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愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)

1 生活福祉県政への転換

 白石知事初当選

昭和三八年の知事選挙は過熱のあまり平田・久松両陣営に多数の選挙違反者を出した。
 自由民主党県連幹事長白石春樹もその一人で総括主宰者として公職選挙法違反の罪に問われた。この選挙違反事件は三八年三月松山地方裁判所へ起訴され、四〇年六月有罪判決、高松高等裁判所へ控訴して四二年棄却、最高裁判所へ上告中であった。
 たまたま四三年、明治百年記念恩赦の実施がきまり、同年四月の閣議で白石の特赦が決定、公民権を回復することとなった。
 そのころ、五期を重ねた久松知事は、引退の決意を固めつつあり、当然後継者問題が浮上してきた。自由民主党県連では白石に的をしぼりながら選考にとりかかったが、党内事情は雨降って地固まるの情勢にあったとはいえ、白石一本化にしぼりきるまでには、なお若干の距離が残されていた。一方、中央政界にあっても復権間もない白石では当選危うしとする声もあって、白石後継は容易に決定しなかった。そうしたなかで、白石後継を強く支援したのは自民党幹事長田中角栄のラインで、田中は白石出馬の応援のため二度も来県しているのである。四六年一月の知事選は自民党公認の白石と革新系無所属の湯山勇の対決となった。湯山は教育界の雄であり、自他共に許す革新陣営最強の切り札として、とりわけ松山市中心に強く、白石とは勤評以来因縁の対決と目されたが、激しい選挙の結果は約二万票の差で白石の勝利となった。
 新知事白石春樹は伊予郡松前町出身、明治四五年生れで当時六〇歳、高松高等商業学校(現香川大学経済学部)を卒業。戦後、県議六期、県農業共済・県農協中央会・県信連各会長など農業団体役職にっき、政治家としては異例の県議から知事ヘ一足飛びの転身を成し遂げた。経営者感覚にも富み県政の隅々まで知り尽くした県政界の実力者であり、ここに第一期白石県政が始まった。

 生活福祉県政の提唱

久松県政は経済の高度成長時代そのものの「生産福祉県」の実現を使命としてきた。国政でも昭和三九年成立した佐藤内閣は、「社会開発」で成長手直しを提唱、本県では久松県政を継承しながらも、この段階からの脱皮新生を求める白石県政は「レンゲ草の県政」を信条に、「生活福祉県政」への方向づけを明
らかにし、期せずして迫り来る転換期の経済・社会の在り方への警鐘ともなった。県民の幸せのもとはまず健康、次いで豊かな生活、第三に温かい人間性であり、みんなで楽しく暮せる県政を目指し、民主主義の理念「自由」を基調に、行政と政治が呼吸を合わせて一体化し、時宜に適した果断な施策の実現に努めることとなった。その内容は社会保障・社会開発・生活行政の三本柱から成り立っていた。
 生産の向上する豊かな時代は多くの人の生活を潤すが、その陰に脱落する人々への生活の物的保障、次いで生活を楽しむこと、さらに「生きがい」を感じさせる福祉・保障という最終目標が据えられる。これには画一的な基準行政や施設中心の枠に納まらない新たな行政分野が求められる。生活福祉県政を目指す県では、社会の仕組みの中で例えば老人や弱者に職場開拓を含め、日常活動・学習・休養・趣味などの場が与えられるようムード作りを県政全般に及ぼすことが肝要となる。さらに四九年ころから「心の政治」の愛媛版ともいえる「文化社会政策」がとり上げられ、人と物との関係-機能的な行政(従来の社会保障など)から脱却して、構造的な行政-すなわち人と人との関係を起点とした政策、例えば老人居室の建設資金の貸付、青年の社会参加政策、農村工業の誘致などの新施策が登場し、機能・構造両系統を両輪とした生活福祉県政の定着に努力が払われた。ここでいう文化と社会は一体であり、文化すなわち心に栄養を与えていく条件の整備がこの政策の内容となり、「公共の倫理」につながる信頼感や連帯感の涵養を狙いとした。一方経済のパイを大きくする開発にも積極的に力を入れ、「生産は福祉の手段、福祉は幸福の手段、幸福の原点は生きがいにある」との言葉は白石県政の信条となった。
 ところで、生活福祉県政の基本政策を諮る県生活福祉推進懇談会(会長・副知事松友孟)では生活行政を分って「消費生活」「生活環境」「保健福祉」「コミュニティ」の四部門とし、昭和四六年に発足した。四八年三月の総会に県が提案した「愛媛のこころとくにを豊かにする計画」は第一期白石県政前半の生活優先色の濃い行政の方向をうかがわせるもので、その後実現に結びついた主要項目を略記すると次の通りである。
(1) 生活センターを設置し有効利用を図る。
(2) 海の美化(海の子運動も含め)をとり入れ、コミュニティ活動と一体化した郷土美化運動を展開する。
(3) グリーンプラン(緑化普及)で自然保護のみならず潤いある良好な生活環境づくりをする。
(4) 新共同保健計画への住民の積極参加を求めてゆく。
(5) 所得制限なしの零歳児医療無料化を実施する。
(6) コミュニティリポーターを設置し身の回り行政の充実に資する。
(7) 余暇行政推進体制を整え余暇活用のコミュニティ施設の整備に努める。
 このほか、能島水軍の里など三か所の「文化の里」指定、お茶の間懇談会の発足、三世代のつどい、道路公社・土地開発公社の設立、生活環境基準(コミュニティミニマム)の策定研究、生活環境施設の整備推進など生活行政の主要施策は、昭和四八年以降計画・実施された。

