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愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

一 伊勢参宮海陸の記

 戦国動乱の世のさ中、板島(文禄四年宇和島と改称)丸串城主で後に板島殿と称された西園寺公広の連枝宣久は、天正四年(一五七六・推定)六月から八月にかけて伊勢参宮の旅をした。その紀行「伊勢参宮海陸の記」(仮称、『宇和旧記』所収)には、戦国の世相を垣間見ることのできる記事が少なからずある。例えば、鞆の沖で宣久の一行は芸州警国五〇そうの船に出会うのであるが、これは織田信長に攻撃されていた石山本願寺を援護するために、毛利輝元が派遣した兵糧輸送船団であった。また播磨では、後の黒田如水、姫路城主黒田官兵衛尉に旅の便宜を図ってもらっている。奈良では、永禄一〇年(一五六七)一〇月に松永久秀によって焼かれた東大寺を訪れ、その焼け跡を眺めたという記事も見られる。当時若き城主であったと言われる宣久の眼は、こうした道中のさまざまな世相や各地の景を新鮮な感動でとらえている。
 また、この旅の記には、所により折に応じて詠まれた、宣久の和歌・狂歌・発句が記されているが、その自由な発想による詠みぶりは興味深いものがある。伊勢の西河原の足代民部丞亭での発句
    幾仮寝今宵ぞ萩か花の宿
の如き体のものもあるが、帰途、湯山や鞆の宿で詠んだ。
    世の中はただ米銭の扱ひに打かたぶける言の葉もなし
    ゆがみぬる二階に居れば下よりも焼ふすべられ狸にぞ成
の如き狂歌にも、宣久らしい特質がよく表れている。
 また宣久は、京都祇園の一万句に、楚仙上人より発句を所望されて。
    花に出て月にかりねの都かな  宣玖
という句を詠んだ由を記している。これは、宣久の文芸意識という面からだけでなく、広く戦国武将の文芸素養という面からみても興味深いものがある。天文六年(一五三七)五月二二日、三間町戸雁の金山城主であった今城肥前守能親が、連歌師周桂の草庵で興行した連歌『大神宮法楽伊予千句』(「続群書類従」所収)にも既に見られるのであるが、これら戦国の武将達が、地方文芸の興隆に果たした役割は大きいのである。