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愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)

5 新農業政策の推進

 新農業政策の策定

我が国の経済は成長を通じて、豊かな繁栄を築き人々の生活を向上させてきた。しかし他面では、国際経済的影響、第一次産業と他産業との生産性の格差、過密過疎、物価などの問題、さらには各種の公害や自然破壊など、人間環境を悪化する要因も増大してきた。
 この時期、農業は農業所得の相対的低下、若年労働力の流出、兼業と出稼ぎの深化、地価の高騰、他産業の無秩序な農村進出など、激しい変化と困難な状況に直面するようになった。殊に本県農業は、①急傾斜農地の多い不利な立地条件にあること、②経営規模の零細な農家が多いこと、③高齢化、女性化、兼業化などで労働力が劣弱であること、④効率の低い資本装備であることなど、一層厳しい状況となった。
 したがって、本県農業が国際化や産地競争に対応できる農業となるためには、思い切った体質の改善と体制の再編成が強く求められるようになった。これからの本県農業と農村が健全に発展することを目指して、四八年三月「愛媛県新農業政策」が策定された。その具体的な目標は、次のように設定している。①高能率安定成長農業を確立する。②優良な農用地を確保し生産基盤を整備する。③多彩な生鮮食糧の供給基地を形成する。④生産性の高い近代的農業経営を育成する。⑤創造力のある若い農業者の活動を助長する。⑥進取的な農業の成長を促進する。⑦国と心を豊かにする新しい農業を開発する。⑧活力のある高福祉農村を建設する。
 また、その開発構図としては、①周桑平野水田農業の整備、②瀬戸内島しょ部農業の再編成、③松山広域生産緑地圏の形成、④石鎚山系西南大規模畜産基地の建設、⑤肱川水系広域複合営農圏の形成、⑥宇和海オレンジベルトの再開発が描かれた。そのための主要施策の展開方策としては、①広域営農圏の形成、②新しい農業地図の推進(地域生産の再編成)、③新しい技術装備の開発と普及、④近代的経営の育成、⑤進取的経営の育成、⑥農業生産基盤の整備、⑦市場開発と流通体系の整備、⑧食品など農産物加工産業の振興、⑨農産物の価格安定、⑩農業資金の活用、⑪高福祉農村の建設などを掲げ、強力な推進を図ることとした。
 これに伴って、昭和五〇年、県の農林技術指導体制を改組して「農林技術センター」を発足させるとともに、農村経済振興協会を「財団法人県農家経済指導センター」に改組して協力な指導体制を整備した。
 一方、同年県農業団地構想、土地利用計画などを決定するとともに、五一年には大洲・喜多地区国営総合農地開発事業に着工した。また、同年、県卸売市場整備計画を策定、五三年七月に果樹試験場が松山市下伊台に移転落成した。県農協経営刷新委員会は五三年、農協経営刷新基本方針を公表し、同年、県農協中央会は従来の農協研修所を移転して松山市東野に新しく「農場営団」を設立発足させた。ちなみに昭和五三年の県内総合農協は九八組合であった。
 林業関係では昭和五二年四月、松くい虫防除法の公布に伴い大規模防除が進められ、中核林業振興地域育成特別対策事業が実施された。また同年、県林業基本問題研究会が設置された外、県緑化センターが温泉郡重信町に開設された。

 農村の環境整備

昭和四八年の石油ショック以来高度経済成長は大きく後退し、農業にとっては農産物需要の減退、輸入農産物の増加などによる農産物市況の悪化などの外に、従来の高度経済成長に伴なう開発偏重がもたらした自然破壊、農地のスプロール化など、自然環境や農業環境が悪化した。
 こうしたなかで、農業、農村、自然を見直す農業の新しい役割り論が高まった。つまり、農林水産業の役割りは、生鮮食糧品の供給という主体面以外に、緑地空間とか休養防災などの側面的機能を再認識して、都市と農村の調和のある発展を促そうという新たな視点である。
 県農業会議の資料によると、昭和四七年度中に一ヘクタール以上の農地・山林買占め三、五二二ヘクタール、ゴルフ場建設三、八二〇ヘクタールと、当時の開発意欲のすさまじさがうかがえるが、このような動向に対応して、新「都市計画法」の施行に伴なう線引の作業や、農業振興法による農用地利用増進事業も進められており、四六年一〇月には「財団法人県農業開発公社」が発足し、その対策が講ぜられた。
 ところで、都市と農村の格差という観点から、農村の役割りとして農業生産基盤整備のほかに、農村の生活環境整備を含めた一体的な農村整備の手法が求められるようになってきた。その主要な施策の一つとして、四七年「農村基盤総合整備パイロット事業」が開始され、続いて、四八年の「農村総合整備モデル事業」、五一年の「農村基盤総合整備事業」と発展した。これらの事業は、①生産と生活を通ずる一体的な整備、②居住密度に即する整備手法、③農業的土地利用の保全との調和、④自然資源の循環利用との調和、⑤圏域の重層性に対する整備方法などを考え、農村集落を核として段階的・総合的に定住条件を整備しようとするものであった。
 四九年から五九年までのモデル事業では、大洲市など一七地域で生産基盤整備事業約三九億円、集落道路、汚水処理施設、防災安全施設などの環境基盤事業約四〇億円、生活環境改善センター、農村公園施設などの農村環境施設整備事業など約一七億円などを含めて総額約九七億円の事業が実施された。
 また、農村基盤総合整備事業では、五一年から五九年度までに城川町など一六地域を対象に事業が進められた。その内訳は、農業基盤整備事業約二三億円、前記の環境基盤・環境施設事業を統合した農村生活環境基盤整備事業など約二八億円の事業が実施され、農村の定住条件の向上に貢献した。昭和五四年からは山村振興法の第三期山村振興農林対策事業も始まり、城川町ほか四町村で生活環境の整備など約四億六、〇〇〇万円の事業を実施した。また、内子町など一三市町村を対象に、農村地域定住促進対策など約一〇億円の事業が行われた。