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愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

二 伊予の怪談・奇談

 近世に入ると怪異譚や奇談に属する類が次々と編集著作されるようになる。その中から伊予に関係あるものを列挙する。

 魂魄怪異譚

 仮名草子『伽婢子』(寛文六年刊)は浅井了意作で彼の最も円熟した時代の傑作怪異小説である。巻一三の二の条に「伊予国風早郡の百姓」が「伝戸労瘵」(肺結核の古称)のために次々と死亡し、嬰児を残して病没した母親が幽霊となって乳を飲ませに来る怪異がある(資585)。これは説話集である『因縁集』の「幽鬼嬰児ニ乳ス」と同じで、原本は一七世紀後半成立と推定される。神谷養勇軒著の随筆『新著聞集』(寛延二年刊)は、和歌山藩主徳川宗将の命を受けて編集されたものである。書名が物語るように『古今著聞集』などの説話系統に属する。本書の第一二の「○妻の魂追来りて国に帰る」の章では、「伊予国宇和郡伊達宮内殿鞍しばり藤次郎」が、前妻の幽霊に結局は取り殺される怪談である(『新著聞集』の話は、以下にも出るが、「日本随筆大成」二期・五巻に所収されている)。随筆『翁草』の巻一五七、塙団右衛門の話の直前に、大阪冬の陣・夏の陣で秀頼方の勇士として武名高い後藤又兵衛基次の話があり、彼は夏の陣で河内道明寺付近で戦死するのであるが、「一説曰」として彼は手傷療養のため「伊予国道後の温泉に浴す。」道後の壮者どもが後藤と知って入浴中を攻撃し、その首を江戸に差し上げたが、又兵衛は道明寺で討死したと言って何の恩賞もなかった。所の者はかかる上はあれほどの勇者の霊魂も恐ろしいと言って「弓槻権現の末社に勧請して、後藤明神」として小社を建てたという奇聞がある。『翁草』は京都町奉行所の与力であった神沢杜口の著作に成るもので、西山拙斎の序文によると明和九年(安丞万年)までに前半の一〇〇巻が成り、その後、後半の一〇〇巻が成立した。柳沢淇園の作に擬せられる随筆『雲萍雑志』(寛政八年序・天保一三年刊)の巻三に、ある薬種行商人が伊予で餓鬼に取り付かれる怪異がある。餓鬼とは乞食など餓死した者の怨念がその場所に残って通行人に取り付くのである。

