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愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)

3 教育の振興と土木・勧業

 教育の規制

明治一九年(一八八六)三、四月、初代文部大臣森有礼の構想によって、「帝国大学令」及び「小学校令」「中学校令」「師範学校令」が相次いで公布された。従来の「学制」「教育令」では学校体系の全体を一つの法令で規定していたが、この諸学校令公布以後は各学校種別に法令を設けて学校制度を規制することになり、この方式が太平洋戦争の終わりまで続いた。しかもこれらの教育法令は帝国議会の審議を経ずして天皇の勅令の形式で出され、明治二三年(一八九〇)一〇月公布の「教育勅語」を徹底させる天皇制国民教育制度が成立した。
 小学校令では、小学校を尋常小学校四年・高等小学校四年の二段階とし、尋常小学校を義務教育とした。明治二三年一〇月、地方自治制の実施、憲法の制定、教育勅語の発布などに適応して新しい「小学校令」が定められた。本県では、明治二〇年に高等小学校一一、尋常小学校一六七、小学簡易科(尋常小学校の代用)四五一校を開校していたが、新しい小学校令により同二五年に尋常小学校五四九、尋常高等小学校一〇、高等小学校二三校に編成替えした。その後、産業革命の進行、資本主義経済体制の形成などによる社会的条件の変貌で国民教育の向上が求められ、明治三三年(一九〇〇)小学校令の全面改正とそれに伴う「小学校令施行規則」が制定実施された。これにより、教育内容の統制は一層強化され、同三六年からは教科書は全国共通の国定制となった。また就学義務の徹底が叫ばれ、本県でも同三五年に就学率九〇%を超えた。明治四〇年には尋常小学校の義務教育年限は六年に延長されたが、このころには、全国・本県ともに就学率九八%台に達して国民皆学が実現した。
 初等教育とともに、その教育に当たる教員養成のための師範教育についても規制が強められた。「師範学校令」では、生徒は順良・信愛・威重の気質を備えるべきことが強調され、その三気質を鍛錬する目的で教育内容が整備・統一され、寄宿舎生活による協同互助・共励砌磋の生活訓練が取り入れられた。師範学校は各府県に一校を設ける尋常師範と官立の高等師範に分けられ、本県でも明治二〇年一一月に愛媛県師範学校を尋常師範学校と改称し、その詳細な学則を定めた。愛媛県尋常師範学校は、同二三年九月に校舎を新築移転して施設を整え、現職教育の実習場である附属小学校との一体化を進めた。明治三〇年一〇月「師範教育令」が制定され、尋常師範学校は翌三一年四月から師範学校と改称された。同四二年には愛媛県女子師範学校が設立開校した。
 「中学校令」では、中学校を修学年限五年の尋常中学校と高等中学校の二段階に分けたが、愛媛県では県会で尋常中学校を県営で維持することに反対する論議が多数を占め、尋常中学校は伊予教育義会の経営に委ねられた。しかし同二四年一二月の中学校令一部改正で各府県で必ず一校を設置すべきとされたので、同二五年四月伊予尋常中学校を県立に移管して、愛媛県尋常中学校とした。その後、日清戦争後から明治三〇年代にかけての教育をめぐる社会環境の変化で中等教育振興の姿勢が強まり、明治三二年(一八九九)二月に中学校令の改正と「高等女学校令」「実業学校令」の制定が実施された。これにより、戦前における中等学校の基本類型が制度化され、愛媛県でもこれらの学校法規に基づき中学校の増設と高等女学校・農業学校・商業学校の新設が図られた。

