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愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)

1 政党内閣と県政

大正一四年(一九二五)八月から昭和七年(一九三二)五月までの政党内閣の時代、いわゆる「憲政の常道」によって、政友会・憲政会(民政党)両党が交互に政権を担当した。各党は互いに党勢拡大にしのぎを削ったため、政争の波は地方政治の末端にまで及び、極端な政党人事が行われる時期となった。人事に政党の色彩が加われば、地方官のうちには栄進・保身のために政党幹部の意向さらにはその圧力に巻き込まれる者が生じて、その結果、自ら欲すると欲せざるとにかかわらず、いずれかの党勢力の拡張に協力するようになった。
 この時代に本県の県政を担当したのは六人の知事たちであった。いずれも東京帝国大学法科卒業で文官高等試験に合格した内務官僚であった。その在任期間をみると、香坂昌康一年八か月、尾崎勇次郎一年、市村慶三一年六か月、木下信九か月、笹井幸一郎一年四か月、久米成夫六か月といずれも短く、その地位は時の政党内閣の意に翻弄され、かつて〝牧民の官〟〝良二千石〟と評された地方長官は、「浮草稼業」といわれるようになった。
 大正一四年に就任した香坂知事は、山形県米沢出身で前福島県知事、本県には明治四三年事務官として着任し、学務課長兼庶務課長、のち理事官として在任四年余の経歴を有していた。県内の事情を熟知した知事として県政に期待を寄せられたが、彼の官僚的性格が災いしてか不人気であった。香坂は、先の本県在任中に上司・知事であった伊沢多喜男と密接な関係を持ち、憲政会系とみられていたが、本県知事としては党派色を意識的に抑えようとしていた。しかし、田中義一政友会内閣の地方長官大更迭で休職を免れず、以後民政党系の立場を鮮明にしていった。在任中、郡役所廃止及び大正一五年の地方制度改正に伴う善後措置、自作農創設維持政策への対応に当たる一方、中央政府の財政緊縮指令に従う基本方針をとりながらも緊要の件では事情の許す限り積極的に取り上げる姿勢をとった。この結果、県立繭検査所・松山測候所・県庁舎及び警察庁舎などの新築や菊間・三島・長浜港湾修築補助、今治中学校再建計画などが推進された。また、香坂は、別子銅山労働争議や官立松山高等学校生徒同盟休校事件において、紛争の調停者の役割を演じた。
 次の尾崎知事は、兵庫県篠山出身で台湾総督府警務局長からの転任であった。同時に内務・警察両部長も交代、県首脳は当初から政友会系と評せられ、事実、昭和二年の県会議員選挙、翌三年の衆議院議員選挙といずれも普通選挙制の第一回選挙では、官憲あげて選挙干渉を行い政友会を勝利に導いた。尾崎自身もまた、出身地兵庫県五区から政友会候補として衆院選に出馬、落選していた。一、〇〇〇万円にのぼる一五か年継続土木事業をはじめ、恐慌救済を目的に土木・勧業に積極策をとったほか、金融恐慌後の銀行合同の促進や休業していた今治商業銀行の再開に尽力した。後任の市村知事は京都府の生まれ、党派性は比較的薄く、昭和二年田中政友会内閣時の大更迭では留任組三人の一人として福井県知事に留まり、昭和四年の浜口民政党内閣でも更迭の対象とならず本県に留任、同年朝鮮総督府局長補充に伴う異動で転出した。このため、「政党政派に超然」「手腕の人であると倶に一面人格の士」と評された。市村の在任中、県下経済は小康状態で、県立学校移転拡張などの六か年継続教育事業や三津浜・三瓶港湾修築事業補助などを新規施策とした。昭和四年四月には県庁舎が落成し、市村は新装なった知事室の最初の主人となった。
 木下知事は長野県上伊那郡生まれ、前台湾総督府交通局総長で免官・外遊後の復職であった。木下はその履歴から民政党系とみられた。本県赴任早々、昭和四年通常県会に臨場し、多数を占める政友会の攻勢をかわし、前任市村知事の査定した緊縮予算案をわずかな修正で議決させた。懸案の銀行合同を推進したほか、対県交渉では高知県との漁業紛争を解決、宮崎県との漁業問題に努力、銅山川分水問題で徳島県と折衝を続けた。しかし、不況と緊縮財政下で積極的な施策を推進することはできず、また製糸・織物・製紙など産業界の休業、失業者の激増、吏員・教員の減員・減俸要求と行政整理に十分対応しきれないまま、長崎県へ去った。
 次の笹井知事は、新潟県中頸城郡の生まれ、民政党系とみられ、奈良県知事からの転任であった。笹井は赴任と同時に予算査定に没頭して緊縮予算案を編成、なお一層の削減を求める県会側と対決、精力的に政友・民政両派と協議を進めるとともに、懸案の大谷川用排水改良事業が政友派の強い反対で否決されると、会期を延長して再議に付し、再度の否決に対しては原案執行を断行して伊予郡農民の悲願に応えた。また、翌六年には行き詰まっていた継続土木事業を更正するなど財政多難の時期、苦心の県政運営に当たった。さらに着任早々、東予地方煙害賠償更正では住友側と農民側との交渉斡旋の労をとり、次いで暗礁に乗り上げていた銅山川分水問題の解決に心血を注いだ。土居徳島県知事を説得して両県分水協議会を再開、内務省を動かして分水裁定案の提示を求め、昭和六年一一月一一日、ついに両県は分水覚書の交換に至った。この解決は、笹井知事最大の功績と讃えられたが、のち分水覚書が徳島県会で否決され、交渉は再度振り出しに戻った。笹井の離任後のことであった。
 昭和六年犬養政友会内閣の成立に伴う異動で久米知事が着任した。久米は鹿児島県薩摩郡の生まれ、政友会系とみられ、前大分県知事で休職ののちの復活であった。本県在任はわずか六か月、一度の県会も経験せず、事績をあげる暇もなく、離任に際し「県民の熱心さに動かされ種々産業方面の調査をした」と語るにとどまった。五・一五事件で犬養毅首相が倒れ、斎藤実挙国一致内閣の成立による地方官更迭で、奈良県知事に転じていった。なお斎藤内閣以後は激しかった地方長官の政党人事の弊もおさまり、官吏の身分安定も図られて、政党内閣時代のような露骨な人事異動はなくなった。

