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愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)

2 一九五五年体制と県政界

 保守合同と社会党の統一

 昭和三〇年一〇月東京では、社会党の分裂後四年ぶりに左右両派統一大会が行われ、鈴木委員長、浅沼書記長などが選任された。一方保守の側でも、一一月に保守合同が成り、自由民主党を結成、鳩山・緒方ら四人の総裁代行及び岸幹事長らのスタッフが選ばれ、ここに戦後型の保守・革新二大政党時代を画する「一九五五年体制」(五五年体制)がスタートした。
 本県でもこれに呼応し、三一年一月八日県内左右両派社会党統一大会が開かれ、会長に三橋八次郎、副会長に高橋節太・田中佳、書記長に中村時雄、選対委員長に湯山勇らが選ばれた。続いて一〇日、自由民主党県支部連合会の結成大会が開かれた。もともと昭和二七年以降自由党→県政同志会→県政クラブと県議会では一本化し、当面久松県政与党としての結束に揺るぎはなく、保守合同はスムーズに行われた。会長に砂田重政、副会長に井原岸高(常任)・西田唯次・吉井保一、幹事長に白石春樹、議員会長に森永富茂、政調会長に八木徹雄、総務会長に沖喜与市が選ばれたが、とりわけ青木県政以来の旧自由党系の井原、砂田の縁戚で民主党系ホープの八木、まとめ役中間派として実力衆に抜きん出た白石のトリオが、与党主流派の三本柱といえるものであった。
 三一年の参議院議員選愛媛地方区では、社会党が三橋八次郎、自民党が堀本宜美を擁立して五五年体制下の保革決戦となったが、堀本は三万三、〇〇〇余票の差で見事にカムバックを果たした。勝因は自民党の組織が逐次整い、党活動が軌道に乗ってきたためといえる。
 第二次久松県政で白形光蕾は県公営事業局次長に就任したが、三二年銅山川分水問題で徳島県への協力費支払約束の独断専行を追及されて失脚、県政の舞台から去っていった。同年一二月自民党県連会長砂田重政が急死、翌年二月の同党大会で堀本宜美が会長に、副会長に近藤広仲(常任)・沖喜与市・森永富茂、幹事長に川口満義、総務会長に西田唯次、政調会長に原田改三らが選任され、三三年五月の総選挙には二区の越智茂・砂田重政の後継者にそれぞれ井原岸高・八木徹雄と有力県議が転進することとなった。

 副知事制度復活

 第二次久松県政発足早々、知事の副知事制度復活への一貫した姿勢に、赤字財政克服のための機構改革、人員整理など強力な行政への緊急度が加わり、時期尚早の筋論を制して副知事制度復活案が県政クラブの大勢となり、廃止後早くも一年五か月振りに三〇年八月の県議会において、野党の労働組合員を動員したピケ作戦、缶詰作戦も空しく、混乱のさなか副知事を置かない条例を廃止する条例案は県政クラブのみで八月三一日可決された。九月四日副知事制度は復活し副知事に戒田敬之が選任され、同時に出納長野村馬、総務部長松友孟が発令された。
 三四年の知事選挙は三選を期する現職久松定武と社会党三橋八次郎との一騎打ちとなった。三橋は三一年参議院選挙で苦杯を喫し捲土重来の戦いであったが、結果は久松四一万余票、三橋二五万余票と一五万票の大差で久松が三選された。勝因は自民党県連が勤評騒動以来の歴戦で飛躍的に足腰が強くなっていたこと、それに久松の知名度と教育正常化に対する保守の懸命な努力を県民が評価したことなどによるものとみられる。