 大庭県政の中等教育振興

明治三〇年(一八九七)から同三二年(一八九九)にかけて、愛媛県では五人の知事が交代して、教育・土木・勧業を中心とした県政を推進した。
 明治三〇年四月七日、小牧昌業が非職になり、衆議院議員であった室孝次郎が本県知事に就任した。室は新潟県出身で高田中学校長・郡長などを歴任した後、明治二三年七月の第一回衆議院議員選挙に当選して以来同二七年九月の第四回選挙まで連続して国会に議席を得ていた。所属政党は進歩党で、同二九年九月の松隈内閣の成立で与党になった同党の代表として愛媛県知事を拝命したのであった。この時の地方官の更迭で小牧ほか一五人の知事が免ぜられたが、進歩党の七人が知事になり彼らは国会議員と兼職で赴任した。岩村高俊以来藩閥官僚知事が続いた本県に初めて迎えた政党知事であった。その意味で新しい県政が期待されたが、室は在任わずか七か月にして同三〇年一一月一三日大隈重信の外相辞任に従い依願退官して衆議院に戻った。
 後任の本県知事には牧朴真が青森県知事から転補された。牧は長崎県士族で、内閣法制局参事官・枢密院書記官などを歴任した後、総武鉄道会社社長となり第一回衆議院議員選挙に郷里から当選、第二回選挙で再選された。同二八年再び官界に入り、台湾総督府内務部長心得・台中県知事を経て、二九年八月青森県知事に就任した。牧は本県にあることわずか三か月にして内務省警察保局長に転じた。歴代知事中最も短い在職期間であった。
 明治三一年一月二二日篠崎五郎が本県知事に任命された。篠崎は鹿児島県士族で、明治一八~二二年新潟県令・知事、同二四~二六年島根県知事を務め、三度目の知事の座として本県に赴任した。しかし篠崎の在職期間もわずかに一一か月に過ぎなかった。
 中央政界の変転を受けてめまぐるしく更迭される本県知事の任免には、さすがに批判が高まった。「愛媛新報」は明治三二年元旦紙上に「遙に内閣諸公に質し併で県下の有志者に告ぐ」と題する論説を掲載して、「県知事更迭の頻繁なるは県治上に大害あること、これ吾人の今更云ふを要せざる所なり、不幸にも我愛媛県は所謂人材登庸の遺繰算段的の図中に画かれ居りて小牧以来の知事は何事もなすなく恰かも素通の旅人の如し、斯くては実に愛媛県の大不幸と信ず」と、政府人事への疑問を呈し県下有志者の注意を喚起した。なお、昭和一五年五月「海南新聞」が「愛媛県五十年」を特集して知事論を展開した中で、室知事は温厚篤実、牧知事は水産行政に造詣が深く、篠崎知事は豪放らい落で民間有志との折り合いも良かったと評している。
 明治三一年一二月二三日、篠崎知事が免官となり、前静岡県書記官大庭寛一が本県知事に任命された。大庭は山口県士族、帝国法科大学卒業の法学士で、内務省試補から群馬・兵庫・佐賀各県の参事官を経て同三一年静岡県書記官になった。本県最初の学士知事で在任中の第一の施策としては、二中学校・一農学校・三高等女学校の設立と師範学校女子部の新設など中等教育の振興が挙げられる。
 本県では、明治一九、二〇年に財政難から県立中学校を廃したが、同二五年に至り松山に愛媛県尋常中学校を復活、同二九年に西条と宇和島にその分校を置いた。このころから中学校の入学希望者が増加し県立高等女学校・実業学校の設立を望む声も高まった。県は、明治三〇年一二月の県会に県立中学校分校の独立と高等女学校・農業学校・商業学校・工業学校設立の順序及び時期について諮問、県会は委員を選んで調査研究した結果尋常中学校東予・南予分校は三二年度から本校に引き直すこと、農工商の三学校は追って設立の時期を定めること、女子中等教育は当分の間適当な私立高等女学校に補助を与えることを答申した。
 この答申に沿って明治三二年四月から二中学分校が独立して、西条中学校と宇和島中学校が開校した。ついで同三二年二月の「高等女学校令」により県立高等女学校の設置が義務づけられたので、大庭知事は同年三月臨時県会に諮問し、松山・宇和島・今治に同時設立の答申を受け、同年一二月の通常県会で三校県営化の予算案を提出した。高等女学校は松山に明治二四年一〇月に設立した私立愛媛県高等女学校があり、宇和島・今治は将来の県立移管を企図して同三二年に町営の高等女学校を開校していた。県会では、県費多端の事情と女子の就学率などの現状から考えて県立高等女学校は一校でよいとする主張もあったが、女子教育の振興を理由とする三校説が二票差でかろうじて可決された。高等女学校令と同時に公布された「実業学校令」では、実業学校は高等女学校と違って任意設置となっていた。県会は、実業学校設置の順序をまず必要度の高い農業学校を優先し次いで商業学校を設立すべしと建議していたので、知事は同三二年の通常県会に愛媛県農業学校設立案を提出し可決された。こうして明治三三年四月に県立農業学校、翌三四年四月に県立松山・今治・宇和島高等女学校が開校した。大庭知事は、かねてから要望されていた女教員養成のため明治三三年四月から愛媛県師範学校内に女子部を設け、初年度に二五人の女生徒を入学させた。女子部は同四三年に愛媛県女子師範学校に発展した。

