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愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

二 連歌

 大山祗神社法楽連歌

 連歌は、座の文学であるが、各句個人の創作である。伊予の文学として、地方で誕生した最初の作品は、大山祇神社法楽連歌二八〇余帖であろう。文安二年から、近世の寛文一一年(一四四五~一六七一)まで、二二七年にわたる連歌であり、中世期に限れば、文禄二年(一五九三)まで約一五○年間、二七四帖(一般には巻子に改めているので「巻」というが、原資料の綴のままなので「帖」とする)が、同社宝物館に保管され、昭和四七年国重要文化財に指定されている。
 現存連歌について、西暦・年号、形式・帖数、願主・発句作者・連衆の主な者をあげ、その全貌を概観することとする。
 総計、万句二、千句九、百韻(初折など不完全のものも含む)八八、世吉九、歌仙一・大破の帖もその数に収めた。
 その作者層の推移から三期にわけて概説し、作者の概要と、連歌史上特筆すべきものを略述しよう。
 一、室町中期(文安二年一四四五~永正一年一五〇七)六〇年間 ―河野家の武家、時宗僧―湯築城主河野教通(通直)を中心に、一門の武家、道後宝巌寺の時宗僧ら活躍、中央連歌と関連がある。
 二、室町後期・安土桃山時代(大永五年一五二五~文禄二年一五九三)七〇年間 ―大祝家社家、武家、無名人、女性―三島神社宮司大祝家や社家を中心に、大三島周辺の武家、女性、無名の生まれ年で奉納した地方連歌が主。
 三、近世初期(寛永一四年一六三七~寛文一一年一六七一)三〇余年 ―庶民 (四帖のみ)
 この間、二二〇余年にわたっているが、空白の時期があり、河野家の多難を物語っており、また文禄二年大祝安任没後、法楽連歌衰退を意味し、室町中後期戦国時代の世相を濃く反映していると見られる。
 (二)連歌作者
 〈第一期〉河野教通(二代通直)主催の連歌が多い。幼少から在京、将軍足利義教に愛され、父通久戦死後、予州守護職、嘉吉の変には山名持豊、応仁の乱には山名宗全を援け、細川勝元と戦った。文明一一年細川讃岐守義晴ら伊予に来襲、上洛中のため河野通春ら撃退し、讃岐を攻略した。在京中の嗜みにより、この頃の連歌が多く、文安二年百韻・文明一二年千句、文明一四年万句を主催。万句は細川撃退の祈祷満願のためであろうか。
 作者中「通」のつくもの三〇余名、また従弟伊予守通春(九郎)、妹婿忽那因幡守通定、越智通重、土居美作守通安など、いずれも河野家一門であろう。
 時宗僧。其阿は道後宝厳寺、重阿・芳阿・弥阿・眼阿・覚阿・臨阿ら、阿号のつくもの二〇余名、時宗僧が多いと思われる。『新撰菟玖波集』(一四九五)には、他阿上人・其阿・覚阿ら、延徳四年(一四九二)時宗七条道場での百韻三種に、其阿・覚阿・弥阿ら宗祗と同席、あるいは関連があるのであろうか。
 真言僧。石手寺権僧正信禅、脇院家家勝院慶進。盲法師。永一 (栄都)・清一ら、文化の伝達者であろう。
 〈第二期〉元久二年(一二〇五)大祝安時は三島宮守護となった。大永・天文の間、安芸周防からの来襲を大祝安用・安舎ら奮戦撃退し、河野通直から賞賛されている。
 大祝安忠は天文、安周は永禄、安任は天正年間以後に参加、その他、安家・安清・安秀ら大祝一門であろう。なお、越智盛次・通秋・盛勝、菅原秀祐・秀泰、宗方宗弘ら社家も活躍している。
 大三島周辺の武将。大熊城主戒能備前守通森、甘崎城主村上出雲守通康、村上河内守吉継ら、十数名がいる。
