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愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)

3 道前道後平野水利事業の推進

 虹の用水

 本県の道前道後平野農業水利事業は、太平洋に注ぐ仁淀川(高知県)の水を四国山脈を越えて、寡雨地帯である瀬戸内に導き、水不足に悩む道前道後の人々に恵みの水を供給する意味で、外洋と内海を結ぶ虹の架げ橋であり、よく「東の夢の用水」と言われる愛知用水に対し、「西の虹の用水」と呼ばれるゆえんである。
 松山平野(道後平野)は、昔から干害に悩み、昭和九年・一四年の大干ばつによって大きな痛手を受けた。昭和一五年、道後平野干害絶滅期成同盟会が結成され、これが道前道後平野農業水利事業の国・県合同調査組織をつくる素地となった。道前平野の周桑地域も、昔から穀倉地帯として有名であるが、やはり寡雨地帯であり、四~五年に一回は相当の干ばつに見舞われるのが通例であった。
 昭和二六年七月の定例県議会において、沖喜与市県議は「面河渓谷の関門を封じて、石鎚山麓に人造湖を造り、面河川の水を重信川に落とし、電源開発と農業用水の確保を図れ」と画期的な問題提起をし、これが道前道後平野水利開発事業を起こす引き金となった。
 県では国へ調査を要望する一方、面河ダムを核とする総合開発計画で事業を進めることとなり、二八年七月、道前道後平野農業水利改良事業促進同盟会連合協議会が結成され、三一年に道前道後水利開発連合会と名称を改めた。その後、三五年の本工事着工まで、十数回にわたる波状陳情や地元誘導など側面からの支援体制の役割を果たし、この事業完成の大きな礎石となった。

 計画の概要

 国営かんがい排水事業は、法制上は農民からの申請によって行われるものであるが、現実には国と農民との間にあって、終始県が事業推進のけん引車となり、これに市町村長、農民代表が一体となり、国会議員・県議会議員などの支援を得て推進されたのである。しかしその原動力となったのは多年にわたる農民の悲願であり、その願望をいち早くくみとって、むしろ農民を誘導する形で進めていった、当時の指導者の優れた先見性と熱意と実行力にあったことを忘れてはならない。事業推進の経過の概要をたどると、次のとおりである。
 昭和二八年七月 道前道後平野関係二市二九町村は農民の同意を得て、農林大臣あての、「国営土地改良事業施行予備審査申請」を知事に提出した。添付された計画書の概要は、「面河ダムを建設して、道前道後平野一二、三三八・一㌶の受益耕地に三、二一四・八万立方㍍を補給水として送水する。関連事業は発電・上水道用水とする」となっていた。
 昭和三四年二月 農林大臣は専門家による調査結果や効果・適性を認めた報告書の提出を受け、事業計画の公告・縦覧の手続き後、同年七月三一日付け、公告の日をもって事業計画を確保した。
 事業を進める上で難問の一つは土地改良区の設立であったが、道前・道後それぞれに土地改良区を作り、その上に総合調整・管理の機能を持つ連合組織を置く構想で、関係者の並々ならぬ努力が実り、三五年一二月、道前道後土地改良区連合会(理事長・白石春樹)の設立が認可され、国営事業の推進に大きな役割を果たすこととなった。

