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愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)

5 県民生活の安定と新生活運動

 社会福祉事業の進展

 生活保護制度が定着して昭和二七年以降被保護者数は漸減し、二八年以降は三万人台となった。しかし基準増額と医療扶助の累増、特に結核・精神病の長期入院を抱えて、医療費総額は二六年から三〇年の間に三億三、〇〇〇万円へ倍増し、総扶助額の半分を占めることとなった。本県の保護率は三三年、千分比で二五・四と四国の他の三県とともに全国平均(二一・三)よりも高かった。県内では、南予と松山市が高く東予が一般に低い。保護寸前のボーダーライン層への防貧対策として三〇年から世帯更生、三二年から医療費貸付の両資金貸付制度が始められた。福祉施策の窓も広くなり、昭和三二年売春防止法の施行により婦人相談員三人を設置、また、松山市には県婦人相談所及び婦人保護施設の県立さつき寮も設けられ、県婦人対策保護協議会(三八年設立)の審議に沿って売春防止や更生指導を進めた。当時の赤線業者一、一二四人、従業婦二、五四五人のうち正常な生活に復した推定数は約半分、他は接客婦などやや不透明な転身がみられる。結核のアフターケアとして三三年新居浜市に設置の県立新居浜後保護指導所は、当初結核回復者が主であったが、後に他の内部障害者も加わり、生活及び職業訓練(電気、洋裁など)を実施し、一〇年間で三五四人が社会復帰した。
 県では、児童相談所直属の専門ケースワーカー児童福祉司(七~一二人)を二七年に配置しているが、児童問題は昭和二三年ころには教育相談の増加とともに身体障害・精神薄弱など特殊児童対策が新たに登場した。二七年身障児の補装具交付、育成医療などの新制度が始動、二八年には全国七番目を誇る先進的施設として肢体不自由児施設の愛媛整肢療護園(定数八〇人)が今治市に完成、県内の巡回検診と並行して早期治療、療育指導のセンターとなった。ほぼ同時期に精薄児施策の具体化に迫られ、二九年県立八幡浜学園(定員四〇人)が精薄児収容施設の先導的役割を担って設けられ、四四年には六施設定数四一〇人にいたるワンステップとなった。精薄対策はその後特殊学級・養護学校へと教育面に大きく羽ばたくことになる。また保育所事業が昭和二三年の五六か所から二五年には三一六か所、措置児童一九、六五四人と急速に伸びたのはなぜか。施設は大半が公立で、保育所事業は市町村が最も力点を置く福祉事業(国費八割負担)であり、同時に時代の教育熱に応じた幼稚園教育に代わる効用も否定できない。県も昭和二八年県立保育専門学校を設立し、年間五〇人の保母養成に努めることとなった。
 一般児童の健全育成では、久松県政に特異なものとしてVYS(有志青年社会事業家)運動がある。当時県民生部長松友孟の創案に基づき、青年の熱と力を社会福祉推進に燃やそうとする運動で二七年に創始、数年のうちに一六~三〇歳未満の高校生、青年団など若者の熱と意気に燃えて無償の奉仕を目指す五、〇〇〇人の大運動となった。この施策を中心に県の児童行政は積極的に展開し、三〇年半ばでVYSがつくり出した子供クラブ六〇〇、母親クラブ一四〇を数え、不良化防止、遊園地管理、育児、しつけの指導などに当たった。母子世帯援護は、二八年母子福祉資金の貸し付けに関する法の施行を契機に伸展、年間三、〇〇〇万円の貸し付け、一八人の母子相談員の設置、母子福祉会の強化育成などが進められた。特に母子世帯の最大の関心事である子弟の教育には二八~三三年までの間で総資金三、二一六万円のうち一、六六一万円を修学資金が占め、一、二八五万円が生業資金などとなっており、母子世帯子弟の就職時の身元保証制度(知事が保証人)も県独自の制度で発足した。