 コミュニティと参加の行政

近年豊かな社会の進展の反面、地域社会住民の連帯感は薄らぎ、人間らしさや自治意識の醸成回復が痛
感されていたが、連帯や参加の基盤づくりに果敢な挑戦を行ったのは白石県政の特色ある一面であった。「行政への参加」になじみやすいコミュニティ行政が県政の眼目となり、豊かで生きがいあるコミュニ
ティづくりは、さらに深化発展し地域主義県政の重要政策へ成長していった。
 〈コミユニティづくり〉 人間優先を具体化する手だては、まず日常生活圏の近隣社会から考えられ、コミュニティ施設建設への県単補助事業が設けられた。昭和四九年度二五四か所、総事業費六億円(県費二億四、〇〇〇万円)を皮切りに毎年実施され、五七年には一五億円(県費約六億円)にも達し、六一年までに集会所、陽だまりの部屋、テレビ難視聴対策など二、〇〇〇か所にこれら施設の整備をみた。五三年からテレビ対策は、さらに受像共同施設二六、ミニサテ局(テレビ小規模中継局)六などの新設補助で辺地難視聴の解消に努めた。コミュニティセンターは、過疎町村のコミュニティづくりの総合拠点をなすもので、毎年二か所、一か所当たり約二~三億円の事業費に国・県が助成を続けてきた。また、五一年には県単新施策のコミュニティ農園一二か所が設置された。
 生活運動の中核には心のふれ合うコミュニティづくりを据え、石油ショックの痛撃を受けた昭和五〇年以降省資源低成長下に展開された「みんなでくらしを見直そう」運動は、資源・エネルギーの節約、虚礼廃止、手づくり運動など連帯感、モラルの回復を強調した。「身近な公共活動パイロット事業」は集会所、遊び場、シンボル広場などの小補修の原材料を県が提供し、連帯グループ住民の奉仕活動を助成した。郷土美化促進運動は道路、コミュニティ広場の清掃、植栽、公害点検などの活動を実施、生活学校を年に七〇~八〇校開いて生活運動の研修に当たった。コミュニティ活動にはリーダーの養成が不可欠であり、昭和四八年には住民の身の回り行政への意向反映を図り、コミュニティリポーターを市町村のコミュニティ地区(ほぼ小学校校区三七二)を単位に五〇〇人委嘱してきたが、その県への通信内容は生活環境、コミュニティ、保健福祉、教育などが主であった。五一年これをコミュニティリーダーに改組し、コミュニティ学級・同大学を設けて研修に努め地域の指導者を養成してきた。
 さらに、四八年コミュニティモデル地区、五五年コミュニティ実践モデル地区指定と、実践活動はますます深化拡大し、五〇年コミュニティマップを作成した。五三年にはコミュニティミニマムを設定して、六〇年目標に生活、社会環境施設整備の必要最小限の目標水準を健康・安全・福祉・利便・教育文化など八領域について定めた。また、五五年には本庁、支所に情報データを収集整理したコミュニティバンクを設置した。五六年にはコミュニティカルテを作成し、各コミュニティづくりの具体化の処方箋が用意された。このころからコミュニティ活動は、あえてコミュニティの看板を掲げないで老人と子供・幼児のふれあい、三世代のつどい、ふるさとづくりモデル地区の設置など、参加活動ともからませながら広く日常活動の中へ拡大し溶け込んでいく傾向を見せた。
