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愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

概観

概  観

 伊予から愛媛へ

 大八島国(日本)の国生みについて、『古事記』に拠ると、伊耶那岐・伊耶那美の命は、まず淡路島を、次に「伊予之二名島」(四国)をお生みになった。「この島は身一つにして面四つあり。面毎に名あり。かれ、伊予国は愛比売と謂ひ」、讃岐(飯依比古)・粟(大宜都比売)・土佐(建依別)と、身体が一つで顔が四つ、女男女男として各国の性格の違いを示した。「伊予」は、一国の名称であるとともに、「伊予之二名島」や、「淡路島中に立て置きで 白浪を伊与に回し」(万葉集巻三・三八八長歌)の伊予は四国の総名であり、「伊予総領」(持統紀三年六八九年)は、四国の管領を意味した。
 愛媛県は、明治六年二月二〇日、伊予八藩を順次改廃統合した結果、設置された。愛比売のヒメに才色兼備の美女の媛の字をあてたのである。
   逢いに来たのになぜ阿波讃岐 高知向かんせ愛媛県
と明治期の民謡に謡われ、「土佐男に伊予女」と、媛の国柄を今に伝承、文学もまたそれに伴って特色を示している。

 古代 -伝承と旅情の文学-

 土地には土地特有の伝承・産物があり、風土性を形成している。元明朝の和銅六年(七二一)、官命に基づき、各国において『風土記』を撰進したが、完備したもの全国に五国。伊予としてはわずかに『釈日本紀』や『万葉集註釈』に引用された逸文がある。その名称六つをあげ、現在地や説明をカッコ内に示そう。
  湯泉(道後温泉、聖徳太子湯岡碑文の記) 天山(松山市、天香具山のわかれ) 御嶋(越智郡大三島、大山積神) 熊野岑(野間郡、今治市乃万?) 神功皇后御歌(橘の島) 斉明天皇御歌(みぎたつ)
その他「伊予の温泉(道後温泉)没して出でず。土佐国の田苑五〇万頃(二五〇万坪)没して海となる」(天武紀一三年六八四年)大天変あり、逸文以外に国々で伝承されていることは少なくなかったであろう。
 風土記逸文中、大国主命・少彦名命の道後来遊のさい、少彦名命が温泉の効験で甦ったという温泉発見の伝説は、伊予路の文学的なものの最初である。大和朝廷から数度ご来浴があったが、とくに聖徳太子は湯の岡に立ち、自然美や神井を讃えその文章を碑としてたてたと伝え、わが国最古の金石文といわれる。近世以降探索を重ねたが発見されず、新しく服部南郭の文が道後公園に、風土記逸文の文章が道後温泉椿湯に碑としてたてられた。
 斉明天皇七年(六六一年)九州への西征の途中、「伊予熟田津石湯行宮」(紀)に寄られ、出発にさいしての有名な歌「熟田津に船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな  額田王」(万葉集巻一・八)がある。
 「類聚歌林」には斉明天皇作(護国神社境内に歌碑)。雄渾な格調で万葉初期の代表作となっている。熟田津については、松山市内の御幸寺山麓・山越・古三津・堀江和気や東予説などある(西条説あるも近世資料に拠る)。
 約六〇年後に山部赤人の「伊予温泉に至りて作れる」長歌反歌がある。その一節に「(前略)伊予の高嶺の 射狭庭の岡に立たして 歌思ひ辞思はしし み湯の上の樹群を見れば 臣の木も生ひ継ぎにけり……」(万葉集巻三・三二二) ヒメ・イカルガの鳥も風土記に記されていると変らずと、五度の行幸、聖徳太子の碑文や大宮人を背景に自然美を讃えている。
 『源氏物語』(一〇〇六年頃)には、伊予の湯桁の数が話題にのぼっている。宮廷人にも愛誦された歌、「伊予ノ湯ノ湯ケタハ幾ツ イサ知ラズヤ数エズヨマズヤレソヨヤナヨヤ君ゾ知ルラウヤ」(體源抄雑芸催馬楽)以下四首ある。地方で生まれて、はじめて記録された文学作品であり、最近中小路駿逸が鎌倉古譜に拠り編曲、謡えるようになった。軽太子と軽大郎女心中の伝誦(古事記)、訪れた都人の旅情文学も、土地の民謡も、道後温泉の情調からおのずと醸し出されたといえよう。
 石鎚山は西日本第一の高峰。寂仙は浄行により(日本霊異記)、桓武天皇の皇子として生まれ、のち嵯峨天皇になられた(文徳実録)という奇しき伝説がある。空海は延暦二一年二〇歳の時、山岳仏教の中心地、大和の金峯山(金山出石寺とも)と伊予の「石峰イシツチノタケ」で修行した(聾瞽指帰・三教指帰)。『梁塵秘抄』の「いとのつち」、『今昔物語集』の四国辺地修行、中世以降は八十八ヵ所遍路となり、弘法大師は民衆の心に生き続けている。
 瀬戸内海大三島の大山祇神社には、藤原佐理が霊夢により扁額を奉納(大鏡等)、能因の雨乞歌の霊験(金葉集・著聞集等)の話などまことにゆかしい。「天の川なはしろ水にせきくだせ あまくだります神ならばかみ 能因」
 宇和海日振島には、藤原純友が平将門に応じて反乱、「悪人列伝」に名を連ね、近年小説のよい素材となっている(純友追討記・今昔物語集)。
 文学素材として、伊予簾は平安朝以降著名である(宇津保物語・枕草子)。
   逢ふことは まばらに編める伊予簾 いよいよ人をわびさするかな 恵慶法師(恵慶集・詞花集)。

