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愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)

2 経済の回復と民生の安定

 鉱工業生産の復興

 平和的国富の四分の一を、また貿易圏を失った終戦当時の我が国の産業界は生産麻痺状況にあった。通産省資料によれば、生産高は戦前(昭和九~一〇年)平均に比べ、米六六%、麦七六%、い草二六%、綿糸四・二%、綿布一・四%、生糸一二・八%、石炭五八%、鉄三五%、水産物四四%で、特に農水産物に比べて貿易依存度の高い鉱工業の落ちこみが甚だしかった。昭和二一年になっても戦前基準の三〇・七%(製造工業で二六%)と低迷しており、戦前基準の八三%に復するのは昭和二五年代であった(経済安定本部資料)。終戦前後の痛手からの回復には相当の時日を要すると見られたが、比較的戦災の被害が軽く潜在力を内に秘めていた県下の工業生産は、予想外の復興ぶりを示した。
 二三年には県の工業生産額は県内総生産の五四・九%(農業は三四%)を占め、全国の対部門別比五四・六%を上回り、四国では全体の半ばを占めて断然トップ、全国生産額の一・七%で一五位にランクされた。農村の異常好況期をようやく脱して、スピード復興により過渡的にせよ「工業県」の名を得たことは特筆されよう。その要因は繊維や住友中心の大手企業の驚異的な牽引力であり、スフとスフ糸は二四年に戦前の最高生産高を回復、また琉安も同様で、綿紡績は戦後七工場一九万錘にまで減少しながら、二四年には二四万錘となり全国の一割を生産、全国三位の底力を見せた。
 二六年にはほとんどの有力企業が全国の上位に登場した。中でも繊維は本県工業生産額の半ばを占め、スフは全国の三五%で一位、人絹糸・スフ織物はそれぞれ四位の生産額となっていた。住友関係企業ではアルミニウムが二〇%を占めて二位、ニッケルは六〇%で一位、金一位、銅二位、硫安は一四%で一位と重化学工業でも優位に立った。しかし繊維は全国的には貿易管理下で回復のピッチは鈍く、戦前の花形産業への復活は難航した。また生産財を造る重化学工業の比率で本県は四国一の一・一〇と高度化の指標を誇ったが、産業構造上の問題点は増幅された。地場産業ではタオルが三七%で一位、機械すき和紙及び手すき和紙はともに二位、奉書紙は全国の九〇%を独占した。宇摩地域の製紙の立ち上がりは早く、仙貨紙でも静岡に迫り、二二年には大王製紙が洋紙生産を開始した。戦前輸出で栄えた砥部焼、全国四位の桜井漆器、竹細工などの伝統的産業も貿易再開に市場開拓の希望をつないで、戦前盛時への復帰に努めていた。

 統制経済とヤミ

 終戦後も激化する物資不足に対処し、民需生産へ集中するための新たな統制経済が続いた。特に昭和二一年二月の預貯金封鎖、新円切替えはインフレ退治の切り札として実効力ある金融非常措置ではあったが、国民は二三年まで続く新円五〇〇円(超過分は封鎖円)の賃金統制に驚かされた。衣食住生活物資の統制は戦時からの延長で、その脱却は容易ではなかった。食糧管理法による主食の配給統制は、二六年に登録米穀店が開業して需給の実質的緩和を肌で感じさせ、食生活では二四年に野菜、二五年に味噌・醤油、二六年に雑穀、二七年に麦がそれぞれ自由販売となり食糧事情はようやく好転した。
 二二年石炭と鉄などの傾斜生産方式による復興のめどが立ったが、四国地方は夏の大渇水で正常平均電力力危機となった。四国の産業用電力の六六%を消費する本県では、工場への割当、使用の制限、果ては一般
家庭の電灯まで時間制限を行う始末となり、長浜町に始まる一家一灯の無休送電を目指す使用合理化運動も展開された。二一年から指定工場制がとられ、日新化学など政府指定五工場、四国商工局及び県指定の九八工場に資材・資金の重点配分が行われた。燃料・肥料・飼料・鉄など諸金属、木材・セメント・特殊輸入資材などは復興建設や産業民生の優先度により配分された。輸入に頼る抗生物質薬品の結核用ストレプトマイシン、伝染病用オーレオマイシン、クロロマイセチン類はもちろん、ヒマシ油、クレゾールなどの一般医薬品まで割当配給で、歯科医用地金も同じであった。統制の裏には広いヤミ市場、密輸ルートがあったことは否定できない。
 隠退蔵物資は、軍用あるいは軍需生産用の膨大な生活必需物資が終戦時無秩序に処分され、横流し、換物など不法処理されて一部の企業・団体などにひそかに温存されていたものであり、二一年隠退蔵物資等緊急措置令の発動で県食糧課及び商工課などに本部を設け摘発に当たった。二一年夏食糧課が摘発した例では米四、〇〇〇俵、麦二、二〇〇俵、澱粉一九二トンと全県民の二・五日分の食糧隠匿の事例があり、このことは物資不足の当時にも巨大な偏在があった証左となった。隠匿の最低限は油二リットル、糸一貫目、布五反、毛布一〇枚、服二五点、手袋一五足、靴下二五足以上と細かく監視の眼が光った。摘発に熱心な愛媛軍政部では白ヘルメットのMPが活躍、密告も奨励され、県警経済保安課も協同して動いた。