 〈参加の行政〉 生活優先の身の回り行政が住民のニーズに根ざすところから、「参加の行政」はコミュニティと密接にからみあった受け皿整備から始まるが、さらに高度化して従来の行政レベルを越えた専門的知識・識見を期待して、大学人の参加を求めるようになったのは白石知事の発案であった。住民参加の最大のものは昭和四八年に創始された「お茶の間懇談会」であり、県事務所単位に市町村の協力で六一年までに二、〇〇〇回を超えて開催、コミュニティづくりを助長すると同時に和やかなムードのうちに住
民ニーズを把握することに努めてきた。また常に要望のトップを占める土木(特に道路)案件に対し、四六年一〇月生活環境施設緊急処理事業(通称すぐやる土木)は道路、河川、公園などの身の回り土木事業の応急対策とタイアップし、市町村行政と競うような地域に密着した即戦即決の妙を発揮し、その機動力は大いに歓迎された。
 土木に次いでは生活環境、地域振興などが住民のニーズにあげられる。参加の一形式である県政モニターは昭和三六年以降一五〇人を委嘱してきたが、白石県政以後、生活福祉県政重視に沿って公害・社会福祉・商工の三部門ごとにに専任モニター各五〇人を充て、生活に密着した意見を求めた。五〇年ころの地域別懇談会での提案要望は道路の舗装改良、教育が上位を占め、時代の進展に伴い、南予西南地域や越智郡島嶼部の生活用水、農業の転作や後継者問題などが登場してきた。
 白石新県政が最も斬新ともいえる政策の妙を見せたのは、従来なじみの薄かった大学人との積極的な交流、県政への取り込みの積極姿勢であった。昭和四六年、初の大学人との懇談会が開かれて高度の識見の吸収に努め、四九年には県シンクタンク制度を創設した。以来、自然技術開発部会には愛媛大学一二人の教授を委嘱し、「製紙スラッジ活性炭の活用化」「畜産廃棄物嫌気性物質の利用」「一・五次産業の展開」「ハイテクの活用」など注目すべき研究成果があった。社会技術研究部会では愛媛大学五人・松山商科大学一〇人の教授を迎え、「県長期計画への参加」「コンペンション産業の育成」など行政に直結できる主要テーマの貴重な研究が行われた。四四年に始められた「県政教室」は、各界の指導者約五〇人を毎年県の各施設へ案内し、PRを通じ県政への参加を深める行事であった。青年社会参加運動は、四八年に結成された実践推進体である青年社会建設隊と青年諸団体の連合体である青年社会参加会議とを連絡調整して、活力ある組織と運動展開を図り、五一年には五〇〇人の青年男女が松山に結集し活動が軌道に乗った。事業は連帯・参加を主柱に、清掃、独居老人慰問、祭参加、交通茶屋など年六〇~七〇か所で青年の自発的な実践活動を展開した。

