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愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

六 小沢種春

 教育者小沢種春

 字は子敬、東陽と号した。もと摂津国今津の人であるが、弘化嘉永年間幾度か南宇和郡内泊村に来り、村人を教育啓蒙した。以後上京して幕末の騒乱に身を処したが、元治元年(一八六四)内泊村に戻り、明治四年、七二歳で没した。種春が内泊村に来たのは、病を養うため伯父の小沢万五郎光茂を頼ったものという。種春は若年より学を好み、京都に出て東坊城菅氏に業を受け、諸国に遊学し、和歌は冷泉為則に学んでおり、その豊富な学識で村人を教導し、門人は百余人に及んだ。墓碑銘は大阪の並河鳳来が撰し、明治三六年には種春を慕う村人が頌徳碑を建てた。種春が伊予に残した足跡は、かかる辺地での教育実践者としての功績であるが、近時この種春の戯作者としての面が明らかにされた。

 戯作者柳園種春

 昭和五八年日本近世文学会秋季大会において、長友千代治は、戯作者柳園種春と小沢種春が同一人であることを立証した(以下この発表資料に拠る)。小沢種春著の『教訓童草』付載の広告に「柳園種春」とあり、『京摂戯作者考』にも「柳園種春 摂州武庫郡今津の人、小沢氏」とあって出身地、姓が一致する。種春は一時江戸に出て、柳亭種彦に師事したようで、東大洒竹文庫蔵『阿蘭陀二番船』にある種彦識語中にも「文政甲中夏難波ノ門人柳園種春ヨリ得ル」と見える。柳園種春の筆名も師より二字を貰っての命名であろう。
 文政八年からは難波での種春の戯作活動が始まる。読本『不動霊験現過思迺柵(一名旭立帯)』を刊行したのを手始に、翌九年には洒落本『色深狭睡夢』(前中篇は葦の屋高根作・種春校合、下篇は種春作)、一〇年は読本『葦間月浪華一節』、咄本『滑稽笑顔種』、教訓書『教訓童草』、一一年には読本『絵本復讐千丈松』『新柳髪物語』、一三年には読本『絵本琴松譚』とたて続けに新作を刊行した。しかしその後はぷっつりと筆が途絶え、天保六年(一八三五)には「柳園は難波に芽ざして既に茂らんとなしたるが、何とかしけん往年よりそよとの風もなし」(『上州機筆緞織』序)と言われている。その事情は明らかでないが、学問・和歌関係の仕事に当たっていたのかもしれない。この間幾度かの内泊村行を経て、嘉永五年に『絵本烈戦功記』(後編は安政二年)、六年には『国宝大雑書万宝選』を刊行している。以後は国事にも奔走したようで、刊行された著作はない。種春の戯作者としての活動は、内泊村来住以前のものが主であるが、それは教育者小沢種春とも無縁のものではないので、以下種春の著作の主なるものについて概観する。

 不動霊験現過恩迺柵

 読本五巻五冊の敵討物で春暁斎政信画。承久の乱、宇治川合戦の時、中間定助は主の定幸を救い、三百石を貰い、仁勇を備えた武士となるが、相原寺普請役大垣団右衛門が博徒爪平と組んで人夫の賃金をピンハネしているのを見あらわしたため、団右衛門に闇討される。一子定治郎と矢市(浪人の子、川に落ちた定治郎を救い、定助に引き取らる)は団右衛門を追って旅立つ。泉州犬鳴山の不動明王に祈誓をかけ、さらに四国を巡って金毘羅不動明王に祈る。鎌倉への途次、人夫頭大六が加わり、貧や病に苦しみながら探索を続け、金毘羅不動明王の夢の告げや、矢市を慕う女の霊の助けもあってめでたく団右衛門を討つ。定助、定治郎、矢市、大六らは仁義武勇の者であり、団右衛門、爪平らは無道悪逆の者として描かれ、善が悪を討つ、勧善懲悪の敵討物語である。霊験は効果的ではないが、それだけ儒教思想が強いともいえよう。

