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愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)

2 西瀬戸経済圏構想

 本・四架橋と四国ハイウェイ

 第三次白石県政に臨む白石知事の選挙公約には、本・四架橋、高速道、空港と大型プロジェクトが掲げられた。就任早々の昭和五四年五月大三島橋の開通式が行われ、野村ダムなど懸案事業も次々に完成した。政治・行政の焦点となる新しい交通ネットワーク形成のすう勢は、県内から県際プロジェクトに発展、本・四連絡橋の完成と四国ハイウェイの建設という息の長い大プロジェクトが引き続き推し進められた。北海道と並んで「四国新時代」の語が六二年四全総に登場するが大規模交通プロジェクト実現がその序幕となった。
 〈本・四連絡橋〉 ①尾道-今治ルート 瀬戸内海大橋(尾道-今治ルート)のうち、大三島橋に続いて因島大 橋も昭和五八年一二月に開通した。五六年三月に起工した伯方-大島大橋が六三年一月には完成して越智諸島三島がつながれた。さらに六一年着工の生口橋も六七年度末を目指して鋭意完工を急いでいる。現時点では来島大橋(第一ー三橋)と多々羅大橋の四橋の未着工を残すが、来島大橋は六三年度の着工が決まり、今世紀中の完工、全通が濃厚になっている。特に多島美を誇る瀬戸内海国立公園の観光拠点である大三島・大島などを各橋の連環による長期滞在型の海洋性リゾート基地としての整備が望まれている。
② 瀬戸大橋など他のニルート 昭和五二年定められた一ルート三橋方式で「児島-坂出ルート」は、早期に完成を図る優先ルートとして五三年一〇月起工された。以後九年余の歳月をかけて、全ルート六本の橋は順調に工事が進捗し、本・四連絡橋三ルートの中でトップを切って鉄道併用橋として昭和六三年四月全線開通した。これに先立ち、「明石-鳴門ルート」の中で本・四連絡橋の二番手として大鳴門橋が六〇年に供用開始した。残る明石海峡大橋は、当初の鉄道併用から道路単独に計画変更して六一年着工した。同橋の中央径間長一、七八〇メートルの計画は、従来一、五〇〇メートルが吊橋の限界径間長といわれた橋梁工学の定説を覆す雄大さで、完成の暁には名実ともに世界一を誇る吊橋となり、今世紀末の完成が待たれる。
 〈四国ハイウェイの始動〉 四国の国土開発幹線自動車道は、昭和四四年の新全総、次いで五二年の三全総で、四国縦貫自動車道徳島-大洲間二二三キロメートルと四国横断自動車道高松-須崎間一五一掃のX字型に連結される二本のルートが計画決定された。さらに六二年の四全総では、従来の国土開発幹線自動車道の計画延長七、六〇〇キロメートルに、新しく高規格自動車道が追加されて合計延長一四、〇
〇〇キロメートルに決定された。
① 四国縦貫・横断自動車道 縦貫自動車道は徳島-大洲間の瀬戸内海地域を結ぶルートで、本四架橋と相まって本州との一体化と、地域経済発展の重要な役割を担う路線として四四年徳島-脇町間約四一キロメートルの基本計画が決定され、五四年四月土居-三島・川之江間一一キロメートルが六〇年三月、四国ハイウェイの先べんをつけて供用開始した。その開通式には、四国四県知事が出席してテープカットを行った。
さらに六二年一二月、香川県善通寺まで約三八キロメートルが開通し、東・中予地区の事業も進み、瀬戸大橋へのドッキングを目前に四国ハイウェイが姿を見せはじめた。
 横断自動車道は高松―須崎間の瀬戸内海と太平洋を結ぶルートで、太平洋側の産業経済の発展に至大の効果が期待され、大豊-南国間二一キロメートルが六二年供用を開始した。六二年新規追加の高規格自動車道には須崎―大洲間一九〇キロメートルをはじめ、高松―阿南間一一〇キロメートル、高知-安芸間三〇キロメートルといずれも四国縦貫・横断自動車道に包括され、四国西南部住民の悲願がようやく実り、8字型に連環された。
② 今治-小松自動車道 瀬戸内海大橋今尾ルートと縦貫自動車道をつなぐ今治-小松間三〇キロメートルの高規格自動車道の一環として六二年六月計画が決定された。この計画により本四架橋三ルートは全て四国ハイウェイと連結されて四国の骨格交通ネットワークが確立され、いよいよ「四国新時代」を迎える構えとなる。
 〈九四海底トンネル構想〉 昭和三〇年代の爆発的交通需要への対応として、いわゆる「第二国土軸」構想に基づき、四八年鉄道建設審議会で全国新幹線網基本計画の中の四国新幹線(大分-大阪間四八〇キロメートル)と九州横断新幹線(大分ー熊本一二〇キロメートル)の一連の基本整備計画として浮び上った。四国新幹線ルートは、当初の明石海峡大橋案が変更され、六二年ころから関西新空港と結ぶ「紀淡海底トンネルルート」が新たに正式ルートとして浮上してきた。
 九四海底トンネルルートは、四九年の愛媛・大分両県の経済調査を皮切りに、四九~五七年間鉄道建設公団によって総額一七億円の調査費を投じ、海上部中心の技術調査が実施された。佐田岬-佐賀関間(海上一四キロメートル)の最短コース線の調査によると、中央構造線から外れており、掘削深度は青函トンネル(海底下二四〇メートル)よりやや深い程度で、五七年には技術的に可能との中間報告が行われた。四七年、本四九連絡新幹線建設促進同盟会が関係一二府県市で結成され、五七年以降国会議員連盟もこれに協調して計画推進運動に当たった。
 今世紀の二大プロジェクトの一つとして青函海底トンネル貫通は全世界から注視されたが、その建設で蓄積された長大海底トンネルの総合技術力は世界に誇るべきものであった。これを活用して、従来立ちおくれて来た四国新幹線計画の頭尾をなす紀淡海峡トンネルと九四海峡トンネルの建設は、二一世紀幕開け前後、我が国で最も注目されるプロジェクトの柱となろう。また、六二年に開通実現の国道一九七号(頂上線)や佐田岬半島地域振興計画の実施など佐田岬半島は次の時代の脚光を浴びつつある。

