データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)

7 町村合併

 町村合併促進法施行前の合併

 昭和二〇年八月の終戦から二五年末にかけて、本県では一件の町村合併も実現していない。むしろ分離・分村の時期であった。二三年四月には南宇和郡内海村が内海村と南内海村とに分離し、その一部は御荘町に編入されている。湾を隔てて相対し、海上交通を主とする不便さを解消したものであった。
 同じ年、地方自治法の一部改正によって戦時中合併した町村の復元問題が起こり、その騒ぎが二六年一月、肱川村から河辺村が分離するまで続いた。そうしたなかで二四年シャウプ博士が来日し、その勧告において初めて町村合併の問題に触れ、これに基づき設置された地方行政調査委員会議の勧告(昭和二五・一二・二五)は、弱小町村の統合推進を取り上げ、それがきっかけとなって昭和の大合併が動き始めたのである。
 昭和二六年一月一三日、自治庁では各都道府県知事あて町村合併推進に関する通達を発したが、四月統一地方選挙直前のことでもあり、早急の成果は望むべくもなかった。ただ、本県では同年四月一日、戦後における合併第一号として温泉郡北条町(現北条市)の誕生をみている。この合併は、関係町村の自主的発意に基づき行われたもので、地方自治法附則第二条による分離騒ぎの後だけに一般からの注目を浴び、合併手法の鮮やかさとともにその後における本県合併の推進に先駆的貢献をした。
 県の合併計画に対する本格的な取り組みは二六年後半から始まった。東宇和郡宇和町や南宇和郡城辺町を中心に、合併気運の起こったのもこのころで、県は、まずこうした動きのあるところから積極的に指導助言して、全県的な気運醸成に持ちこもうと考えていた。しかし、統一地方選挙直後のことでもあり、合併推進のための障害除去には立法措置にまたなければならない面も多く、事実その推進は遅々としてはかどらなかった。
 二七年八月、地方自治法の一部改正が行われ、知事に全県的な市町村合併計画の策定と合併勧告権が与えられ、町村にも規模の合理化が義務づけられることとなった。そうしたなかで同年九月城辺町と緑僧都村との合併、二八年五月には垣生村外三か村の新居浜市編入が実現している。
 一方、町村合併の推進に特別立法の必要性が強く要望され、自治庁(現自治省)においても法案の作成に着手していたが最終的には全国町村会、全国町村議会議長会も加わって調整が行われ、参議院に議員提案、衆・参両院で可決成立のあと昭和二八年九月一日町村合併促進法として公布、一〇月一日から施行された。

 町村合併の推進

 町村合併促進法は町村合併推進のための障害除去と勧奨的措置について規定していた。
 町村合併促進法が施行されると、県は、直ちに町村合併推進本部(会長副知事、のち総務部長)を設け、また新しく設置された町村合併促進審議会の委員一五人を委嘱して、本格的な合併推進体制を整えた。
 一方、町村側においても合併推進についての認識は次第に高まり、二九年一月二〇日県民館で開かれた町村合併促進大講演会(県主催・青木自治政務次官、自治庁係官など出席)には町村長、町村議会議長など一、五〇〇人が集まり、あふれるような熱気のもと熱心に聴講した。講演会が終わってからこの会は、町村側の提唱で町村合併促進大会に切り替えられ、町村合併を強力に推進する旨の決議宣言を行っている。
 二月、県では前年末までに実施した実態調査に基づき、地方事務所長などから個別に事情を聴取、合併計画の策定作業に取り掛かった。合併計画策定の基本構想としては、国の基本計画を参考に人口おおむね一万人を目途として地勢、交通、産業その他社会的・経済的諸条件を考慮、特に合併後の一体性確保に配慮しつつ、三〇余に及ぶ項目を設定して検討が行われた。このようにして出来上がったものが第一次の合併計画案で、これによると二二八町村中合併不能町村(合併計画から除外した町村と解するのが適当)七、合併後の市町村数一〇市五六町村、減少予定町村一七二となっていた。この案はこの後、数次の検討を経て若干の変更が加えられ県の合併計画となったのである。町村合併は地方事務所を第一線として活発に進められ、二九年二月には温泉郡興居島村の松山市編入をはじめ五月、一〇月と県下各地に合併市町村が誕生し、二九年度末までの減少町村は二二を数えた。
 合併は、この後、三〇・三一年度と推進され、町村合併促進法の失効する三一年九月末までに四市が誕生し、一五〇町村の減少をみている。この時、本県の合併進捗率は県の計画に対して八七%(全国平均八九%)、国の計画に対しては一〇四%(全国平均九八%)であった。その他町村の規模などについては表3-23のとおりである。
 このようにして本県の合併は、表面的には極めて順調に推移したかに見えるが、合併は長い歴史を持つ我が町、我が村の廃止を伴うものであるから、利害の対立や自己の側の立場を有利にするための駆け引きなどもからんで、役場の位置や名称の決定、財産の処分、赤字処理、人事問題などをめぐって議論が沸騰し、徹宵論議しても決まらず、合併は決裂寸前の状態に追い込まれることもしばしばであった。また、議会は開かれてもどちらの町村が先に合併議決をするかで紛糾したり、分村をめぐって役場がむしろ旗に取り囲まれたり、バスを連ねて陳情団が県庁に押しかけたり、三年間に一五〇の町村を減ずる作業は容易なものでなかった。

