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愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)

4 農林漁業の振興

 農業生産の回復

 農地改革、農業協同組合の設立など一連の民主化政策と総合的な食糧増産態勢の整備に伴って、昭和三〇年産米が史上最高の生産量を示すなど農業の生産力は著しく回復した。米の生産は引き続き豊作が続いて平準化するとともに、さしもの食糧不足もその様相を一変させた。
 この時代は、急速な技術革新の下に経済は成長の一途をたどり、産業構造の高度化が著しく進んだ。これまで食糧の安定供給、失業者の吸収など社会の安定・発展に大きく貢献してきた第一次産業は、他産業との格差が開き始め、経済社会に占める地位も相対的に低下した。また、消費性向の変化と農産物過剰傾向、労働力の流出と高齢化、兼業化の深化、農地の改廃、地価の高騰など農業をめぐる環境が厳しくなった。
 二五年の本県農家戸数は一四万六、一三五戸であったが、三〇年には約五、〇〇〇戸が減少し、三五年には一三万七、五七五戸となった。同じくこの時期に、専業農家と第一種兼業農家は二万三、四〇五戸減少し、第二種兼業農家が一万四、八四五戸増加した。農業就業者は三五年の二四万九五二人が、四五年には一八万六六九人まで減少した。
 また、耕地面積は二五年の七万一、八〇二ヘクタールが三五年には、七万七、〇三七ヘクタールに増加した。その内訳を見ると、田は約二、〇〇〇ヘクタール増加し、畑が約四、〇〇〇ヘクタール減少したが、果樹園などの樹園地は約五、〇〇〇ヘクタール増加した。したがって、昭和二五年に対して、稲栽培面積が三五年には三・二%増となり、果樹栽培面積は一九六%と大きく増加した。そのほか乳牛の飼育が四九四%に、養鶏が二二七%など商品生産部門の増加する傾向にあったが、この傾向はその後さらに著しくなっていった。

 農林漁業の近代化

 昭和三五年(一九六〇)、政府は「国民所得倍増計画」を発表した。この基調となる経済高度成長は、池田首相の一〇年間で「農民六割減」目標の発言そのままに、農業をめぐる経済環境にも大きな改変を迫るものとなった。
 この年、国の経済審議会の農業近代化小委員会から報告が出された。それによると、第一次産業部門の所得を高め、他部門との所得格差を是正しなければならないとし、その過程で予測される農林水産物の需要構造の変化と就業人口の大幅な減少とに対応して第一次産業の急速な近代化を図ることが必要であると示されている。
 このような背景の中で、すでに三四年四月に設置されていた農業基本問題調査会は、「農業の基本問題と基本対策」という答申を三五年五月、岸首相に提出し、続いて一〇月「林業の基本問題と基本対策」と「漁業の基本間題と基本対策」を答申した。まず農業については、所得の均衡、生産性の向上、構造改善を提言している。また林業についても、生産性の向上、林業所得の分配構造の改善、就業者の所得の均衡的増大、構造改善を、さらに漁業についても、生産性の高度化と向上、就業者の所得の向上、構造改善を同じように提言している。
 本県ではこれより早く、三四年四月「農林水産業の現状と対策の基調」を作成して、第一次産業の生産性の向上と、就業者の所得格差の是正策を明らかにした。
 これによると、農業では生産手段の整備として農地の改良・造成と農業機械化対策を、また農業生産力向上と適地適産に基づく農業経営の集約化を強調している。また、林業は、造成対策としいたけ栽培の拡大、農道等の整備による山村農家の経済向上を、また漁業では、企業の協同化と投資の合理化、漁業の多角化を図るための浅海開発、基幹施設及び共同利用施設の整備改良の実施などを明示している。そのほか共通事項として、①試験研究機関の整備と技術普及組織の強化、②農林水産物流通の合理化、③農林漁業団体の整備強化、④農林水産金融の強化、⑤農村青少年教育の充実などを強力に実施して、農林水産業の近代化を図ることとしている。
 その具体的手段として、三五年従来の県興農資金制度を農林漁業共同化資金に改め、県単独資金として設定したほか、同年県農林水産開発機械公社も発足させた。制度融資については、三六年に農業近代化資金助成法が公布され、三七年農業後継者資金の創設、四一年農林漁業金融公庫法の改正などもあって、農業の近代化に大いに貢献した。
 また、昭和四〇年に四国カルスト期成同盟会が発足し、翌四一年県酪農近代化計画の策定、肉用牛振興地域の指定、南予農業経済圏事業の開始など畜産振興の基礎を築いた。


