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愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)

1 愛媛の地位

 昭和二〇年頃

 昭和二〇年八月一五日、戦災による我が国の国富被害六五三億円(二〇年八月の公定価格水準による直接・間接被害の計)、人的被害二五三万人(銃後人口被害六七万人、軍人軍属の戦死傷・行方不明一八六万人)及び海外領土の喪失をもって、太平洋戦争は終結した。
 本県においても惨状は全く同じで、主要な都市は空襲にさらされ、その被害は空襲による銃後人口のみで、三、五六五人(死亡・重軽傷・行方不明の計)を数えた。
 加えて、海外からの大量引き揚げによる人口の急増、失業、インフレの進行などにより、終戦の混乱はその極に達し、戦時中から引き続いての食糧不足で、一、○○○万人餓死説すら噂され、県民にとって食糧の確保は何よりも深刻な課題であった。
 終戦直後のこうした異常な環境からスタートして、最近年次までの県民生活、社会、経済など統計尺度を通して、本県の地位(規模・水準・比重・変化など)を確認してみると次のようである(表3-14参照)。
 昭和二〇年の本県人口は一三六万人(全国七、二〇〇万人)である。戦前(昭和一〇年ころ)の県人口がおおむね一一〇万人台であることを考慮すると、この数字は終戦直前から始まった大都市圏よりの流入(疎開)、直後の復員などによる急激な増加とみることができる。この年、県の人口構造には国と同様に、死亡率(三一・四‰)が出生率(二七‰)を上回るという異常現象が見られた(通常の年は、出生率が死亡率の二倍程度)。
 なお、県人口の高齢性は戦前よりのもので、この年六六歳以上の人口は六・七%(全国五・三%)で、死亡率や離姻率も全国平均より高い。
 経済産業の分野を見ると、二二年の県の事業所数は六万八、〇〇〇か所、就業者数約六〇万人であった。これらはそれぞれ全国の一・九%、一・八%の比重を持つ。いま、事業所密度を県民の雇用・就業確率とみなすと、たとえば県人口千人当たりの事業所数は四六・七(全国四三・八%)となる。このとき、県の産業構造(就業者による)は、第一次産業六〇%、第二次、第三次産業がともに二〇%。これらの就業者が県人口に占める割合は四三・八%であった。
 このころの県農業は、擬似的就業者(他産業の潰滅による潜在的失業者)を大量に吸収しており、農家人口が県人口の五七%を占めていた。農業生産県(農家数や農業就業者数が全国の二%以上の比重を持つ)でもある県農業は、別の面として零細性(五反未満経営農家の割合約六割―全国四割)があり、農業機械の普及では、県農家百戸当たり七台(全国一八台)である。これは、当然県の自然地形、耕作品種などとも関連している。
 工業(製造業)は終戦の年、その製造業従事者数二万四、〇〇〇人、製造業出荷額など二億五、八〇〇万円(名目)で、国への比重は一%にも満たないし、製造業の粗生産性も全国平均の七割程度に過ぎない。このときの工業の体質、すなわち県の重化学工業化率は五七・一%(全国七六・八%)である。
 この時代(二二年)、県の労働者の賃金水準(常用労働者現金給与月額、名目)は一、五六八円で、賃金格差は全国の七八%に当たっている。
 県民生活の面では、住宅事情は(県内都市の空襲による破壊焼失があったが)、二一年でなお住宅数一八万戸を数え、これは全国住宅数の二%強に当たる。このときの県人口が全国人口の一・八九%であるから、一住宅当たり人口は七・五人(全国八・一人)となり、全国平均に比べてゆとりをみせている。なお二〇年には、県内で一万二、六〇〇戸の住宅の新設着工が見られる。
 県内の道路事情は、総延長約一万三、〇〇〇キロメートル(全国比一・五%)、うち自動車交通可能道路はわずか六・四%しかない。二三年の、この道路などを含む生活基盤や産業基盤への投資、すなわち県内公共工事の評価額は一〇億六、五〇〇万円で、人口一人当たりの投資額は七一九円(全国七三〇円)と算出される。
 一方、本県財政(県・市町村の計)は、人口一人当たりでみて、二二年の歳出額は一、一六二円、その負担としての地方税額四三九円で、ともに全国平均の九割程度である。このとき、歳出額に占める地方税額の比率は三八%となる。
 県の医療・衛生水準(二一年)は、医師数が人口一〇万人当たり九一・五人(全国平均一一四人)、県民の体位(一七歳男子の身長)は一五七・八㎝、また地域の衛生水準の指標となる乳児死亡率(出生数に対する乳児死亡数)は七五・三‰を示めす。このうち、戦前(昭和一二年)同年齢の身長が一六二・六㎝であったことを想起すると、体位の面でも戦争の影を色濃く表わしている。
 県民の安全にかかわる警察官数は一、四二五人で、警察官一人当たりの人口負担は約一、〇〇〇人(全国平均六五二人)となっている。

