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愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)

12 都市化・車社会・長命化

 消費革命の昭和三〇~四〇年代

 昭和三〇年代半ばから所得・消費水準の向上と平準化が急速に進行した。戦後アメリカ文化を受け入れた生活変容は本格的にこの時期に始まったっ所得階層別・地域別格差は昭和三五~四五年間に縮小し、農家世帯についても所得・消費水準の上昇著しく、四三年の農家世帯所得は勤労者世帯を一七%上回り、可処分所得比も九一%と接近している、昭和二〇年代の生活苦の終りを告げるのはエンゲル係数の著しい減少であり、本県では三四年の四六%から四四年の三五%へ、雑費は逆に三〇%から四〇%へ上昇し、消費生活の高度化を示した。飲食は核家族化や生活の都市化を反映して、肉卵など動物性食品、インスタント及び冷凍食品が増え、一方外食など消費の社会化傾向が進んだ。劇的な生活変革の背景は技術革新による新製品の登場、マスコミによる欲望創出であり、その代表は耐久消費財、特に家庭電気製品で、三〇年から四〇年代前半を彩る消費革命の先駆けとなった。アメリカモデルの新生活を象徴する「三種の神器」の普及は、県下で三五年ころ電気洗濯機三〇%以下、白黒テレビ二〇%以下、電気冷蔵庫一〇%以下と低かったが、三九年ころには電気釜・ガス炊飯器・電気洗濯機は八〇%の普及を示し、四四年には一〇〇%近くに達して、白黒テレビや電気冷蔵庫も四〇年ころにはそれぞれ九〇%、六〇%程度となり、なかでもテレビは四四年にはほぼ全世帯に行き渡った。耐久消費財は農村、中小都市の格差が少なく、おしなべて全国的に平準化されていったのが特徴である。
 代わって「3C」時代に入るとやや所得階層別の差が出来た。カラーテレビは昭和四七年には、本県で六七・九%と全国普及率を上回り、白黒テレビ七八%を追い抜く勢いとなった。クーラーはまだ庶民生活には縁遠く、年収二〇〇万円以上のハイクラスでようやく購入できる程度の普及を示していた。テレビは娯楽教養品であると同時に情報の即時化、映像化、同質化によって大量消費と広域情報を両軸とする大衆化社会のけん引力となり、情報化時代を先取る尖兵ともなった。同じ意味で電話の普及は、モータリゼーション(車は3Cの一つ)と並行して爆発的に伸び、三五年の人口比四%から四五年の一五%へ躍進、昭和六〇年には約五六万台の三八%と普及し、その内住宅用が七〇%を占めるにいたった。ダイヤル化による即時化と広域化が四四年にほとんど完成し、全国即時通話のネットワークで情報化時代を担うパーソナルコミュニケーション(各個人個人間の意志の伝達)の機能を確立した。家庭電化は昭和三二年以降躍進を続け、家事労働を軽減合理化させ、家庭生活の向上、婦人の能力の多方面への活用などの波及効果を生み出した。便利・効率・低価格のLPガスの家庭燃料普及も著しく、昭和三五~四五年で一〇倍になり、六〇年には四三万世帯約九〇%に普及し、都市ガスと並んで薪炭時代を終わらせた。これは石油化学の生んだ「生活の工業化」の利便さともいえよう。
 昭和三二年ころから、技術革新の成果で衣料にはナイロン、ビニロン、次いでポリエステルなど安くて強い合繊製品が出回り、三〇年に比べ三五年にはすでに合繊製品は二~六倍も激増し、天然繊維の一・五倍を圧した。戦後の衣料は中流層を含め既製品化へ進むと同時に、町村地域などでは四三~四五年ころ高級和服への復古的な志向が目立つようになった。「レジャー」の語は三〇年代半ばころ登場するが、四五年の県下レジャー支出は一人当たり年間約九万円で、四〇年に比べ倍増した。総じて消費内容は飲食など基礎的なものから、より高次な教養・レジャー的傾向を帯び、所得・消費水準の上昇と都市的生活パターンの波及により都市的消費が一般化し、本県の都市化係数は三八年の約一三%から四三年の約一五%へ増えた。目立つのは外食、肉類、レジャー用品であり、一般に都市では外食、化粧品、高級酒類、町村では和服の伸びが顕著であって、農村にも都市的消費が浸透し、階層間、地域間の平準化が進み、いわゆる「一億総中流化」意識のはしりとなった。従来家庭で営まれていた飲食や洗濯が外食産業やクリーニング屋の社会的消費業者に委ねられ、家屋賃貸料や損害保険料など消費の社会化は進度を深めていった。
 大量生産、大量消費の時代の申し子である流通革命の大きな担い手はスパーマーケットであった。県下で三四年以前には八八、四四年には一八五と増加し、小売業売上げの九%を占めた、スーパーの大型化、多角化、総合化あるいは小型分散化によって食料品の一五%はスーパーに依存した。セルフサービスとパック方式の都市的な便利さ、気安さは農村にも進出し、一般小売業の一四%を占めるという農協スーパー(Aコープ)と相まって食料雑貨などの日常消費の主役に登場してきた。昭和四七年には創業一五年のダイエーが全国売上げで三越を抜き、四五年には年商一〇〇億円の一一社中、百貨店と肩を並べて五社をスーパーが占める激しい流通合戦となり、小売側からの消費革命の主役となった。