 本部県政の土木・教育・勧業策

大庭寛一は明治三三年(一九〇〇)四月二七日に病気を理由に休職し、後任の本県知事には本部泰が任命された。本部は鳥取県士族で地元の鳥取県警部・県官を務め、福井・宮城両県と京都府の書記官を歴任して依願退職、明治三二年七月に結成された帝国党に参加した。今回の愛媛県知事拝命は、第二次山県内閣の与党帝国党の拡張策と評された。本部知事は、赴任後最初の明治三四年通常県会で県政の重点は土木・教育・勧業の三者であるとしてその施設の拡充発展に十分な力を用いる考えであることを強調した。
 この三本柱についてその具体的施策の展開をたどると、まず土木では、既定継続土木事業の促進と新土木継続事業の実施があった。すでに小牧県政の明治二九年から六か年継続土木事業が進行していたが、本部は諸物価の高騰と国庫補助不足のためこのままでは県下の道路・河川・海岸・港湾施設などの完備は期し難いとして、明治三五年の臨時県会に一六万二、〇〇〇円にのぼる追加支出と工期の明治三八年度まで繰り延べを内容とする更正案を提出した。すでに明治三三年の通常県会以来延期更正を繰り返していた継続土木事業計画はこれで一〇年継続に延長された。さらに知事は県下を一巡して見た実況として、「道路の不完全なことを初めとしてその他治水港湾等に至りても手を着くへきところすこぶる多し」として、新たに県下主要道路網・河川・港湾施設を一挙に改修完成させる目的で総額一六六万円余におよぶ新一〇か年継続土木事業計画を提示した。
 この計画は、道路の部で国道三一号線・五一号線を中心に県道八線と里道二線の整備改修に一〇〇万余円、河川港湾航路の部で高浜港波切堤防・船越堀切や蒼社川など六河川の砂防工事に四九万余円を新たに支弁し旧事業を補てん拡充する内容になっていた。その指定工事箇所などは計画案を提出するまで秘密にされていて、原案作成過程に議員・政派の介入する余地はなかった。このため、わずか一週間の議会審議では調査考究の暇がないと反発する議員もいて議案廃棄説も出されたが、少数で否決され原案が認められた。県財政を圧迫する大事業にしては論議が少なかった。その理由としては、本県の交通運輸施設の極度の遅滞という現状認識の下での工事の必要性については政友・進歩の党派にかかわりなく議員全体に一致した考えとなっていたことがあげられる。しかしこの新土木継続事業は、やがて勃発した日露戦争による地方財政緊縮の大波を受けて工事凍結と繰り延べを余儀なくされ、十分な成果をあげないままに後述の「二二か年継続土木事業」に編入された。
 教育面では、大庭県政の振興策を引き継ぎ中等教育の充実が図られた。明治三三年通常県会では、西条中学校今治分校と宇和島中学校大洲分校の三四年開校、商業学校の三四年開校準備、三五年開校案が提出され、大洲分校と商業学校は原案どおり、今治分校は三五年開校に修正された。この間、議会内では今治・大洲分校新設によって既得権を侵害されるとする三中学校(松山・宇和島・西条)の関連郡部の議員が党派を超えた強固な反対派を形成して推進派の越智・喜多郡選出の議員と対立、両派ともに利害関係が比較的薄い地域選出で中立的立場にある議員の争奪合戦を演じた。両派はそれぞれ獲得した議員を他派に奪われないようにするため、賛成派は二番町「梅廼家」に、反対派は「県会議場」に布団や食糧を持ち込んで籠城し、議会審議を放てきしてにらみ合うといった有り様であったが、議長井上要の調停で最終的には両派の妥協が成った。
 この年の議会から「教育補助費」の新設が認められ、八幡浜商業学校・宇摩郡農業学校・新居郡農学校・弓削海員学校・北予中学校ついで宇和島商業学校・周桑農業学校などの公私立学校への補助が行われた。明治三五年通常県会では大洲分校の三七年度本校昇格案を可決、今治分校も県会の建議で三八年度から本校に昇格した。その後、郡立八幡浜商業学校が明治三九年度から、組合立弓削商船学校が同四一年度に県立に移管された。
 勧業の面では、各種試験場を開設した。まず明治三三年四月に農事試験場・同南予分場・同東予分場が新設され、この年に設けられた水産試験場は三四年度から本格的事業を開始した。同三四年には、工業及び蚕業奨励のためそれぞれの短期講習所を各郡に、染織試験の調査所を松山に設置した。染織調査所は、同三六年度に工業試験場に発展した。
 本部知事は、以上の三本柱に努力を傾注し経費をつぎ込んだ。このような施策のほとんどは戦後経営の名の下での国の方針に基づくものであり、他の県でも共通して推進された。この時期、県会議員は政友会派と進歩派に分かれて勢力拮抗し、多数派争いを繰り広げていた。明治二〇年代には議員たちは、〝民力休養・経費節減〟を叫んで地租割・戸数割など県税の軽減と予算緊縮を要求する傾向かあった。ところが明治三〇年代に入って産業資本の成長期を迎えると、地域地主や資本・産業の利害を代弁する議員の活動は、むしろ理事者を督励しあるいは一体となって、道路・交通・教育・勧業など産業資本や地域社会の整備発展に欠かせない諸施設を積極的に予算化・具体化する方向に傾いてきた。理事者は議会多数派の意向を重視しはじめ、政党にとっては県会で多数を制することが重大視されるようになった。
 ところがこの政党派を軸にした多数派・少数派の区分も、利害が議員の出身地域に深く係わる問題になるとたちまち拘束力を失い、「地方主義」が顔を出した。中学校今治・大洲分校問題や土木費負担区分改正問題などがその典型であった。のちに衆議院議員として活躍した渡辺修は当時県書記官であったが、「愛媛新報」明治三三年一月一〇日付紙上で、本県は藩政時代の旧思想がまだ去らないのか地形による交通不便に由るのか、「兎角地方感情の甚しき有様」で、議員たちは競争して選出郡の利益を図ろうとし、役員選挙のほか議案について党派を利用しようとすることがない、「之れ党派熱の少きといふょりは、小地方的感情の盛なるを証するに足るべし」と論じている。この「地方主義」の利権を基盤として党勢拡張を図るのが原敬らの政友会であり、日露戦争後の戦後経営は西園寺内閣の与党政友会の政策を背景に県知事を抱き込んで愛媛県でも新しい動きが展開された。
 本部泰は三年一〇か月在職して明治三七年一月休職になった。頻繁に更迭が繰り返されたこの時期の本県知事の中では勝間田知事の四年二か月に次ぐ長期の在職期間であった。「愛媛新報」明治三七年一月二七日付は、本部知事が本県の難治に処して比較的長任期を保つだのは老練にして如才なく立ち働いた結果であると評し、土木一〇年計画事業などを事績としてあげている。
 本部の後任知事には菅井誠美が栃木県知事から転じた。菅井は鹿児島県士族で、警視庁警部となって故郷に帰省、西郷党の動向を探索して西南戦争を誘発した事件で知られたが、本県知事としての在職は一〇か月、日露戦争勃発時の財政緊縮に追われ施策を講じることなく休職となり本県を去った。

