データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)

八 軍事国家(戦前)から経済国家(戦後)へ

 平和・民主・経済成長

明治憲法下の立憲君主制は、徳川封建制を一新するものではあったが、「制限された民主化・近代化」改革であった。危機や戦争を背景に、官僚・軍人に効率良く指導される剛構造の国家体制であり、中央集権体制下に地方行政も含めてすべての内政はこれに従属した。列強に伍して国民国家の形成、国権伸張を至上とし、一旦緩急ある時の「義勇奉公」を義務づける召集令状に、国民はハードな国家を肌で感じた。
戦後のパックスアメリカーナ(アメリカに守られた平和)四〇余年は民主化・近代化を十分に醸成した。象徴天皇制のもと、主権在民の民主主義的国家へ再生し、中央集権的権力集中型から地方分権的権力分散型へ新たな政治行政が確立した。これを支えたのは平和を活躍舞台とする企業に働く庶民であり、民主制を基調とする柔構造の「経済国家体制」とでも呼ぶことができよう。昭和三〇年代後半に我が国を有史以来の繁栄に導いた「経済成長」は、高度化を減速しつつも、石油ショック・円高などの経済危機を乗り切り、この持続的成長は戦後体制安定の土台であり、一時代を画する道標ともなった。戦前の昭和恐慌をピークとするデフレと断続するインフレが、困窮農民や失業大衆に「戦争景気」への見果てぬ夢を抱かせた、後進帝国主義型経済の激しい起伏と比べて隔世の感がある。ここで日本は平和と経済立国に徹し、半農業国的中進国から一挙に、工業化を主軸に先進国型体質へと飛躍を続けた。この経済の強さが戦後を特色づけ、いわば戦前の「侍国家」は、戦後「町人国家」へと変ぼうをとげ、わずかに納税時の負担感や、為替相場の動きにソフト化した経済国家の影を追うにすぎなくなった。

 官治体制から地方自治へ

戦前、県会と市町村会は直接公選制(但し普通選挙は昭和二年以後)議員で構成されたが、市町村長の選任は内務省が統制し、県知事は全国を転々と異動する内務省官吏であり、その平均在職期間は一年半に過ぎなかった。また、知事を補佐する部課長も大半同様な県外出身官吏であり、内務省の威令は津々浦々に及んだが、民情に即した行政は期待薄であった。知事は警察、消防、教育、土木、勧業、衛生、選挙事務など行政の全権を掌握して、県会の権限は総じて弱く、県は半ば以上官治団体であった。本県における明治~昭和初期の一一回に及ぶ県会の予算原案否決と、知事の原案執行権発動の応酬は、「名望家県会」の気骨と「浮草知事」の議会運営の未熟さを物語っていよう。戦後の知事は、市町村長と同じく男女普通選挙による直接公選制となり、県議会は戦時翼賛議会以来の協賛機関性を一新し、県民代表の意思機関として条例・予算など重要事項の決定に当たり、執行機関の長である知事と対等にけん制均衡のスタンスが図られた。専門別常任委員会制も戦後の新制度で、議会の権限は格段に強化され、参事会制や読会制は廃止となった。民主制の基盤となる選挙事務の執行は、戦前政党知事時代以来官憲の意のままで、与党の利益を図る警察の選挙干渉が顕著であった。戦後は中立不偏の選挙管理委員会制による公正な選挙制度が確立された。県人事では、久松知事以後知事には県出身者が就任し、部課長幹部も大半が県人で戦前型の官僚色は一掃されて、腰を据えた多選知事の手腕により地方色豊かな県政が展開されるようになった。
 地方自治の台所を固めるシャウプ税制改革は、市町村財政にも重点が置かれ、県民税・地租・家屋税を市町村税に移し、県税は事業税・特別所得税・遊興飲食税など八種目に原則として限定された。これら独立財源のほか、昭和二五年に始まる地方財政平衡交付金制度は画期的なもので、改革財源不安定な地方団体に経済成長の余恵をさらにプラスして与え、増大する教育・福祉・公共事業などの必要経費を賄い、地方団体の自主性・自律性を損うことなくイージーファイナンスの財政運営を行うシステムがつくられた。また、昭和二〇年末、六市二三二町村が数次の合併により三六年末には一一市六四町村に減じ、町村規模の適正化が図られた。