 建築行政と住宅対策

 家屋の戦災焼失、建物強制疎開、復員・引揚による人口急増などに伴い、終戦直後建築物特に住宅は著しく不足し、特に焼野ヶ原となった松山・今治・宇和島の戦災三市では甚だしかった・建築工事は進駐軍関係に限定される有り様であり、昭和二一年臨時建築制限令により消費的娯楽的建築物(料理屋、待合、劇場、映画館など)の建築を禁止し、住宅・商店などは一五坪以内の面積に限定して建築が認められたが、資材不足も著しく建築は遅々としてはかどらなかった。二二年臨時建築等制限規則及び資材割当規則が施行され、住宅は一二坪、併用住宅は一五坪までの建築が認められたが、旅館・飲食店にも制限が加えられ、また、木材・セメントなど建築資材の配給統制も行われた。これらの建築統制は国の戦災復興院(のち建設院)の管轄で、二二年五月同院愛媛建築出張所が県庁内に置かれ、各地方事務所には建築監視官を配置し、軍政部の監視下に強力に行われた。二三年建設院も廃庁となり、建築行政は県の所管に再び復帰した。
 その後、住宅は一戸三〇坪までに制限が緩和され、昭和二五年建築基準法の施行により資材統制が全面解除となり、建築界は新局面を迎えた。一方、戦災復興事業施行区域では特例があって、昭和二一年「戦災都市における建築物の制限に関する勅令」(俗にいうバラック令)の公布により特例が認められ、同事業決定区域では建坪一五坪、未定区域では延三〇坪、建ぺい率を商業地域五割、その他を三割とした。二三年消防法が施行され、建築の許認可は消防官庁の同意が必要となった。二四年バラック令は改正され、区域や建ぺい制限を廃し市街地建築物法に準拠したものとなった。次いで二五年建築基準法・建築士法が施行され、従来の市街地建築物法による知事の許認可は「建築主事の確認」という新制度に移行し、県土木事務所に建築主事を配置して、建築行政の最前線を担当することとなった。
 終戦直後の県下住宅事情は、同居・狭小過密住宅(居住面積九畳以下、一人当たり二・五畳未満)、老朽危険及び非住宅居住と新規需要を合わせ住宅不足数六万五、〇〇〇戸と推定されている。二一年度から公営住宅の建設が始められ、二四年度までに一、七〇三戸が建設された。二五年住宅困窮の低所得層を対象に公営住宅法が施行され、公営住宅の建設供給が恒久的対策として確立した。同年住宅金融公庫(以下「公庫」という)が設立され、公庫による融資住宅政策は住宅建設への飛躍的な呼び水となり、三六年度末の融資住宅戸数は一万三、七〇〇戸に及んでいる。県行政は公庫業務の一部代行のほか、二八年財団法人県住宅協会を設立して、賃貸・建て売り、または分譲住宅建設、土地取得、融資などを行わせ、松山、今治、新居浜、西条、宇和島五市にも住宅協会が設立され住宅建設の推進に当たった。
 公庫融資は、昭和三〇年代に入り個人融資に加えて住宅協会取り扱い分、産業労働者住宅、農山漁村住宅、さらに中高層耐火建築物、賃貸住宅へと融資対象が拡大された。三〇年日本住宅公団による特定分譲住宅、その他諸制度による施設住宅の建築も進み、三六年末には公営住宅一万戸、融資住宅など一万四、〇〇〇戸計二万四、〇〇〇戸が建設された。三五年末県下の住宅不足は三万四、〇〇〇戸と推測されている。なお公営住宅は住宅難の市部を重点に進められ、三〇年度から松山市では石手川河川敷内の不良住宅撤去と併行して、年間四〇戸ずつ二棟の木造住宅を建設し移転を図った。三五年には、不良住宅が密集する地区の改良を図るため住宅地区改良法が公布され、公的施策はさらに充実した。

