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愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)

5 朝鮮戦争の勃発

 特需景気

 二四年以降冷戦の深刻化に対応するアメリカの新しい対日政策を背景にもった一挙安定政策、いわゆる「ドッジライン」は日本経済に深く浸透してインフレを収束し、統制撤廃から自由経済への軌道づくりが強行された。反面インフレ膨れの県下企業も整理期に入り、二四年度の企業整備八六件、解雇者三、四四八人、官公庁の解雇者二、〇〇〇人余を数え、計六、〇〇〇人が職を失った。失業対策事業が二五年度から始まったが当初は失業者二万二、〇〇〇人余を抱え、前年度の一万六、〇〇〇人と比べての激増ぶりは社会不安を懸念させた。この安定恐慌の暗雲を一気に吹き払ったのが二五年六月の朝鮮戦争の勃発であった。
 朝鮮戦争は、アメリカと中国が参戦しての激戦が半島で繰り返された揚げ句、二八年秋ようやく停戦した。我が国は朝鮮に出動する米軍の基地となり、軍需物資の調達や兵器の修理が日本で行われ、これに対するドル支払を「特需」と呼んだ。特需は回復途上の日本経済に起死回生の力を与えた。我が国の貿易収支は二四年には約二億ドル近い赤字であったが、二五年度には三、八〇〇万ドルの黒字となり、このほか六、二〇〇万ドルの特需収入を数えた。昭和二七~二八年度には特需収入は総輸出額の六割を超える大きさで沈滞におちいった日本経済をよみがえらせる活性剤となった。
 本県でも鉱工業生産は二五年二四%、二六年二八%と著増し、おおむね滞貨を一掃した。しかし二七年には鉱工業の二割減産、繊維の過剰設備対策など不況色が色濃く現れ、本県では特需景気の時代が過ぎ去ったことを物語る。
 狭義の特需は、本県では木材や一部船舶関係に限られていたが、朝鮮動乱を契機とした関係国の軍備拡大、輸出好況などのもたらす間接特需は本県をも潤した。総じて〝金へん・糸へん〟の偏りはあったが、本県産業の活況は目覚ましく、新居浜住友系企業の金属・機械、特に銅・アルミの需要増は設備拡大をもたらし、また今治綿業では綿布、タオルが八~九割の操業を回復、輸出を見込む関西問屋筋の思惑買いにまで発展した。農機具も滞貨を一掃して製品不足をかこち、船舶用塗料はその年八月設備能力を倍増した。製鉄原料のマンガン鉱は需要増となり、不況から一転した製紙業も自給体制を整えるため、パルプ設備の新増設が相次ぎ、労働者雇用も一挙に好転し、二五年度内の新規雇用は一万七、〇〇〇人余に達した。
 物価は七月以降一三~二〇%高騰し、金へん・糸へんの「貿易インフレ」で特需・新特需を合わせ、貿易金額が半年で倍増し、全国で一・一七億ドルに上った。二六~八年のGNPの増加はうち三八%を特需が占めるという異常な好況が続き、動乱ブームの余波の大きさが知れる。また二五年後半は動乱の刺激をてこにして、一気に自由経済体制への移行が進み、長く続いた統制経済はここで終結した。一方、農産物は新局面を迎え、野菜は前年の半値、みかんは二〇%安、魚も下落し農水産物の安値と工業生産物の高値という鋏状価格差現象が、初めて顔を出したことは注目される。

 占領政策の転換

 朝鮮戦争は、国際政治における日本の立場を激変させた。アメリカは日本を共産勢力に対抗する民主主義の砦として、断固守り抜こうとする決意を示した。これにより、東アジアの戦争に対応する日本の基地的性格が浮き彫りになり、対共産国戦略にシフトした日本再建の途が加速された。ひいては、また日本を西側同盟国化する単独講和条約締結の促進が図られることにもなった。最も目についた政策転換は、昭和二五年八月に決定された再軍備含みの警察予備隊(七万五、〇〇〇人)の創設と海上保安庁(八、〇〇〇人)の大増員であって、戦後の自衛隊の発祥となった。本県にも早々と同年一二月に松山駐屯警察予備隊九二九人が三津浜の旧県立女子師範学校跡にキャンプを張り、武装共産主義者のもくろむ政権奪取を抑止するなどの国内治安維持の任務に当たった。経済的には、占領政策上経済民主化改革の要であった賠償問題、財閥解体、過度経済力集中排除法、独占禁止法など一連の締め付け措置のなし崩し的な緩和策がとられた。本県でも一応俎上に上った四国機械、日新化学新居浜、日本発送電(日発)西条火力などが賠償割り当てを免れ、住友財閥への風当たりも弱まり、大企業の経済力を戦略的にも十分活用しようとする占領当局の姿勢は政策転換へと大きく針路を変えた。二八年三月来県した駐日マーフィー米国大使一行の新居浜市の住友企業の視察も、その含みであったとみられる。
 政治的にはまずレッドパージが行われた。すでに昭和二五年五月に共産党中央委員二四人が公職追放され、徳田球一らは国会の議席を失い、地下の非公然組織に潜行していたが、六月国会開会直後に党機関紙「アカハタ」が停刊した。次いで後継地区機関紙である県下の「全えひめ」など一三紙は七月以降ことごとく停刊に追い込まれ、共産党は半ば非合法化に等しい打撃を受げるに至った。特に共産党員とその同調者の一万数千人が報道機関、官庁、有力企業から根こそぎ追放となり、県内では八~一〇月の間に九三(二五)人が強制解雇された。すなわちNHK松山中央放送局六(一)人、愛媛新聞社八(四)人、新愛媛新聞社四(一)人、四国配電二二(八)人、日発一一(六)人、日本通運一、伊予鉄六(一)人、別子鉱業所一一(四)人、大久喜鉱業所一人、日新化学新居浜及び菊本製造所二三人に及ぶ指名であったが、反対運動も起こらず職場を去った。(カッコ内は組合役員)
 一方、政官界の追放解除が逆に急ピッチで進められた。二五年一一月、旧陸海軍下級将校三、二五〇人の追放解除はやがて佐官クラスに及び、そのうち多数の人が警察予備隊幹部に登用されていった。また二六年一〇月には特高警察関係三、三三六人が解除となり、戦前政治家の解除も二六年六月に第一次四四人、七月には第二次一、六四一人と拡大された。相田梅太良・堀本宜実・赤松勲・西一らをはじめ、砂田重政・香川和男・毛山森太郎・高畠亀太郎・武知勇記・岡本馬太郎・河上哲太・今松治郎・稲本早稲・山中義貞・菅太郎・宇都宮孝平・桂作蔵ら戦前の有力者が解除の日の目に浴した。以後政官界にとどまらず財界方面へも及び、戦後新生したばかりの各界に追放解除旋風を巻き起こしていった。まず手始めは二七年一月早々の自由党再建大会であり、知事選激動の後を受けての新陣容は、支部長佐々木長治、副支部長石川一朗・玉柳実・西一、幹事長堀本宜実、総務会長赤松勲、政調会長沖喜予市、議員会長近藤広仲と戦前政治家が目につくスタッフとなった。自由党は県議会の第一党となり、強力な安定勢力として県政に臨むスタートを切った。