 異類怪異譚

 説話集『本朝故事因縁集』(元禄二年刊)の巻二「四国狐不住由来」は、「享禄年中ニ前河野通直ノ妻女」が狐の妖魔に懊悩されられ、姿・容貌から声色・衣装・立居にいたるまで全く変らぬ二人の人物になってしまう怪異である。前河野通直とは松山の道後にあった湯築城主で、伊予国の守護職にあった(資595)。この怪異譚は林義端著の仮名草子『玉箒木』(元禄九年刊)の巻一の四と内容は同じものである。青木鷺水述作の浮世草子『古今堪忍記』(宝永五年刊)の巻一の一「武辺の堪忍 伊予の何がし狐の腕を切る事」の章は、「予州宇和島」のある剛胆無双の武士が厠で悪戯をする狐の腕を切り落とすが、狐がなぜ人間を魑魅し誑誘するか、その理由を聞き感ずる所あって腕を返してやり、そのかわり接骨の妙法を教導してもらうという奇談である(資593)。浮世草子『太平百物語』(享保一七年刊)は祐佐(菅生堂人恵忠居士)著の怪異小説である。百物語の形式で諸国の怪談一〇〇話を集めている。この中の巻五の三九は、「伊予国に主部隼太といふ者」が川之江から松山に行く途中で狐に誑かされて、様々の面妖なことに出会う怪異である(資590)。
 花洛隠士音久著の浮世草子『怪醜夜光魂』(享保二年刊)は百物語の趣向により敵討ちの奇談や諸国の異聞を記したもので、巻一の二に「予州松山の御城主」のもと「諸士百姓に至るまで」富裕に暮らしていたが、ある時古狸が悪戯をするので奥田素平が塀の壁を射抜いて真中を射殺したという変怪譚である(資591)。ちなみに享保二年当時松山藩主は松平定直であった。東都隠士烏有庵述作になる読本『万世百物語』(寛延四年=宝暦元年刊)は、百物語をした折の怪異談を収録したもので、三の一一に「伊予の河野が家に、野島太郎左衛門と」言う武士がいたが、ある時古狸が青年武士に化けて来て一人娘を誑かす変怪譚がある(資586)。『太平百物語』の巻一の二九に伊予の和田八という狩人が子を孕んだ熊を撃ち殺したことから熊の執心が女房に取り付き苦しむ怪異がある。
 浮世草子『御伽空穂猿』(元文五年刊)は題名の通り猿に関する怪異談を集めたもので、著者は摩志田好話で、静観房好阿の匿名である。彼は宝暦二年『当世下手談義』を著作し教化の意図を滑稽的叙述に託した。そしてこれ以後多くの談義物を導き出したので滑稽本の祖と言われる。本書の巻二の六に塙団右衛門直之は「予州松山に住しけるが、浪人して慶長一二年のころは、福島正則につかへ」ていた。その頃猿の妖怪退治をして武名を輝かしたという奇談がある(資589)。彼の事績については随筆『翁草』の巻一五七「○塙団右衛門尉直之略譜」に詳細に語られている。まず松山藩を離れた事由については、藩主「加藤左馬助嘉明へ歩小姓に出、誉れ度々重なり、……鉄鮑大将に成る、関ケ原御一戦の時、左馬助指図の場より先へ足軽を取出し、左馬助気に違ひ、己は一代将帥の職は勤め得べからずと叱らるゝを、不足に思ひ、伊予の松山を立退」いたのである。また福島家を去ることになったのも、慶長一二年から「五年目尾張の名古屋御城普請の時、左馬助直に正則へ断り」旧主君として仕官に干渉したためである。その後鉄牛と称して僧になり、京都妙心寺大龍和尚のもとで托鉢し、その時のエピソードが語られた後、例の猿の妖怪退治の説話があるが、『御伽空穂猿』の本文とは内容文辞ともにかなりの相違がある。その後直之は慶長一九年大阪冬の陣の時、秀頼の許可を得て蜂須賀家の手勢に夜襲をかけ、彼自身は本町橋で床机に腰を掛け隅取紙の馬印をつけて、士卒を下知し大活躍をした。それは旧主左馬助に「一生の中に一度麾を取り将帥の功を」見せたかったからである。翌元和元年四月二九日大阪夏の陣において泉州樫井合戦で奮迅見事な戦闘の末討死した。風来山人こと平賀源内著作の狂詩文集『風来六部集』(安永九年刊)の中の滑稽本『放屁論後編』(安永六年成立)の一節に、「放屁」(三国福平)と言う男の父親佐次兵衛が、長年猪・猿を殺した罪滅ぼしに四国八十八箇所の順礼に出たが、「殺生の報にや、伊予の国に至りて、佐次兵衛生ながら猿と成て林の中へ逃入」ってしまったという奇談がある。今童謡で数え歌になっているというのである(資592)。この数え歌は随筆『半日閑話』(大田南畝著)にも安永五年頃山の手から起こり大いに流行し上方にまで及んだとある。
 菊岡米山翁(沾涼)著の随筆『諸国里人談』(寛保三年刊)の巻五の九に「○黒島鼠」の奇談が掲載されているが、これは『古今著聞集』巻第二〇の奇聞「伊予国矢野保の黒島の鼠海底に巣喰ふ事」(資44)と内容的には同じである。植村政勝著の地誌『本朝奇跡談』(安永三年刊)の巻二「大宝寺の岩窟」の条に、上浮穴郡久万町菅生にある、四国霊場八十八箇所第四四番札所の大宝寺は精進潔斎して登らなければ忽ち天狗に掴まると言う怪奇談が載っている(資596)。随筆『新著聞集』の第九の「○蛇童子をくらひ家族悉く滅す」の章には、「伊予国宇間郡竜の池の庄や」が寛永一五年の盆踊りの夜大蛇に襲われる怪異である。第一〇の「○蛇変じて人に交り懐胎して初て知る」の章では、「予州宇和郡藤田村の庄屋」の女房が、蛇と通じて蛙の子のようなものを産んで死亡する怪異である。伊予吉田藩の藩医で和学者でもある本間游清の随筆『視聴随筆』(文化一二年成立)の中に、「伊予国。大崎田ノロ村」の田中の池の魚が、池底の片眼の大蛇にならって全部片目であるという怪異が述べられている(資596)「大崎」とは東宇和郡明浜町の宇和海北東岸にあり、三瓶湾と法花津湾の間に突き出た岬の辺りを言い、古来好魚場として知られている。