 新生活運動

 戦後、日本再建の小さな槌音のなかから全国各地に「村おこし」、「町おこし」の運動が起こり、それらは総称して「新生活運動」とも呼ばれていた。こうした動きに対し一つの方向づけを与え、それを国民運動として展開していくきっかけをつくったものが、昭和三〇年九月鳩山首相により提唱された「新生活運動協会」の結成であった。
 「新生活運動」とは、生活の合理化、民主化、近代化を目指す生活刷新運動のことである。当時、鳩山首相は各界・各団体の代表、学識経験者などおよそ一五〇人を総理官邸に招き協力を要請しているが、そのあいさつの中で「新生活運動は、あくまで国民自らがその盛り上がる意思と創意により実践を通じて日常生活をより合理的、文化的、道義的に高め、もって個人の福祉を増進するとともに、協同連帯の精神を基調として、健全にして住みよい社会を作らんとする新日本建設の積極的な運動であらねばならぬ」と述べている。
 第二次久松県政は、選挙公約において新しく「県風の確立」を取り上げた。それには、まず生活を改善し、因習を打破し、道義の高揚を図る。そこから新しい愛媛の県風も生まれてくる。こうして新生活運動は県政の基本政策のなかに組み込まれ、推進されることとなった。
 本県の「新生活運動」は、最初「食生活の改善」からはじまった。これは広範囲にわたる新生活運動の推進が網羅的になるのを避け、県民すべての日常生活に最も関係の深い食生活の改善に的を絞り、そこから諸活動を誘導し、運動の実効をあげようとするものであった。中央に新生活運動協会が発足した翌一〇月、県では愛媛県食生活改善運動推進協議会を設立した。この協議会は当初、県庁における関係部課で構成し、副知事を会長としていたが、三五年度からは婦人四団体(県婦人連合会、県農協婦人部協議会、県漁協婦人部連合会、県母子福祉連合会)、県公民館連絡協議会の加盟、愛媛新聞社の協力によって一層充実した県民運動の展開が期待されることとなった。
 運動は、町内会・公民館などに設けられた生活改善グループを実践団体として行われ、県の協議会はこれを助成する形をとった。県の行った活動を概括すると次のようになる。
 第一段階(第二次・第三次久松県政の時代)
  新生活運動の中心は、専ら食生活の改善に重点が置かれ、生活学校の開設、指導者の委嘱と講習、キッチンカーの巡回による料理講習や啓発、モデル地区の育成その他。
 第二段階(第四次・第五次久松県政の時代)
  協議会の名称「愛媛県食生活改善運動推進協議会」が「愛媛県生活運動推進協議会」に 改められ、①住みよい社会、②明るい健康な家庭づくり、③美しい環境づくりの三つを目 標に掲げ運動が展開され た。これに四〇年ころから県土美化運動が加わった。生活学校 の開設やキッチンカーの巡回など前期と同様。
 第三段階(第一次~第四次白石県政の時代)
  第二段階の三つの目標に、④としてコミュニティづくりが加わる。愛媛県生活運動推進 協議会は「愛媛県コミュニティ推進協議会」と改称され(五三年)、中央団体にあっては 「新生活運動とは新しいコミュニティ形成を目指す住民運動である」との答申を受けて運 動方法を検討、五七年新生活運動協会は「あしたの日本をつくる会」と改称された。これ ら運動の具体的な推進にあたって、県はリーダーの養成や派遣、モデル地区の指定、生活 学校の開設、キッチンカーによる移動料理講習や資料の刊行配付による一般啓発等を行っ た。県が特に力を入れたのはキッチンカーによる活動で、大型モデル車一台のほかライト バン一五台を購入して各支部ごとに配備、三八年度の如きは、県下の走行キロ数八万四、 〇〇〇キロ(地球二周)、参加人員五万五、〇〇〇人、また生活学校の開校も一〇九、修 了者は五、八〇〇人に及んでいる。

