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愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

三 大洲藩の和歌

 大洲地方の和歌は、新谷初代藩主加藤直泰が鳥丸家に、大洲三代藩主加藤泰恒が清水谷実業(三条西実条孫)に、四代藩主泰統が武者小路実陰に学んでより堂上派の歌風が広まり、六代藩主泰衑の代に至り隆盛期を迎えるが、以後は国学派が入ってきて、幕末には主流を占めるようになる。また、中江藤樹も和歌をよくした。

 大洲和歌集

 『大洲和歌集』四巻は、加藤泰周が文化(一八〇四~)初年頃、常盤井守貫に古今の和歌を収集させて、みずから編集した撰集で、歌人三九二名の九二九首が四季・恋・雑に分類されて収められている。泰周は泰衑七男、文化八年三〇歳で下野国黒羽の大関増陽の養子となった。泰周若き日の情熱の産物であろう。この撰集によって欠落している大洲の初期の歌を僅かながら拾うことができる。藩主では光泰一、泰興一、泰恒四、泰統六、泰温一、泰衑五、そして泰周は一六首である。新谷藩では直春五、泰広五首が目立つ。家臣も精査すればかなりの数が拾えるであろう。その他入集歌数の多い者は、守貫一四、佐野守億・常盤井守敬(守貫父)一二、冷泉為村門人竹内松月一〇、菊池下総九首などである。その他三瀬有儀、盤溪永琢、川田雄琴らの名も見える。藩主から家臣、町人、女性までの歌を網羅した大洲和歌の集大成である。どの歌も堂上派の上品で優美な調べの歌で、やや生彩に乏しい点はあるが、素直な詠みぶりのものが多い。
  冬くれば梢は秋の色もなし庭の落葉をかたみとも見む   泰周
  ながめつゝ思へば須磨の浦浪も今宵の月に面影ぞたつ   守貫
  まづ越ゆる人をや月の照らすらんうの花咲ける坂の下道  雄琴
 本集の編集に直接協力した常盤井守貫は、当時の大洲歌壇の第一人者で、阿蔵の八幡宮社司。通称は監物。小沢蘆庵に国学和歌を学んだ。近田永潔をはじめ多くの門人がいる。気節高く徳望家でもあった。歌集に『常盤井集』五冊がある。厳戈はその養子である。

 盤珪禅師

 如法寺の開山として以後二〇年にわたり教化した盤珪永琢は、多くの著作、語録を残しているが、和歌・俗謡の類もある。『大洲和歌集』には「色も香もしらぬ昔はみ吉野の花もあだにや春をへぬらん」「にほのうみや空もひとつにうつり来て波よりいづる月をこそみれ」の二首を収める。岩波文庫『盤珪禅師語録』には「無地に来て無地にて帰る古郷へこれぞまことの法のありさま」など仏教的教戒歌が収められている。なお『盤珪禅師御法歌』があるが未見。仏教の教えをわかりやすい俗謡にしたものに『麦搗歌』『うすひき歌』がある(資288)。『麦搗歌』は七七・七五調を基本にした二一首から成り、穢土に迷う心を脱して、浄土を求める心が歌われている。『うすひき歌』は一名「雨乞の歌」ともいい、盤珪が吉野で修業中、旱天続きにこの二一首を作り村人に歌わせ踊らせたところ効があったという。「仏になりたや仏になりやれ生れ付ひたる活き仏」(麦搗歌)「心とめずはうき世もあらじ何もなひこそ生如来」(うすひき歌)といった歌である。

 水沼成蹊母の賀集

 成蹊は大洲中町の淡路屋の人。書家として名高く、『諸家人物小伝』があるという。その母の八十(享和元年)八八歳の賀集二冊が残っている。前者の題簽は読めないが、後者には『賀莚おいのその』とある。八十の賀集の成蹊の序には、諸家から贈られた和歌や漢詩を屏風に貼っていたのを写したといっている。八八の賀集も同様であったと思われる。成蹊は『大洲和歌集』に「吹く風の便りならでは遠山の鹿のなくねはいかできかまし」など五首が入集しているが、この賀集に詩歌を贈った人も前集では加藤泰周、加藤光春、常盤井守貫、麓屋(三瀬)有儀、近田永潔、永類(八束)父子、八幡浜の野田美陳、二宮正禎、吉田藩伊達成職、高月長徳、発句では田辺文里、宇和島の渡部静山といった名のある人々が並んでいる。後集は八八の賀集であるが、九十歳の賀もまじっている。後集になると芝山持豊など京都の公卿の歌人がふえ、すでに泰周はいないが、和歌、発句、狂歌、漢詩を寄せた人々は前集と重っている。相当な資産家にしてなしえた賀莚であったろう。

