へ少シモ手指シ仕ル間敷ムネ仰セツ
  ケラルル也。子細ハ河野殿ハ中国毛利元就公孫聟ノ由。モシ加勢アラバ六ケ敷トノ心得ナリ。伊予国人城主トモ不残セ
  メツケル時ハ、河野モ自ラ降参有可トノ御分別ナリ。兼テ仰被ゴトク、国人侍降参ノ後、河野殿モ人質ヲイダシ降参也。

という一条があり、その線に沿っての記述の結果なのであろう。これらの記述を含めて、本書の後続の戦記物へ与えた影響は大きいと思われるので、やや長文ながら次に引く。

  一、宇和郡ノ内、高森ト云フ城、家中ノ者謀反有ル由、土佐へ内通、取組ミ相極マリ、土佐人数打立ツ砌、敵内通ノ由ヲ聞キテ、則チ深田ノ城、土居、金山、岡本、高森、此五人ノ城主面々の家中ヲ吟味ノ時、高森ノ城ニ謀反人顕ハレ、其六人ヲ切リケリ。土佐ノ衆此六人相果テタル事ヲ夢ニモ不知、廿町隔テテ善家卜云所ノ山ニ人数打上リ、約束ノ火ノ手次第城ヲ乗取ルベキト相待ツ所ニ、彼六人内通ノ事知レタレバ、ソレニ似セテ城裏ノ岸ニ萱ヲツミ上ケテ、火ヲ付ケ焼キ立テ、煙ノゴトク見スル。寄手スワヤ相図ノ煙ト云フ程コソアレ、深田ノ城ヲ跡ニナシ、土佐衆我モ我モト高森ノ城ヘヨセタリ。切岸屏際近ク成ル時、城中ヨリ謀反人六人ノ首ヲ投イダシ、是ヲ頼ミニ寄セタルヤ浅増シ、則チ其方へ送ルト云フ。此時土佐衆アキレ果テ、城ヘモノラレズ、引ク事モ不成、十方ニクレタルバカリナリ。

 ここには「スワヤ相図ト云フ程コソアレ」に見られるように、合戦そのものを生き生きと形象しようとする意識が働いていよう。
 なお、北の川三滝合戦において目覚ましい働きをした、土佐国幡多郡出身二人の少年「光富権之助」と「国人ノ嫡子」の記述について、本文中に「評ニ日夕、国人ノ嫡子ト有ルハ、立石助兵衛也。自身ノ働故名ヲ顕不」とある。著者立石正賀と成立について考えるべき一文であろう。
 『南海治乱記』(目録一巻十七巻十八冊)は、寛文三年(一六六三)に成立、正徳四年(一七一四)に刊行された。著者香西成資は福岡黒田藩の藩士であるが、本書成立時にはまだ仕官していなかった。刊行は仕官後のことである。彼は刊行後もその増補を続け、『南海通記』二一巻を完成する。その氏姓からもわかるように、彼は高松を本拠とする戦国大名香西氏の末裔であった。完成した自筆本『南海通記』は、亨保四年(一七一九)白峯寺(香川県坂出市)に奉納されている。
 本書は「建武考」(巻一)、「応仁考」(巻二)、「細川考」(巻三、巻四)、「三好考」(巻五、巻六、巻七、巻八)、「土佐長曽我部考」(巻九)、「阿讃考」(巻一〇、巻一一、巻一二)、「伊予考」(巻一三)、「羽柴公四国征伐考」(巻一四)、「羽柴公九州征伐考」(巻一五)、「四国乱後記」(巻一六)、「老父夜話記」(巻一七)からなっている。本書の大きな特色の一つである「老父夜話記」(巻一七)は、著者自らがその地において収集したものであって注目すべきものである。伊予に限ってみても、河野氏、西園寺氏、宇都宮氏、久留島氏、徳居氏、河野十三家ことに大野氏等についての当時の讃岐におけ古老の伝承がうかがえるからである。
 著者は、六国史や『吾妻鏡』『平家物語』や『太平記』などは勿論のことであるが、前掲の『元親記』『長元記』等によって記述しているようである。『太閣記』なども見たであろうが、殊に伊予に関する部分についていえば、それらの範囲を多く出ているとは思えない。
 『四国軍記』(一二巻一二冊)は元禄一五年(一七〇二)の刊行である。「小畠邦器校」とあるが著者であろうと考えられる。元禄一七年刊の『義経興廃記』(一二巻一二冊)の著者小幡邦器と「畠」と「幡」の相異があっても同一人と考えられるから、可能性は高い。成立はもっと古いようである。元禄三年の写本が存在しているからである。『元親記』や『長元記』を経て集大成された観のある『南海治乱記』から、さらに戦記物としての性格を強めた作品とみてよい。
 伊予における合戦がまとめて収められているのは「巻第八」であろう。冒頭の「財田佐兵衛討死事付横山源三郎於軍中敵討事」を除けば、「興居島合戦事」「予州大津城没落事付菅田猶之義死事」「元親予州再発向事」「高森合戦事」がすべてそうである。その「高森合戦事」の冒頭部分を、前引の『長元記』本文と比較するために、次に引く。