 車社会の到来

 昭和三〇年代半ばころからスタートした国産小型乗用車を突破口に、四〇年代に大衆レベルのマイカー時代に突入、モータリゼーションが進行した。本県でも、三五年の三万二、六二〇台が四一年一〇万台、四五年二〇万台、五一年四〇万台、五五年五〇万台、六〇年六〇万台と、ほぼ五年刻みで一〇万台の増加となったが、五〇年前後は二〇万台の異常増を記録した。全国では五二年に三、三〇〇万台(うち六四%が乗用車)に達し、ほとんど一家一台という米国並みの自動車王国が出現した。自家用車(三六~四五年の間に三三倍)特に軽四、小型車の著しい増加に伴い交通事故が頻発するようになった。車の「走る凶器」の正体が見え始めたのは昭和四〇年代後半からで、道路など交通施設の立ち遅れ、交通モラルの未熟などもあって県下交通事故数は四七年八、二四三件(死亡二四四人)、四八年七、七八六件(死亡二三五人)と過去最悪の数字を示した。昭和三六年県議会は交通安全宣言を決議、三七年には初の交通安全県民大会が開かれ、交通安全県民総ぐるみ運動を展開した。なかでも、三六年一二月の「交通事故0の日」の創設は全国異色で、四八年四月から毎月二〇日を「交通安全の日」と改め、県交通安全協会を推進体に老幼の保護、交通取締りや指導の徹底に当たっている。四三年には県総務部消防防災課に交通安全係を置き、交通安全実施計画などの制定実施に当たった。四四年には、松山市道後公園内に児童交通公園も設けて児童の交通ルール徹底訓練の場とした。
 昭和四〇年以降、松山市ほか七市に総合交通規制が実施され、道路整備及び交通安全施設も急速に整い、その成果で、五〇年以降は年間事故七、〇〇〇件、死亡一〇〇人台に漸減したが、六〇年代以降やや増加の傾向にある。これら事故は改良後の国道一一号・五六号・一九六号各線で全体の八〇%以上と多発しており、また、若者が三○%と多数を占めていたが、六〇年代被害者・加害者ともに高齢者が登場してきた。
 自動車の普及は流通革命と並んで生活革命の旗手となり、核家族化や生活の都市化と並行して、県民の生活意識を変革しつつ大衆社会化の進展に一層拍車をかけている。国鉄も昭和三五~四五年の間に飛躍的にスピードアップし、松山―東京間二一時間が一〇時間と短縮され、新幹線などを利用すれば七時間程度となった。昭和四七年のジェット機就航で空路松山―東京間は二時間から一時間二〇分となり旅客が倍増した。一方、道路改良とバス交通の発達は県内の国鉄利用の足を遠のかせ、自動車時代は国鉄に厳しいものとなった。全国的規模で進行する時間距離の短縮化は、モータリゼーションも絡んで行動圏の拡大と意識の変革をもたらし、中・四架橋を含め四国高速道路など道路整備への熱いまなざしを向ける、新しい時代の幕開けの予兆となった。