 生活環境の改善

 昭和二〇年代半ば日本経済は回復期に入り、同二五年には衣料のキップ制も廃止された。一人当たり実質国民所得も、二七年には戦前(昭和九~一〇年)の水準に回復し、住居・被服に問題はあったが、昭和三〇年代に入り戦後は一応終わり、新しい時代を迎えたといえる。
 生活環境の向上を示す端的な指標は人間の生死と健康状態である。昭和二二年には、死亡数二二、一五三人で千分比一五・二であったが、三三年になると千分比八・二、さらに三四年には八に低下している。従来死因の大宗を占めた乳幼児死亡率も、昭和二五年に比し二七年には千分比四二と減った。死亡率の減少は防疫と医療、生活環境改善などによる死産減少、受胎調節の普及などが主因とみられた。死因も老衰のほか中枢神経血管損傷・ガンなどの成人病が早くも上位を占め、かつて死因の頂点にあった結核や肺炎は五位以下に落ちた。このころから、戦後第二の近代化に通じる生活革命の徴候がぼつぼつ姿を見せはじめている。
 生活環境改善の顕著な事例は法定伝染病の激減である。発生・死亡共に昭和二九年には二〇%以下、人口一○万対比の致命率も、二八年一〇・七と二五年の半分以下となった。死亡率も二〇年と比べ、五分の一以下の九・七に下がり、二九年以降、患者数は一、〇〇〇人台に低迷し、病種は赤痢が八割位を占めるのが特徴であった。また、予防接種は大きな威力を発揮し、痘瘡九万人、腸チフス四二万人もの接種が毎年行われ、ジフテリヤ七万人の接種は全国第二位の著効指数を示した。三〇年そ族(ネズミ)昆虫駆除事務の市町村移管を機に、蚊とハエのいない生活実践運動が展開され、二万人の県民が動員された。特に農作物保護と衛生環境改善を兼ねて行われた南北宇和郡辺地の野そ退治は、全国的に有名になった。食品衛生面でも二七年に行商、三〇年に豆腐製造業の関係条例が制定されて、紙芝居・氷菓子・鮮魚・豆腐にまで細かく監視の眼が光った。この時期、本県は一般に医師不足の時代で、一五保健所の医師数もわずか二五人で充実とはいい難い状況にあった。看護婦数も県の最低基準である二、八三八人に対し、実働一、二一二人とほぼ二分の一で増員が急がれ、三四年県立高等看護学校が設立された。保健婦の不足はさらに著しく、医療職員の充足は多年にわたる懸案となった。当時の特異な現象としては、螟虫防除に著効のあった有機燐製剤(パラチオン)の中毒問題があった。二九年、県内の散布事故は一五七件(死亡五)、他殺六件(死亡四)、自殺三二件(全員死亡)と死亡数の多さは社会問題となり、三〇年から個人所有を禁止し、厳重な管理体制をとるよう法律改正が行われた。また、集団給食や修学旅行での食中毒が多発し、旅行に携行缶詰食糧が奨励されたのもこのころのことである。
 上下水道、特に上水道は、環境衛生や生活改善の啓発をうけ、都市化に目覚めた地域の強い要望を反映して、昭和二〇年代後半あたりから布設が活発化した。二〇年代においては上水道施設数五、普及率九・二%(全国三四・八%)、給水人口一二万五、〇〇〇人に過ぎなかった県下の水道も、三三年三月末になると施設数で一般水道一二、簡易水道三五五、専用水道三七、計四〇四、給水人口六四万人、普及率四一・五%(全国四一%)と全国平均を上回る普及ぶりをみせている。
 これは、この間松山・今治・宇和島の戦災三市、新居浜市のほか保内・三瓶・丹原の中位の町に新増設があったこと、また、南海地震に基づく海岸、島しょ部などにおける地盤沈下対策簡易水道(建設省所管)並びに防疫対策簡易水道(厚生省所管)事業に県単補助も加えて、事業が活発に推進されたことによるものである。
 下水道の普及は、全県で一〇%以下という低率であったが、工業汚水や都市汚水の河川放流による農水産物への影響、上水道水源汚染の懸念などがようやく問題化するようになったのは、昭和三三年ころからのことである。この年新下水道法が公布され、松山市では、県下で初めて公共下水道の布設に着手している。し尿処理は当面は自家処理の浄化槽が奨励され、三二年に七七二、三三年に八四二と設置されたが、その後は爆発的に増え続けた。ごみ焼却炉は当時七市に一三施設が設置されていたが、西条市など四市は未設置で、増大するごみの処分は、やがて都市の政治問題となった。
 都市計画の進展、さらに三〇年代以降の車社会に応じた市民の憩いや、スポーツの場としての公園、子供の遊び場などへの要望が強くなり、戦災三市と新居浜市などでは野球場を織り込んだ運動公園が整備され、児童公園、緑地、墓地などの公共施設整備事業が進められた。

