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愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)

3 主要選挙の動向

 知事・県議会議員選挙(昭和二六・三〇年)

 昭和二六年の知事選挙は、県政史上重要な意義を持つ選挙であった。
 それは、この後二〇年間続く久松県政の始まりであると同時に、保守の側にとっては二三年の県教育委員選挙以来、二五年の参議院議員選挙、県教育委員選挙と続いた敗北に、さらに失点を加える選挙となったからである。敗因は保守陣営の内紛と分裂にあった。この選挙は当初三つ巴戦といわれ、結果は明確に予測し難かったが、選挙戦が中盤から終盤へと移るにつれて青木重臣の敗色は濃厚となり、佐々木長治の当選が取り沙汰されるようになった。しかし開票の結果は地道な運動を続けていた久松定武が浮上し、形勢は逆転した。
 選挙戦の跡を郡市別の得票数でみると表3-25に示すとおり、県下は南北に二分され、南予を本拠とする佐々木、東予を基盤とする久松、そして中予は松山市と温泉郡が久松に、伊予郡と上浮穴郡が佐々木へと分かれている。とりわけ大票田の松山市と温泉郡で圧倒的強みをみせたことも久松側の勝因につながった。①県下を二分する選挙であったこと、②久松が南予で敗れたこと、③次点との票数が僅差であったことなど、この選挙は後の三八年知事選挙とよく似ているが、頼みとする県都松山市で敗れた後者の方が、より一層深刻な危機感を久松陣営に与えたことであろう。二六年知事選挙では、また非常に高い投票率を示しているが、これは県議会議員選挙との同日選挙によるものである。
 三〇年一月の知事選挙は、完全な保革対決、しかも現職知事と前副知事の争いという形で展開した。選挙の結果は一五万三、〇〇〇余票の大差で久松候補の当選となり、久松は東中南予と県都松山市で完勝し、羽藤候補が久松候補より得票数の多かったのは、出身地付近と革新色の強い東予の一部郡市に過ぎなかった。
 次に、同じく県の選挙であるもう一つの県議会議員選挙については、二六年四月に戦後第二回の統一地方選挙が行われている。この選挙では定数が二人増加されて五三人となり、これに対する立候補者数は一一二人、投票率は戦後最高の八八・七%(全国八三・〇%)を示し、この選挙でも保守系議員の圧倒的多数の当選が目立った。
 三〇年の県議会議員選挙では、保革の勢力分野そのものに大きな変化はなかったものの、定数の二分の一を超える二七人の新旧交替がなされている。

 お殿様票訴訟

 久松知事は旧伊予松山藩主の家柄、県民のあいだでは「お殿様」、「殿さん」の別称で通っていた。
 昭和二六年一月一二日付けの愛媛新聞をみると、「参議院議員久松定武氏―というよりもお殿様というほうがお似合いになる」とか「愛媛県の地図を背にして煙草をユラユラくゆらせながら、お殿様は出馬の弁とまがう意見を吐露された」などの記事がみえる。また、知事選挙後間もない五月二一日付けの同紙にも「久松県政のすべりだしは上々だとの評が高い。……お殿様ということで少々危ぶまれていた考えが見直されたらしい」、「お殿様が接戦のうえとはいえ知事に選ばれたのは……」等々、ここでも「お殿様」という言葉が頻りに登場してくる。選挙前、地方で開かれた懇談会に「せめてお殿様のお顔を一度でも」と老人達が詰めかけた話は『愛媛県政二十年』(今井瑠璃男著)にも書かれている。
 二六年四月の知事選挙で久松知事が初めて当選したとき、南予の選挙人から当選無効の異議申立が出された。申立人の主張によると、久松候補の得票中には「お殿様」「殿さん」などと書かれた投票(お殿様票)が五、〇〇〇ないし一万票もあって、これは公職選挙法第六八条並びに憲法第一四条の規定に照らすと無効であるから、当落は逆転し佐々木候補を当選人とすべきものであるというにあった。
 問題点は二つあった。一つは「お殿様」と書かれた投票の効力について、もう一つはそうした投票が果たして次点との差二、六四一票を超えて存在するかどうかという点であった。
 前者については昭和二五年三月一五日付け山形県選挙管理委員会あて全国選挙管理委員会局長回答が出されていた。それは山形県新庄市長選挙に立候補した旧藩主戸沢正巳に関する事例で、回答は通称化した「戸沢殿様」、「殿様」、「藩主」いずれも他に混同するものがないときは有効であるとしていた。
 県選挙管理委員会では数次にわたり委員会を開いて検討し、自治庁などとも打ち合わせた上、二六年六月六日「お殿様」票を有効と決定し、申立を棄却した。
 六月二一日、この決定を不服とする申立人は高松高等裁判所に提訴した。
 高松高等裁判所では投票効力の判定を後回しにして、「お殿様」票の数の確認から始めた。投票の検証は一一月一四、一五の両日、三人の判事が出張して東予方面の町村から行われたが、問題の「お殿様」票は宇摩郡、伊予郡、上浮穴郡と松山市の一部から数票現れたのみで、このため全県下の投票点検を行っても当落逆転の見込みはないと判断した原告側は、一五日訴えの取り下げを申し出、久松知事の当選はこの日をもって確定した。
 この年、全国的に選挙争訟の提起が多く、本県でも県選挙管理委員会に対する訴願や異議申立は二十数件を数えたが、ほとんどは却下ないし棄却され、主張の通ったものはほんの一部にしか過ぎなかった。(表3‐27)
 二六年七月二三日付けの愛媛新聞も「多すぎる選挙の異議」と題する社説を掲げ、その中で「それらのなかには極めて枝葉末節的な事柄を公職選挙法の僅かな手がかりに付会させて、選挙の効力や当選の効力そのものを無理に覆そうと試みているものがあるようである。」と述べ、民主主義社会にあっても権利の行使には慎重であるべきことを指摘していた。