 三瀬有儀・宗円

 三瀬家は大洲の麓屋と称する商家で、ここに有儀・宗円父子の歌人が出た。有儀は小沢蘆庵門。歌集を『ありよし集』といい、約五百首を収める。序に天保五年(一八三四)にまとめたとある。『大洲和歌集』に四首、『ひなのてぶり』に一首(資68)入集している。文化八年(一八一一)没。五〇歳。
 宗円は麓屋を継いで、半兵衛不半と称した。彼もまた常盤井守貫の弟子の一人で、歌に精進した。『千草和歌』はいとまいとまに詠み集めた歌千首を近田八束に見せたもの、『とりあつめくさ』は百首余の小冊、他に紀行文が数冊ある。『長崎旅日記』は天保二年(一八三一)医学を志す人とともに長崎への旅、『旅日記』は天保七年二月から九月までの長旅で、道後を経て金毘羅、書写山、有馬、大阪から京郡へ、初瀬、道成寺、那智、伊勢と廻り、名古屋から善光寺、浅間を経て江戸へ入り、さらに日光、筑波山、成田まで足をのばしている。その間に詠んだ約一五〇首の歌を中心に、病後の一三年にまとめたとある。『かへりさき』は天保九年三月、一〇年四月と一〇月、一一年一〇月と四度の京都への旅である。娘を先立たせたこともあってか、この旅になると、歌のみでなく旅する心、世に経る心を地の文で深く綴っていこうとする態度になっている。旅を重ねるにつれて、宗円は風雅を求める心から次第に詩心を深め、世のあわれを深めるものになっていったようである。

  春懐旧   咲きにほふ花は昔にかはらねどともに見し世の友ぞすくなき        有儀
  娘のみまかりける折に  露けしな後のかたみとみどり子の手折り残せし白菊の花    宗円
  天保十年夏の旅  夢かとてうちおどろきぬ時鳥この暁もやみのうつつを        宗円
    十一年の旅 露もまたほしあへぬまに時雨くる空にもしるき神無月かな       宗円

 近田永潔・八束・冬載

 常盤井守貫の門人に近田永潔・八束父子がいる。冬載も歌をよくし、三代にわたる歌の家である近田家は野田村の庄屋で、当時は宇和島藩に属していたが、地理的にも、交友関係からも大洲の歌人として扱うのが妥当である。
 永潔は宝暦一三年(一七六三)宇和郡舌間村矢野永貞次男として生まれ、後近田福寿養子となり、家運を興した。寛政四年八幡浜矢野神山に五十首を奉納、同一一年には加藤泰済に守貫教え子の故をもって短冊三首を奉っている。歌集に『詠百首』(天明五年)『近世ふり』(文化四・五年)がある。天保四年(一八三三)没。七一歳。
 八束は幼名隼太、諱は永類。父に随って守貫に学び、文化四年に本居大平に入門した。文化一三年上京した八束は思いがけず大平に会い、花の宴をともにした。その時の紀行文が『まだ見ぬ花』である(なお大平の『春の錦』『夏衣』にも詳しい)。矢野玄道をはじめ、八幡浜の清家堅庭、二宮正禎らとも交わり、大洲・八幡浜地方の和歌の指導者的地位を占めるに至る。歌集には、自筆詠草四冊のほか、門人の高月政徳編『藤陰集』巻二~四の三冊がある。巻一は四季歌をおさめていたはずであったが、現存しない。巻二は恋・雑歌、巻三は和文、巻四は消息文等となっている。随筆集『浅沢水』は正編一五巻一九冊(うち二冊欠)、続編九巻一二冊(うち二冊欠)の厖大な書き抜き帖で、八束の読書、勉学のほどが窺われる。また『ひなのてぶり』には初編一一首、二編一四首が入集している。その他長沢伴雄編『類題和歌鴨川集』『詠史歌集』、村上忠順編『河藻集』本居豊穎編『打聴鴬蛙集』(他に盛之・田鶴子・足穂)等に入集している。当時流行した歌合の判者になり、門人の歌を編集した『藤の花ふさ』がある(後述)。文久三年(一八六三)没。七九歳。
 冬載は八束三男。父や梧菴に歌を学ぶ。小鼓や花道も堪能。詠草七冊、長歌一冊がある。明治三二年没。七七歳。
  菫    浅みどり春の野に出て里の子がこきむらさきのすみれをぞ摘む  永潔
  鴈    空たかく吹く秋風にさそはれて雪路を渡る初かりの声      永潔
       なつかしみまだ見ぬ花をたづねゆきていくその春の思ひ出にせん 八束
  野分   吹きあれし夜半の野分の風の音もうちしめり行く今朝の村雨   八束
  女三宮  かゝらずはかゝらましやはから猫のなれよ何とてまよひ出でけん 八束
  朝鶯   ふしなれし軒端の竹に朝な朝なまづ聞くものは鶯の声      冬載
  浦五月雨 雲とぢて空に涼しき月だにも幾夜みぬめの浦の五月雨      冬載
 永潔の歌は率直に詠み下して豊かなリズムがあり、八束の歌は心情をこめて、叙景歌にも余情をもたせるものが多い。冬載は短歌はやや劣るが、長歌にすぐれ、また作も多い。