 結核・風土病対策

 戦前、終戦直後結核は、国民死因の第一位を占め、その対策は、保健衛生行政上最も力の注がれたところであるが、特に戦後、衣食住の欠乏による国民生活水準の低下は、結核蔓延に拍車をかける兆しを見せ、その対策が急がれた。昭和二二年、GHQの「結核対策強化に関する覚書」に基づき、伝染病届出規則に医師が結核患者を発見したときの届出を義務づけ、二三年には予防接種法にBCGの予防接種を義務づけるなど、伝染予防を主眼とする対策が講ぜられた。さらに二四年以降、結核予防週間を復活させ、結核予防思想の普及宣伝に努めるなど住民に対する啓蒙活動にも力が注がれた。県では二五年に、結核予防会愛媛県支部と共同して「結核撲滅五か年計画」を立て、市町村・学校・事業所の協力のもと、集団検診、BCG予防接種の実施を強力に推進した。特にレントゲン車による検診の成果は目覚ましく、二七年には、レントゲン車を二台増置することにより、学校関係の検診率はほぼ一〇〇%に達した。
 昭和二六年四月結核予防法が制定されて以来、従前の伝染病予防主眼に代わり、早期治療のための健康診断、予防接種の徹底、感染源管理の強化、医療費の一部公費負担制度開設など順次総合的な結核対策が進められた。その結果表3-22に見られるように、二六年以降新患者数は逐年減少の傾向を示し、死亡者数は激減した。このことは、二四年以来ストレプトマイシンなどの抗結核剤の使用をはじめとする化学療法の著しい進歩と外科療法の開発も効果があったものといえる。
 二七年にはこれまで死亡原因第一位であった結核死亡が第四位となった。しかしながら、患者発生数は、死亡者数に見られるような著しい減少は示さず、さらに検診業務の充実と療養施設の増強が望まれるところであった。県は二六年一一月、愛媛県立新居浜療養所の設置及び管理に関する条例を制定し、諸準備を進めて、二八年一月二八日からその診療業務を開始した。当初は一五〇床の規模であったが、逐年整備を図り、昭和三〇年一二月には、三二六床に増床するとともに県下各病院の結核病棟の整備にも力を入れた。
 県下で最大の結核療養所群は、温泉郡重信町の傷夷軍人愛媛療養所などであったが、戦後一般患者も迎え国立愛媛療養所へ改組、二六年隣接の国立翠松園を統合して敷地一〇万坪、一、〇三〇床を擁する県下最大の基幹病院となった。なお同年北宇和郡泉村(現広見町)の国立出目療養所(一九〇床)が独立した。国立愛媛療養所は三〇年二〇〇人の待機患者を残す一、〇三三人をピークに入院患者が急減を続け、四二年には六〇〇人を割り一般病院化の道を歩んだ。
 県は結核予防会愛媛県支部に対しても援助を行い、国立愛媛療養所の協力を得て、同支部は健康相談所を併設し、集団検診の実施と健康相談事業を開始し、結核対策の一翼を担うこととなった。また、三四年以降結核対策推進地区を設け、伊予・大洲・宇和・野村・壬生川の五保健所を指定してレントゲン器械、レントゲン車を整備するなど検診体制を強化し、発見から治療・入院など一貫して行うシステムを確立した。翌三五年には三島保健所など五保健所を、続いて三六年には残りの保健所を指定し、県下すべての地区にわたり同様の措置がとられた。これにより、患者管理の集中化が行われ、同時に保健婦による効果的家庭訪問並びに家族内の感染防止など適切な指導が行われ、結核対策の基礎が定着するに至った。
 古くから県の風土病として、肺ジストマ症(肺吸虫症)とフィラリア症(糸状虫症)があるが、その実態は長らく不明であった。肺ジストマ症については、昭和二七年から大阪大学医学部に実態調査を依頼し、本格的調査に入った。翌二八年には、近永病院(現県立北宇和病院)をモデル病院に指定し、卯之町(のち宇和)・野村・宇和島・岩松の各保健所がこれに協力し臨床研究が行われ、さらに集団検診による陽性者の発見とその実態把握に努めた。三一年には千葉大学の援助を得て濃厚汚染地域住民に対する総合調査を行い、その実態がさらに明らかとなるにつれ、その中間宿主である「川がに」の撲滅を進める一方、住民に対する啓蒙活動を行った。また、九州大学の協力も得て調査の強化を図り、かつ臨床治療の充実・治療方法の確立などにより、ようやく撲滅への曙光を見い出し、以後着々とその実効を挙げた。フィラリア症については、昭和三三年以降西宇和郡佐田岬半島における各地区の保虫者を対象に、治療薬の投与と感染対策を進めるとともに媒介蚊駆除の徹底を期し、地域駆除に成功を収めた。このような地域的規模で駆除を可能にした例証は、我が国でも初めてのものとして高く評価された。この成果をふまえ、県下の対象地域全般にわたり対処したため、四〇年には県内の保虫者は二人となり、フィラリア症は一応撲滅した。この事業については、県予防課(課長波多野精美)を窓口に、東京大学伝染病研究所、愛媛大学理学部、県医師会並びに陸上自衛隊の協力によるところが大きかった。
 また小児マヒは幼少児童の心身を損なう病気として恐れられてきたが、三六年県では独自の小児マヒ対策として三~一〇歳まで約三〇万人に対し、生ワクチンの無料投与に踏み切り新規患者絶滅への道が開けた。