  元親黒瀬ノ城初度ノ戦快カラズ、方便ヲ改メ攻入ラント、評議区々ナル処ニ、高森ノ城ヨリ内通ノ者アリテ、城ニ火ヲ掛クベシ。煙ヲ合図二攻入リ玉ヘト云ヒシカバ、元親悦喜不斜、如此ナラバ、一戦ノ内二功ヲナサソ事疑ナシト、黒瀬ノ城二守リヲ置キテ、元親ハ軍馬ヲ率テ推寄セケル。高森ノ道筋ニハ、岡本、深田、金山、土居四ケ処ニ敵城有リケレバ、油断シテ敵ニ後ヲサヘ切ラレテハ叶フマジト、四ケ処ノ押ニ二千騎ノ勢ヲ配リ、深田ノ城ヲ十余町打過ギテ、高森ノ城ニ双ビタル善家卜云フ山ニ取上ツテ、先備ヲ立テ、攻支度ヲゾシタリケル。城中ニハ、敵ニ内通ノ者有ツテ、元親合図ヲ待ツテ攻掛クルト、返忠ノ者アリシカバ、城主大ニ喜ビ、敵ノ謀二付キテ術ヲ回ラサソト、城中謀反セシ者ヲ六人犇々トカラメ捕リ、厳シク考問スルニ、城中ニ火ヲ掛ケ、相図ヲナサントノ白状シケレバ、先六人ノ首ヲ刎ネ、城ノ後二乾ケル萱ヲ山ノ如ク積ミテ、其夜ノ二更ニ火ヲ掛ケタレバ、寄手是ヲミテ、スハ城中ニ合図ノ火ヲ上ゲタルハト、雲二聳ル高森城ノ、タトヘバ蜀ノ剣門天険ノ如クナル山道ヲ、大軍一度二切岸ノ屏近ク攻寄スル。千時二処々ノ矢倉ヨリ鉄炮夥シク打出シ、彼六人ノ首ヲ城外へ抛出ダシ、此等ノ者ヲ頼ミタルカト、一度二瞳ト笑ヒケレバ、寄手大ニ暇了、引カントスレバ敵城道ニアリ、進ンデ戦ハンモ城中備アレバ、急ニハ攻メガタシ。

 前者に比べて約五割増しの長文になっているのは、文意明瞭ならしめるために、例えば「方便ヲ改メ攻入ラント、評議区々ナル処ニ」などの情況説明を加えたこと、「雲二聳ル高森城ノ、タトヘバ蜀ノ剣門険天ノ如クナル」などの修飾語を挿入したことなどのためである。そのために素朴な意味での記録性がややもすれば薄れていく反面、読者には『太平記』につながる作品として読む楽しみを与えることになるのである。
 『元親記』をはじめとする諸戦記が、その中に自らの祖先の姿を見ようとする姿勢―それぞれに相違はあるとしてもーが認められたのに対して、本書には著者にとっても読者にとってもそれは皆無である。元和偃武からでも九〇年を経ようとしている泰平の世においては、戦乱の経過も諸将の命運も、一部末裔の人々は別として、物語とその主人公のそれでしかなかったのである。

