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愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)

一  概説

 第二次世界大戦で人類史上最初の原子爆弾の炸裂と悲惨な破局を経験した日本は「ポツダム宣言」を受諾して民主化・近代化への新しい道を歩み始めた。
 昭和二〇年(一九四五)八月末からアメリカ軍を主力とする連合国軍が各地に駐留し、九月にはマッカーサー元帥の率いる連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が東京に移された。連合国は、最高司令官の指令・勧告により日本政府が政治を行うという間接統治の方法をとった。GHQは「ポツダム宣言」に基づき次々と指令を出して、日本の非軍事化と民主化を推し進めていった。
 軍隊は解体され、戦犯容疑者は逮捕された。共産党員などの政治犯は釈放され、特別高等警察や治安維持法なども廃止され、国民には思想・信仰・政治活動の自由が与えられた。翌二一年一月には、天皇みずから人間宣言を行って神格化を否定し、また軍国主義の浸透と戦争に指導的な役割を果たした者は、すべての公職・教職から追放された。
 同二一年の公職追放令で、愛媛県選出の砂田重政・武知勇記代議士らが追放され、県会議員二二人が辞表を提出するなど、県下の追放者は多数に及んだ。
 GHQは、財閥と寄生地主制とが軍国主義の基盤になっていたとして、経済制度や経済組織の改革に着手し、昭和二〇年一二月には農地改革を指令してきた。すでに農地改革を推進しようとしていた政府は、同月一八日改正の農地調整法に基づき二一年二月から第一次農地改革を実施したが、これを不満として同年六月GHQは、さらに改革の徹底を勧告した。その結果二二年三月から第二次農地改革が開始され、本県でも農地部を新設して農地改革の実施に当たり、二五年七月には、農地買収事務をほぼ終了した。
 二〇年一一月、GHQは三井・三菱・住友・安田など一五財閥の資産の凍結を命じた。二二年独占禁止法が公布されてトラスト・カルテルなどが禁止され、過度経済力集中排除法によって巨大独占企業の分割が行われた。
 憲法改正は日本民主化の根本問題であった。幣原喜重郎内閣の起草した憲法改正案はGHQによって拒否され、昭和二一年二月、GHQは自から作成した改正案を示し、政府はこれに若干の修正を加えたものを原案として発表した。その内容は、国民の多くが予想した以上に民主的なものであった。
 改正案は、旧憲法改正の手続きに従って六月開催された帝国議会の審議を経て決定され、日本国憲法として昭和二一年(一九四六)一一月三日に公布、翌二二年五月三日から施行された。新憲法は、主権在民・平和主義・基本的人権の尊重の三原則を明らかにし、天皇を日本国民統合の象徴と定め、公選議員で構成される衆議院・参議院の二院制の国会を国権の最高機関とし戦争放棄を掲げた。新憲法の精神に基づいて、多くの法律が改められ、あるいは新たに制定された。改正された民法は、「家」の中核を成す戸主制度・家督相続制を廃止して個人の人格を尊重し、男女同権を原則とし、刑事訴訟法でも人権が重んじられるようになった。地方自治法によって地方自治が強められ警察制度も地方分権化された。
 これらの民主化法制に先立ち、昭和二〇年一二月に公布された新選挙法では、満二〇歳以上の男女に選挙権を与えることを定めた。翌二一年四月、戦後最初の総選挙で三九人の婦人代議士が誕生し、この選挙で第一党となった日本自由党は日本進歩党の協力を得て古田茂内閣を成立させ、ここに政党内閣の復活をみることとなった。
 同二二年四月、第一回統一地方選挙が行われ、県知事選挙では青木重臣が公選による初代知事に選ばれた。青木県政の発足当初は食糧難対策が県政の最重点事項で食糧増産と供出推進に追われたが、一方県財政は、激しいインフレと相次ぐ財政需要の増加によって厳しい財政難に直面した。昭和二二年度当初予算額は一億三、〇〇〇万円であったが、最終予算額は実に九倍の一一億七、三〇〇万円に達し、また、歳入決算額の七七・九%が国庫依存財源であるという実情であった。
 二二年四月、深刻な生活難が叫ばれる中で新憲法の体制下最初の総選挙が行われ、日本社会党が第一党となり、六月には社会党委員長片山哲が日本民主党・国民協同党との連立内閣を組織し、中道政治をすすめようとした。しかし社会主義政策をとらないことに不満を持つ社会党左派の攻撃などで、同内閣は二三年二月総辞職した。次いで日本民主党総裁芦田均が同じ三党連立内閣を組織したが、疑獄事件を起こして一〇月に総辞職した。その後、民主自由党単独の第二次古田内閣が成立し、保守政権が長期にわたり続くこととなった。
 戦後の経済情勢は、物質の欠乏に加えてインフレが加速し、新円切替えなどで県民生活は大きく揺れ動いた。
 その上、終戦後には災害が集中的に発生し荒廃に拍車をかけた。昭和二〇年九月の「枕崎台風」、二一年一二月の「南海大地震」、二四年六月の「デラ台風」、二五年九月の「キジヤ台風」などにより県下に大被害をもたらした。
 戦後の生活難のなかで労働運動も活発化し、二〇年労働組合法が制定されると各地で賃上げなどのストライキが行われ、労働攻勢の高まりは、しばしば政府を揺さぶった。本県の労働運動は、二〇年一〇月ころから全国的な潮流に乗り次第に活発となって、二一年一二月には組合員二万人を突破した。二二年ころから活発な労働争議が続いたが、二四年以降GHQの対日政策の転換、二五年のレッドパージなどによって、過激な大争議は次第に姿を消した。
 アメリカは国際情勢の変化により日本経済の自立を求めるようになり、昭和二三年一二月、GHQは予算の均衡、物価の統制などを内容とする経済安定九原則の実施を指令し、ドッジを派遣してその指導に当たらせ、シャウプの指導の下に税制の大改革が行われた。二四年には、一ドル三六〇円の単一為替レートが設定された。これらの政策により、インフレの進行はくい止められたが、一点深刻な不況に陥り失業者が急増し、中小企業の倒産が相次いだ。県下でも、全国的デフレ傾向の波に巻き込まれ、企業倒産・休業などが増加した。