 失業対策・職業補導の強化

 終戦直後の失業者数を正確にとらえることは困難であるが、昭和二一年四月愛媛県勤労課調べによると、求職しても就職口の無い者約一万人、日雇いあるいはブローカーを常職とする者三、三〇〇余人、これを副業とする者二、九〇〇余人、一時的に無職で三か月以内に就職希望の者約五、六〇〇人、求人側の都合による無職者約二、七〇〇人で、身体障害者の無職一、七〇〇余人を除くと約三万人の失業者の実態がほぼ明らかとなった。同二二年一〇月の臨時国勢調査で一万四、七五三人の顕在失業者の存在が判明、二二年から失業保険法、失業手当法の施行により失業を国家が保障する仕組みが初めて制度化した。二四年度には県下で受給資格者一万五四一人、一億一、〇〇〇万円を超える失業保険金が交付された。二三年でも常雇いでは求職六、九〇〇人に対し就職は三、八〇〇人と六割に満たず、繊維・鉄鋼・炭鉱への就労が目立った。ドッジ不況で危機的に落ち込んだ二五年度初頭の二万二、〇〇〇余人にのぼる失業者(年度区分で新規学校卒業生を含むとみられる。歴年区分による二四年一二月までの年間離職者受付数は一万三、六四四人=以下この数字で対比)は特需景気で奇跡的に吸収され、二六年には八、七九〇人に激減、二七~八年には一万人前後を示し、三三年には一万五、〇〇〇人となっていた。国勢調査の完全失業者数では、三〇年の一万三、一九三人から三五年の五、六二二人への激減ぶりは、本県も経済成長の波に乗ったことを示すもので、昭和四〇~五〇年代以後はベースとなる総人口の増加によって増勢を示し、五〇年に二万人を超え、五五年には二万一、八六八人を数えた。
 緊急失業対策事業法に基づく失対事業は、大恐慌の昭和七年以来一八年ぶりに二五年一月から実施され、この年、県営五、市営七で一〇〇か所、延べ約四二万人、一日六五〇人の公共職業安定所(職安)登録者が就労雇用された。当初は救済保護色が強かったが、三〇年ころから地域経済の発展に寄与する雇用政策の一環として、特別失対事業では道路舗装や架橋など高度化した面もあった。三〇年には松山市のほか二〇か町村、一日一、七九一人と事業拡大の一面、失対就労が固定化し、職安窓口のあぶれ現象が日常化し世間の注目を集めた。失対労務者は三五年二月の登録者四、一五七人をピークに漸減、四六年五月制定された「中高年齢者などの雇用の促進に関する特別措置法」による、七〇歳頭打ち制度で新規登録はストップし、六二年三月に二二五人を数えるのみとなり、失対事業は消滅への道を歩みはじめた。
 昭和二一年ころ職安行政は失業の大波との闘いにおおわらわであった。市町村や学区ごとに失業者勤労組合を組織させ、簡易な土木作業に従事させたり、知識階級救済のため県市など官公署の事務、技術の臨時雇いに一年間約二〇〇人を雇用し、順次適職に斡旋したりした。さらに大阪・兵庫・福岡など県外の求人開拓にも努め就職移住を促進した。一方、GHQの強い要請で、公共事業への失業者吸収が積極的に図られ、二三年には公共事業の総労務者延べ二四九万七、〇〇〇人余、一日九、三〇〇人余のうち職安紹介者は延ベ一万人、一日六七五人に上った。また二一年から建築・木工・機械各工の技能速成(六か月)の県立職業補導所が四か所設置された。このほか共同作業場を四〇か所新設、また、特別共同作業場三か所の補助新設を図り、失業者を就労させた。補導所は当初一〇職種から新設改廃を経て、二五年、松山(理美容のちブロック建築、経理事務)、今治(木工、織布、縫製)、新居浜(板金、溶接)の七職種の職業補導所に定着、三三年には専修職業訓練所と改称された。当初は失業救済色が強かったが、次第に産業界の要請する技能者養成施設へ変容し、定数二三五人、七職種で、三二年末までに約二、〇〇〇人の訓練生を送り出した。昭和三六年には松山に労働省系の愛媛総合高等職業訓練校が設けられ、自動車・通信関連など高度の職業訓練が実施されている。現在、職安行政は県商工労働部職業安定課が県下七公共職業安定所を所管して行っている。