 環境行政の進展

経済の高度成長の時代、地域開発の途上にある本県もまた公害の洗礼を受けた。大気汚染については、昭和四六年時で、法に定めるばい煙発生施設一、二〇二、粉塵発生施設三四七、自動車約二七万台であり、汚染度は重化学工業の密集する新居浜・西条を筆頭に、次は伊予三島・川之江、続いで化学工業の集積した松山臨海部が主であり、硫黄酸化物排出量の約六五%を東予新産業都市が占めた。水質汚濁では、地先海域は燧灘の水質低下が注目され、河川では一級河川の問題は少ないが、中小河川、特に下流部では産業・生活排水によるかなりの汚染が見られた。その他騒音、振動、廃棄物処理、土壌汚染、悪臭など環境問題はにわかに広がった。これら環境問題・公害への対策として、四三年、県は衛生部環境衛生課に環境保全係などの公害担当職員を増強してきたが、四四年に県公害対策審議会が発足、翌四五年県公害対策室(一一人)及び県衛牛研究所公害部(六人)を新設した。四五年は公害行政の進展著しい年で、水質・大気・騒音各法による規制を先行強化する「愛媛県公害防止条例」が施行され、大気汚染SO規制基準を強化(新居浜・西条に加え伊予三島・川之江の指定追加)するとともに、騒音規制指定地域(松山・今治・新居浜)に西条が追加された。知事を本部長とする県公害対策本部、県議会公害対策特別委員会を設置して、住友化学・同共電に対する公害防止協定をはじめ、住友重機械、昭和電工(同サボア)などとの直接協定及び市町村協定への指導参加、長期的総合的な公害防止計画の策定など、法の規制に加え条例による上乗せ規制の強化がきわだった。
 公害行政の進展は生活福祉県政を標ぼうする白石県政の必然的な主要施策となった。昭和四六年四月、部制相当の環境生活局(四八年部制へ)に公害第一課、同第二課を設置(各一〇人)し、また、、新居浜保健所には公害課(五人)を新設した。四七年には衛生研究所公害部を公害研究所二五人)として独立させ(のち五三年公害技術センター)、東予地方の公害に対応して新居浜保健所内に東予公害監視センター(五三年に公害技術センター東予支所)を設置、四八年には公害第一・第二両課を公害課に統合、四九年から放射能対策組織を整えるなど行政機構の改革・整備が相次いだ。東予公害監視センターは、大気汚染に備え無線通信、電算機などを結合したテレメーターシステムでデーターを中央監視局で集中管理し、西条以東を領域に新登場の光化学スモッグ現象も含め、大気汚染監視網のシステム化を図り、同時にこれを補完する公害測定車も稼動した。四六年公害苦情相談員(県に三九人)、公害モニター(五〇人)も発足した。
 水質管理基準には、人の健康にかかおる水銀など有害物質基準と生活環境にかかわる無・有機物による汚濁の基準とがあり、前者は川や海の全域に適用、後者は利用目的などにより各水域の類型指定を行っており、化学的酸素要求量(COD)、生物的酸素要求量(BOD)や浮遊物質(SS)などによる区分を行っている。昭和四六年水質汚濁防止法が施行され、県水質審議会が発足し、工場事業場七四業種に四七年から水質規制が適用された。特に排水汚染度の高い紙パルプ製造業、食品加工、染色、砕石などには排水処理施設の設置を指導した。県は燧灘の悪臭魚対策、浄化対策として、油分やCOD、SSに対し厳しい上乗せ基準を実施し、さらに瀬戸内海の特別法に基づき、五四年からCOD総量削減計画や富栄養化防止の燐削減計画を実施してきた。河川、特に中小河川の汚染源としては工場排水のほか畜産、養殖水産、生活の各用水など長期対策を必要とし、海域では伊予三島・川之江の製紙排水のもたらした三〇〇万立方メートルの堆積ヘドロに対する除去の努力も重ねられた。こうした努力で四七年の水質規制以来改善著しく、五〇年半ば以降透明度も回復していった。
 瀬戸内海地域の総量規制に関連する下水道の整備された都市は、昭和五五年時で松山・今治・新居浜・川之江の四市にすぎなかったが、六〇年には伊予三島・西条・八幡浜を加えて七市、処理人口も約一四万人から二五万人に増え、普及率も一七%に上昇した。二二か所のし尿処理場のうち燐対策に効果のある高速処理を導入した所は、五四年の一〇に対し六〇年の一八か所と著増、日量処理能力も一、三四〇キロリットルへ倍増した。浄化槽対策も五六年から法定検査制度となり、五か年で延二、六〇〇件を検査した。生活ゴミ処理施設は日量五トン以上の三五施設で一、六〇〇トンを、五〇トン以上の粗大ゴミは四施設で一九〇トンを処理し、生活ゴミの七〇%は焼却された。また、産業廃棄物処理対策として汚泥処理を主とする中間処理施設二八三、最終処理施設三九などの業者の指導、研修、監視が行われた。
 伊方原子力発電所の初動に先立ち、昭和五一年愛媛県・伊方町・四国電力の三者で協定を結び、県は環境放射能及び温排水並びに放射能廃棄物の管理などを監視しているが、この協定は①放射性物質の努力目標〇・七ミリレムとする ②因果関係のあいまいな間接被害には行政介入ができることなどを骨子としている。同時に、町の監視機構の上に、県は環境安全管理委員会を設置し、現地の広報センター内に構えた環境放射線中央監視室には、周辺設置機器によるモニタリングデーターを電算処理して、昼夜監視(町委託)に当たる万全の体制をとった。また、スリーマイル島事故にかんがみ、昭和五五年には原子力防災計画を見直し、二市八町各地域に合致した防災計画を樹立させ、ポケット線量計など現地に適した測定機器の増強に努めた。