 架橋と結ぶ「第二国土軸」

西瀬戸経済圏構想は、昭和五〇年代に熟して五七年初頭白石知事から新構想として、「二一世紀に架ける虹の橋」と表現した。開通した大鳴戸橋や瀬戸大橋(児島・坂出ルート)、関西新空港の建設などから形成必至の「東瀬戸経済圏」に対して、西瀬戸のアイデンティティ確立の構想であった。東瀬戸はすでに高い熟度の京阪神経済圏直近の隷属性の強い「准衛星都市圏」となる可能性が強い。そこに四国の未来をかけることに疑問と批判の立場に立つ西瀬戸経済圏は、広島・松山・大分・福岡の各都市を内帯とする平行四辺形を中心に、高知・宮崎(可能なら島根)を外帯として、西瀬戸七県(愛媛・高知・広島・山口・福岡・大分・宮崎)の共生連帯を理念とする広域生活経済圏である。他圏及び圏内を連係補完する高速交通網の整備と、活力あり自主性に富んだ生活経済圏を目指し、松山を円環地帯のサブ中核都市に位置づけている。
 特筆すべきは、「第一国土幹線軸」である山陽道に対置して、四国を縦貫して九州に至る「新南海道」とも呼ぶべき国土の「第二国土幹線軸」(三九年国連都市計画調査団ワイズマン報告)を構想づける。これは、伊勢湾から紀伊半島を横断、徳島・香川経由で東・中予を縦貫し、松山・大洲を経て佐田岬半島を経由、豊予海峡を九四海底トンネル計画によって大分と結ぶ構想である。第一国土軸の山陽道と結ぶ南北の交通軸には、平行四辺形の一辺をなす瀬戸内海大橋が当たる。第二国土軸と並んでこの南北軸貫通は、地政学的に西瀬戸経済圏の死命も制する重要ポインドである。瀬戸大橋は第二国土軸関連のメリットは薄く、むしろ明石大橋あるいは、紀淡海峡トンネルによる淡路島ルートの方が第二国土軸に深くなじむ路線といえよう。大分-大阪の四国新幹線計画は正にこの路線であったが、六二年国鉄の民営化もあって後退の色が濃く、鉄道構想も捨て切れぬままに、現実的には四国縦貫自動車道整備によって実現を急ぐべき選択肢に迫られている。ただ、本来鉄道構想であった九四海底トンネルには、カートレインによる自動車の軌道輸送も考えられ、八幡浜-佐賀関はわずか一時間で結ばれる計画である。西瀬戸は人口一○○万以上の都市は広島、福岡のみで、松山・大分の準五〇万都市の後に続く中都市群の連環であり、先端型経済志向の六テクノポリス(広島中央、山口、久留米・鳥栖、県北・国東、宮崎、愛媛)が連環並立するテクノポリスコリドール(回廊)を形成する。西瀬戸を取り巻く円環型の連たん都市が連関システムを新たに開拓し、従来東西型一本であった日本の経済の流れに南北の経路を加え、広島や大分をモデルに縦深を深め東西型経済を止揚しつつ循環性の豊かな「丸い経済」の実現を目指すことになる。在来の素地を活かしつつ新技術を導入複合し、広域商業・情報・研究・教育の諸機能を交流強化して自立発展と活性化を図ることが目標となる。のも六二年発表の四全総の中で西瀬戸構想は青函地区と並んで史上初めて旧来の地方ブロック概念を超えてインターブロック交流圏として認められるに至った。

 西瀬戸サミットの開催

 この西瀬戸経済圏構想実現の手だてに、本県から関係県の知事会議開催を提唱、第一回は昭和五七年大分県で開かれ、七県が参加した。以後愛媛、高知、広島、大分の四県が中軸となって各県で開催され、これを「西瀬戸サミット」と呼んだ。経済団体への協調呼びかけや、国会議員への協同働きかけも活発で、当面の四全総組み入れには、七県共同で国への陳情を展開した。基幹的交通体系の整備は、今治-尾道ルート架橋や広域航空ルート開発などを共同目標として掲げ、六一年の松山でのサミットで白石愛媛県知事は「四国新幹線、九四海底トンネル計画の灯を消さぬよう」と第二国土軸貫通を粘り強く訴え、執念を燃やし続けた。
 五九年県議会でコミューター(圏域間都市間航空路)の開設決議が行われ、同年高知でのサミットで急ピッチで具体化し、六二年四月には全国初の地域間コミューター(近距離航空)を営む西瀬戸エアリンクが松山-広島-大分間に実現し、同月から一九人乗り小型機が営業就航した。

図3-15 西瀬戸経済開発構想図

図3-15 西瀬戸経済開発構想図


図3-16 第2国土軸と環状経済圏

図3-16 第2国土軸と環状経済圏