 中世 -抗争・伝承と地方文壇の萌芽ー

 源平の合戦のさい、伊予の豪族河野通信は、源頼朝の挙兵に応え(平家物語)、元寇の乱には通信の孫河野通有らは氏神の大山祇神の加護を得て武勲をたてた(八幡愚童記、県指定文化財)。宇和郡『歯長寺縁起』(国重文)は、勤皇僧文観(太平記)に師事した寂証が、南北抗争の世情、三木一草の一人名和長年などを描き、その意義が認められている。(『瀬戸内寺社縁起集』中世文芸叢書)
 『太平記』には、元弘三年南朝方の土居・得能は星の岡の激戦後上洛し、脇屋義助は伊予に下向して病没し、戦果利あらず。東中予にその後の伝説がある。北朝方大森彦七は、湊川の戦に楠正成を破った細川定禅軍にあり、郷里伊予郡砥部近くの山際で、猿楽見物に行く美女を背負ったが、鬼女と変じたこの正成の亡霊と格闘して、終に狂乱。大山祗神社に祈願のため奉納した大太刀とその文書も現存している。『太平記』の中でも最も劇的なこの場面は、近世になって歌舞伎等に種々取材されるにいたった。なお、河野家盛衰の軍記物などもある。
 一遍上人は、河野通広の二男として、道後宝厳寺に生まれ、念仏遊行して時宗の開祖となり、鎌倉末期の民衆を救済した。窪寺・岩屋寺・繁多寺・大三島とその足跡は『一遍聖絵』の写実的な絵にも示され、その語録類はとくに注目されている。和歌連歌を嗜み「郭公鳴かぬ初音ぞ珍らしき」(菟玖波集)、また踊念仏で教化し、文学芸能の地方化の因となった。道後温泉の湯釜に銘がある。その門流からは多くの連歌師を輩出した。
 大山祇神社には頓阿・頼之らが奉納した和歌がある。奉納連歌(国重文)は、文安二年(一四四五)から文禄年間(一五九回までに二七〇余帖、近世四帖現存、河野通直主催の文安・文明千句・万句など、一門の武将、宝厳寺の時宗僧が参加し、出陣や戦勝祈願に奉納、盲人や女性も加わり、中央と地方の文化交流の役割も演じている。(愛媛大学古典叢刊3・4)
 宇和郡今城肥前守能親は、天文六年(一五三六)太神宮法楽伊予千句連歌を興行(続群書類従)、中央連歌師の指導下、次第に座の文学は地方文学の中に芽生えてきた。なお、板島(文禄四年宇和島と改称)丸串城主西園寺公広の連枝宣久の伊勢参宮紀行(天正四年か)には歌・狂歌・発句と自由な発想を示している。(宇和旧記)
 説話。安貞年間矢野保浦(八幡浜)の黒島の鼠の話(古今著聞集)、今も南予に多い鼠害の因は七五〇年以前からあった。鷲に子供をさらわれた話(三島縁起)、石鎚山のすぐれた鷹(吉野拾遺)など語り草となっている。宇和海の魚を住吉の神に献じた時の神詠「いよの国うわの郡のうを迄も我こそはなれ世に救ぶとて」(玉葉集・一三一二年)があり、近世以降は宇和鰯として著名である。