 帖の末尾の「武運長久、宿願成就」の八字は、戦乱の世相を如実に示し、大永五年「申歳女願主」をはじめとして、発句に「酉歳」「甲辰歳女」など、干支で女性の祈願はその数を増し、脇以下社家独吟の連歌が多い。永禄四年「伊勢女」は、明確な女性名としては初見である。僧侶・盲法師は各二名のみ、次第に庶民の祈願・宿願成就の連歌が巻かれている。こうして、近世になると、松女・菊女・お鶴・与十郎などへと移っていった。
 (三)大山祇神社連歌の形式と特色
 連歌は、百韻(百句)を基本型とし、千句(百韻十巻)、万句、世吉(四十四句)、歌仙(三十六句)などがあり、大山祇神社連歌は、地方連歌として、その何れもの作品がある。
 「文明十四年万句」ー万句連歌は、百韻を百回、千句十回からなり、鎌倉初期から行われていた。元応二年(一三二〇)鎌倉花の下で(『菟玖波集』一三五七年)、応永八年(一四〇一)備中吉備津宮、永享五年(一四三三)北野神社、文明一三年(一四八一)奥州白河鹿島神社、熊本菊池万句などがある。これらは二〇会席、五百韻を巻き、「一日万句」としたものである。
 文明十四年万句は、七月四日から八月八日七第十まで、六四日間に七〇帖(但し一九帖欠)、九月一〇日ころには満願の予定、九月一四日、「諸神法楽」は「追加」であろう。二〇座にわかれて「一日万句」を催す好士は、伊予にはいない。毎日百韻、時に二百韻を巻き、百か日もかけて完成、地方連歌の涙ぐましい実態を示している。
 参加者一三〇余名中、五二回全出席は和歌丸と指導者と思われる可トであり、主催者河野通直は三六回、三郎・通覚・通載・通包など河野一門、其阿・臨阿・眼阿・独阿・春阿ら時宗僧であろう。栄一・清一ら盲法師もいる。
 参加一回のみ六〇名、二回一八名など、約六〇%は、身分の低い家臣、無名の人々であろう。
 「天正四年万句」ー文明万句から九四年後、五月六日から七月一九日まで二月半張行、大祝安任や社家が中心で、現存七二帖(大破も含む)に一四八名参加、全出席の指導者はなく、半閑三二回が最高である。参加一回一〇三名、二回一三名、全員の七八%に及んでいる。連衆も表八句に記名するのみ、初折裏以後は数字である。
 文明万句は、河野家関係約六〇名、時宗僧二〇数名、真言僧・盲法師一〇数名、時宗僧指導による連歌の武家階級への浸透、また一般への普及などに意義がある。これに対し、天正万句は、河野家は内外多難、わずかに大祝家中心に興行され、武将達も国土安穏を祈願し、庶民、とくに女性も宿願成就を祈念したようである。
 「世吉連歌」―「始終吉と祝する」から「四十四句」、百韻の二・三折を除き、初折と名残とをあわせた形式である。四の字を忌み「世吉」、弘治三年連歌には「始終世久」と表記したのもある。現存最古は、享禄三年(一五三〇)、世吉和漢聯句で、後奈良天皇はじめ公卿ら一〇人で巻かれているが、これは聯句である。
 大山祗神社の世吉連歌は、天文一八年(一五四八)二、弘治三年一、永禄三年六、計九帖ある。享禄三年の和漢より一八年後の作である。連歌師紹巴独吟「懐旧連歌」(天満宮文庫)も世吉であるが、七九歳で没した紹巴は天文一八年には二六歳なので「懐旧」の連歌は作らないであろう。すると、連歌としては、本社蔵のものが現存最古であろう。世吉連歌は、他の地域にその例を求めにくい。むしろ社会的な不安窮迫の世相に生きて、神への祈願から、初折と名残で完結する簡易な様式が好まれたもので、伊予独自に愛用されたのであろうか。
 「歌仙連歌」-室町末期以降、三六句を連ねた連歌を、三十六歌仙に因み、歌仙という。応永三〇年(一四二言熱田神宮の「法楽歌仙」は、三六人の作者の賦した百韻である。やがて、文明一三年(一四八一)「名号連歌三十六句」(実隆公記)、明応二年(一四九三)「歌仙連歌三十六句也」(後法興院記)などと記録されてきた。永正一六年(一