 色深狭睡夢

 洒落本三巻三冊。歌川貞晴画。遊女の大角が手練手管で客を操るが、最後に失敗する物語。大角は田舎の若旦那柳助から五十両出させ、馴染客に身請させて、間夫の才助と駈落ちしようとたくらむが、柳助の付人清吉が隣部屋でこの話を聞き、柳助の身を寄せている八木屋が偽金五十両を与えていたので、さしもの大角もしてやられ、笑いものとなる。種春はこの下巻の結末部を書いたものであり、ここにも勧善懲悪思想が持ちこまれている。形式はせりふ中心の洒落本であるが、各巻の終わりには評言を添え、娼婦に迷う愚かさ、間夫に身を持ちくずす遊女への戒め、清吉の誠忠などを種春は教戒している。

 滑稽笑顔種

 咄本五巻五冊。暁鐘成画。咄本は笑話集。落語の種本とみてもよい。元旦、種春の家に佐々木四郎高綱が年始に来る。一門のよしみがあるというので、その訳をきくと、門に盛砂がしてあるという落ち。高綱の兄は盛綱なので、盛砂に掛けた洒落。このような笑話が五九話収められているが、中には性的なきわどい話もあり、種春の下情に通じた粋な一面を見せている。

 教訓童草

 二巻二冊。暁鐘成画。冒頭に「わらはべにもの教へんと思へど」云々とあるが、子供のための教訓ではなくて、子供にもわかる平易な教訓書ということであろう。上下巻共二五条、計五〇条の教訓が取り上げられているが、その多くは日常生活をしていく上での心がまえを、卑近な具体例で説いたもので、儒教を基とし、女色の戒め、妻の教育、神仏の敬い、和歌の心得などに及んでいる。百文の支払いに五六文抜いてだますを賢いことに言う世上の風を批判したり、その日のうちに行うべきことを説くに人の怠りの心を分析したり、単なる教訓に終わらず、人間観察・探究の一面も見せている。また「凡世に印刻せる書に。無益の本のあるべきかは。草紙もの院本に至るまで。みな勧善懲悪を要として作りなしゝものなれば。手もとにあらば取りて読むべし。自益あるものなり」の一条は、戯作者種春の弁明でもあり、理念でもあろう。読本中の教訓的言辞や理念を抜き出せば、本書はでき上るわけで、本書も他の種春の作品と異質なものではない。内泊村で本書がテキストに使われたかどうかは不明であるが、教育の実際は本書の理念によって行われたとみてよい。なお本書には画とともに諸家の歌俳がちりばめられているが、種春自身の和歌もある。種春には、小沢家の子女に示した『小沢童子訓』(安政五年)もある。

 絵本烈戦功記

 前篇後篇とも一二巻一二冊の大作で、柳川重信画。武田信玄、上杉謙信の確執の始まりから死に至るまでの経緯を、戦記風に詳細に描いたものである。『教訓童草』で太平記読み、講釈師の語るところは作りごとで、慰みとして聞くべしと言っていたが、本書はその難のなきよう諸書を参考し、口碑もその旨を断って入れてある。所々論評も加えてあり、ここでも武士の理想像を追求している。

 戯作者から教育者へ

 以上種春は、読本、洒落本、咄本の戯作類、はては戦記、実用書、教訓書にまで多彩な才能を発揮したが、本来真面目な性格で学問をもしたことが、多彩な才能と齟齬を来たし、その上病弱であったことが加わり、戯作の筆を絶つようになったのではなかろうか。内泊村から再度上京した時は『絵本烈戦功記』『国宝大雑書万宝選』のような真面目な本しか書いていない。戯作者から教育者への転換は早くから種春の内部にきざし、内泊村という舞台を得て実現されたのである。