 近世 -地方文学の興隆-

 和歌 宇和島藩では桑折宗臣中心の歌壇、松山藩では元禄期には大山為起を招き、八代藩主松平定静は冷泉為村に師事し、冷泉家伝来の天元二年(九七九)清原元輔作の人麿像や『源氏物語』などの古写本を贈られ、吉田藩では後期には本間游清(春海門)あり、大洲・今治藩、周桑と、各地に伝えられた。また野井安定(宣長門、八幡浜)・矢野玄道(篤胤門、大洲)ら国学歌人も輩出、石井義郷(海野遊翁門、松山)・半井梧菴(同上、今治)・田内董史・西村清臣(景樹系、松山)らあり、とくに梧菴編『鄙の手ぶり』は、幕末における伊予一円和歌を嗜む人名地名歌を載せている。ただ、全般的にみて、中央との交流は、俳諧ほど多彩とはいえない。

 俳諧 近世伊予文学の主流は俳諧であろう。そのはじめ、貞門派-明暦ころ秦一景は久松家御用商人として来松、俳諧をひろめた。延宝のころ宇和島藩家老桑折宗臣は、北村季吟門、自らの句文類のほかに、『大海集』(寛文一二年一六七二)、『詞林金玉集』(延宝七年一六七九)は貞門俳諧史上最も特色のある撰句集である。前者は宇和島藩一五六人、女子供盲人の句も収め、後者は九七冊の俳書(うち本書で存在の知られるもの二〇数冊)から六六国の俳人の句約二万句を編集、異色の貞門俳諧集なので、近年復刻された。「綿子着てぢいさまのまねや雀の子 大久保氏 重好一一才」
 談林派―今治藩家老江島山水に梅翁判「山水十百韻」がある。天和二年(一六八二)談林派の論客岡西惟中は、備中から松山を経て東予へと遍歴、紀行句集『白水郎手記行』や『俳諧三部抄』(延宝五年)などに各地風土の句を載せた。大淀三千風は、三年後の貞享二年、讃阿土を経、南中東予と紀行、『日本行脚文集』に各地の俳人を掲げ、ともに地方の俳風を誘発した。
 坂上羨鳥は宇摩郡中之庄、團水・言水に師事、しばしば上阪して宗因・鬼貫と句を闘わせ、『簾』(元禄九年)、『たかね』(同一四年)、『花橘』(正徳三年)の三種の俳書刊行、上方と地方俳壇との交流を志した。
 蕉門派-松山藩主三嘯久松定直は学芸を愛好奨励、其角門の家老久松粛山、藩医青地彫棠らと俳諧を嗜み「御船屏風」(西鶴・来山・鬼貫・言水らの短冊貼り交ぜ)を愛用(子規記念博物館に展示)。芭蕉・其角・彫棠らの連句一巻は、のち松山に伝えられ、芭蕉没後七七年、石手寺境内に埋められて芭蕉塚「打ち寄りて花入れさぐれ梅椿 芭蕉」となり、句集『花入塚』(明和七年一七七〇)として刊行された。なお、久松粛山の需めに応じ、狩野探雪画、芭蕉・素堂・
其角の賛のある正風三尊三幅対は、松山の富豪百済魚文珍襲、明和三年竹阿一見して驚き(説叢大全)、寛政七年一茶は感嘆して一文を添え喜びを「正風の三尊見たり梅の宿 一茶」(寛政七年紀行)の句とした。
 芭蕉生存のころ、一泉、随友らあり(曠野)、淡斎には『其木からし』(元禄一五年)などの句集あり、徐風の『番橙集』や、支考の「乙酉紀行」などには、元禄以後の東予俳人との風交が出ている。
 芭蕉没後五〇年(寛保三年一七四三)、竹翁らは和気郡太山寺に柳塚を、小倉志山らは久万の大宝寺に霜夜塚を建てた。この芭蕉塚二基は南海道では最も古く、全国の芭蕉塚でも十指に入るもので、芭蕉尊崇の精神がうかがわれ、また藩主の愛好が、武家・町衆・農村各層に蕉風俳諧普及の大きな力となった。