五一九)宗祇十八回忌肖柏独吟歌仙が現存最古であろう。大永五年(一五二五)宗碩独吟歌仙、三十六歌仙詠み込み、享禄三年(一五三〇)常桓(細川高国)賦歌仙連歌、天文一八年(一五四九)昌休独吟歌仙、永禄元年(一五五八)松永永種、有馬にて独吟歌仙などがある。しかし、いずれも「独吟」である。
 連衆の歌仙連歌の初見は、天正元年(一五七三)六月二八日明智光秀、坂本にて昌叱・吉田兼文ら参加の歌仙連歌(兼見卿記)であろうか・近世初期『俳諧初学抄』(寛永十六年一六三九)の歌仙形式・式目の説は何時頃からか。
 大山祗神社天正二〇年九月一九日夢想歌仙は、知久・満色・弥覚・祖讃・一雲ら六人。他の連歌に参加した者はいない。後の連句形式と同じ書式であるが、月花の定座は違っているので、法式化以前のものであろう。この簡素化された三十六句様式には、近世の曙光が強く感じられる。
 「夢想百韻」-大山祗神社現存最古の連歌で、文安二年(一四四五)〔三月〕 一八日「法楽 賦夢想連歌」とある。延徳二年(一四九〇)宗祗の住吉神社夢想百韻が初見とされていたが、文安夢想は四六年も前の作である。なお、文明十二年千句に一、文明十四年万句に二、これらも宗祇の作より古く、天文二三年夢想百韻もある。
 文明一二年九月「今日去月十九日夢想就連歌一座張行了」(親長卿記)と記し、宗伊ら一座した記事がある。
 「長禄千句の寄合」―長禄三年(一四五九)一二月二日から五日まで三日間催され、別に一折、同じ連衆参加し、綴穴のないものがあり、「追加」と推定した。主催の性通は明らかでないが、飯尾大和守貞連であろうか。通三と芳阿は、河野家と時宗僧か。偶々「長禄千句」のみ、第一から第十まで、各懐紙に、発句・脇・第三句を認め、寄合の詞もあげている。なお、句上表も、百韻ごとに記し、挙句を記している。とくに寄合の詞を、連歌作品に即して記した類はないので、前頁に掲げる。なお作品例を左に掲げ、該当の語に傍線を付しておく。
 『連珠合璧集』(一四七六)には、「躑躅とアラバ いはつゝじ」など、寄合の詞をあげ、「思ひいづる常盤の山の岩躑躅いはねばこそあれ恋しきものを」(古今集)など、著名な歌を原拠として、寄合は構成されている。それを実際の作品について示したもので、(4)の「伊予簾」は、恵慶法師(詞花集)の歌に拠るものである。(第二章)
 表現ー大山祇神社連歌は、有心連歌の系統である。素材用語など、伝統的歌語を用いている。が、地方的特性とも見られるものがある。「よさの橋立」に「浦島か其名」と浦島伝説(文安千句第九)、「そみかくだ」蘇民将来 (文明万句初第一)、「対馬つたひの舟の道」(文明一二年第九)や土佐の海、狐・たのき(狸)・猿(長禄千句・文明万句)、また「山畑」に「十代田」(文安千句第七)「千町田」(文明万句三第九)などがある。

  心心すゝむも歌の道なれや   吉長
  上中下のへだてやはある    孝運 (文禄千句第七)

 室町中期の封建的な上下の意識の強い武家連歌に対し、末期では「歌の道」によって、上中下の階層意識の打破が叫ばれている。
 讃岐においては、明応五年(一四九六年)神谷社百韻が最古であり、白峯連歌は、一六年後の永正九年(一五一二)の法楽千句を最古とし、弘治二巻、元亀五巻、天正六巻、文禄一巻あり、近世期元禄迄に八巻あり、地方連歌としてはその量として見るべきものがある。これら周辺の連歌資料と比較して、大山祇連歌の史的文学史的意義が認められ、破損の部を省き、二七四帖が国の重要文化財として指定されたのである。
 伊予最初の文学、しかも長期にわたる「座」の文学の推移に、近世俳諧の萌芽が強く感ぜられるであろう。

連歌1

連歌1


連歌2

連歌2


連歌3

連歌3


河野氏略系図

河野氏略系図


大祝家略系図

大祝家略系図


句


長禄千句

長禄千句