 伊予で作られた戦記物

 『予陽河野盛衰記』は単に『予陽盛衰記』とも、また『河野軍記』とも呼ぶ。序文末に「予陽隠士蝸廬成 重見右門通号」とあり、跋文でその「重見右門」を「家兄蝸廬成」と呼ぶ柳原太亮が、これを書いた時を「元文四己未秋八月」としているから、この頃に成立したのであろう。刊記には「千時元文五庚申歳正月吉祥日」とある。元文五年(一七四〇)より遅れること七年の延享四年(一七四七)刊のものもあるようである。
 序文によれば、六五代にわたって続いた河野家が、天正一五年河野通直の死によって絶えるまでの歴史を書こうとしたのであるという。すでに近世(作者は後醍醐天皇よりこのかたと言う)『予章記』があるが、量的にも少なく錯乱があるというのである。幸いに「数代の注籍系図」を蔵する者がいて、遇目することを得、「これ越智の実録にして、本朝の根本を正しくし当国の旧流を顕はすもの」であったので、再構成して本書が成ったとする。言うごとく多くは『予章記』によっているが、それに欠ける新しい時代は元親関係諸書や『南海治乱記』等を用いている。『平家物語』や『太乎記』はもとより、説話集の類も利用している。その点から言えば「数代の注籍系図」の所有者も何やら烏有散人らしく思えてくる。
 『予章記』に「又実朝御書云、道後管領事。御本領之上不及子細候。故殿御時無差恩賞候。返々無念候。当国守護職井闕所等、雖望申輩候、是非可計申候也。兼又八郎殿給候、御志難申含候。朝夕随逐心安候。今年可差随兵之由、自谷殿仰候。出仕等之事、可加扶持候上者、不義之事不可有之、為宜御計候歟。恐々謹言。五月四日 左近衛中将 河野四郎殿」(『群書類従本も長福寺本も一二字の相違を除いて同文』とあるが、『予陽河野盛衰記』では、巻一〇において、この実朝御書を「道後七郡管領之事。本領之上不及子細候。故殿御時無差恩賞候。是非可計申侯也。委者申含善信者也。五月四日 左近衛中将 河野四郎殿」と簡略にしてしまい、「外に御書添へらる」として、「八郎給り候て御心入申つくしがたく、朝夕随逐こころやすく候。今年随兵の事、谷殿より承候。出仕等の事、扶持加可申候。己上 五月四日 左近衛中将 河野四郎殿」という書簡を挙げている。この後者の仮名書書簡の文面は『予章記』にみえる書簡の後半部、つまり『予陽河野盛衰記』において削除された部分と同旨同文と言ってよい。それがどのような意図でなされた改変であったかを今述べる用意はないが、本書がいかなる方法で制作されたかを考える端緒にはなるだろう。これは正しく戦記物語なのである。
 『元武弘徳明視録』は一名『大西軍記』ともいい七巻からなる。序文末に「時甲午秋九月」とあり、七巻末に「干時元禄四未冬霜月記之。大西覚養五代の孫幽応斎源武政」とあって、成立時期はかならずしも明らかではない。すなわち「甲午」は承応三年(一六五四)か正徳四年(一七一四)であり、「元禄四未冬霜月記之」と整合しないからである。文中(巻六末)に「大西幽応斎曰く、元禄の今年」の語句が挿入されていて、巻一の「大西備中守仁徳」の項で「兄雲州率去の後、急ぎ仏事を営みて覚養に家督致させ、その後見をいたさばや」と言う元武の言葉にある「覚養」は、恐らく弟元武に父伊勢守宣武の遺言に従って家督を譲るべく自害した兄出雲守頼武の遺児であろう。その五代の末裔を名乗る武政が作者であろうから「甲午」はあるいは「庚午(元禄三)」の誤りかとも考えられるが、なお序文を正徳まで下げることもできるかも知れない。
 題名の「元武」は登場人物予州妻鳥村の領主大西備中守の名乗であって、その一代記による顕彰をねらったものであることは明らかである。序文に「然リト雖モ野史・村老ノ伝フル所差誤少ナカラズシテ、事跡湮滅スルモノ亦多シ」(原漢文)とある。この「野史」は『元親記』『長元記』以下の類を指すのであろうか。巻三末に「幽応斎が曰く、予が姓は大西なるに依て、元武の譜系を始め一代の盛衰、家記に詳也と雖も、川上但馬守が一説詳からず。このいさをしを明らかにせんために、彼の辺土に赴き、三月にしてこれを探り、その節区々なれども、その虚を去り実を取ってここに著す」とある。「家記」を見たり、現地調査を試みたり、村老を訪ねて聞きとったりしてはいるが、大西備中守元武の家督相続には仁徳帝の皇位継承(『日本書紀』巻十)のおもかげがあり、巻三には「去る秋、川上が妾如何なることにや、嘉兵衛に艶書を送りければ」という挿話もあり、奇異・怪異も一度ならず現れるのは、このような形で一代記をものすることが有効な方法であると、大西武政は考えたのであろうか。