 農林漁業構造改善事業

 昭和三六年六月農業基本法が公布され、農政の画期的な法律となった。この法律は、農業と農業政策の方向づけという目的をもち、同時に国が講すべき施策の方向を次のように示している。

①農業生産の選択的拡大、②農業の生産性の向上及び農業総生産の増大、③農業構造の改善、④農産物の流通の合理化、加工の増進及び需要の拡大、⑤農産物の価格の安定及び農業所得の確保、⑥農業資材の生産及び流通の合理化並びに価格の安定、⑦農業経営担当者の養成確保と他産業への就業の円滑化、⑧農業従事者の福祉の向上

 この中で特に、「農業生産の選択的拡大」と、「農業構造の改善」という表現は、農業施策の新しい理念と方向を端的に示す言葉として、関係者に鮮明な印象を与えた。
 本県の農業構造改善事業は、三七年松山市道後地区と伊予郡砥部町麻生地区のパイロット地区の指定から始まった。両地区ではみかんを基幹作目として、土地基盤整備事業、経営近代化施設の整備が行われた。また、この年一般地区として、越智郡上浦・大三島及び大洲の三地域も指定され、その後四四年度までに、五六地域の指定を受けた。その間の事業費総額は、土地基盤整備事業約二七億七、〇〇〇万円、経営近代化施設約二五億五、〇〇〇万円の計約五三億二、〇〇〇万円、ほかに単独融資事業約一四億七、〇〇〇万円、総額約六七億九、〇〇〇万円となり、果樹・畜産など選択的拡大と、生産性の高い農家の育成に成果を収め、これが第二次農業構造改善事業につながるわけである。
 次に、林業基本法は、民有林の林地保有規模の零細性、生産基盤の未整備、資本装備の劣弱性など林業の構造的問題を改善することを目標として昭和三九年に公布された。この法律に基づいて林業構造改善事業が三九年から一〇年計画で進められたが、その具体的施策として、①林地保有の合理化、②地域林業の組織化の推進、③生産基盤の整備、④近代化施設の整備、⑤林業者の定住化の促進などが実施された。本県では、三九年から四六年の間に地域指定二五市町村、総事業費約一九億八、〇〇〇万円の実施をみたが、この後、第二次林業構造改善事業へと引き継がれる。また、この事業に刺激されてしいたけの生産が急激に増加していった。
 漁業については、昭和三七年沿岸漁業構造改善促進対策要綱に基づいて漁業構造改善事業が発足したが、本県は三八年度に指定を受け、四〇年度から経営近代化促進対策事業等を実施し、農林業と同じように四六年以降の第二次沿岸漁業構造改善事業へとつながり、農林漁業全体で構造改善事業が軌道に乗ることとなった。