 地方官官制県行政機構

 地方官の官制は、内閣制度の創始とともに更新された。すなわち、従前の「府県官職制」を廃して、明治一九年(一八八六)七月二〇日新たに勅令で「地方官官制」を公布した。これにより、従来府知事・県令と呼ばれていた地方長官の呼称が知事に統一され、内務大臣の指揮監督の下に管内行政及び警察事務を総理し法律命令を執行することが規定された。各府県庁には第一部・第二部・収税部・警察本部が置かれ、部長は奏任官待遇で内務大臣が任命した。部中には各課を設けて事務を分掌したが、本県は同一九年八月四日に県行政機構を表2-7のように改めた。
 「地方官官制」はその後数度にわたって改正され、本県でも、その都度「愛媛県処務細則」を改定公布して県行政機構を改め、県独自の部課はなくなった。
 地方官官制はしばらくはほぼ三年ごとに改められた。明治二三年一〇月の改正では知事官房が新設され、従来の機構は内務部・警察部・直税署・間税署・監獄署の二部三署制となった。同二六年一〇月の改正では、直税・間税の二署が収税部に改称統合された。この収税部は、同二九年一〇月に大蔵大臣管下の税務管理局に移され、収税部関係の条文は地方官官制から削除された。同三二年六月の改正では新たに視学官を設けたほか内務部の改組を行った。本県は同三四年三月に処務細則を改定して大規模な機構改革を実施し、知事官房と内務部の課内に係を置き分掌事務を明確にした。
 このうち、監獄署については、明治三六年一〇月の地方官官制中改正及び監獄官制により司法省の管轄に移った。その後も府県官制の改正が続き、同三八年には内務部を第一部・第二部・第三部に分け警察部を第四部とし、奏任の書記官・警部長・参事官・視学官を廃して事務官に統一したが、同四〇年七月にはこの四部制を廃して内務部・警察部の二部制に復し、さらに大正二年には事務官を廃して内務部長・警察部長・理事官を置いた。

