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愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

一 温泉のおこり・湯の岡の碑文

 古代の文学資料を通じて「伊予の温泉」をしらべてみるにあたり、まず、全国の温泉についての資料の記事を摘記して、「伊予の温泉」を位置づけておく。なお、平安時代の古辞書によると、「温泉」「湯泉」はユとよむのが通例であり、イデユの訓もある。
 『古事記』に見える温泉は一例、軽太子が「伊余の湯」に流されたという記事だけである。『日本書紀』では、伊予の温泉について、舒明天皇の行幸(六三九年)・斉明天皇の行幸(六六一年)と、地震のため湯が出なくなった(六八四年)という記事があるほか、有馬温泉(神戸市)と牟婁温泉(和歌山県白浜の湯崎)とが見える。『万葉集』の温泉は、左注ならびに題詞に多く登場し、その大半は『日本書紀』の記事と重なる。伊予・有馬・紀(白浜の湯崎)の各温泉のほかに、次田の温泉(太宰府の二日市温泉)・足柄の温泉(湯河原温泉)が見える。そのうち伊予については、山部赤人の長歌(第三項)が特筆されるほか、熟田津の歌(第二項)の左注に、内容的に『日本書紀』と同様な『類聚歌林』の記事がある。以上のように、中央で編纂された上代の作品に登場する温泉の記事には、天皇の行幸に関するものが目立つ。
 ところで、奈良時代の初め(七一三年)に官命を下して各国の国情や伝承をまとめさせた『風土記』においては、後世のいわゆる「逸文」をも含めて調査すると、温泉記事がかなりある。伊予の温泉のほか、現在の温泉名でこれを列挙しておこう。出雲の国では玉造・海潮温泉など、豊後の国では九重と別府の鉄輪温泉に血の池地獄など、肥前の国では武雄・嬉野・雲仙、摂津の国では有馬、伊豆の国では湯本・熱海伊豆山の各温泉が見える。これらの『風土記』の記事の中に「伊予の温泉」の記事を置いてみると、以下に述べる「温泉のおこり」「湯の岡の碑文」など、その説話的伝承に秀逸なものがある。以上、上代の文学作品を通じてみると、伊予の温泉は上代の温泉文学の随一と言ってよい。

 温泉のおこり

 伊予の温泉の由来についての古代伝承は、「伊予国風土記」逸文の記事にある。これは、鎌倉時代に成った卜部兼方撰『釈日本紀』と仙覚撰『万葉集註釈』とに、「伊予国風土記にいはく」云々と記して載せられている。その要旨は次の通りである。

  湯の郡。大穴持の命(大国主命)が少彦名の命を仮死状態から蘇生させようと、大分の速見の湯(別府温泉)を地下の樋で引いてきて入浴させた。すると蘇生して元気よく足踏みをしたが、その足跡は今も湯の中の石の上にある。このように、神代だけでなく現在でもこの湯の効能はすばらしく、万病にきく。(資3)

大分の別府から海底の樋(水路)で湯を引く話は、例えば国引き伝説(出雲風土記)と同様な巨人伝説であり、また、そういう巨人の足跡といういわゆる足踏石も伝説例がある。本話の足跡は、今も道後温泉にある「玉の石」の由来ということになるであろう。ついでながら、右によると別府温泉の方が古いことになる。『豊後国風土記』の速見郡には、赤湯泉(血の池地獄)や玖倍理湯の井(鉄輪温泉)の、エネルギッシュな描写がある。その湧き上がる間歇泉など有り余る湯の力と量を知る人も、伝承者の中に加わって作られたものであろうが、中央との交流でなく、九州との関係に成る点は注目してよかろう。伊予から西方を向いている伝承は珍しい。
 温泉が万病にきくという記事は、『出雲国風土記』の神の湯(玉造温泉)にもあり、オオナモチ・スクナビコナの二神が関係する温泉由来記事は「伊豆国風土記」逸文にもあるから、それらからみて本話は必ずしも特異な由来譚とはいえまい。この二神が国造りのため各地をまわる話は上代の諸作品に記すところであり、病気を治療する方法も二神が定めたという(『書紀』神代一書)。「始めて禁薬と温泉の術を制めたまひき」(伊豆国風土記逸文)とも伝えられている。ただ、伊予の温泉の由来譚で特筆されるのは、スクナビコナノ命が復活した湯であるという
ことであろう。
 スクナビコナは「身体の小さい男性」という意味。神産巣日の神の子で、その手の指の間から漏れ落ちたという小人であって、オホナモチの「大」に対する。その大小の二神が協力して国造りをし、スクナビコナは常世の国に行ってしまう(一説では粟茎に上って弾かれて行ったとする)。あとはオホナモチだけで国造りする(『書紀』神代一書)。ところで、伊予の国を神格化したのが神話の愛比売であり、それは寄り来る神と結ばれるヒメの国を意味する(糸井通浩説)。ここでヒメはさておき、オホナモチもスクナビコナも寄り来る神であったのだが、いったん常世に行ったスクナビコナをこの世に再び甦らせたのが伊予の温泉の霊力であった。まさに復活の温泉であり、霊魂を不老不死の情態に浄める名泉、いわば神仙境の霊泉であるということが、この伝承とともに中央に伝わっていったのではなかろうか。なお、源泉発見に関する近世の伝承では、負傷した白鷺が温泉を浴びて完治したのを見てその効能を知ったという(予陽郡郷俚諺集)。その伝承地が鷺谷で、鷺石が保存されている。