 昭和二〇年から二五年頃

 昭和二五年ころを中心とした本県の社会・経済・生活の状況を考察し、併せて二〇年からの推移に触れることとする。
 「食べること」の確保から出発した戦後の国(県)民生活は、激しいインフレと「ヤミ市」「タケノコ生活」などの語に象徴され、労働市場には多数の復員者や海外からの引揚者があふれ、産業の十分な稼動は望むべくもなかった。
 このような極限的な生活も、二五年に勃発した朝鮮戦争による特需景気が「てこ」となって、我が国の経済、国民生活は、急速に改善され同年の経済白書では、戦前(昭和九~一一年)を一〇〇として、鉱工業生産で九四、農林水産業一〇〇、人口一二〇、生活水準八二、一人当たり国民所得(実質)九〇と試算しており、かなり戦前の姿に近づいてきたことが分かる。
 本県人口は、二〇年以降も引き続き増加をみせ、二五年に一五二万人(一一%増、全国一六%増)となる。これは大都市圏からの流入や海外からの引揚・復員がなお続いていることによる。しかし二〇年当時みられた異常な人口的諸係数もようやく落ち着きをみせはじめ、死亡率は一一‰と大幅に減少し、婚姻率も八・六‰となる。ただ出生率は二二年から二四年ころまでのベビーブームがあり、なお三〇‰を示していた。
 県の経済は二六年、その規模(県民純生産)約七〇〇億円(名目)で国経済の一・四三%を分担する。このときの県民の所得水準(一人当たり純生産)は四万四、三〇〇円で、国との所得格差は七七%が計測されている。この県経済の規模と水準の基礎となった県産業は次のとおりである。
 二六年の県内事業所数は五万一、〇〇〇か所で全国の一・六%にあたる。この事業所数の多少は県内雇用機会のそれと直結し、この観点から県内人口千人当たりの事業所数に換算すると、三三・七事業所となる(全国三八・七)。このとき(二五年)の県就業者数は二二年に比し、第二次産業で八、三〇〇人、第三次産業で三万九、三〇〇人の増加があり、合計六四万二、〇〇〇人(八%増)となる。その賃金水準(常用労働者現金給与月額・名目)は八、五〇六円であるが、全国との賃金水準比は八八%(二二年は七八%)で格差の平準化が進行している。
 農業部門では、二五年県の農家数一四万六、〇〇〇戸、農家人口八五万六、〇〇〇人で、二一年に比しそれぞれ一〇%の増加である。しかし両者ともこの二五年をピークとして、ともに減少に向かうこととなる。農業生産手段としての農業機械の普及度は、県内農家のうち二六三戸にトラクター、ハンドトラクター、動力耕耘機の使用が見られ、農家千戸に対し二戸(全国五戸)の割合である。このとき畜力(牛・馬)を使用する県の農家は一〇万戸、全農家の約七〇%が畜力への依存である(全国七五%)。
 工業(製造業)部門では、製造業従事者七万二、六〇〇人、これは二〇年当時の約三倍(全国一・五倍)に当たる。製造業出荷額等(名目)は四八四億円、従って県製造業の粗生産性(従事者一人当たり出荷額)は六七万円と計出される。以上の諸計測値は、県工業がこの五か年間に、国よりも著しく伸展したことを示唆している。
 商業(二七年の調査)は、商店数(飲食店を除く、以下同じ)一万九、六〇〇店、その従事者数四万三、〇〇〇人を数える。従って、県商業の水準は、一商店当たりでみて、従事者数二・二人(全国二・六人)、販売額(月)二〇万五、〇〇〇円(全国五七万円)を示す。また生活の利便さの指標ともなる人口千人当たり商店数は、一二・九店(全国一四・二店)である。
 以上の県内産業活動や県民の家庭生活で使用されるエネルギーのうち、電灯・電力需要量は年間六億四、四〇〇万KWH(全国の二・四%の比重)、一人当たり需要量(消費量)では四二三KWH(全国三一八KWH)を示す。この県と全国との差は、主として両者の産業体質(構造)の違いによる。