 奇縁譚

 仮名草子『玉箒木』には巻一の二に「伊予国に片桐何某」と言う者がいて天狗妖物のいる金毘羅山に登って生首に会い、後「本国伊予を立ちのき」、安芸で偶然その生首を切った老武士に出合うという奇談がある(資587)。浮世草子『小夜嵐』(元禄一一年刊)の巻二の九には、恵心僧都のお弟子の覚超聖人についての奇談がある。恵心とは『往生要集』を著した源信のことで、覚超はその恵心に学び、顕密二教を修め横川の都率院で著述に専念した。彼には幼くして別れ行方不明であった妹がいたが、その妹が「伊与の国司の女房と成」り、亡父の導きか、後京の因幡堂の法談の際、再会するという奇談である。浮世草子『傾城仕送大臣』(元禄一六年刊)の巻二の一「血脈にたをれたる伊予簾」の章は、北国の浪人の娘が大阪新町に遊女として売られていたが、実の「伊予の兄」とは知らずに身請けされ夫婦になる奇談である。『新著聞集』第一六の「○雲居従僕つねに師の履を帯ぶ」の章では、「いよの国越智郡の内白河の酒や宗斎」の所へ、奥州松島から遍路僧が行脚の途中一夜の宿を求め、曽て雲居和尚がこの地においでになった時手習の師と仰いでいたと酒屋宗斎が懐旧談をすると、旅の僧が自分は和尚の小者だと言ってその清廉な心の証を示されて、宗斎が感激する話である。雲居和尚とは芭蕉の紀行文『奥の細道』(元禄二年夏成るか)や許六編の俳文集『風俗文選(本朝文選)』(宝永三年刊)に出てくる雲居禅師である。芭蕉が雲居和尚を慕うのは彼が禅を学んだ仏頂和尚の師だからでもある。雲居和尚は土佐出身だから若き日に修行のため、伊予越智郡の辺りを行脚したこともあったであろう。やがて和尚は京都妙心寺の僧となるが、伊達忠宗に招かれて松島の瑞巌寺に行き、寛永一三年これを中興した高僧であった。

 敵討ち奇談

 月尋堂著作の浮世草子『文武さざれ石』(正徳二年の自序がある。別名『文武君が代碝石』)の巻二の一では、「予州道後」の姉弟が兄の敵討ちをするが、敵も死に至らず義理によって円満解決をみるという奇談である。松風庵寒流著作の『老媼茶話』(寛保二年序)は男色敵討ちの奇談集である。この中の「男色宮崎喜曽路」の条に、「伊予の松山の御城主に仕へる児小姓宮崎喜曽路といふ美童」がいた。ある年の春妙法寺に花見に行った時、寺町に住んでいた沖波与蔵が喜曽路を見初めた。寺町とは加藤嘉明が松山城下を整備した際、寺院を城北の山越村に移し、その後多くの寺院が建築され、寺町が構成された。与蔵のことを知った喜曽路は一夜の情けをかけてやった。ある時馬芸で十時辰之助が喜曽路の美童ぶりに恋着し、取り持ちを笹野露休に依頼したが、露休は辰之助のことは一言も言わず、自分が愛慕したことを直接口説いたが拒絶された。露休は辰之助方へ行きあなたの恋は不首尾に終わったと誠しやかに言うと、辰之助はその夜すぐ露休を伴い喜曽路方に押し入り父子ともに斬殺し奥州へ立ち退いた。このことを伝聞した与蔵は敵討ちを決心し諸国を尋ねるうち、陸奥街道の白河藩御城下で露休が密通の罪科で処刑されたことを知った。仕方なくそれより会津若松城下に入ったところで辰之助に出合い、彼の首級をあげ辛苦の末松山に持って帰り、喜曽路の菩提所で自分も腹掻き切って死んだという奇談である。