 淡々系ー宇摩郡入野の山中関トは淡々句碑をたて(宝暦一二年一七六二)、宇和島にまで同好者あり、静幽廬の点印文台は、明治にいたるまで続いた。美濃系ーに松山の臥牛洞狂平は、支考二五回忌(宝暦五年)に道後円満寺境内に仮名詩碑を建てた。京都の双林寺碑にならったもので、新体詩の源流と見られる珍しいものである(句集きさらぎ)。
 葛飾系ー二六庵竹阿は四回来松(其日ぐさ)、小林一茶はその師の跡を慕って、寛政七年(寛政七年紀行)と同八~九年の再度来松して、栗田樗堂を訪ねた。
 栗田樗堂は加藤暁台門で井上士朗と双璧、子規によれば近世伊予第一の俳人であるという。天明以後の俳壇で全国的に著名(俳諧新十家発句集)、句集『萍窓集』等数種に及び、序跋を書いた句集二〇冊もある。一茶との両吟、一茶の再遊など、一茶は樗堂を心の友とした。のちに樗堂の死(文化一一年一八一四)を悼んでその手紙まで掲げている(三韓人)。一茶の伊予路紀行は各地での風士との交わりがとくに密接であり、現在句碑一二基(三島・新居浜・三芳・北条三・松山・道後など)、漂泊の旅人に新しい風雅を求める土地の人の心が察せられる。
 幕末の俳諧は、鳳朗門の奥平鶯居、梅室門の内海淡節・大原其戎らその代表である。おびただしい数の俳書、一枚刷・掲額などは、近世伊予俳諧の隆盛をものがたるものであり、殆ど省筆したが、子規登場の前に俳諧的基盤が確立していたことを改めて知る必要がある。
 小説 俳人江島山水は小説にも筆を染め、怪談・奇談類は中央の書物類にも伝えられ、俳人小説家井原西鶴もまた瀬戸内海を渡っての伊予に関心を示して取材した。伊予人気質を描いた戯作も生まれ、洒落本の蓬菜山人帰橋は伊予出身かと論ぜられ、小沢種春は南郡に来住して教化の実を挙げた。『予陽盛衰記』などの戦記類や、山家清兵衛をめぐる実録「和霊宮霊験記」の類は庶民にも愛好されて、各種の写本となり、また松山藩の「伊予の湯下駄」や「今治夜話」なども誌された。
 浄瑠璃 阿波を中心に、伊予においても「世なおし」のため上演されたが、作者に宇佐美淡齋がいる。
 随筆・紀行・日記など 随筆には本間游清の『耳敏川』など、筆者も種類も少くない。紀行文は歌人・俳人にその詠草を収めたものが多く、丹念に記された日記中の圧巻は『三輪田米山日記』である(近刊)。中江藤樹の『翁問答』などは、教訓書として、大洲を中心に人々の心の支えとなった。
 文学作品に登場する人物としては、藤原純友・一遍上人・大森彦七らがあり、四国遍路記も信仰から、やがて文芸の世界に、近松門左衛門や十返舎一九などに生かされている。
 儒者としては、中江藤樹・川田雄琴・尾藤二洲(寛政の三博士)、近藤篤山・三上是庵・日下伯巌ら。国学者としては、大山為起・平田銕胤・矢野玄道・常磐井厳戈・菅原長好ら。僧侶としては盤珪禅師、その臼ひき歌・麦搗歌は庶民の心に響いたことであろう。
 花とり踊・伊勢踊・鹿踊・いさ踊などの踊歌には中世歌謡の調べも残しており、山家鳥虫歌、さては伊予万歳・伊予節など、地方の芸能・歌謡の類には、民衆の心が今も生きて脈うっているものがある。