 湯の岡の碑文

 「伊予国風土記」逸文は、右の「温泉のおこり」の記事につづけて、天皇たちの伊予の温泉への行幸の記事をのせる。行幸は五度にわたるという。一度目は、第一二代の景行天皇とその皇后。二度目は、第一四代の仲哀天皇と神功皇后。三度目は、聖徳太子(第三三代推古女帝の摂政)とその侍従たち。四度目は、第三四代の舒明天皇と皇后(後の皇極・斉明女帝)。五度目は、第三七代の斉明天皇と皇子たち(後の天智・天武天皇)。その三度目の記事の中に、聖徳太子の作という有名な碑文(通称道後温泉碑)を引いている。その要旨は次の通りである。

 太陽や月は天上にあって平等に照らし、神の温泉は地下から出て公平に恵みを与える。政治はうまく行われ、国民は安らかに暮らす。それは天寿国(極楽)を見るようだ。人々は神の温泉を浴びて病を癒す。……椿樹は茂り、天蓋は温泉を覆う。鳥はさえずり、赤い椿の花は葉に照り映え、実は温泉に垂れ下る。その樹下をゆったりと散策して楽しむ。……(資7)

右の原文は、校訂・訓読・解釈についてもまだ追究を要する難文で書かれ、中国古代の用語・用字・修辞を踏まえ、神仙思想などの文献や漢訳仏典にかなり拠っているらしい。天寿国とは聖徳太子が往生したという国土で、極楽の別名とみる説が有力なようであり、経論などに未見の語という。ともあれこの碑文は、伊予の温泉を天寿国と称え、不老不死の霊泉のある神仙境と称えた美文である。
 さて、果たして太子は伊予まで来たのだろうか。右記の五度にわたる行幸記事が史実かどうか検討してみると、四度目の舒明、五度目の斉明の各天皇については、上掲『書紀』の記事とも合致するから、史実とみてよかろう。しかし、三度目以前については、『書紀』などに記事もなく、とくに、景行・仲哀両天皇については当然伝承時代に属する。問題の聖徳太子の活躍した推古天皇の御世については、『書紀』の記事が極めて詳しいのに、太子の伊予行啓を記さないとはいかにも不審である。これについて私見を述べると、『古事記』はこの推古天皇で終わる。その編纂に関係された天皇たち(第四〇代天武・第四三代元明)の頃の意識では、推古天皇時代以前は古事(旧事)に属し、『古事記』は文字通りフルゴトブミなのであった。一方、『万葉集』においても、信憑性のあるのは第三四代舒明天皇時代(六二九年即位)の歌からであり、聖徳太子が竜田山の死人を見て詠んだ挽歌「家ならば妹が手まかむ」(巻三、四一五)は、いわゆる伝承歌として扱うのが通例である。だから、それと同時代の湯の岡の碑文の記事についても、伝承文学の対象として扱うのかよいであろう。
 聖徳太子は、高麗僧恵慈や葛城の臣たちを従えて伊予の温泉を訪れ、湯の岡のそばに碑文を立てたという。その碑文の本文は『釈日本紀』だけにのせる。時は法興六年(五九六)一〇月、法王大王(太子)たちが夷与村を逍遥し、神の井(温泉)を見て作ったとある。「法興」は『書紀』に用いられない私年号であり、ほかには「法隆寺金堂釈迦像光背銘文」に見える程度。また、『元興寺伽藍縁起』(七四七年)によると、聖徳太子が、仏法を興隆するのに力を尽くした天皇として推古天皇を讃え、「法興皇」の称号を奉るよし述べている。それによる年号であろうが、それにつけても、碑文の創作者に法隆寺・元興寺等の学問僧関係者たちを考えてみてはどうだろう。なお、「夷与村」とは村名でなく、日本古典文学大系本の頭注にいう通り、伊予国の村の意であろう。当地は温泉郡であり、伊予の小地名は別にあるのだから。この、イヨのイの「夷」表記は、中央から見た辺境の地という意識をもって書かれた特殊表記である。ともあれ、道後温泉の北西方の祝谷の田高と、東方の上市の内代との二か所に廃寺があり、堂宇の礎石や出土の百済式蓮華文瓦によって飛鳥時代の寺院趾とみられている。太子との関係は不明だが、当地にこんな仏教文化も栄えていたことが太子伝承を生んだものであろう。