 名木伝説

 『諸国里人談』の巻四の八に「伊予国和気山越村了恩寺の林の中に一木のさくらあり」として、毎年正月一六日に咲く「十六日桜」の奇聞が載っている。また『翁草』の四、巻三九に「伊予国の十六日桜の事」として同様のことが記載されている。紀行文集『西遊記』正続(寛政七年から同一〇年にかけて刊行)は橘南谿の著述である。彼は伊勢久居藩の人で京都に出て医を業とした。医学修業のため日本各地を巡歴したが、そのかたわらに見聞した異事奇聞を平易な表現で纒めたものが本書で、続編巻一の「扶桑木」の条に、彼が長崎の安祥寺で宿をとったところ、「伊与の国の沙門明月といふが、これも旅宿して」いたとある。明月は嚢中から黒い木を取り出し、これは日本上古にあった扶桑木の朽ち残ったものである。「其木の生ひ居る地は、我伊与の国なり」と言う。しかしそれは数千年の昔のことで今は朽ち残ったものしかないので伝記に書いておいたと言ってそれを見せてくれた。その後四国に渡り、かの古跡を尋ねると「伊与郡喜多郡の二郡に根はびこ」っている。城下で吉田久太夫からこの木で作った硯をもらった。まことに「明月上人に聞しに違はず」とある。その後に「扶桑木略記」が添えられており、景行天皇が肥後の態襲征伐の時伊予の熟田津の温泉に来られ、扶桑木の朽木の上を通った奇談などが記されている。南谿は本文の二つ前の条の最後にも「日本にも伊予の扶桑木」「今にあらばいと珍らしかりぬべきに、切り倒しぬることは残念の事なりき」と言っている(「東洋文庫」の『東西遊記』に所収)。文中に記す伊予の明月上人とは、松山の円光寺(現松山市湊町四丁目)の住職であり、藩儒宇佐美談斎・杉山熊台らを指導した。文中に記す「此伝記」とは『扶桑樹伝』(資、学問・宗教174)のことで、寛政六年に出版、漢文で書かれたものである。

 実話奇聞

 松崎堯臣述作の随筆『窓のすさみ』(享保九年の自序)の、第二の二七には「伊予の国松山の城下の或町に」夫婦がおり、その息子が一三歳であったが、一家が盗賊に襲われた時、息子の働きで危難が救われた奇話がある。第二の五二「伊予大洲の暴動」の章では、寛延三年「伊予国大洲米は少くして、紙を漉出して貢納とするもの過半」であったが、「中子」(現内子町内子)の酒屋に持って行って納めてからでないと上納が許可されない。聚斂に苦しんだ民衆が遂に立ち上がり、新谷藩の用人が中に立って訴訟を聞き届けてやっと安寧になった異聞がある。第二の五八「松山の君と肥後の君」の章では、「伊予松山の徒士」中村勘兵衛とその次男の武勇異聞が語られている。なお本書の追加の項の二三の条には「中江藤樹の高徳」、二四の条には「藤樹の廟」の話がある(「有朋堂文庫」所収)。本書の述作者松崎堯臣は丹波篠山藩の家臣で後に摺任されて老臣の地位に列した。風聞雑話集成『宝暦雑録』の中に、「松山家士傍輩を伐事」の条があり、宝暦九年二月上旬伊予国松山藩の大阪上中之島比丘尼橋にあった蔵屋敷を舞台に発生した怪事件が伝えられている。米方役の吉井伴助が、根取役の唐松久左衛門方へ寝込みを襲い、意趣あるによって手に掛けると言って、夫婦ともに殺害した。更に伴助は金銀方役権平宅に押し入り切り殺す。伴助はもうこれまでと覚悟し自害してしまった。どんな意趣があったのか分からない。この久左衛門の内儀は長刀の妙手であったが、伴助を切ろうとした時、鴨居にひっかかり暇どるうちに討たれたとも、また二階に剣術の達人の医者が寝ていたが、二階から降りる間に夫婦共に討たれたとも言う(「上方芸文叢刊」の『上方巷談集』に所収)。