 近代 ー近代俳句の勃興―

 明治二〇年ころの文学都市は宇和島、ついで松山と一般に言われている。政治小説から近代俳句へ、それが愛媛近代文学の特性であろう。
 短歌 幕末から明治初期は南予中予に国学者歌人が多い。巣内式部(大洲)は勤皇歌人、真鍋豊平(宇摩)は晩年大阪に、半井梧菴は文学味豊かな地誌『愛媛面影』を著し、門下生多く、西村清臣には歌碑二。狂歌も盛んであった。中期には長谷川忠升・井手真棹。真棹には「松山集草稿」の編もあり、海南新聞の選者。秋山真之・子規の和歌の師である。潮見琢磨は「奨弘新誌」を続刊し、伊達宗紀・宗城など家集も多い。
 子規は、俳句革新後、明治三一年和歌革新を叫び、万葉集の写生主義を唱道、埋もれた歌人を発掘、スケッチに平淡味を加えた。根岸短歌会で活躍した県人に森田義郎がいる。大和田建樹には詠草多く、石榑千亦(佐佐木信綱門、「心の花」主筆)には海洋、石鎚の詠草あり。戦後その子五島茂活躍。昭和三七年愛媛歌人クラブ結成、県下に弘田義弘らの歌人、歌誌も急速に伸びている。子規歌碑七基など。
 俳句 明治初期大原其戎の「真砂の志良辺」(明治一三年)は月刊俳誌として全国で三番目に古い。奥平鶯居選「俳諧花の曙」(一四年)は週刊俳誌のはしり。同人は県内・県外ともに五〇〇余名。その後数種の俳誌が刊行されているが、森孤鶴の「はせを影」(二四年)には俳諧幽玄論を主唱するなど、子規登場以前に俳句人口が多く俳諧趣味が培われており、その雰囲気は醸成されていた。
 正岡子規(明治三五年・36歳)の俳句は、二〇年八月(真砂の志良辺)はじめて活字になった。一年八か月其戎の指導を受けたが、その死により古俳句研究を志し、グループの俳句会互選により、内藤鳴雪・藤野古白・五百木飄亭・新海非風、宇和島の土居藪鶯・二宮素香・二宮孤松ら革新運動に参加、松山の河東碧梧桐・高浜虚子もこれに応じ、二六年日本新聞文苑欄を中心に推進。二八年子規は従軍、秋病気療養に帰松、柳原極堂ら松風会の連中を指導するとともに、共同生活をしていた夏目漱石もまた俳句に熱中し、翌年には天下の俳人漱石となり、文豪への道をひらいた。極堂は子規の俳句革新推進を志し、俳誌「ほとゝきす」(三〇年一月)を発行、二一号以後「ホトトギス」は東京の高浜虚子の手に移り、全国的俳誌として今に中心勢力となっている。子規評明治三〇年初頭優秀俳人三八名中、伊予村上霽月ら一七名、伊予俳壇の活況が想像されよう。子規没(明治三五年九月一九日)後、高浜虚子は「ホトトギス」、河東碧梧桐は日本新聞を継承し俳壇は二分、碧梧桐は全国を行脚、四国路へは四三年七~一一月滞留、新風をひろめた(続三千里 中巻)。碧梧桐の新傾向は森田雷死久、野村朱鱗洞と継承、のち自由律口語体、ルビ付きと転じ、種田山頭火も松山を終焉の地とした。