 医療費公費負担

医療保障は本来国の分野であり、国民健康保険(国保)のように全国画一を建前とするが、その国保の三割自己負担分を自治体が補給する医療費公費負担制度(国の行う結核、精神病、原爆症などとは別個の県独自の制度)が昭和四〇年代の福祉の眼玉となり、自治体が弱者の切実なニーズに応え独自の制度を創始し、国は慎重に後追いする形となった。老人医療費公費負担制度(無料化制度)はすでに一一県が実施していたが、本県も四六年一〇月、白石県政発足早々に先行実施に踏み切った。罹病率が高く収入の少ない老人のうち七五歳以上(生活保護適用を除き約四万七、〇〇〇人)の国保自己負担分を、市町村と県で半額ずつ負担し、所得制限なしの実施を本県の特色とした。国は昭和四八年一月から全国の大勢に押されて、七〇歳以上(県下約九万人)に対し公費負担を後追い実施した。また、県は四八年四月六五~六九歳の寝たきり老人一、三〇〇人に対する同制度を先行実施、国は同年一〇月から実施した。老人医療両制度の県負担は国に移行後、年額四~五億円となっている。
 四八年四月、零歳児医療費の同制度を合わせて実施し、五〇年度には医療件数約二五万件、県費約一億七、〇〇〇万円を負担している。県下二万四、〇〇〇人の零歳児は有病率八〇%、死亡率千分比一四と極めて高く、扶養力の弱い若い親たちに歓迎された。四九年四月、続いて重度心身障害者(精薄者を含む)約七、七〇〇人に対し同制度を実施、五〇年度には約四万八、〇〇〇件、一億四、〇〇〇万円の医療費を県が負担している。これは身障者の障害に係わる更生医療などとは別個の一般余病の医療負担である。同年一〇月母子家庭医療費公費負担事業に踏み切った。八、九〇〇の母子世帯のうち、上下所得者を切り四、五〇〇世帯、一万五、〇〇〇人を対象として入院医療費を負担する制度で、五〇年度約八五〇件、九五〇万円にのぼった。北海道など三県に続く全国の先陣グループに名を列ねたユニークな制度といえる。しかし、いずれも市町村を実施主体とし、国保中心の運営であって、相次ぐ医療無料化は国保財政へのしわ寄せとなって現れた。また、老人医療が本格化した四八年一月以降、七〇歳以上の医療を待ちかねていた患者が病院にあふれ、県立中央病院でも三か月後には一日平均四〇人と倍増、限りある病床を長期療養の老人が占める老人ホーム化現象、通院老人による待合室のサロン化などが問題となった。全国の老人医療費は十年後の五七年には八倍の三兆円を超え、五八年には国は一部有料化をおり込んだ老人保健法を制定し、手直しを余儀なくされた。
 昭和二三年改組発足の県医師会(県下一七医師会・約一、六〇〇人)は日本医師会傘下の有力な在県医師団の組織であるが、県の保健福祉行政特に公費負担制度、愛媛大学医学部設置など格段の協調成果が見られた。県歯科医師会(約五五〇人)もほぼ同様の組織である。