 県庁舎の新築

明治四二年(一九〇九)六月二六日、県庁舎の増改築落成式が同庁舎正面上り口で挙行され、県知事安
藤謙介の式辞、県会副議長門田晋の祝詞が朗読された。引き続き官民五〇〇余人を招いた知事主催の園遊会が催された。あいにく降雨となったため、男性は道向いの県立松山中学校雨天体操場、女性は官邸内庭にテントを張った仮設饗応場を会場とした。余興には新栄座で興行中であった京山若丸の革新浪花節と芸妓の手踊りなどが演じられた。
 新庁舎は、明治一一年創築の平家建てに替えて、木造二階建て、本館七五坪、玄関七坪五合、渡り廊下二階建て一五坪の総計九七坪五合で、間口一五間、奥行き五間、高さ四八尺の洋風建築であった。特徴は、玄関下部がコリント式、上部はドーリア式の構造で、外部の壁はドイツ式見透し張り、天井は新式打ち出しメタル張り、屋根瓦は耐火アスベストを用いていた。開庁当時は、玄関を入って東側に人民控室と受付室の二室、西は三つの応接室と町村吏員休憩室及び吏員宿直室としていた。正面階段から上った二階は東側を知事室及び官房に区画し、西側は五間半に四間の参事会室に用い、東西の壁面には歴代一三知事の肖像を掲げていた。
 この増改築については、狭隘のため執務上不便であるとして、明治四一年五月臨時県会に一万四千余円が計上され、その後、本館北側の事務室を二階建てに、また度量衡検定室の副築、玄関建築の追加工事や土木課製図室の増築を続行し、全体整備には両三年、二万一千余円の経費を要した。
 約二〇年の歳月県政の推移を見た県庁舎の改築が動き出したのは、大正一五年であった。通常県会で満場一致による改築意見書採択を得た県知事香坂昌康は、直ちに臨時県会を開催し、大正一五年度から三か年継続支出、総額七五万円の県庁舎及び警察庁舎改築事業を決めた。理由としては、庁舎の大部分が明治一一年の建築で腐朽甚だしく、全体に旧態そのままで執務上、一般の民衆の利便上甚だ不便であること、郡役所廃止に伴う庁員増で公会堂・議事堂を事務室に充当して急場をしのいでいることなどであった。全体計画は、当時の庁舎の位置に鉄筋コンクリートの新庁舎を建築し、別に商品陳列所(庁舎の東側にあって楼上を県会議事堂・県公会堂として利用の東の空地に木造仮議事堂を建築しようとするものであった。なお、財源については緊縮財政下のため、一般ふ計からの持ち出しを極度に圧縮した苦心の捻出であった。
 設計担当は工学土木子七郎、構造担当は工学博士内藤多仲であった。木子は、明治四四年東京帝国大学工科大学造家学科を卒業後、大阪に建築事務所を持ち、松山出身の実業家新田長次郎の女婿であったことから松山地方で久松家別邸(萬翠荘、現県立美術館分館)をはじめ多くの近代建築を設計した。昭和二年七月、木子は内藤と共に来県し、設計書に基づき尾崎勇次郎知事ら県当局者と協議したが、技術上の問題から経費膨張は避けられなかった。結局、工事の概要報告では、建坪数が県会仮議事堂が四〇八坪、庁舎二、六四八坪(警察庁舎は内含)、工費一〇二万余円であった。なお、決算額では三〇万余円を追加し、総額一三五万円余となり、財源には寄付金二七万円余と繰越金が充てられた。
 昭和四年(一九二九)四月一九日、春光注ぐ青空の下、白亜に輝く新庁舎の落成式典が盛大に挙行された。新庁舎屋上西側のバルコニーで神式による祭典、続いて同所において来賓など七〇〇余人列席のなか落成式が行われた。工事報告、市村知事式辞、田中義一首相(斎藤内務部長代読)・望月内相(坂内務書記官代読)・山下徳島県知事ら来賓祝辞、祝電披露など滞りなく進行した。式後、撒餅が行われ、新館屋上東側バルコニーでは祝賀会が開かれ、余興として南宇和郡家串の荒獅子舞、宇和島青年団の八つ鹿踊り、生石青年団の伊予万歳、松山芸妓の手踊りが演じられた。また一般県民のためには、物産陳列所前の舞台で先の芸能が続いて上演されたほか、仮議事堂前の土俵で青年角力が行われすこぶる盛況であった。新庁舎は四月二一日から三日間終日一般に公開され、各室では各課がそれぞれ趣向をこらした県政展覧会を開陳、連日人波が溢れたという。
 建物は中央に鉄筋ドームの塔を配し、総体を左右対称の比翼の形にまとめ、正面の車寄せから広い階段で直接二階ロビーに達し、ロビーから白い大理石の階段が配され、踊り場から左右に分かれて三階の貴賓室、さらには四階の正庁に導かれるなど全体に荘重なデザインにまとめられている。また、外部の窓まわりや車寄せにはギリシャ風のアカンサスの葉が細部意匠として取り入れられ、内部正庁など儀典室には柱から柱へ美しいアーチの垂れ壁が重畳して架構されている。近代建築構造の骨格に折衷主義の装飾を施す、つまり古典的技法を踏まえながら建築近代化を目指した跡がしのばれる。
 この県庁舎は、戦前戦後の激動期をくぐり抜け、半世紀以上にわたって今日なお健在振りを示している。その壮大な規模、荘重なデザインなどあらゆる点において愛媛を代表する近代洋風建築であり、当時の県政の充実をしのばせるものである。