 警察制度の民主化

戦前の警察は世界一の犯罪検挙率を誇ると同時に、ともすれば私権侵害を行い、特に大正一四年(一九二五)の治安維持法以後、政治・思想犯の取り締りは、国体変革をたくらむ左翼思想を重点に行われた。さらに第二次世界大戦末期には自由主義者をも対象とし、言論・出版・表現の自由を抑圧し、国民生活を特別高等警察の監視下に置いた。この特高警察は終戦早々の二〇年一〇月治安維持法とともに廃止となった。戦前の地方行政は、警察に集中統一される形で、衛生・経済保安・警防・労政・職業・勤労動員など広範な権限を持っていた。戦後の民主警察は、職務内容を著しく限定縮小し、本来の犯罪予防と鎮圧、交通取り締りなど秩序維持行政にしぼられ、知事部局とも一線を画する分権体制が昭和二九年に確立した。管理機関としての公安委員会制度も創設され、過渡的には自治体警察制度という過度の分権化が試行された。戦前の「警察国家」の地方出先のトップである知事の官舎が、旧松山警察署・警察教習所・武徳殿・警察部長官舎と、いかめしい警察官庁群に取り囲まれた松山市旧出渕町に所在(現松山家庭裁判所)したことは象徴的である。戦後の民主警察のファッションは制服の改正、帯剣の廃止、婦人警察官の登場とソフトであったが、やがて警棒から拳銃所持へ、交通事犯に備える白バイやパトカー時代へとアメリカ式「ポリス」へ変ぼうしていった。

 産業構造の変化

前近代を象徴する地主制と財閥は、戦前の経済体制の両輪であった。小作争議は大正中期以後、本県農村にも頻発したが、戦後農地解放で寄生地主は姿を消し、代わって九万戸に倍増した「自作農」が農村の主人公となった。肥料・農薬・機械化の目覚ましい技術革新で、昭和三四年には土地生産指数は戦前(昭和九~一一年平均)を上回り、「連年豊作」は昭和初年の不作や農業恐慌を昔語りにした。現金収入を求めて兼業化や離農も急進し農業人口は減ったが、昭和四〇年代には米の生産過剰時代に入った。五〇年代には農林水産従事者は約二二%で二二年の六〇%と比べて約三分の一に減じ、明らかに半農業国家色は薄められて工業国家への脱皮が進んだ。作目も桑園が激減し、果樹(特にみかん)や畜産への特化が著しく、所得の向上、生活の平準化によって「農村の都市化」が急速に進み、農村風景を一変した。都市と農村は交流複合し、戦前的な断絶は薄められた。
 第二次産業は戦前、新居浜市の重化学工業を別格に、綿紡主体の繊維産業が県下に分布していた。戦後は綿紡の衰退、化繊の伸張時代があり、石油及び同化学、非鉄金属、機械、造船、洋紙など重化学工業の全盛期を経て、昭和四〇年代から様変わりした。情報とハイテクを柱に軽・薄・短・小のグラム産業が時代の寵児となり、さらに六〇年代脱工業化社会時代の門口に立ち、先端産業化、情報化、ソフト化と激しい構造変革期に直面している。就業者数別産業構造対比では、第三次産業の伸びが驚異的で、六〇年には五四%(第一次産業一六%、第二次産業三〇%)、を占め、商業・交通運輸のほか観光、情報など各種サービス業の伸展が著しい。県内観光消費額は四〇年には一五四億円に達し、みかん生産額一四〇億円を上回った。

 都市化・個人化進む生活

戦前の地主・財閥に対置される小作人・労働者の貧富の格差は大きく、同時に「都市と農村」の生活・文化の隔絶も甚だしかった。「貧困と階級闘争」が第一次大戦後の主要テーマであり、困窮農民や底辺の都市大衆の暗いエネルギーが、革命か戦争かの出口を求めていたのが昭和時代初期であった。戦後は上層部と農民・勤労者の格差は縮小し、都市・農村おしなべて平準化、都市化しながら生活は向上し、「一億
総中流意識」が定着した。ただ戦前生産的及び資産的に安定性の強かった土地価格が、東京を筆頭に大都市及び周辺農村で暴騰し、投機的・非生産的な資本財と化しつつある現状は、経済国家のアキレス腱とでもいえようか。都市のハード面では、第一次産業や軽工業を基盤とした戦前の小都市は、南予地区にも均衡よく分散立地していたが、戦後は松山県都圏や東予各市に見るように、管理機能や商工業高度化による人口・産業が偏在集中の傾向がある。過密・過疎は全国的にも、県内的にも経済成長期以後度を強めた。
 保健福祉の向上、生活環境の改善は、戦前の人生五〇年を八〇年へと、実に世界一の長寿国に押し上げた。「家族制度内の無能力者」から一挙に男女同権となった婦人は、婦人参政権・高学歴・職場進出と戦後の「強者」となった。六・三制の実施で中学教育を義務化した新教育は、高学歴社会への路線を敷き、戦前の資本家支配に代わるテクノクラート産業社会の基礎を築いた。戦後占領当局が、財闘・旧資本家への対抗勢力として健全育成を図った労働運動とともに、公害反対や自然保護の場の草の根住民運動は、議会制の限界をカバーし企業・経済の過度の侵害をチェックする直接民主主義の変形ともいえる。ともかくも、我が国は戦前の窮屈な共同体やハードな国家の束縛を脱し、昭和三〇年代の経済成長によって、「自由・豊かさ・保障」と先進国並みの希望の星を手に入れた。しかし一方で「孤独な個人」に悩む個人主義の時代をも生み出した。