 「対話と協調」の同和行政

昭和三六年、部落解放同盟県連合会と県同和対策事業協議会の県内二団体の統合が図られ、全県一本の新しい同和運動組織として県同和対策協議会(県同対)が創立された。特別措置法制定への悲願をこめ、県民の支持を期待して運動の改革を目指したものであった。しかし組織がほぼ完熟し、全国唯一の一県単一組織が確立したのは昭和四六年である。いわゆる愛媛方式の「対話と協調」「行政と共闘」「教育と連
帯」の三本柱を確立して行政の理解と真剣な取り組みを求め、問題の早期解決をめどに地方行政の長である知事を同和団体の会長に推戴し、県民総ぐるみ運動を展開していく新路線であった。
 この機をとらえ、運動と行政の一体化を図ったのは、亀岡秀雄らを頂点とする「対話と協調」グループであった。亀岡は県同対の事務局長から副会長(会長代行)、さらに四三年発足の県同和教育研究協議会(県同教)及び四七年創設の県企業連合会(県企業連)の副会長を兼ねて同和団体運営の衝に当たってきた。ここから解放運動(革新)の固い殼は破られて、県同対の組織はほぼ全県的なものとなり、より一歩現実の政治や行政に近づいたものと見られる。
 昭和四四年、同和対策事業特別措置法が制定され、四五年にはその具体化要求の国民会議が開催されるなど同和行政は、戦後最大の高揚期の上げ潮に乗った。四六年、当選早々の白石県知事を県同対及び県同教の会長に据え、本県の同和行政は画期的な躍進の時代を迎えた。白石知事は青年期の民主運動の体験を通じて、地区民の痛嘆を肌で知っており、その信条は付け焼刃ではなく内心の発露であった。知事は、県同対大会で「部落差別は徳川幕藩体制が民衆の分断支配のため創り出した身分制で、政治公害ともいうべきものである。政治のつくり出したものの始末は、政治の責任で解決すべきと思う。知事を先頭に愛媛方式の同和対策を県民総ぐるみで推進し、行政も教育も力を合わせ、この社会悪を子孫の代まで持ち越すまい」と早期解決を訴えた。
 昭和四八年、県福祉部に同和対策室(のち課制、職員九人)を新設、同和行政の所管組織が確立し、本格的な取り組みが始まり、同年には県教育委員会に同和教育班、四九年には同和教育室(五一年に課制、
職員九人)へと拡充発展した。教育面では、四八年県同和教育基本方針を策定し、高校・大学への就学奨励事業の拡大、小中高校同和教育推進主任の増員、同和教育担当の社会教育指導員の新設など同和教育の充実は目覚ましいものがあった。四六年度県の同和教育予算額約五四〇万円に対し、四九年には約五、六〇〇万円と一〇倍余に達し、その躍進ぶりを如実に物語っている。
 本県の同和対策対象「地域」の実情は、五九市町村四七七地区の小集落に散在し、人口は約四万五、〇〇〇人、農山漁村型で産業・生活上の悪条件地域が多く、経済力の培養、生活・福祉の安定向上、啓発教育の強化などを急務とした。昭和四四年、国は〝昭和の解放令〟とも呼ぶべき「同和対策事業特別措置法」を制定、五七年新法「地域改善対策特別措置法」に乗り継がれ、さらに六二年、五年時限の「地域改善対策特定事業に係る国の財政上の特別措置に関する法律」に継承され、切れ目なく事業の早急実施が進められてきた。国県市町村にわたる複雑多岐な補助制度によって、昭和四四年から六一年まで県内の事業実施額は約一、四九二億円に上り、この額はほぼ本県離島振興事業の総額に当たる。その内訳は地区道路・下水道など生活環境七〇二億円、低家賃住宅など住宅三二六億円、飲料水供給事業五億円、農林二六六億円、漁業二五億円、集会所など教育一八億円、啓発教育など非物的事業一四八億円に上る。今後も引き続き残事業との取り組みが課題であるが、地域の改善振興、教育啓発の著しい進展によって県民一般の同和問題への理解と協調は、かなりの前進があったものと見られる。
 しかし結婚、差別発言などに絡んだ差別事件の発生は四四年以降も相当数に上り、当初県同対などの取り組みは行政や地域・職域の責任者などを強く追及する場面も見られたが、最近ではむしろ学習的側面が強く、地元市町村での地域問題として対処解決する事例が大半を占め、地方組織の足腰の強化を裏付けている。
 運動の拠点となる白鳳会館は県民の総力結集の形で自己資金一億円、県市町村費六億八、〇〇〇万円など総額八億二、〇〇〇万円で、五三年松山市山越に建設された。同会館は県同対、県同教、県企業連の各事務所を構え、会合、講座、研究調査など運動の中枢機関としての活動を行って、全国でもユニークな「対話と協調」の同和運動展開のシンボルとしての存在を示している。

