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愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)

2 公職追放

 第一次追放

 終戦後我が国軍隊の武装解除が極めて平穏かつ、速やかに行われたので、GHQは続いて、あらゆる分野から戦争指導勢力を除去する追放政策の実施に移った。すなわち、昭和二〇年一〇月「政治的、公民的及ビ宗教的自由ニ対スル制限ノ撤廃ニ関スル覚書」を発し、その中で、特高警察の廃止を求めるとともに、内務大臣、内務省警保局長以下都道府県警察関係の首脳部及び特高関係職員の罷免を求めてきた。本県においても同月県警察部長をはじめ特高課長らが辞任した。次いで同月三〇日「教員及ビ教育関係係官ノ調査除外及ビ認可ニ関スル覚書」が発せられ、軍国主義者及び極端な国家主義者を教育界から直ちに追放すること、復員将兵その他軍籍にあった者が教育に従事することを一時停止すべきことなどが指令され、実質調査が行われ、罷免が開始された。なお、政府は、これらの覚書に基づき、二一年五月に「教職員ノ除去、就職禁止及復転等ノ件」(ポツダム勅令第二六三号)を公布し、全教職員の適格審査を開始した。
 これより前、二一年一月四日GHQは、追放政策の中心となる覚書「公務従事ニ適セザル者ノ公職ヨリノ除去ニ関スル件」を発し、日本政府の手による追放業務の開始を求め、政府は同年二月勅令第一〇九号(就職禁止、退官、退職等ニ関スル件)を公布し、公職追放の業務を開始したのである。後にこれを「第一次の追放令」と呼んだ。この追放令は、主として中央政界及び官界の高い地位に在る者を対象として行われ、政官界に多大のショックを与えた。とはいえ審査人員八、八九九人に対して追放該当者一、〇六七人であり、到底GHQの意図するところのものではなかった。

 第二次追放

 第一次追放が一段落をつげるとGHQは、追放令適用の範囲を地方の公職、経済、言論、報道など広範囲に拡大するよう求めてきた。政府は、極力これを阻止するための折衝を重ね、吉田総理からマッカーサー司令官への書簡による協議も空しく、二一年一一月に至り「地方公職に対する追放覚書適用に関する件」及び「政治的経済的重要地位に対する追放覚書適用の件」の政府発表を行い、該当事由の内容、公職範囲が地方団体のあらゆる官職及び政財界の主要地位に及ぶことを公表した。該当する者の多くは、追放指定を受けることなくその職から去っていった。愛媛県においても一二月に県会議員三三人(定員三八人、欠員五人)のうち吉本誠一郎、相田梅太良、堀本宣実、西一、赤松勲ら二二人が辞職し、残留議員の越智直三郎が県会議長、武田正俊以下一〇人が参事会員となり、改選での県政を預かるという異常事態となった。また、市町村ではこの時期に戦前からその任にあった市町村長、助役、あるいは収入役らが辞任していった。
 覚書が発せられて一年目に当たる二二年一月四日、第一次追放令を全文改正し、追放事由、対象範囲を拡大した「公職に関する就職禁止、退官、退職に関する勅令」が制定公布された。これがいわゆる「公職追放令」と呼ばれるものである。同時に官制をもって中央と地方に公職適否審査委員会が設置され、あらゆる公職に対する適否の資格審査が行われることになった。この年新憲法施行後の各種選挙が執行されるのに伴い、短期間での多数の審査決定業務は多忙を極めたが、的確に処理された。二三年に至り、公職に就いていないため追放指定を免れた、いわゆる潜在該当者の調査指定が行われ、愛媛県分とし一、七五〇人(大政翼賛会関係三五九人、翼賛壮年団関係三九四人、大日本政治会関係一人、在郷軍人関係九九六人)を指定した。これにより戦時中の畠田、福本、土肥の各知事、各市町村長・助役及び地域指導層の多くが公職追放該当者となった。一方これより先、仮指定に対し異議申し立てを行っていた者一五七人のうち七五人は非該当者とされた。後の知事選挙に立候補した佐々木長治はこのうちの一人であった。
 潜在該当者(特に中央で行った職業軍人に対する)の指定により、おおむね審査業務の見通しが立ったので、中央・地方の公職適否審査委員会は二三年五月に廃止され、その後の資格審査は、公職の区分に従い内閣総理大臣と知事が直接行うこととなった。
 この追放により、旧指導者は、各界からほとんど排除され、「新しい指導者のために道をひらくため」としたGHQの目的は達成された。その後の社会情勢の変化特に朝鮮戦争勃発後の対応に当たっては、指定解除の必要を生じたため、訴願、特免申請の道をひらき、むしろ解除の方向に転じた。本県においても二六年六月、一、六四一人の指定解除を行った。二七年四月講和条約発効とともに追放令は廃止され、全国二〇万人余の追放者全員が指定解除となり公職追放のすべては終了した。七年間にわたるこの措置により、被追放者の物心両面の苦痛は大きかったが、政界、官界、実業界など各界の指導者層は一新され、世代交替が行われたのである。
 二二年以来二七年までの本県における審査人員は三万二、七五七人、うち追放令該当者として指定された者は一、七九六人であった。