 町村合併の総仕上げ

 町村合併促進法失効の後を受けて、三一年一〇月一日から新市町村建設促進法(昭和二九・六・三〇公布、同日一部施行)が全面施行になった。この法律は五年間の時限立法で、その目的は町村合併促進法による合併の総仕上げにあった。
 法律が施行されると、県では「新市町村建設促進審議会」を設置し、新しく委員二〇人を委嘱するとともに、①未合併町村の合併推進②県境合併の処理③境界変更の解決④新市町村の建設育成の四つを重点に町村合併の総仕上げに取り掛かった。当時未合併町村の数は全国で一、〇〇〇余、本県においても二六を数えていた。これらの要合併町村(二段合併のところを含む)に対しては自治庁の方針に従い、三二年一月から三月にかけて知事名をもって合併勧告を行い、その推進を促している。
 そうしたなかで、三二年後半越智郡生名村の県境合併が慌ただしい様相を呈してきた。生名村では、すでに三一年九月広島県因島市との合併議決を行い、県に申請書を提出していたが、県は県の合併計画に合致しないとして受付を拒否、問題は国へと持ち込まれていた。もともとこの問題は、因島市が生名村との合併に強い関心を持ち、生名村もまた住民の六割が因島市日立造船と関係がある上に、労働組合の働き掛けなどもあって積極化したものであった。三二年六月、自治庁調査官の現地視察、漁民による県境合併反対の海上デモ、その直後における生名村議会の残留議決、さらにそれを覆そうとする動きも加わって、事態は激しい攻防の輪となって展開し、県もその対応に追われた。しかしこの問題も最後には、一二月因島市及び生名村双方からの申請書取り下げをもって終結し、県は折り返し残されていた町村合併に伴う境界変更の処理に取り掛かった。町村合併に伴う境界変更は、当初から数えて二八件にも達していたが、県としては合併協議の際、円満話し合いのつくものは合併と同時に解決し、争いのあるものは合併成立後に処理する方針をとった。時限法下における合併推進を支障なく行うためにはやむを得ない措置であった。このようにして、当時なお未解決であった境界変更九件については、新市町村建設促進審議会委員のあっせん調停に付し、三三年後半にはそのすべての処理を終わっている。当初から通算して分離の実現したもの一五件、分離中止ないしは分離の実現しなかったもの一三件であった。
 昭和三三年一二月、自治庁は「町村合併最終処理方針」を決定、各都道府県知事あて通達した。本県でもこれに基づき三四年二月自治庁と協議して、未合併町村を①町村合併の必要性が特に顕著なもの(三ブロック、八未合併町村)、②町村合併の方向を示し合併の実現に期待するもの(ニブロック、二未合併町村)、③合併不可能町村または適正規模に準ずるもの(三町村)に分類、合併計画を変更して町村合併の最終処理に臨んだ。
 この後、県は未合併地区①、②に重点をおいて合併の推進を図ったが、三六年六月末、新市町村建設促進法の失効とともに、自治庁は合併計画に基づく町村合併の推進を打ち切った。このとき県下の市町村数は、昭和二八年一〇月一日の時点から五市を増、一六三町村の減によって一一市六五町村となっていた。また、町村合併計画の推進という観点からすると要合併町村とされた①の分類において、なお三か村の未合併を残していたが、このあと三八年五月西中島村の合併を最後に①の合併すべてを完了した。昭和三〇年代後半から四〇年代にかけて日本経済は高度成長期に入ることとなるが、町村合併によって拡大された自治体の行財政能力が、その体制づくりに大きく貢献した事実は否定できないであろう。
(註)市町村ごとの合併年月日及び合併関係市町村名について『愛媛県史資料編現代』を参照されたい。

表3-23 町村規模の変化

表3-23 町村規模の変化


表3-24 町村合併による年度別減少町村数

表3-24 町村合併による年度別減少町村数