 甲子夜話

 平戸藩主松浦清(静山)の随筆『甲子夜話』(文政四年起稿)には、松浦家と大洲藩主加藤家とが姻戚関係にあったことも理由の一つか、度々伊予に関することが出るが、その中で奇談異聞の類を若干挙げておく。巻一の一四「那須与一、後予州に住せし事」の条。下野国黒羽藩(戦国期は那須氏に属していた)大関侯は大洲加藤家から義子に行かれた(加藤泰周。天明二年~弘化二年。文化八年三〇歳で黒羽藩大関増陽の養子となる)のだがこの侯の話。那須与一宗隆(高)は源平合戦の時扇の的を射た褒賞として伊予を賜り住んだ。また下野国ではある神社は与一本国の氏神だと言って伊予から材木を運送して造営した。与一が伊予に滞在中は下野は父の太郎資隆が住んでいた。巻八の一一「国々気候殊る事」の条。伊予は海が近いから大洲も夏は涼しかろうと言うと大洲侯家臣堀尾四郎次が、大変暑い土地で「青傘」を用いなければ凌ぎ難いと言う。青傘とは日よけに用いる日傘で藍色の紙で張ったものであろう。青傘は『川柳評万句合』(安永六年・宮一)や森山孝盛著の随筆『賤のをだ巻』(享和二年成る)にも見える。巻一〇の二七「曽我時宗、梶原景時の墓の事」の条。黒羽藩大関侯が伊予大洲で実際に目撃した話。大洲領の山奥に曽我時宗・梶原景時の墓がある。時宗の墓があるのは、曽我祐信の知行があったから時宗が誄せられた時邑民がひそかに首を取ってここに葬ったのであろうか、景時もその類であろうと、親友の林述斎(幕府の儒官大学頭)が話したとある。「時宗」とは曽我五郎時致のことで、兄十郎祐成と共に父の仇討ちで有名である。「曽我祐信」は曽我兄弟の養父である。「梶原景時」は源頼朝の家臣である。巻二三の八「勧進能の切手紙」の条。「切手」とは金銭受取りの証拠券である。観世大夫勧進能興行の時の切手の紙は珍品であった。これは大洲加藤家から先例で贈っているもので、特別製品で紙の中に木の葉をいろいろに漉き入れたものである。大洲藩では宝暦以来紙は専売制であった。巻四七の八に大洲二代藩主泰興は平戸藩主松浦鎮信を介して盤珪禅師を崇敬、懇請して大洲で教化してもらった人だが、まだ中江藤樹が仕えていた時のこと、ある年の春「黄鳥」が来て「綿蛮」と鳴いた。余りに珍しいので画工をして屏風に写生させたが、それが今も大洲に残っている。しかしそれ以後黄鳥が来ることはないとある。「黄鳥」というのは高麗鶯とか朝鮮鶯とか呼ばれ、鳴き声がよいのでこの名があるが、鶯とは全く別の鳥で大きさも少し大きい。羽は大部分美しい黄色で後頭に黒帯があり翼・尾にも黒色部がある。中国・朝鮮・台湾などに産する。藤樹が大洲を去る時の一節に「緍蛮たる黄鳥この梅に止まる」とある。「綿蛮」とは小鳥の細く長く声を引いてさえずる声を言うのである。巻四九の三〇「大洲侯の和歌」の条。林述斎の話。大洲侯から贈物があった中に「蒲の白道」があるのがあった。「縞蒲」は格別珍品なので分根を所望したところすぐに恵贈してくれた。その上「泥菖の縁葉間白なるを大洲」から取り寄せて植えておいたのを盆栽にして贈ってくれた。「泥菖」とは菖蒲の漢名であるが中でも白菖のことを俗に泥菖蒲と言う。巻四四の二五に、雁は夏の間北国に渡るが、伊予の松山の人の話に、夏農民が耕作していた時、田の畦に穴があって鳧(鴨より小さいけりがものこと)が蟄伏していたのを鍬で掘り起こして捕えたという珍しい話がある。
 『甲子夜話』続編、巻二七の一では文政一二年三月二一日江戸神田佐久間町川岸から出火した大火のため、伊勢桑名藩主松平侯も屋敷が全部類焼にあい、同家筋の松山藩主松平邸に寓居し、世間からは「十万石の宿無し」と噂されてそのまま松山藩邸で死没された(巻二八の一二)。巻二八の二七ではその桑名侯の兄弟姉妹五人が、「悉皆一時に火患に」罹災したが、その中の一人「故大洲侯の未亡人」について、「この冬当侯の新婦を迎えるとて、奥向造作替して、未亡人の居を新に領邑予州にて切組、海運して建つべし迚、既に彼地にて出来たりしが、是も又作事小屋より火発して焼滅したりとぞ。これも亦奇変なること也」とある(「東洋文庫」所収)。