 復員・引揚者の援護

 六万四、〇〇〇人を越える外地引揚者は、一三万二、〇〇〇に凛翻絆偏預言 朧難晰詣難昌鞘余人の戦災者らとともに困窮を極め、社会の底辺に生きた人々も少なくなかった。そのほとんどは昭和二〇~二三年の間に引揚げてきているが、二一年一〇月から半年間の県下生活保護者四万七、〇〇〇人余という異常に過大な数字は、生活のすべてを失った引揚者・戦災者の実態を裏書きするものであったが、二三年ころにはようやく四万人程度の正常値に減少した.これにより引揚者は総数の一割に当たる六、〇〇〇人余が生活保護を受けたとみられている。
 粒粒辛苦海外に培った資産と既得権の一切を失い、文字通り裸一貫引き揚げた人々は生活窮迫の極にあり、特に二三年当時引揚者の半数は住宅が無く、二五年になっても二万四、〇〇〇世帯のうち家の無い世帯が五、〇〇〇戸を数えた。県下三六か所の収容所の設置、三〇か所の余裕住宅の活用などの緊急対策で四、六〇〇人の住宅を県市町村が工面したほか、長期対策では二四~三〇年までに引揚者住宅一、四七一戸を建設したが、火急の用に対し牛歩の観があった。なお二一・二二年度に布団・毛布・蚊帳六万一、〇〇〇点、鍋釜類・応急衣料・下着など四一万点を配給、ララ物資(アジア救済連盟)の医薬・食品・衣料などの特配も行われた。赤い羽根の共同募金が始まったのも昭和二二年一一月のことであった。
 昭和二一年から一人三、〇〇〇円の生業資金貸付を行う更生資金貸付制度が始まったが、二五年までに約六、二〇〇万円の貸付額のうち引揚者が八三%を占め、次いで戦災者、復員者の順となり、生業は商業・工業が多く、手っ取り早い飲食店などの小商売に生業を求めた実相が知られる。特に引揚者の多い松山市では、二二年八月花園町に花園市場と呼ばれる引揚者マーケットが道路敷に店を並べ、中の川通りの急造飲食街とともに外地的なヤミ市情緒を漂わせていたが、昭和三〇年代都市計画の進展に伴い姿を消した。
 石手川堤防上の七〇〇戸の戦災者応急住宅、旧松山市立東雲国民学校跡の戦災者アパート、県下一三か所の宿舎提供施設(定員一、四五八人)など、住宅が福祉対策の前面に登場し住宅確保はとりもなおさず福祉施策であった。もとより終戦直後の住宅不足は戦災・天災・人口増・建て替え需要などによる異常な状況で、建築資材不足と統制も厳しく建設の足どりは遅々としていた。二二年ころの月四〇〇戸の建築テンポでは、不足六万戸の解消は程遠いと思われていたが、その後やや速度が上がり、二五年度には総住宅戸数二八万八、〇〇〇戸となり、なお四万戸不足するものの終戦後不足の五五%を復興し、住宅難解消への希望の光が見られるに至った。