 衆・参両院議員選挙

「抜き打ち解散」(憲法第七条)による第二三回衆議院議員総選挙は昭和二七年一〇月一日に行われた。
 平和条約発効後、初めての選挙であり、当選者の顔ぶれのなかには多数の公職追放解除者が含まれていた。本県でも砂田重政・武知勇記・今松治郎・菅太郎といった戦前の政治家・高級官僚がこの選挙で初めて戦後の舞台に登場してきた。しかし、中央における吉田、鳩山両者の確執は抜き差しならぬ内紛に発展し、この選挙の結果もわずか二〇〇日で終わり、「バカヤロー解散」(憲法第六九条)によって二八年四月一九日執行の衆議院議員総選挙の幕は切って落とされたのである。
 二八年の総選挙では、第一回帝国議会以来連続当選二五回、憲政の神様といわれた尾崎咢堂(本名行雄)が落選したのをはじめ、全国的に戦前派の落選が目立った。本県でも砂田、今松、菅の三人がこの選挙で落選している。選挙の結果は全体的にみると保守が後退し、革新の進出が目立った。本県の場合も革新は三選挙区においてそれぞれ議席を確保し、しかも三人揃って最高点で当選するという圧勝ぶりであった。
 三〇年総選挙では、前回落選した追放解除組の三人は見事に雪辱を果たしたものの、現職の武知勇記郵政大臣が落選するという大番狂わせを演じた。
 この選挙で革新勢力は衆議院議員定数の三分の一を確保した。一方、保守の側にあっては鳩山ブームに乗りながら民主党(鳩山)は衆議院において過半数を制することができず、自由党もまた一一二人の第二党へと転落したため、保守合同による長期安定政権実現への動きが急速に具体化し、昭和三〇年(一九五五)一二月一五日新しく自由民主党の結成となった。いわゆる「五五年体制」のスタートである。
 次の衆議院議員総選挙は昭和三三年五月、岸内閣のもとで行われた。
 この選挙は「話合い解散」とか「争点なき選挙」と呼ばれて低調が噂され、自治庁も選挙人の出足いかんをかなり懸念していたが、結局それは杞憂に終わり、投票率は戦後の最高を記録した。三年三か月ぶりの総選挙であったことと、婦人の選挙に対する関心の高まり、選挙管理委員会による常時啓発への地道な努力が実を結んだものといえよう。選挙の結果は本県の場合、革新が三議席中の二議席を失い、保革の勢力比は二七年総選挙当時のパターン八対一に逆戻りした。
 次にもう一つの国政選挙である参議院議員選挙については、昭和二八年と同三一年に行われ、激戦を演じたが地方区選出では二八年に革新の湯山勇、三一年には保守の堀本宜実がそれぞれ当選している。

表3-25 昭和26年愛媛県知事選挙得票

表3-25 昭和26年愛媛県知事選挙得票


表3-26 昭和30年愛媛県知事選挙得票

表3-26 昭和30年愛媛県知事選挙得票


表3-27 選挙関係争訟件数調

表3-27 選挙関係争訟件数調