 松山西高校新設

人口の都市集中と高校進学率の急激な上昇により、都市部における県立高等学校への入学難という事態に対処するため、昭和四五年五月、愛媛県教育委員会教育長毛利正光は、愛媛県高等学校教育振興協議会(会長・愛媛大学教授堀田鶴好)に対し、「愛媛県における高等学校教育の振興策」について諮問し、同協議会は慎重に審議を重ねた末、四六年一一月、高等学校の配置について、松山市に公立普通科高校の新設を検討すべきである旨の最終答申を行った。
 次いで昭和四八年二月、高校新設問題連絡協議会(県市各六人の委員により組織)が設置され、数次にわたる協議の結果、同年八月一七日、会長・県副知事松友孟から白石県知事・宇都宮松山市長及び県・市の教育委員会に対し、地元松山市の協力のもとに県立の全日制普通科高校を松山市に設置し、四九年度開校が適当である旨の報告を行った。これを受けた松山市は、直ちに新設高校の敷地を県に提供することを決定し、八月二〇日市長から知事へその旨を申し入れた。
 四八年八月二二日、愛媛県民館で開催された県立高校新設促進大会の席上、白石知事から松山市内に県立普通科高校を新設することを発表、また宇都宮市長は用地を提供することを表明した。松山市は高校新設協力委員会を設置して、久万ノ台の用地買収に着手、県においても九月県議会で高校新設の予算が計上された。
 次いで一二月二〇日県議会において、県立学校設置条例の改正が可決され、松山西高等学校の設置が決定、四九年四月一日から一学年一〇学級四五〇人の定員で新設校が開校した。