 矢野玄道

 国学者として名高い矢野玄道は大洲久米村阿蔵の生まれ。幼くより学を好み、日下伯巌、平田篤胤に師事。古典考究のかたわら国事に奔走。維新後は修史局、宮内省に勤め、明治一九年帰郷。著書は『新典翼』『本教学』など四〇部以上にのぼるが、詩歌も多く残している。『玄道翁歌集』『天放翁詩歌集』などにその一部がみられる。号を天放、梅の屋、倚松堂、子清など。明治二〇年没。六五歳。「うづもれし御代の古言かき出でて誰に問はまし君ならずして」「その昔を思ひやりては嘆くかな耳をそそがむ河もなき世に」は古の澄める代を学んで、今の濁れる世を嘆く心を歌っている。「今しばし雨なふりそね我が園の若桜花散らまくも惜し」「故里は今は別れむむらぎもの心ばかりやとどめ置かなむ」など万葉調の歌が多い。

 武田千穎の和歌

 八束とともに大洲歌壇の宗匠的地位にあった人に武田千穎がいる。助右衛門と称し、足穂、美稲、萩屋と号した。村田春海門で国学を修めたが、著作に残るものがない。歌集に『萩屋集詠草十二』(天保三・四年詠歌)一冊がある。もとは一二冊、またそれ以上あったものであろう。村田春海に点を乞うている。『ひなのてぶり』に入集。慶応三年(一八六七)没。七三歳。「もの学ぶ窓のともし火影更けて夜ぶかく積る竹の雪折れ」「憂きことは尽きせざりけり秋へても光そふべきわが身ならねば」「吹く風にこぼれて萩の下露や又おきかはる籬の白菊」など巧手の歌を思わせるが、今一つ実情の薄い点もある。

 藤の花ぶさ

 八束が大洲の歌人、弟子の歌を集めた歌集に『藤の花ぶさ』がある。上巻は八束の編であるが、中巻は冬載編のようである。下巻は伝わらない。上巻は八束八九首、田村好勝三〇首、矢上盛隆三八首、大塚正風二九首、武田足穂二〇首、高橋田鶴子一〇首、川田資文一七首など、中巻は八束一七七首、冬載一三六首、武田千頴一二首、高月賢樹一一首、大塚正風九首、川田資文四首、高橋田鶴子二首、清家堅庭二首、山中幸忠一首などの顔ぶれである。このうち川田資文は藩士(二〇人扶持)で、剣術の指南をし、八束とは親しく交わり、八束の歌文にもしばしば登場する。高橋田鶴子は高橋重威の妻、香川景樹、本居内遠、本間游清に教えを受けた女流歌人であるが、本集以外に歌は伝らない。山中幸忠は『大洲名所図会』の著者。
    家鳩のくゝと鳴つるかひありて飛びたつばかり嬉しかりけり  賢樹
    おのが名はおもひも出でじ宮人の花見車にこゝろひかれて   田鶴子
    楠の老木にならひこの君もかれての後も香こそしるけれ    資文
    たぐひなき色香の後の山桜みのなるはてもうらやまれつゝ   充棟

 歌合

 幕末期大洲では歌合が流行したのか、次の三種が残っている。『宇和島大洲百廿番歌合』は、左宇和島方は須藤頼郷、田部重群、和家貞規、矢野高鞆、摂津親英、松浦正典、長山忠敏、清家堅庭、浅井清足、上甲小楯、右大洲方は太塚春嶺、武田千穎、若宮雅継、高月政徳、和田元礼、松浦正恭、宇都宮吾田、近田冬載、沢井可免子の各十名が「若菜」「暁帰雁」など一二の題のもとに百廿番を合せ、判者は今治の半井梧菴がつとめた。大洲の四九勝四五負、持(引分)は一八である。勝数の多いのは宇和島では小楯八、頼郷、正典、忠敏六、大洲では春嶺九、正恭七、吾田六。逆に冬載二、千穎四、堅庭二、清足二と、名の通った歌人の成績不振が目立つ。
 『大洲歌あはせ』は、左が長尾勝之、大野成房、垂井昌職、三瀬政秀、神山充実、小泉勝世、田村好直、宇都宮安浦、人見貞治、丸屋信善(巣内式部)、山下正功、山形屋雅夫、神山政徳、堀内屋善哉、曽根吉迪、堀江屋祐実、細井通直、読人しらず、右は、藤田久徴、垂水忠潔、郡政和、中野広信、松久充棟、後藤賀章、大藤元子、天龍院真随、佐治石子、麓屋不半(宗円)、読人しらず、和畠正頼、青野叢、大竹茂流、高橋田鶴子、武田足穂、近良、よし陳の計三六名で、一〇四番、判者近田八束の評が付してある。
 『四拾番歌合』は八幡浜の歌人八名による歌合であるが、やはり八束が判者である(後述)。
 以上歌合は、他の資料に見えない歌人、また歌集の残っていない歌人の歌を知ることができて貴重である。