 次に県の社会環境や県民生活を計測することとする。住宅数(二五年調査)は二〇年に比し六割増の二九万八、〇〇〇戸となり、そのうち持ち家が七〇%(全国六四%)、この年の新設住宅の着工は、県内で四、〇〇〇戸となっている。生活基盤(道路、上下水道、教育、病院、住宅など)を含む公共工事着工高(総評価額)は約一〇億四、〇〇〇万円で、県人口一人当たりに引き直すと六八五円となる(全国平均七七六円で格差八八%)。
 県の情報サービス関連指標として、郵便物利用についてみると、県民一人当たり年間二四通(全国三八通)、電話加入台数は千人当たり九台(全国一六台)でその水準はかなり低位にある。
 現代社会では民間部門とともに、公的部門(国や県市町村)の活動が大きい比重を占め、この公的部門は税の徴収や公債の発行による財源で、警察・消防・教育、福祉などによるサービスの提供と道路・公園・上下水道などの社会資本の整備が行われている。本県の地方財政(県と市町村の計)は、人口一人当たりにして歳出額六、七一一円、地方税額(県税と市町村税の計)一、四〇四円となり、ともに全国比較では地方税の負担において大きな格差がみられる。このため歳出額対地方税の比率も二〇・九%と、全国平均の三〇・五%よりかなり低くなっている。
 文化・教育の面では、新聞配布部数の人口百人当たり全国平均三二部に対し、本県は一九部、公共図書館の蔵書数は全国平均一一冊、本県は八冊である。県の小・中学校教員(本務教員)一人当たりの受け持ち児童・生徒数は三一・五人で、全国平均の三三・一人よりも負担が軽い。
 衛生、医療水準では、本県医師数は人口一〇万人当たり九二・六人、これは二〇年当時とほぼ同じで、全国平均一二四・八人に比しその格差は七四%となる。県民の体位水準(一七歳・男子の平均身長)は全国平均より少し低い。しかし地域の衛生水準を示すといわれる乳児死亡率(出生数に占める乳児死亡数の比)は五七・九‰と二〇年当時よりも著しく改善され、また全国平均よりも良好である。
 県民生活の安全を示す指標としての警察官(二五年当時は自治体警察)数は七八四人、すなわち警察官一人が県民一、九四一人を担当することとなる(全国平均は一、一六九人)。反面、県内の犯罪発生(刑法犯罪認知件数)数は人口千人当たり年間一七件(全国一七・七件)となっている。
 なお、この年(昭和二五年)の県民の消費水準(家計消費支出月額)は一万一、三〇〇円で全国平均に比し九四%、またエンゲル係数も五八・六%で、なお食料費の重い負担からは解放されていない。

表3-14 昭和20年(終戦直後)ころの愛媛の地位 その1

表3-14 昭和20年(終戦直後)ころの愛媛の地位 その1


表3-14 昭和20年(終戦直後)ころの愛媛の地位 その2

表3-14 昭和20年(終戦直後)ころの愛媛の地位 その2


表3-15 昭和25年ころの愛媛の地位(付・昭和20年からの推移)その1

表3-15 昭和25年ころの愛媛の地位(付・昭和20年からの推移)その1


表3-15 昭和25年ころの愛媛の地位(付・昭和20年からの推移)その2

表3-15 昭和25年ころの愛媛の地位(付・昭和20年からの推移)その2


表3-15 昭和25年ころの愛媛の地位(付・昭和20年からの推移)その3

表3-15 昭和25年ころの愛媛の地位(付・昭和20年からの推移)その3


表3-15 昭和25年ころの愛媛の地位(付・昭和20年からの推移)その4

表3-15 昭和25年ころの愛媛の地位(付・昭和20年からの推移)その4