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愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

三 一遍の和歌・連歌

 一遍は『一遍上人語録』によると、
 名号の外には、惣じてもて我身に功能なし。皆誑惑と信ずるなり。念仏の外の余言をば、皆たはごとゝおもふべし。と常に述べていたという。捨聖一遍にとって、名号以外のものはすべて誑惑のものであった。しかし、あらゆるものを捨てた一遍が捨てなかったものに、和歌・連歌がある。
 一遍の和歌は、『一遍聖絵』を始めとしてかなりの量のものが記録されており、遊行の旅の中で様々の和歌を詠んだことが知られる。しかし旅の自然を詠んだものはなく、そのほとんどは釈教歌である。また一遍の歌には、当時の歌壇の影響は見られず、思う所をそのまま詠んだ歌が目立っている。これら一遍の歌について、中世和歌の一特質である宗教的機能の面から、神詠和歌としての性質を持つものとする見方がある(金井清光『時衆文芸研究』昭42・風間書房)。確かに一遍の歌には、人とのやりとりの歌が多く、また述懐の歌にしても自己の内側へ向かうのではなく、他者に対しての説示性が強い。『一遍聖絵』巻一〇には、臨終間近の花のもとの教願との贈答歌が記されているが、
    とにかくにまよふこゝろのしるべせよいかにとなへて棄ぬちかひぞ
という、死を前にして、迷の心をいかにして往生を得ることができるかを痛切に問う教願の歌に対して、
    とにかくにまよふ心をしるべにて南無阿弥陀仏と申ばかりぞ(資61)
と答える一遍の歌は、一遍の思想を一首の歌の中に籠めて、力強く教願を導く啓示の歌となっている。一遍は、和歌という短詩型の中に彼の思想を凝縮することによって、より効果的な形で説示するという、和歌の持っている宗教的機能を十分に発揮し得た人であった。兵庫の宝満寺で由良の法燈国師に参禅し、同師の念起即覚の話に対して、一遍は、
    となふれば仏も我もなかりけり南無阿弥陀仏の声ばかりして
の歌を詠むのであるが、それに対して同師が「未徹在」と一喝したので、一遍は更に、
    となふれば仏もわれもなかりけり南無阿弥陀仏なむあみだ仏(資61)
の歌を詠んで、国師の印可を得たという。この話は、一遍の歌には禅の公案とも言うべきものがあることを示している。一遍の和歌に、掛詞や縁語などの表現技巧がまま見られることも、文芸的な意味合いよりも、説示性を高める宗教的効果という面が強いと言える。しかし、そのことから、一遍の和歌が文学的に無価値なものであるとは言えないだろう。一遍の和歌は、「宗教と芸術と生活」の三味一体のものであるとも言われ(小林智昭『法語文学の世界』昭50・笠間書院)、また「リズムをもった、美的な、いわばポエジイの世界」とも言われる(唐木順三『無常』昭40・筑摩書房)ように、宗教と詩の合致したものと言えるだろう。一遍没後間もない嘉元元年(一三〇三)頃、冷泉為相によって撰ばれたと考えられる私撰集『拾遺風鉢和歌集』巻一〇に、
     西へ行山の岩ねをふみなれば苔こそ道のさはり成けれ
     跡もなき雲にあらそふ心こそ中々月のさはり成けれ
の二首の一遍の歌が収録されていることは、それを物語るものである。
 次に、一遍の連歌については、『菟玖波集』に、
     郭公なかぬ初音ぞ珍らしき
の発句を載せるのみであるが、中世連歌の神事としての本質からみて、一遍が各地の寺社で連歌を行ったとの見方もあり(金井清光前掲書)、後の時宗と連歌との関係からみても、それは十分考え得ることである。大山祇神社連歌には、宝厳寺の時宗僧が連衆として参加しているし、遊行七代託阿上人に仮託される『禅時論』には、
諸国ヲ往来スル程二南海道伊予国ワタリ、能因法師ガ天ガ下マス神(ナラバ)神ト詠シケン三島ノ明神二参詣シテ、本迹不ニノ大通智勝仏十劫座道場仏法不現前ノ十六王子拝奉カナタコナタサソライ行程ニ、伊予ノ湯ノ井桁ハイクツ、  左八右九中八十(六)卜悲願不思議ノ出湯入、夫ヨリ程近キ一遍上人ノ開山シ玉フ宝厳寺卜言道場ヲ一見スルニ、心詞モ及不。(中略)庵室拝見回ル程ニ、爰二連歌ノ会所卜覚テ唐振タル座敷アリ。
といった記述が見え、時衆と連歌の関係の深さを思わせる。
 なお、『菟玖波集』には一遍の発句の他に、越智通遠、越智孝康の句が載せられてあり、河野氏の武将達と河野氏出身の一遍以下の時衆達とによって、伊予における連歌の隆盛がもたらされたことがわかるのである。