 『天正陣実記』三巻は、新居郡高峠城主石川伊予守から、その孫娘婿金子備後守に至るまでの盛衰を語る戦記物である。享禄年中(一五二八~一五三一)の周布郡の黒川備中守との領地争いからの合戦、長宗我部への降伏、豊臣秀吉の四国征伐に際しての小早川降景勢との合戦が、その主たる内容をなす。『澄水記』(一名『予陽金子軍物語』。宝蓮寺尊清法師)と内容的にほぼ同じである。従ってその後の成立であろうが、明確な年代は決しかねている。
 『予陽大野軍談』は、序題では『大野軍談』とある。作者である懐古斎の序文(文政一三年三月付、漢文)によれば、「(河野家)其事跡皆旧章ニ見エ、人悉ク之ヲ知ル。然ルニ大野ノ伝記ハ諸篇ニ洩レ、頗ル其伝ヲ失フ。蓋シ此大野氏ハ西与四郡ノ警衛タリ、河野家輔佐ノ将ナリ」「惜哉、亡滅シテ人知ラズ。又遺章ナク逝ク人言ハズシテ其功ヲ失フ。因リテ茲ニ予窃ニ見ル所ノ戦記ヲ集メ、聞ク所ノ故談ヲ寄セタリ。非ヲ削リ是ヲ撰ビ以ツテ此書ヲ述ブ。題シテ大野軍談ト号ク」とあって、意図も方法も明らかである。上巻は「河野大野両家由緒之事」「土佐長曽我部伊予を犯す事」「大野大平軍并平岡が乱之事」「大野直昌并一族家門之事」「大野幕下四十八名之事」「大野宇津宮合戦之事」「河野家一族付毛利家之事」「土佐国司一条殿軍之事」「大野家長曽我部和談之事」「長曽我部大野合戦之事」「長曽我部四国攻之事」「長曽我部大野と戦付軍配評議之事」「長曽我部宇和喜多を攻る事」「長曽我部軍功竜王落城并曽根之事」の一四章、下巻は「大将軍秀吉四国平均付長曽降参之事」「河野大野両家滅亡之事」「河野大野一族落城之事」「戸田侯入城悪逆之事」「板島御庄浦之百姓一揆之事」「中野領大乱之事」「戸田民部西園寺殿を欺討事」「河野大野余党男女悉く傑之事」「戸田翻心善政之事」「藤党加藤入部国中泰平之事」「付録、大野幕下居城之事、諸家伝記家系之事」の一〇章と付録から成っている。上巻の「河野大野両家之事」において、「抑此河野家は人王第七代孝霊天皇第三皇子彦挟鳴命を伊予の国司に命せられしより以来世々伝り、二十四代之孫越智玉世より始て河野と改め、今伊予守通直にいたるまで六十五代にして、年数凡一千五百五拾余年也。偖また大野家は其先人王三十九代天智天皇第一之皇子大友皇子より九代の孫伊予守吉良喜の後胤也。朱雀天皇の御宇、吉良喜勅命に仍りて筑紫の逆臣を亡し、其褒祢として伊予国喜多郡を下されしより、郡内宇津村大野に住す。依りて大野御殿と名付け、氏を大野と名乗事これより始る。其孫民部少輔泰行子なし。故に河野嫡子右兵衛佐泰時を養子とす。是則ち嵯峨天皇の御孫也一書に大野家は嵯峨天皇の後胤といふ泰時を養子とせしゆへなり」と位置づけること、そしてそれらしい展開を跡づけることに主眼があったのであろう。「大野長曽我部合戦之事」において、長宗我部側のだまし討ちに会いながら窮地を脱した大野側のことを述べた後で、「評に曰く、天の時は地の理にしかず、地の理は人の和にしかずと。誠に元親か大野を謀るごとき、いづくんぞ勝利なき事を得んや」「又直昌陥井に落入りてこれをさくるは何ぞや。是人の和なり、天の令也、其天地正理にあらずしていづくんぞ功を得んや」などという文言を付け加えているのも軌を一にするものと言えよう。
 『神教朝立合戦記』は上下二巻から成る。作者も成立年代も不明というよりほかはないか、文体・用語等から考えれば、幕末終期から明治一四年までの間に成立したかと思われる。明治一四年というのは、下巻末に「干時明治辛巳一四年臘月吉辰写す 西宇和郡朝立浦 井上斎庭」とあるのに依る下限である。
 天津穂日命の末裔右大臣菅原道実(真)の御政所に五人の公達があった。四人は四国へ配流されたが、末子は政所と共に京の嵯峨の宇都宮に住み、嵯峨太郎と号したという。その八代の孫に実信、その一三代の後胤に備前守道信がいた。道信は太宰府に下り天満宮に参籠していると、「汝、家を再興せんとは、あっぱれの志願かな。これより伊予の国へ渡り宇和郡の三瓶の社に行きて志を願ふべし」との神託があった。尋ねあてだ朝立の浦の厚朴のある小社で彼は再び神託を受ける。皷と剣も拝受する。よって厚朴備前守道信と名乗り、神託に随いこの地方を統治することになったのである。題の「神教」はこれに由来するのである。時代は下って道信の後胤厚朴佐兵衛督定信の時代となり、長宗我部元親の巻き起こす兵乱にまきこまれ、滅亡した後、定信の二男宮都宮左近大輔忠綱以下子孫繁栄したということになっている。その間恋あり敵討ちありのドラマもないまぜられている。合せて宇都宮社の縁起をも語るという次第である。