 自治体警察制度と警察法改正

 自治体警察制度は、戦後における改革の中でも重要なものの一つであったが、いろいろと国情に適さない面が多く、設置町村ではその対策に苦慮した。
 主な理由としては、①小規模自治体にとって財政的に負担過重、②少人数による警察機能の低下、③人事交流の停滞と士気の低下、などが挙げられていた。
 これらの理由のなかで町村が最も困惑したのは財源不足の問題で、発足に伴う初度調弁費はもとより、一般経常費すら全額補填される建前のものでなかったため、六・三制による校舎建築と重なって、設置町村の財政は四苦八苦の状態に追いこまれた。
 二四年三月、首相官邸で全国町村会・各都道府県会長と閣僚との懇談会が行われたが、席上町村側からこの問題を持ち出して善処方を要望し、続いて六月の全国町村会定期大会では制度検討の決議がなされた。
 こうしたなかで六月、福島県平市において警察署が占拠され、赤旗が立つという騒ぎが起こり、これをきっかけに福島県知事は、自治体警察返上を政府に要望、八月の全国知事会にもこの問題が持ち出された。これについて、青木知事は帰松後、「警察制度の改正は、町村財政が極度に窮乏している折柄、また一般治安維持の上からも是非必要だと考える。少なくとも市以下の自治体警察を廃止し、国家警察とすることは会議に出席した全知事の要望であり、この点に関し政府側と意見の交換を行った。」と語っている。
 同じころ、周桑郡壬生川町(現東予市)では、県下の町村議会として初めて自治体警察返上を満場一致議決した。理由は、財政問題もさることながら、その能力に不安があるというのであった。
 こうして、自治体警察返上の気運は益々高まりをみせていったが、二五年になると朝鮮戦争の勃発でGHQの態度は一変した。占領政策の転換である。
 昭和二六年六月、警察法の一部改正が行われ、町村は住民投票で自治体警察の存廃を決めることができるようになった。法律が施行されると、自治体警察設置町村では相次いで投票が行われ、本県でも九月末でその全部の廃止が決定した。全国的な状況では、発足当時一、三八六町村に置かれていた自治体警察の七四%がこのとき廃止されている。
 一〇月一日、廃止町村の自治体警察はすべて国家地方警察に編入され、県下の警察署はこれより新「警察法」の施行されるまで国家地方警察と六市の自治体警察時代に入ることとなった。
 その当時、中央では政令諮問委員会の答申により設置された地方制度調査会で、講和条約発効後における地方自治の進むべき方向が検討されつつあった。地方制度調査会の答申は二八年一〇月一六日に行われたが、そのなかで新しい警察制度については、「国の地方警察と市町村警察の制度を改めて、府県及び大都市単位の自治体警察を置く」とされており、これを受げて制定されたのが、昭和二九年二月一日公布の新「警察法」であった。
 法律施行の七月一日、国家地方警察と自治体警察は廃止され、新しく「愛媛県警察」が誕生した。
 愛媛県警察は、警察本部に総務、会計、警務、教養、刑事、防犯、鑑識、警備、警ら交通の九課が設けられ、警察学校と一八署、定員一、五七二人(内警察官一、三三〇人)で出発した。

 新警察法は、第一条に「民生的理念を基調とする警察の管轄と運営を保障し、且つ能率的にその任務を遂行するに足る警察の組織を定めることを目的とする」と規定している。図3-5は新警察制度の組織図である。
 全体としての警察機構は、中央と地方の二本建てとされ、それぞれ国家公安委員会と都道府県公安委員会管理のもとにおかれているが、中央にあっては地方に対する首脳部の人事権と指揮監督権を掌握してこれをコントロールできる立場にあり、そうした意味では、都道府県警察は自治体警察でありながら同時に国家的性格も兼ね備えているということができよう。

表3-22 結核新患者発生状況並びに死亡状況

表3-22 結核新患者発生状況並びに死亡状況


図3-5 新警察制度組織図

図3-5 新警察制度組織図