 普通選挙の実施二大政党の対立

加藤高明護憲三派内閣が国会に提出した男子普通選挙を内容とする「衆議院議員選挙法改正」法案は、両院を通過して大正一四年(一九二五)五月五日法律第四七号で公布された。この改正法は、懸案の納税要件を撤廃して普通選挙実現という画期的な内容以外に、中選挙区(定員三~五人)と立候補制度の採用、選挙運動の規制など今日まで継続している我が国の選挙制度の基本的性格を定めた。この普通選挙法は
次回の選挙から適用されることになっていたが、昭和三年に至り田中義一政友会内閣の時に実施された。
 昭和二年(一九二七)六月に発足した民政党は衆議院で多数を制し、多数野党・少数与党による政局不安定を打開するため田中内閣は同三年一月に国会を解散した。本県の選挙では一七人が立候補、その党派内訳は政友八・民政六・中立二・労農一であった。無産政党の労働農民党から立ったのは大阪の弁護士の小岩井浄であり、農民運動の盛んな東予の第二区で出馬した。林田哲雄の指揮の下、県下の若い無産闘士が繰り込み、高須峰造・水野広徳らも応援に加わって、官憲の厳しい監視の中で選挙運動を展開した。
 田中内閣は選挙に備えて知事と内務・警察部長の大更迭を行い、政友系地方官配備による選挙態勢を整えた。民政党側では、これに対抗して伊沢多喜男を中心とする反政友系官僚が選挙監視委員会を組織し、選挙革正運動の名の下に官憲の干渉行為を監視防止しようとした。愛媛県には前知事の香坂昌康が派遣されたが、県警では警察署長の指揮で尾行網を張って香坂の動きを制御した。官憲による民政党への干渉は相当なもので、政見発表演説会の妨害や選挙事務所前での威圧を続けたので、機関紙「愛媛新報」はこれを激しく非難して選挙民に訴えた。二月二〇日投票日当日の同紙は、「悪逆暴戻の限りをつくす昭和の怪物、普選の賊政友会を葬れ!! 憲政を紊し国民を売る不倶載天の敵」「普選の貴い一票は普選人の面目にかけ良心の命ずるままに自由に公正に投ぜよ」の見出しを掲げ、民政党候補への投票を呼びかけたが、見出しが不穏当であるとして発売禁止になった。
 初の普通選挙での有権者は二三万四、三八四人で、一七万四、七〇〇余人の新有権者に投票資格が与えられた。投票率は八一・四〇%であった。ちなみに、明治二二年「衆議院議員選挙法」制定以来の主な選挙法改正時における本県の有権者数の変遷を示すと表2‐13のようになる。
 開票の結果、河上哲太・高山長幸・岩崎一高ら政友会候補者が七人当選し、民政党は村松恒一郎・小野寅吉の二人当選にとどまった。無産政党唯一の候補者小岩井浄は八、四二九票を集めて予想以上の善戦であった。「愛媛新報」二月二四日付は、「官憲と云ふものがなくて、公正に戦はして呉れたならば(民政党は)決して彼の如く惨敗はせぬのであった。普選の今日、まだ金銭の為めや官憲の力で左右されるやうな有権者があり、知事の鼻息を窺ふ為めに其の手足となって不法の選挙干渉を為すが如き警察官のあるに至っては、実に国家の為め遺憾である」との同社社長安藤音三郎の論評を掲載した。