 漱石の『吾輩は猫である』(明治三八年四月「ホトトギス」)以後、小説へ傾斜した虚子にかわって、松根東洋城(宇和島出身)は伝統を護持し「渋柿」派は県下に普及。大正二年虚子は俳壇復帰を宣言して俳句に専念。新人に芝不器男、中村草田男ら登場。その後松高俳句会は篠原梵・八木絵馬ら川本臥風の指導をうけ(「石楠」)、一方極堂は上京し「難頭」を主宰した。富沢赤黄男(川之石)の新興俳句運動のあと、草田男・加藤楸邨・梵・絵馬・石田波郷(「馬酔木」)ら人間探求派として注目されたが、楸邨以外は松山出身者であった。
 戦後、波郷は俳句再建を叫び、赤黄男は近代短詩、草田男は芸の深化一元化を叫び、桑原武夫の第二芸術論に対し、かえって俳句は流行するようになった。昭和二六年子規五〇年祭には虚子・極堂ら参加、四一年には子規・漱石・極堂生誕百年祭、四八年虚子・碧梧桐生誕百年祭、昭和五一年子規漱石展挙行、各流綜合俳句選が継承され、連句も脚光を浴びてきたし、各俳誌はさらに隆盛に向かっている。子規生誕百年祭を機に、子規顕彰全国俳句大会が実施され、一〇年後には愛媛大学グループによる『子規全集』二五巻刊行となり、一五年後の昭和五六年四月には、松山市立子規記念博物館開館し、個人中心の文学系博物館として、トルストイ・魯迅の博物館と並称されるようになった。松山で誕生した「ホトトギス」は、昭和五五年四月千号を迎え世界最長の歴史をもつ雑誌といわれている。県下に芭蕉句碑四三、子規句碑六六、虚子一七・霧月一七・極堂二七・東洋城一五・黙禅三九・碧梧桐六の句碑あり。「俳句の国」愛媛の一面を象徴している。川柳は、狂句として幕末以後も盛んに行われたが、明治後期に窪田而笑子あり昭和期に前田伍健の川柳角力は好評を博し、広く愛好されるようになった。
 詩 明治前期は漢詩文中心で各藩に人材多く、大原観山(子規外祖父)、加藤拓川(子規叔父)ら漢詩集あり、河東静溪・浦屋雲林・内藤南塘(鳴雪)は、少年子規らのグループ活動を指導、子規ら文学革新運動の母胎となり、子規の漢詩稿の類は新たに意義を見出されはじめた。中野逍遥(宇和島)は島崎藤村に悼まれた漢詩人。近藤小南・新野良隆らの癸丑吟社は大正二年以後現在まで継続、他に類がない。
 新体詩は、大和田建樹(鉄道唱歌・宇和島駅前に碑)・子規にはじまり、明治末以後服部嘉香が活躍した。建樹らの伊予鉄・宇和島鉄道唱歌など流行し、堀沢周安の「いなかの四季」は大洲を舞台とし、西村清雄「山路こえて」は日本人作詞としてはじめて讃美歌集に載せられた。その後ダダイスト高橋新吉が注目された業績をあげている。西条八十・野口雨情らが来遊し、各地の「小唄」となった。童謡詩人も登場し詩精神の探求が進められている。
 小説 末広鉄腸の『雪中梅』『花間鶯』は政治意識を高め民衆に受けて版を重ね、政治小説の代表作とされている。須藤南翠は新聞小説に特色を示した。
