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愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)

7 警察・消防制度の改革

 警察法の制定

 終戦当時の本県警察は警察部の下に一室九課と警察練習所、それに一七の警察署で構成されていた。
 昭和二〇年一〇月四日、GHQは「政治警察廃止に関する覚書」を日本政府に手交して「特高廃止」を要求、これにより本県でも四十数人の人達が職場を去っていった。
 戦時体制下の警察から民主警察への切り替えは、課の統廃合や服制の改正、帯剣の廃止、婦人警察官の採用などを通して行われ、従前の警察は徐々にその面目を一新していった。しかし、その根幹ともいうべき中央集権的警察制度の抜本的改革は、GHQ内部における意見の不一致もあって容易に進捗しなかった。
 二二年九月一六日、片山首相に対する返書の形でマッカーサー元帥書簡が出され、GHQ内部の方針も統一されたため、日本側でも早速書簡内容を法文化することとなった。それが昭和二二年一二月一七日公布された警察法である。その要点は、(1)市及び人口五、〇〇〇人以上の市街的町村に自治体警察を置き、それ以外の地域は国家地方警察の所管とすること、(2)公選による公安委員会を設げて警察の管理に当たらせること、(3)警察の職務内容が限定されていたことなどであった。本県では、これに基づいて早速自治体警察設置町村の認定作業に取りかかり、翌二三年三月七日、法律施行と同時に、警察は国家地方警察と自治体警察の二本建てとなり、国家地方警察は県本部のほかに一三の地区警察署、自治体警察は二七警察署でもって新しく出発した。(表3-3参照)

 自治体消防の発足

 昭和一四年、防護団と消防組とを改組して設けられた警防団は、二二年五月「消防団令」の施行により廃止され、消防団が各市町村に設置されることとなった。
 そのころ、警察制度の改革と並行して消防制度についても検討が行われていた。消防制度改革の要点の一つは警察から消防を分離させること、もう一つはそれを市町村に移して完全な自治体消防を創設することにあった。
 GHQと難交渉を重ねた末、まとめあげられたものが「消防組織法」である。消防組織法は二三年三月七日から施行され、これにより消防の責任は市町村へと移り、市町村は消防団のほか必要に応じて消防本部・消防署を設け、それらは市町村長の管理下に置かれることとなった。続いて八月「消防法」が施行された。この法律は消防活動に対する考え方の基本を「消火」より「火災の予防」に重点を移し、それに必要な危険物規制や建築許可等の同意、建築物等に関する措置命令等大幅な権限が消防機関に与えられることとなった。
 消防活動はこの後、以上二法を中心に数次にわたる改正と、消防施設強化促進法(昭和二八年)、消防団員等公務災害補償等共済基金法(昭和三一年)の施行などと相まって逐次、体制の近代化が進められていった。表3-4、3-5は自治体消防発足後間もない昭和二五年とそれから二〇年を経た昭和四六年当時の県下消防力を比較したもので、消防の主力は二五年当時の腕用ポンプから、四六年になると小型動カポンプヘと変化してきている。また、火災件数については二五年当時二五〇件であったものが四六年には八一二件に増加しているが、一件当たりの消失面積において大差のないことは消防力強化の影響によるものとみてよいであろう。
 一方、県における消防行政事務は二三年三月警察部から総務部地方課へ移され、ここで処理してきたが、事務の複雑多様化に伴い、四三年度からは防災事務を加えて消防防災課を新設、四六年度これを交通消防課と改め現在に至っている。なお、三八年県は松山市北代に消防学校を開設、その卒業生は六二年三月末現在で延べ消防職員一、八九二人、消防団員二一万三六四人に及んでいる。

表3-3 国家地方・自治体警察配置一覧(昭和23年3月7日)

表3-3 国家地方・自治体警察配置一覧(昭和23年3月7日)


表3-4 消防力の推移

表3-4 消防力の推移


表3-5 火災発生状況

表3-5 火災発生状況