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愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)

2 主要選挙の動向

 地方公共団体の選挙(昭和二二・二三年)

 昭和二二年四月には衆・参両院議員選挙のほか都道府県会議員や知事・市町村長の選挙が相次いで行われた。いわゆる「統一地方選挙」の始まりである。統一地方選挙とは、地方公共団体の議会の議員及び長の選挙について全国的に期日を統一して行う選挙のことで、このとき行われたのがその第一回で、以後四年ごとに行われている。
 第一回の統一地方選挙は四月五日に知事・市町村長、四月三〇日に都道府県・市町村会議員について行われた。
 知事選挙では、本県の場合六人の立候補者があったが事実上は、青木重臣、加藤雄一、宮崎忠義三者の争いで(三者で有効票の九〇%を占める)、結果的には愛媛民主党の支持をうけた青木が次点の加藤を一〇万票余引き離して大勝した(表3―9・10参照)。
 続く県会議員の選挙は、補欠選挙を別として八年ぶりの選挙であり、五一人の定数に対し、一三五人が立候補し、一八の選挙区で覇を競った。結果は愛媛民主党三七人、社会党六人、自由党一人、民主農民党一人、無所属六人が当選、その当選者の全員が新人というのは全国的にも珍しいことであった。
 一方、選挙の投票率についてみると、知事選挙では七五・六%(全国七一・五%)、知事選挙としては一応まずまずというところであったが、初めて知事選に参政権を行使した女子の場合は、男子の投票率八〇%に対して七一・五%とやや低かった。それでも女子の全国平均を五%ほど上回っていたことは一応評価されてよい。また、県会議員選挙の投票率は八五・三%(全国八一・六%)、ここで目立った点は男女の投票率の近接していたことである。
 次に、県の選挙と同時に行われた市町村長、市町村会議員の選挙結果にも触れておこう。
 まず、市町村長選挙であるが、二三八市町村中「無投票」のところが八二町村、したがって投票を行ったのは六市一五〇町村で、投票市町村の競争率は市三・三倍、町村二・四倍、投票率は七六・四%(男八〇・八%、女七三・三%)であった。
 次いで市町村会議員選挙についてみると、無投票のところは二七町村、立候補者数五、四七三人、議員定数四、二四六人、投票市町村における競争率は市二・三倍、町村一・三倍であった。
 同日選挙の執行では投票用紙を色分けするとか、各別交付するとか、投票所における氏名掲示を行うなど、選挙管理の面からも色々細い工夫がなされたが、全国的に多数の無効票を出した。
 いずれも二つの選挙における候補者氏名の取り違えによるものが多かった。
 二三年一〇月五日新しい教育委員会法に基く第一回の県教育委員選挙が行われたが、六人の定数に対し当選者の上位三人が県教組推薦者により占められていたことは、保守陣営にとり少ながらぬ衝撃となった。

 衆・参両院議員選挙

 昭和二〇年一二月二〇日、GHQは、政府が二一年一月二二日と決定していた衆議院議員総選挙の期日を延期するよう指令してきた。立候補者の資格審査と公職追放を行うためである。
 二一年一月四日「公職追放に関する覚書」が出され、旧制度に関係した指導者層は選挙の舞台から締め出された。
 こうして二一年四月一〇日、戦後第一回の衆議院議員総選挙が行われたのである。この選挙には「大選挙区・制限連記制」が採用され、本県の場合県下一円を一選挙区とし、一枚の投票用紙に二人の候補者氏名を書くこととなった。これは候補者選択の自由拡大と戦災などによる全国的な人口移動が考慮されたためである。
 婦人参政権の実現や選挙年齢の引き下げによって、有権者数も昭和一七年の翼賛選挙当時に比して二・九倍(全国二・五倍)に膨れ上がっていた。それらに対応する諸準備(投票所増設・選挙関係諸規程の改正・改正法の周知徹底と棄権防止のための一般啓発など)の上、さらに公職適格審査関係の作業も加わったため、県地方課では連日多忙を極めていた。
 立候補者数は定員九人に対して三七人、新旧別では前職一人、他はすべて新人であった。
 投票は増設された四一八の投票所で行われ、二四四の開票所で開票された。投票率は七一・二%(全国七二・一%)、男女別では男七九・二%(全国七八・五%)、女六五%(全国六七%)と女子は男子より低位にあったものの、投票者数では男子より一万四、〇〇〇票余り多く、まさに「女性優位」の選挙であった。表3-11は、この選挙における党派別得票数と当選者数を示したものである。
 第二回目の衆議院議員総選挙は二二年四月二五日に行われた。この選挙は新憲法の施行に備えて新しい政治体制を整えようとするもので、批判の多かった「大選挙区・制限連記制」は「中選挙区・単記制」に改められ、それによって本県選挙区も従前の三選挙区へと復帰した(喜多郡は第一選挙区から第三選挙区へと編入替え)。この選挙における党派別得票数と当選者数は、表3-12にみるとおりである。「憲法第六九条の解散による総選挙」は、二四年一月二三日に行われた。
 新憲法施行後初めての衆議院議員総選挙で、中央においては民自党が単独で過半数を占めるという大勝利であった。本県でも九人の当選者全員が保守により占められていた(表3-13参照)。
 一方、戦後二院制の一翼を担う参議院にあっては、二二年四月にその第一回通常選挙が行われ、本県「地方区」では六年議員に久松定武、三年議員に中平常太郎がそれぞれ当選した。この選挙は三年ごとに行われたが、第二回目の二五年六月選挙では社会党の推す三橋八次郎が当選し、保守候補は六万票余りの差で苦杯を喫した。

表3-9 第1回愛媛県知事選挙得票調

表3-9 第1回愛媛県知事選挙得票調


表3-10 昭和22年4月統一選挙の執行日程

表3-10 昭和22年4月統一選挙の執行日程


表3-11 昭和21年4月 衆議院議員総選挙

表3-11 昭和21年4月 衆議院議員総選挙


表3-12 昭和22年4月 衆議院議員総選挙

表3-12 昭和22年4月 衆議院議員総選挙


表3-13 昭和24年1月 衆議院議員総選挙

表3-13 昭和24年1月 衆議院議員総選挙