 水没補償と分水交渉

 水利開発事業の重要かつ困難な問題には、面河ダムの建設に伴う水没補償があった。昭和二七年六月以降、県と地元との交渉は頻繁に行われ、三二年四月には岡山農地事務局長が来県し、直接、笠方地区住民との話し合いが行われた。農林省からは三三年五月第一次案、続いて六月第二次案として総額二億円余の補償額が提示されたが、交渉は非常に難航が予想されたので、道前道後水利開発連合会があっせん調整に努めるとともに、最終的には久松知事に一任して中央折衝を行い、政治的解決を図ることとなった。
 その後、県幹部の粘り強い努力で、笠方地区の水没者総会は全員が村長に白紙委任、村長はさらに知事に白紙一任を申し出た。三三年一〇月農林省との間に補償大綱を取り決め、次いで知事室で交渉妥結の調印式が行われた。最終的には、個人補償金二億八、八〇〇万円、その上に県から協力感謝料として四、〇〇〇万円が支払われることとなった。二七年から六年間、さまざまな迂余曲折はあったがようやく交渉は妥結し、事業は大きく一歩前進したのである。この事業のもう一つの大きな問題は、高知県との分水交渉であった。水利開発に伴い、せき止める仁淀川の下流既得水利権者である高知県の同意が当然必要であって、二県にまたがるこの交渉は二七年五月愛媛県から羽藤副知事が、翌二八年一月には久松知事が高知県知事を訪問し、協力を要請、その後、三〇年高知県関係町村と土地改良区及び仁淀川関係漁業協同組合によって、仁淀川分水問題対策委員会が発足した。同年一〇月には、同対策委員会の一行が来県、愛媛県知事や関係者と懇談するなどようやく両県間の往来は激しくなった。
 その後、三一年四月高知県が、仁淀川分水に伴う影響調査と仁淀川下流沿岸農業水利改良事業計画の農林大臣への補助金要請について、本県の協力を求めてきた。さらに、五月高知県議会農林委員会の一行が来県して戒田副知事と懇談し、両県が共存共栄の立場で両県の事業を総合開発事業として、同時に進めていくことで了解しあった。次いで六月、東京で両県知事と岡山農地事務局長の三者会談が行われ、次のような基本事項を申し合わせた。
 (一)、ダム地点での取水は、最大渇水時毎秒〇・八立方㍍を限度とする。愛媛はこれ以上の取水はしないし、高知は、この限度においてのみ、分水を承認する。
 (二)、愛媛県側での用水配分は、道後平野に重点を置く。
 (三)、高知県側に対する補償方法は、可及的すみやかに立案する。
 (四)、発電計画については、さらに調査を進める。
 昭和三一年六月二〇日両県代表による仁淀川開発協議会が設立され、八月中央へ合同陳情を行った。翌三二年六月には愛媛県議会議長白石春樹が仁淀川開発協議会の会長に選ばれ、両県が協力して両県の開発を進
めることを確認した。三三年二月、同協議会が松山で開かれ、高知県に対する補償問題を全面的に進めていくことが話し合われた。
 こうして仁淀川分水交渉は、いよいよ核心部分に触れることとなり、三四年三月農林省の第二次案補償金一億五、〇〇〇万円、協力感謝料六、〇〇〇万円が示されたが、高知県はさらにプラス・アルフアを要求したため、白石愛媛県議会水利対策委員長と仮谷高知県議会議長とが精力的に話し合いを進めた結果、六月二五日この問題は、包み金三〇〇万円とすることで解決した。高知県は七月一日の仁淀川流域開発委員会で農林省が提示した二億一、〇〇〇万円の補償額を基本的に了承し、三五年一〇月両県及び国と高知県との覚書調印が行われた。

 交渉妥結から完成へ

 昭和三二年度国の予算に、事業費五、一七二万円が内定し、工事着工が認められ農業水利の事業費も決定したので、農林大臣は三四年二月、土地改良法による確定公告を行った。愛媛県においても、二月県議会で、国営事業に対する農民負担の割合を一五%とする県条例案が可決制定された。同年には、水没補償金の支払いと工事用道路の建設が順調に進み、三五年には念願の高知県との分水交渉も妥結、すべての障害を乗り越え、関係者はもとより、関係住民が夢にまで見た面河ダムの起工式が行われたのは三五年一〇月一二日であった。続いて三六年工業用水道事業、翌三七年には発電事業が正式認可になり、面河ダムの工事と併せて、事業は急ピッチで進んだ。四〇年四月四日面河ダムの竣工式が行われ、次いで農林省は、四二年九月一九日農林省道前道後平野農業水利事業竣工式を挙行した。同年は西日本一帯深刻な干天続きであったが、道前道後平野は、黄金の稲穂が波打つ豊作の年となった。
 その後、附帯事業としての県営事業は、四四年度で完了。四五年一〇月一四日温泉郡川内町で道前道後水利総合開発事業竣工式が行われ、久松県政最大の開発プロジェクトの本事業は見事完成の日を迎えた。ここにこの用水は水不足の根本的解決に大きく寄与し、加えて地下水かん養など両平野の産業・生活発展の基礎を築いた。
 〔事業の概要〕
① 面河ダム 堤高七三・五㍍ 堤体積一九万立方㍍ 有効貯水量二、六八〇万立方㍍ 工事費約八七億円
  昭和三五年一〇月着工、四〇年四月完成。
② 農業水利 道前道後両平野一万三、一九八㌶の水田、山麓果樹園地へ年間三、二〇〇万方立㍍の農業用水を供給。
③ 発電 ダムより導水途中の落差四七二㍍を利用して三か所で発電、最大出力二万五、一〇〇キロワット。
④ 工業用水 松山・松前地区臨海工業地帯帝人・東レへ日量一〇万六、〇〇〇立方㍍の工業用水を供給。

図3-4 道前道後平野農業水利事業計画概要

図3-4 道前道後平野農業水利事業計画概要


表3-21 総事業費(共同施設日振り分け)

表3-21 総事業費(共同施設日振り分け)