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愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

一 源平の動乱と河野氏

 平家物語

 日本全国を動乱のうずに巻き込んだ源平の争いは、文学史の上では、和漢混淆文という新しい文体によって、それまでの文学には見られない行動的な人間像を描き出した、『平家物語』というすぐれた叙事文学を生んだ。その『平家物語』に、伊予国風早郡河野郷に住む豪族、河野通清とその子四郎通信が登場する。特に通信は『平家物語』の中で、父通清と共に源氏の挙兵に呼応して旗を挙げて以来、平氏勢力の中にあって一貫して平氏に抵抗し続けた人物として描かれている。
 治承四年(一一八〇)冬、反平氏の旗を挙げた通清は、備後国のぬかの入道西寂によって高縄城で討たれる。その折不在であった通信は、翌年正月備後国の鞆へ渡り、父の敵西寂を討つことに成功する(巻六・飛脚到来)。また、都落ちした平氏の中にあって連戦連勝で勢力を盛り返すことに力のあった猛将能登守教経に対して、果敢に抵抗を続ける(巻九・六ヶ度軍)。そして源平合戦の最後の舞台となった壇の浦では、一五〇そうの兵船を率いて参加し、水軍の力を発揮するのである(巻一一・鶏合壇浦合戦)。中でも、備後国の奴田城での戦いにおいて、教経によって主従二騎にまでされながら、郎等を肩に掛けて悠々と逃れて行く場面には、一騎当千の不敵な若武者通信の姿を十分にうかがうことができる。
 ところで、『平家物語』には、内容・形態などを異にする多くの伝本があることが知られている。それを大きく分けると、平曲の語りとして用いられた「語り本」系統のものと、読むために記事を増補した「読み本」系統のものになる。その「読み本」系統のものの中で、比較的古く成立したと言われる延慶本平家物語・長門本平家物語には、他の伝本にはない、通清と西寂との高縄城での戦いを詳しく述べた記事がある。そ
れによると、その戦いは九日間にわたる両軍必死の攻防によっても決着をみなかった程の激しい戦いであったという。そしてその勝敗を決したのは、通清の弟北条三郎通経の裏切りであった。また、通信が西寂を討ち果たす時には、『予章記』などの伊予の地元資料には見えているが『平家物語』の他の伝本には登場しない、通清の養子出雲房宗賢の活躍が描かれている。
 『平家物語』にはこの他に、河野氏と異なって、平氏方に味方した伊予国の人々がいたことも述べられている。壇の浦合戦に平氏方の一員として参加した伊予国の住人仁井紀四郎親清は、戦いの前しょう戦とも言える遠矢の競い合いに、平氏軍の代表として登場する。結局は源氏方の阿佐里与一に射倒されてしまうのであるが、一旦は、和田義盛を上まわる遠矢の力を見せて、平氏方の士気を鼓舞する働きをする(巻一一・遠矢)。この仁井紀四郎は、『予章記』などには新居橘四郎とされており、やはり伊予国の豪族であった。一の谷・屋島・壇の浦と、瀬戸内を転々として行われた源平の争いが、伊予国をそのうずのまっただ中に呑み込んでいたことがうかがえよう。

 承久の乱と元寇

 源平合戦における通信の活躍により、その勢力を発展させた河野氏は、承久三年(一二二一)の承久の乱によって大きな打撃を受ける。通信をはじめ一族の多くが味方した後鳥羽上皇方が鎌倉幕府に敗れたため、通信が奥州平泉に流されたほか、一族は処罰され、河野氏の所領はほとんど没収されてしまったのである。ただその中で、幕府方に味方した通久が宇治川の先陣の一人に加わり活躍したことが、『承久記』に見えている。
 こうして没落する河野氏を再び復興の道へ導いたのは、通信の孫通有である。通有は、弘安四年(一二八一)再度来襲した蒙古軍との戦いにおいて、その剛勇をいかんなく発揮する。『八幡愚童記』には、小船二そうに乗って蒙古軍を襲撃し、自らも傷を負いながら敵将を生捕りにして帰った通有の活躍が述べられている。『蒙古襲来絵詞』によると、この時通有が着た直垂は祖父通信のものであったという。また『予章記』などには、蒙古軍の上陸阻止のために築かれた石塁を背後に通有は陣を張り、一歩も退かぬ覚悟を示して、「河野の後築地」と言われたという話が記されている。これも通有の剛勇を鮮やかに物語るものである。