 普選第二回の国政選挙は、浜口雄幸民政党内閣の下で昭和五年(一九三〇)二月に行われた。今回の選挙は攻守立場を変えて与党となった民政党が官憲の支援を受けて有利に運動を展開、民政党が武知勇記・松田喜三郎・本多真喜雄の三新人を含めて六人当選し、政友会は高山長幸・河上哲太・清家吉次郎の三人が当選したに過ぎなかった。「政友会は民政党なんかを相手にしてゐたのではないよ。圧迫干渉をほしいままにする官憲と抗争したまでだ。戦は敗れた。官憲の干渉の痕跡は火を見るより明らかであるが告訴はしない。政友会の内閣になれば又同じ事をやるまでさ」と、政友会愛媛支部幹事長大本貞太郎は敗戦の弁を語った。多くの有識者が普選運動を繰り広げてようやく実現した普通選挙であったが、ただ有権者数を拡大しただけで、買収饗応と情実利権がからみ官憲の選挙干渉が時の政権党に有利に働く選挙の実態は変わらなかった。
 県政界でも、政友会・民政党両愛媛支部の二大政党対立時代を迎えた。両勢力は、政党内閣の交代ごとに盛衰を繰り返した。昭和二年九月の県会議員選挙(定期改選)は、国政選挙に先立つ史上最初の普通選挙実施という点で注目され、有権者数は二〇万六、四二一人で前回の大正一三年県議選に比較すると九万五千余人増加した。当選者三七名の党派別内訳は、政友会二四・民政党一一・中立二で、時の政権党政友会県支部が地方選挙でも勝利したが、次の同六年九月の選挙では民政党二四・政友一四で政権党の民政党県支部が絶対多数を獲得した。
 県会議員は、数人を除いて両党のいずれかに所属して内閣・政党の政策に基づく論戦を展開した。新聞は、これを〝県会座〟と称して芝居の役者よろしく書き立て、傍聴席は常に満席だった。昭和初期の県会座の千両役者は清家吉次郎(政友)と武知勇記(民政)であった。清家は、明治四四年一〇月県会議員に当選して以来二〇年間県会に在籍して、その博識と長弁舌は県会の名物的存在であった。武知は学生時代から政治家を志し大正九年二七歳で県会議員に当選、昭和五年二月国会に進出するまで県会で才気煥発な雄弁ぶりを発揮した。両者は、〝民本主義〟〝地方自治〟をよく口にしながらも、年齢差・所属党派の違い、教育者・町長と言論人といった経歴の相違などから来る論理・感情の対決が県民の関心を呼んだ。
 清家・武知が国会に転じた後の県会は、「政党同志の揚げ足取や泥試合に来る日も来る日も肝心の議案そちのけの観があり、深刻な質問なり攻撃がなく、弾劾にしても糾弾にしても、徒に声が大であるのみで、すこしも核心に触れない」(「南海新聞」昭和一六・一二・一八)と新聞が論評しているように、真剣で華々しい政策論争は次第に少なくなった。

表2-13 衆議院議員選挙法の改正と有権者の変遷

表2-13 衆議院議員選挙法の改正と有権者の変遷