 明治後期の県財政と税制

明治二三年(一八九〇)の「府県制」では、府県の財源は府県税その他の収入によることとされたが、
ほとんど財産を持だない府県は税収入に依存しなければならなかった。府県は、三新法以来の地方税規則を踏襲して地租割・戸数割・営業税・雑種税を徴収し、新しい税種目は加えられなかった。愛媛県が府県制を施行するのは明治三〇年(一八九七)一〇月からであったが、それ以前に府県制を実施していたとしても県税財政の仕組みに関する限り「地方税規則」の時代と変わらなかった。
 国税は明治初年以来の地租のほか酒造税・醤油税・煙草税など商工関係諸税で構成されていた。国税の大半は地租に依存していたが、地租増徴には限度があるので明治一四年以後商工税が増税され、同二〇年には所得税が加わった。さらに日清戦争後の軍備拡張のための財源捻出に明治二九年度から国税としての営業税が徴収されることになり、従来地方税であった営業税・雑種税のうち一か年の売上高一、〇〇〇円以上に賦課してきた大口担税者が国税に編入された。府県税収入総額の五分の一を占めていた営業税・雑種税の主要部分を失ったことは戦後委任事務の激増に伴い膨張してきた府県財政に大きな打撃を与え、免税点以下の零細な商人に対しても過重な営業税を賦課するようになり、府県税の大衆課税的性格が強まった。これに砂糖消費税や日露戦争中の「非常特別税法」による織物消費税が新設されて国民大衆は過重な税負担に苦しむことになった。
 図2-6は、明治後期に愛媛県民が負担した国税各税目の推移を五年ごとに図示したものである。日清戦争後の戦後経営で国税は急激に増加しており、明治二三年度を基準にすれば同三三年度は二倍、同三八年度は三・三倍に膨張している。とりわけ酒造税は明治二九年度の税制改革でこれまで首位を保ってきた地租をしのぎ、さらに同三二年の酒造法改正による増徴によって地租の倍額を占めるに至った。また所得税・営業税の増徴も日露戦争以後著しく、砂糖・織物消費税や通行税・相続税の新設と相まって課税対象が農民から一般勤労大衆に広く及んできたことを示している。我が国の資本主義社会の発展に画期的な影響をもたらした日清・日露戦争と両戦争の戦後経営は農民と勤労大衆の負担増によって賄われたといえよう。
 国税付加税に依存する県税・市町村税も当然のことながら国税の膨張に付随して伸張した。図2-7は、先の図の愛媛県民による国税負担に県税・市町村税を加えてその租税総額と三税の増徴をグラフで示したものである。
明治二三年と同二八年の間は国税と県税・市町村税ともに緩やかな増加傾向であったが、同二九年以降三税の伸びは急激となる。三税中県税は、明治二八年度が同二三年度の一・七倍、同三三年度が四・五倍と増徴したが、同三八年度は戦費調達のための地方財政圧縮政策で四・二倍にとどまった。
 日清戦争の勝利による戦後経営として、政府は産業資本の発達に対応した土木・教育・勧業・保健衛生などの国内行政を整備する必要を痛感した。しかし国家財政の状態は、軍備の拡張、植民地の経営、製鉄所・鉄道などの拡充に多額の経費を必要とし、これらの国内行政費目に十分な国庫支弁を補給することが出来なかった。この矛盾に対処するために政府は、矢継ぎ早やに数多くの特別法令を公布して地方団体に委任事務を義務づけ、また各種の国庫補助法令を制定して国庫から僅少の補助金を交付することで委任事務の完遂を図った。