 写生文 子規は新しい文章体「叙事文」(三三年)として提唱し、山会を中心に散文様式に一紀元を画し、漱石の『吾輩は猫である』(三八年)を契機に、虚子も小説に熱中し、漱石に余裕派といわれた『鶏頭』をはじめ『俳諧師』 『柿二つ』等の刊行となった。
 日露戦争文学として、陸軍の桜井忠温は『肉弾』(翻訳一五か国、大戦中三八八二版)など数一〇冊、海軍の水野広徳は『此一戦』などいずれも愛読され、兄桜井鴎村には翻訳物多く、児童文学として押川春浪は冒険小説、池田蘭子(今治)らは立川文庫(「猿飛佐助」)を続刊、好評を博した。松山では雑誌「四国文学」を創刊、片山天弦・安倍能成・服部嘉香・寒川鼠骨、高知の大町桂月・田岡嶺雲ら寄稿、地方色を出した。戦後に白川渥(新居浜)あり、学生作家といわれた大江健三郎は『死者の奢り』(昭和三三年)で文学界に新風を鼓吹、郷里内子の風物詩も描き、小説に評論に一作ごとに問題を提起し、文壇で注目の的となっている。東中南予の各地域に文芸誌は刊行され、県外在住作家もはなやかである。児童文学には久保喬・古田足日ら、県内でも新分野を確立した。
 漱石の『坊っちゃん』は、愛読者ナンバー一といわれ、松山中学・道後温泉など広く紹介の役割を演じ度々映画化されたし、NHKTVでは、五〇年秋から「新坊っちゃん」を放映。その後も角度を変えて取材され、南海放送TV「わが兄はホトトギス」の子規と相応じて、ブラウン管の主役となっている。国木田独歩『忘れ得ぬ人々』(三津)、徳富蘆花『思ひ出の記』(今治・宇和島)、和田伝『ここに泉湧く』(伊予市南山崎)、藤森成吉『若き洋学者』(三瀬諸淵・大洲)、獅子文六『てんやわんや』(津島)、小泉八雲『怪談』など県外人の取材したもの多く、司馬遼太郎『坂の上の雲』(秋山好古・真之・子規)、『花神』(村田蔵六こと大村益次郎)は広く愛読されている。
 戯曲 岡田禎子は最初の閨秀作家として登場し、映画脚本の伊藤大輔、伊丹万作ら、新劇の井上正夫・森律子らと全国的に知られ、放送脚本作家に新人早坂暁らがいる。 紀行 建樹・子規の紀行随筆、田山花袋の『温泉遊』、蘇峰の『山水随縁記』、高群逸枝の『お遍路』、エフスタールの『お札行脚』など、四国遍路関係の書も多い。文学散歩は、野田宇太郎・福田清人・秋田忠俊の著書が楽しい。 随筆 諸家の随筆は多いが、子規の青年期の「筆まかせ」晩年の『墨汁一滴』『病牀六尺』『仰臥漫録』の三部作は病床文学として圧巻、戦後富田狸通の『狸のれん』など異色であろう。
 評論 明治期には子規・天弦・能成、大正期に竹内仁、昭和には矢内原忠雄・古谷綱武、戦後に中野好夫ら中央で活躍した。
 伝記 子規門の長老内藤鳴雪の自叙伝、盲人町長森盲天外の『一粒米』、桜井忠温『大将白川』
など、社会の変遷、人間の歩みを示唆するものが多い。
 戦後、文学の世界は人間探求の道として、次第に人々の日常の中に生かされ、児童文学をはじめ各分野が開拓されて、ふるさとと中央、全世界へとさらに拡充してきた。(文化部会長 和 田 茂 樹)