 巣内式部

 式部はもと須内休兵衛善信、大洲豪商丸屋の養子となった人である。初め八束に学び、『大洲歌あはせ』に六首、『ひなのてぶり』に五首入集している。常盤井厳戈の古学堂に学ぶようになり平田国学に接してから国事に奔走、歌も愛国の心情の高揚した万葉調になる。慶応元年新撰組に捕えられ幽閉された時の歌は『慷慨歌集二』に収められ、『幽囚記』となった。維新後、大村益次郎暗殺の冤罪に問われ、大洲に帰ってからは作歌に精進した。その歌は『慷慨歌集』六冊を中心に二千首に及ぶ。それらはすべて長い詞書を持ち、歌日記となっている。愛国、憂国の真情をほとばしらせた歌とともに、それは維新を底辺で支えた者の記録としても見直す必要があるであろう。明治五年、式部は幽居の八多浪の興覚寺に没した。五五歳。
   国のため尽ししことも今さらにあだとなりゆく世にもあるかな(北越戦の新発田勤慎の折)
   風荒き越の白雪ふみ分けて通ふ心もただ君のため      (会津より帰還の折)
   罪なくてながされ人となりしより月をながめて更けぬ夜ぞなき(興覚寺幽居の時)

 常盤井厳戈

 大洲歌壇に重きをなした守貫の養子に厳戈がいる。斎藤正直の三男で、守貫にその才を見込まれた。古学に通じ、玄道と義兄弟の契りを結び、国事に当ることを誓った。その古学堂からは巣内式部、三輪田元綱、三瀬諸淵、山本尚徳らの勤皇派が輩出した。奇行多く、上にへつらわなかったので用いられなかったが、その情を詩歌に吐露した。『常盤井仲衛翁詩歌集』『まあらこ』の歌稿がある。通称仲衛、惟神、静高道人、臥雲棲、古学生、青柴垣主人などと号した。文久三年(一八六三)没。四五歳。その子に精戈がおり、『明教和歌集』(明治一五年編)一冊がある。歌をよくした。厳戈の歌は「山の端は見れどもあらで春霞人の心を何へだつらん」「剣太刀やき刃の霜ときゆるともあだし心をわれ持ためやも」「思ふどち積るおもひをくずし出て埋み残さぬ埋火のもと」など、やや知的な点もあるが万葉ぶりの歌が目立つ。自然詠は平明で穏やかな調べのものが多い。

 有友正修ほか

 大竹村庄屋四代目正修は、通称信太郎、梅雅と号し、武田千穎らに歌を学び、多くの詠草を残している。『ひなのてぶり』にも五首入集。紀行文『筑紫日記』もある。明治二年没。
 『ひなのてぶり』にはほかに初編に九五名、二編二二名の歌人の歌が入集している。藤田久徴、青野叢、垂井昌蔵、武田維桃などで、田鶴子、伸子など一七名の女性もいる。他に新谷藩では大野道別をはじめ、のベ一三名の歌人が載る(資196)。また『早春松』と題する小冊があり(資121)、「久章上」とあるのは、『ひなのてぶり』(三首入集)にみえる山田久章の歌稿であろうか。また藩士武田敬忠も和歌をよくし、短冊が多く残っている。その長男敬孝(熟軒)、母八十子のも数枚ある。次子に成章(竹塘)がおり、黒龍江を溯っての調査行などで有名である。狂歌では、『東御座敷御評狂哥』一巻がある。「花下うたい」「かやり火」などの題で一七名が四五首を詠んでいる。秀一は酒盛の「佐保姫も霞の袖をふりすてて雪の大はだぬぎて見せける」である。他に伊曽甚五兵衛当正(藩士)が正徳元年に弓道書より抜き出した百一首の弓の歌一巻がある。