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愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

一 一遍の遊行

 中世の仏教の世界においては、それ以前の時代の、きわめて貴族的であり、しかも俗に堕していた天台宗や真言宗にかわって、武士や一般の民衆にも受け入れられる、新しい宗派が次々と誕生した。法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、栄西の臨済宗、道元の曹洞宗、日蓮の法華宗などである。伊予国の人一遍上人の開いた時宗もそれらの一つであるが、時宗は仏教史の上のみならず、芸能・文芸の上でも大きな足跡を残している。
 一遍は延応元年(一二三九)、伊予国の豪族河野通広の二男として、道後奥谷の宝厳寺の地に生まれた。源平の戦いに活躍した通信は、一遍の祖父にあたる。一〇歳の時母を失い出家した一遍は、建長三年(一二五一)太宰府の聖達のもとへ行き、一二年の間浄土教を学ぶ。聖達は法然の弟子で西山流を開いた証空の高弟であり、また当時の太宰府は中国からの新文化が入ってくる活気あふれる土地であった。この太宰府での一二年間が後の一遍を作り上げたことは間違いあるまい。弘長三年(一二六三)父如仏の死により伊予に帰り、一時在俗妻帯の生活をした一遍であるが、やがて発心し仏道一筋の道を歩むこととなる。文永八年(一二七一)春、信濃善光寺に参詣した一遍は、そこで二河白道の図を写し秋に帰郷、温泉郡坂本村の窪寺でそれを本尊として三年間の称名生活を送り、「十一不二頌」を得て十劫の昔の阿弥陀の正覚と衆生の一念往生とは同一であるとの境に到達した。その後文永一〇年(一二七三)半年の間岩屋寺に参寵しそこで苦行した一遍は、自分の到達した悟りを衆生のものとすべく、以後死ぬまで続けられることになる全国への遊行賦算の旅に出ることとなった。
 翌文永一一年(一二七四)、念仏札を配り念仏を勧めながらの、遊行の旅に出発した一遍は、伊予桜井から天王寺、高野を巡り、熊野を訪れるが、ここで熊野権現の啓示により、他力本願の深意を悟り、
    六字名号一遍法 十界依正一遍体
    万行離念一遍証 人中上々妙好華
という「六十万人頌」を得て、以後一遍と称することになる。名実共に一遍上人の誕生であった。その後、予州から蒙古の襲来した文永の役後間もない九州各地を遊行、豊後国で後の時宗二祖となる他阿弥陀仏真教と出会う。また別府では鉄輪温泉を開湯したとも伝えられている。弘安元年(一二七八)再び伊予に帰り、以後安芸、備前を経て京から信濃へ巡り、小田切にある叔父通末の墓を訪ね、白河の関から奥州江刺郡に至り祖父通信の墓に詣でる。小田切では以後時宗の行の一つとなる踊念仏が始められた。その後も、一遍は一所に止住することなく全国各地を遊行し続けたが、正応元年(一二八八)伊予に最後の帰郷をし、岩屋寺、繁多寺に参籠、大三島に参詣した後、翌年讃岐、阿波、淡路を経て、摂津国に至り兵庫の観音堂で往生をとげた。享年五一歳であった。一遍が遊行の旅の中で、念仏札を配った人々の数は二五万人余に達したという。
 一遍は中世仏教史の上で大きな足跡を残した人であるが、その教義は別にして一遍らしさが最もよく表れているのは、成道以後死ぬまで続けられた遊行の旅であろう。一遍は「捨聖」と呼ばれたが、恐らく「捨てる」ことを最も徹底して行い得た人であった。
    身を捨つるすつる心を捨てつればおもひなき世にすみぞめの袖
という歌に見られるように、一遍は家を捨て、衣食を捨て、世を捨て、寺を捨て、身を捨て、心を捨て、そして最後には捨てるという心も捨てた。兵庫の観音堂で死が間近に迫った時、一遍は所持していた一切の書きものを自らの手で焼き捨てて、
    一代の聖教皆尽きて、南無阿弥陀仏になりはてぬ。
と言ったという。すべてのものを捨てつくした後に残ったのが、「南無阿弥陀仏」の称名であった。一遍の遊行はその意味で捨てることに徹した旅であった。
 一遍の生涯を伝えるものには、一遍の肉身の一人(弟ともいわれる)で、後に時宗六条派の祖となった聖戒が、絵師円伊を伴って一遍の足跡を追い、一遍死後一〇年目にあたる正安元年(一二九九)に完成した『一遍聖絵』と、一遍の弟子で二祖真教にも仕えた宗俊が編集して『一遍聖絵』よりやや遅れて成立した『一遍上人縁起絵』とがある。一遍の死後間もない時点で書かれたこれらの伝記は、仏者一遍の姿はもちろんのことであるが、あらゆるものを毅然として捨てて、一生を遊行の旅の中に歩き続けた一遍の、一人の人間としての強烈な生き様をも鮮やかに伝えている。