 医療保障・長命化

 県の生活水準指標のうち健康水準の向上は、昭和三五年~四五年の間に他の指標に抜きん出て最も高く四・七ポイントとなっている。その内訳は、健康の環境水準指標、すなわち医師数で人口一万人当たり八→九人、病床数人口一万人当たり六二→一〇一、社会体育施設人口百万人当たり一五→三九と向上し、栄養安全水準、たとえば肉卵消費額一人当たり月二、四〇〇→一四、〇〇〇円と全国指数に接近した。体位水準の指標は一一歳男子・平均身長一三五→一三九㎝、同平均体重三〇→三三㎏と向上の跡を示し、全国平均との格差を縮めレベルアップしている。保健水準指標では結核・伝染病患者数人口一万人当たり九九→四〇、乳幼児死亡者数出生千人当たり三三・三→一七・四、社会保険診療取扱件数人口千人当たり一、四九四→二、八四三と全国平均並か、やや劣るものがある。全体として三五年当時、低位にあった健康水準指標の改善向上は注目に値し、医療及び保障制度の充実、保健衛生の向上、生活改善の急進展などによるものと思われる。
 県下の医療保障制度は、昭和三五年一〇月国民健康保険の全市町村七六の実施(対象者九七万人)によって完成した。図3―8の昭和三六年度県民医療費六七・九億円は、各職域別の健康保険制度のほか、結核三・五億円、精神衛生一億円の公費負担、生活保護の医療扶助七億円など複雑な公的制度が組み合わされる仕組みが整えられ、三〇年代半ばからの福祉、国民諸年金制度と並行して戦後社会保障制度は大筋の完熟段階に入った。三六年から四〇年までの間に国民医療費は二・七倍に増え、対国民所得比も三・三%から四・五%に達した。家計の保健医療費を松山市での消費支出で見ると、三八年以降二・七%前後で持続しているが、内容は売薬剤の比重が減り診療代が全国平均以上の速度で増加していることは、保険を含め診療制度の整備と内容の向上を裏書きしている。同年間支出では、三八年一万一、〇〇〇円余が四五年には二万五、〇〇〇円余と倍増し、保健医療費のうち診療代の構成比は七割を占め依存度の増大を示している。
 国民の平均寿命は、戦前の「人生わずか五〇年」が戦後の二二年から一〇年間に世界無比の寿命革命で二〇年も長命化し、昭和三六年の簡易生命表で男子六六歳、女子七〇・七九歳と驚異的な伸びを示した。その後ますます順調に延命して、欧米先進国中でもトップレベルの北欧と肩を並べ、ついに五八年には男子七四・二歳、女子七九・七八歳と世界一の長寿国となった。これに伴い六五歳以上の老齢人口は、県では三五年の一〇万八、〇〇〇人の七・二%から四五年一三万三、〇〇〇人の九・四%と増え、全国平均七・一%を上回る長寿者県となった。地域的には郡部、特に南予が多く一一%を上回り、今後も県外流出の青壮年や縮小する幼年層と相まって老年層の相対的比重はさらに加重され、バランスを欠くひょうたん型の人口構造の定着は免れない。四五年の所得額を段階別に四区分した所得四分位制区分割合で最低所得層を示す第一分位に属する一般世帯は二一・八%に対し、母子世帯七三・六%、高齢者世帯八一%を示し、高度成長の恩恵を受けない老人の問題が浮彫りとなり、所得、福祉、医療、生きがいなどの老人対策が急務とされるにいたった。

図3-8 昭和36年度県民医療費の内訳

図3-8 昭和36年度県民医療費の内訳