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愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)

3 行政組織・機構

 部の変遷

都道府県の部制について定める地方自治法の規定は、制定以来しばしば改正された。昭和二二年一二月の第一次改正においては、道府県に置く「部」は、七部(総務・民生・教育・経済・土木・衛生・農地の各部)と法定していた。二三年七月教育委員会制度が発足し、教育部が知事の所管から外れたので、六部となったが、労働部を必要とする場合は、条例で設置することが認められ、本県では二三年二月、労働部設置条例を制定して七部の体制であった。二六年地方公共団体の行政簡素化について論議が起こり、同年九月、行政簡素化本部が政府に設置され、さらに二七年地方行政簡素化方針が閣議決定されるなど、地方行政の改革がとり上げられた。これらを受けて昭和二七年八月、地方自治法が大幅に改正されたが、この改正中部制について従来一律に法定していたものを、都道府県の条例で定めることとし、法はその基準を示すこととなった。この改正によると、本県の場合六部制の県に相当し、部の増減については内閣総理大臣に届け出ることによりその幅が認められていたので、従来通り七部制として二八年一月三一日、「愛媛県部制条例」を制定した。これが今日の県部制条例の始まりである。
 講和条約発効後、国際社会への復帰に伴い経済活動も活発化し、行政需要は次第に高まりつつあった。こうした中にあって、県行政の総合調整並びに総合開発計画の推進を図るため、二七年七月、知事に直属する三課制の「企画室」を設置し、副知事を室長に充て、同年八月には部長に相当する次長を配置した。従って昭和二八年における県庁機構は一室・七部・四四課であった。

 地方事務所の変遷

戦時体制下の統制機能強化の必要性から、官制により設置されていた支庁・地方事務所は、本県では宇和支庁(宇和島市)と温泉(松山市)、越智(今治市)、西条(西条市)、宇摩(三島町)、上浮穴(久万町)、伊予(郡中町)、喜多(大洲町)、西宇和(八幡浜市)、東宇和(宇和町)の九地方事務所であった。昭和二一年一二月宇和支庁を廃止して、北宇和(宇和島市)、南宇和(御荘町)の両事務所を設置し、地方自治法制定とともに同法に定める地方事務所に移行した。二三年七月西条地方事務所が新居(西条市)、周桑(丹原町)両地方事務所に分かれ、県下回一郡にそれぞれ一つの地方事務所が設置された。その後、町村合併が進展し市町村の規模も大きくなり、かつその行政能力も著しく向上したので、県と市町村の中間的総合行政機関としての地方事務所を廃止し、もっぱら県行政を強力に推進するため、縦割の行政機関として三〇年一〇月一日から、財務、福祉、農林、耕地の各事務所が、おおむね地方事務所所在の地に置かれ、一三年間にわたり、県民から親しまれてきた地方事務所の名称が消えた。

 副知事制度の廃止・復活と機構改革

昭和二八年九月二九日、議員提案による「副知事を置かない条例」が県議会において可決された。しかし、この条例は、公布されないまま、当事者たる副知事羽藤栄市の二九年二月二七日辞任と相まって、同年三月三一日、「さきに可決されていた条例と、この条例の施行期日を同年三月三一日に改める条例」が同時に公布され、県行政組織上副知事は置かないこととなった。
 そもそも、副知事を置かない条例の提案理由として、県機構並びに運営の合理化を図るためのものとされていたため、必然的に県のすべての機構についても同様の検討が進められた。二九年四月一日、部については地方自治法に定める六部(総務・民生・衛生・商工労働・農林水産・土木の各部)に改められ、同年六月企画室も総務部内に移された。また、知事部局以外の教育委員会をはじめとする外局にあっても、二八年以降、それぞれ機構の合理化が行われた。
 昭和三〇年九月一日「副知事を置かない条例を廃止する条例」が制定され、副知事制度が復活した。たまたま、財政再建問題とも関連し、本庁・出先機関の機構整備が行われ、併せて職員定数条例も改正、条例人員三五〇人が削減され、実質二五〇人に及ぶ行政整理が実施された。
 翌三一年ころから行政事務も多様化、複雑化の傾向がみえ各部間相互の連絡調整や施策の統一的運営を図る必要が生じた。このことは全国的傾向でもあり、人口二五〇万人以下の府県で、知事公室あるいは企画室という名のもとにこれらの業務を実施するものが、三一年四月時で二五府県を数えるにいたった。本県においても三一年四月一日部制条例を改正して知事公室を加え、部に相当するものとし、その下に秘書文書課及び企画広報課を置いた。各県の機構が再び膨張化しつつある傾向を警戒してか、政府においては三一年六月、地方自治法の改正に当たり当該条項を改正、部の増減については、届け出制を改め、内閣総理大臣に対し事前協議を要することとした。また現に基準を超えているものについても、この際協議を必要とし、不調の場合は三二年三月三一日までに減少の措置を講じなければならないこととした。本県は協議不調のため、条例を改正、知事公室を廃止して知事に直属する知事室とし、四月一日から従前の六部制とし、三七年度まで同様の機構を続けた。

 人事委員会・電気局の発足

地方公務員の身分取り扱いに関する法律である地方公務員法は、地方自治法とともに制定されるべきであったが、長年の官公吏制度から近代的公務員制度への転換ということと、当時の労働問題などの関係もあり、政府はその制定に時間を要し、二五年一二月一三日ようやく公布された。この法律に規定する人事委員会は、人事行政について給与・任用・服務など一定の規範をつくり、職員の身分を保障する必置の執行機関であって、二六年六月に発足した。委員には木原鉄之助(弁護士)、松本伊織(元朝鮮道知事)、押方敬一(会社社長)の三人が選任された。事務局長は委員長である木原鉄之助が兼任し、管理・人材・審査の三課を置き、業務が開始された。
 戦後急速に進められた我が国の工業化は、当初そのエネルギーを石炭と水力に求めた。本県においても河川の総合開発が進められ、多目的ダムの建設とともに電気事業が開始され、逐次工業用水道事業、土地造成事業、病院事業と進展していった。二八年七月一日公営企業としての愛媛県電気局(局長大野唯糊)が松山市の旧県立図書館内(松山市二番町)に設置され、銅山川発電所も一〇月から発電を開始した。その後三一年一〇月には、医療事業も行うことにより、公営事業局と名称を改め、内部組織も総務・電気・建設の三課制から管理室・電力部(電気課・建設課)及び医療部(病院課)と組織充実が図られた。また、出先機構として銅山川発電所、肱川発電建設事務所、中央・今治・三島・南宇和の四病院と新居浜療養所を設置し、職員数も発足時の一三二人から五八〇人と充実するにいたった(機構図は、『愛媛県史』資料編現代付録「愛媛県行政機構の変遷」参照)。