明治二九年の「河川法」・「害虫駆除予防法」・「獣疫予防法」、同三〇年の「砂防法」・「伝染病予防法」・「蚕種検査法」、同三二年の「高等女学校令」・「実業学校令」・「災害土木費国庫補助規定」・「府県農事試験場国庫補助法」、同三三年の「汚物掃除法」・「下水道法」・「市町村立小学校教育費国庫補助法」などがこれである。各分野の特別法令による委任事務の激増によって、地方団体の財政は急激に膨張した。明治二九年度四三万一千余円であった本県の歳出総額は同三三年度には一一〇万六千余円に達し、五年間で二・六倍に膨張している。土木・教育・勧業・衛生関係費はいずれも三倍以上に上昇し、なかでも教育費はこの年の県立農業学校と三高等女学校の設立などで五倍以上に増額している。図2‐8は明治二三~二八年度と同二九~三六年度の歳出平均額により決算上における各費目の構成比の変化を見たグラフであるが、明治二〇年代の警察・監獄・郡役所諸費に代わり、明治三〇年代以後は土木・教育費が歳出予算の中枢となり歳出規模を高めていることが理解されよう。
 明治三二年(一八九九)三月の「府県制」「郡制」の全面改正は、日清戦争後激増した委任事務の官治的能率的処理を実現しようとしたのであり、財政制度については地租付加税の制限を地租四分の一から三分の一に広め、新たに使用料・手数料の徴収や積立金穀の設置と特別会計の設定を認めた。この結果、本県の地租割は明治三一年度の二七万六千余円から同三二年度は四九万八千余円に増徴され、県税中地租割の占める割合は前年度の五六%から六三%に拡大した。もっともこの三二年は八月の東予地方大風水害復旧の財源として、地租割が非常加徴された面が強いが、本県では災害土木費の場合にのみ認められた地租割制限外賦課を常に適用して、この年には賦課制限地租一円に付き三三銭三三(地租の三分の一)をはるかに超過して地租一円に付き郡市負担七七銭七〇を課していた。
 こうした地租割の制限外課税も日露戦争中の「非常特別税法」で厳重に規制された。これにより本県の財源は大きな制約を受け、明治三七年度の地租割は地租一円に付き五〇銭の制限のところ郡市負担四九銭九に抑えて枠内にとどめた。この結果、この年の地租割徴収額は三二万三千余円に減少した。同三八、三九、四〇年度は風水害対策費充当の制限外課税が許可されたので、地租割は再び増加傾向となった。さらに同四一年の「地方税制限二関スル法律」で地租賦課制限率が一〇〇分の五〇から一〇〇分の六〇に引き上げられ制限外課税の規制も幾分緩和されたこともあって、地租割増徴を助長した。しかし地租割をはじめとする国税付加税には厳しい制限が設けられていることには変わりがなかったので、府県では委任事務の増加や地方施設の拡充に伴う財源をいきおい独立税である戸数割に依存するようになった。本県では、明治三六年以降戸数割の県税に占める割合が一一〇%を超え、相対に地租割は五〇%前後に減じた。明治後期における地租割・戸数割・営業税・雑種税の四県税の推移をグラフで示すと、図2-9のようになる。

表2-7 明治一九年の愛媛県行政機構

表2-7 明治一九年の愛媛県行政機構


表2-8 明治三四・四〇年の愛媛県行政機構

表2-8 明治三四・四〇年の愛媛県行政機構


図2-6 愛媛県民の国税負担の推移

図2-6 愛媛県民の国税負担の推移


図2―7 愛媛県民の租税負担の推移

図2―7 愛媛県民の租税負担の推移


図2-8 愛媛県歳出構成の変化

図2-8 愛媛県歳出構成の変化


図2-9 明治中・後期愛媛県税の推移と構成

図2-9 明治中・後期愛媛県税の推移と構成