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愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

三 山部赤人の歌

 熟田津の歌の六~七〇年後、山部赤人が伊予の温泉を訪れ、離宮の跡で往時を偲んで歌を詠んだ。『万葉集』巻三(三二二~三)に次の長歌と反歌が載っている。(新潮日本古典集成本の口語訳を付す。)
  皇神祖の 神の命の 敷きいます 国のことごと 湯はしも さはにあれども 島山の 宜しき国と こごしかも 伊予の高嶺の 射狭庭の 岡に立たして 歌思ひ 辞思ほしし み湯の上の 木群を見れば 臣の木も 生ひ継ぎにけり 鳴く鳥の 声も変らず 遠き代 に 神さびゆかむ 行幸処
 (代々の天皇がお治めになっている国のどこにでも、温泉はたくさんあるけれど、その中  でも島も山も足り整った国として、険しく聳え立つ伊予の高嶺につづく射狭庭の岡に立  たれて、歌の想を練り詞を案じられた霊湯の上を覆う林を見ると、臣の木も絶えないで  生い茂っている。鳴く鳥の声も変っていない。遠い末の世まで、これからもますます神  々しくなってゆくことだろう、この行幸の跡は。)
  ももしきの 大宮人の 熟田津に 舟乗りしけむ 年の知らなく
 (大宮人が熟田津で船出したその昔が、いつのことかもう解らなくなってしまった。)
 赤人は伊予の国に来て、まず、その温泉・島・山のすばらしさをあげて讃めたたえてい る。この歌はいわゆる国讃め歌の形をとっている。「伊予の高嶺」について、中近世では歌枕として石鎚山をさして詠んだ。最近も、この歌のイザニハの岡について、石鎚山信仰圏に属して石鎚山の一部だとする論が歌枕研究者から出ている(「国語国文」昭55・2)。が、古代における当地の石鎚信仰の裏づけなどの論拠はあげてない。温泉周辺の岡には、『延喜式』神名帳では伊佐爾波神社・湯神社・出雲崗神社があり、果たして当時ここまで石鎚信仰が及んでいたか極めて疑わしい。伊予の高嶺は、やはり伊予の連亘せる山並の意で、石鎚山脈、高縄山塊のようやく低くなった所に道後温泉が位しているのを念頭において歌った(「万葉」昭30・7)、とみたい。なお、この岡は現湯築城跡をさすという。
 そのイザニハの岡については、「伊予国風土記」逸文の前述「湯の岡の碑文」の条のつづきに、
  その碑文を立てし処を伊社邇波の岡といふ。伊社邇波と名づくる由は、当土の諸人たち  、その碑文を見まくおもひて、いざなひ来けり。よりて伊社邇波といふ、本なり。(万  葉集註釈)
と、イザナフと結びつけた民間語源説を記す。この「社」は濁音表記ザの仮名である。碑文の本文の後に、
  岡本の天皇(舒明天皇)と皇后(後の皇極・斉明女帝)と二躯をもちて一度となす。時  に、大殿戸に椹と臣木とあり。その木に鵤と比米鳥と集まり止まりき。天皇、この鳥の  ために、枝に穂どもを繋けて養ひたまひき。と記す。上述した四度目に伊予の温泉に来られた天皇の時のこと。これと類似の記事が『万葉集』六番歌の左注に「一書」として引かれている。この木や鳥は、伊予の温泉を神仙境の霊泉と見なす風土記逸文の伝承からすれば、行宮を守る霊木であり瑞鳥ではなかろうか。また、天皇が稲穂を掛けられたのは、餌を与える以上に宗教的儀礼の意味があったのではないか。ともあれ、赤人歌に詠み込まれている木や鳥は繁栄の呪物でもあり、まさにこの記事を念頭に置いて、往時と変わらない行宮跡の無窮を称えたものと解される。一方、反歌の「熟田津に舟乗りしけむ年」は、明らかに八番の額田王作歌を踏まえたもの。すると、赤人は、前述の『書紀』にも載る舒明天皇代の行幸(六三九年)の時と斉明天皇代の行幸(六六一年)の時との、昔を偲んで詠んだわけである。
 なお、赤人が伊予に来浴した事情は知るすべもないが、舒明・斉明両帝だけでなくそれ以前の天皇がたの伊予の温泉行幸の伝承は知って訪れたであろう。赤人は、天皇に従駕して歌詠することの多い宮廷歌人だけに、行幸先の景観の讃美を通して皇室の権威を称揚したのである。なお、山部氏は伊予と深い因縁がある。その先祖を伊予来目部小楯(よのくめべのおだて)といい、播磨の国の巡察使の時に世をのがれている二皇子(後の顕宗・仁賢天皇)を見つけ出した。小楯はその功績によって山部連に任ぜられ、のち伊予に帰郷したという(『古事記』清寧・顕宗。松山市北梅本に播磨塚が現存する)。そういう先祖の地を訪れた感銘も深かったのであろう。