 「つくる漁業」への転換

 本県の漁場は大きく分けると、佐田岬半島を境にして北は瀬戸内海、南は宇和海となり、瀬戸内海はさらに、東の燧灘、西の伊予灘とに分けられる。これらの漁場は漁場環境、漁業の種類、生棲水族等において、それぞれに特色を持っており、それが本県漁業の多様性を形づくっている。燧灘の漁業は古くから広い干潟を利用した、ノリの養殖漁業のほか、小型機船底曳網漁業、一本釣などの漁船漁業が行われており、伊予灘は湾江が比較的少なく、平坦な地形の海域で、小型機船底曳網漁業や一本釣漁業が主体である。宇和海は古来、イワシ漁業中心のまき網漁業や八幡浜を基地とする沖合底曳網漁業、小型底曳網漁業、一本釣などの漁船漁業がその中心であったが、近年は、宇和海特有のリアス式海岸の地の利と黒潮暖流の水温の利を生かした真珠、ハマチなどの浅海養殖漁業が急速に発展してきた。また、昭和三一年ころからは宇和海で真珠母貝の養殖も盛んになり、三三年には愛媛県真珠貝養殖漁業協同組合協議会が結成された。
 農林省愛媛統計情報事務所の愛媛県水産業界年統計によると、本県の昭和三八年の沿岸漁業生産量は、六万四、六一九トンであったのが、四三年には、六万二、五八四トンに減少している。一方、養殖漁業においては、ノリが三八年、一億五、五八三万枚、真珠三、五九三トン、ハマチ類二七七トンであったが、四三年には、それぞれノリ一億七、一三八万枚、真珠一万五、三四一トン、ハマチ類三、〇二三トンと、いずれも大幅に生産量を増やしている。
 昭和三七年には、第一次沿岸漁業構造改善事業が実施され、また、三六年には、県立水産試験場においてハマチの養殖試験に取り組み、城辺町の業者や明浜漁協などでも先駆的にハマチの養殖事業を開始するなど、このころから、新しい本県漁業の変革への動きが見られ始めた。

 全国植樹祭の開催

 戦時下の軍用材供出に引き続き、戦後は復興用材の乱伐が行われ、労働力不足と食糧増産優先のため伐採跡地の植栽が放任され、山林は著しく荒廃していた。昭和二三年の県資料によると、伐採跡地の要植林面積は三万九、〇〇〇ヘクタールもあり、さらに年々の伐採面積三、〇〇〇ヘクタールを合わせ見て、植伐均衡に到達するには至難の状況であった。
 そのため、戦後の経済復興の重要課題として国土緑化事業が推進されることとなり、県では、二四年「造林五か年計画」を樹立し伐採跡地の一掃に乗りだした。続いて、二五年緑化思想普及のため中央の国土緑化推進委員会、県の緑化推進委員会がそれぞれ設置され、以来同委員会が中心になって国土緑化運動が展開されてきた。全国植樹祭はその主要な行事として、第一回が二五年、山梨県で開催され、天皇・皇后両陛下の御出席が恒例となっている。
 本県では、四一年四月一七日、第一七回全国植樹祭が天皇・皇后両陛下の行幸啓を迎ぎ、瀬戸内海を望む石鎚連峰のふもと温泉郡久谷村大久保(現松山市)において盛大に開催された。この行事のスローガン〝戦争で荒れはてた山河を緑でいっぱいに〟という願いをこめて、早朝から約一万三、〇〇〇人の参加者が会場に集まった。
 この日両陛下は午前九時五五分お泊所の道後「ふなや」を御出発、午前一一時一〇分植栽地に御到着、会場を埋めた参加者の万歳を受けられた。その後、寒風と霧雨の中にもかかわらず、両陛下はお元気なクワさばきで久松知事らの御介添により、スギの若苗三本ずっをお手植えされた。続いて、参加者全員で一〇ヘクタールの山林にスギ・ヒノキ三万本を植樹し大会は終了した。両陛下は、この後砥部町を経て、お手まき行事会場の県立果樹試験場に午後二時二七分御到着、松尾県緑化推進委員長、成瀬県山林種苗農業協同組合長の御介添えで、スギ、クロマツ、アカマツの種子を四平方メートルずつお手まきになられた。一三年ぶりに御来県の両陛下は、一八日、一九日は南予地方を、二〇日は東予地方を御視察になり、国鉄伊予西条駅で最後の奉迎を受けられ、お召列車で香川県へお立ちになられた。

表3-39 天皇・皇后両陛下行幸啓御日程

表3-39 天皇・皇后両陛下行幸啓御日程