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愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)

5 政治運動の高まり

 香川県の再置

 明治九年(一八七六)八月二一日、香川県が愛媛県に併合された。この年、政府は四月と八月の二回に分けて府県大廃合を断行した。廃藩置県直後につぐ第二次廃合であり、先の四〇万石に対し八〇万石を基準に狭少な県の隣県への併合を進めた結果、全国は三府三五県になった。香川県のほか鳥取・佐賀・富山・奈良などが廃県の運命に陥り、阿波国の名東県も高知県に統合された。
 香川県は、明治四年一一月高松・丸亀両県が統合して生まれたが、同六年二月名東県に合併した。同八年九月再び香川県に戻ったのもつかの間、一年足らずして愛媛県に併合されたのであった。香川県民の受難は高松藩が朝敵藩であったことが大きい原因であるともいわれるが、高松・丸亀両藩合わせて三〇万石の県域では新しい地方政治の主体として財政的にも弱小であり、愛媛県への併合は行政効果の面からやむを得ない処置であったとも考えられる。しかし、当時は通信・交通機関施設が未発達であっただけに、両県の合併は机上の計画としては妥当であっても、現実には問題が多かった。
 讃岐から陸路松山の距離は、西端豊田郡で三〇里、東端大内郡で六〇里、平均四五里余の道程は四日を費やした。海路を取れば三津港に向かう汽船が入港するのは多度津港のみ、海が荒れれば二、三日も港に滞在せねばならなかった。県庁のある松山は日々商況が盛んになるのに反し高松は衰退した。そのうえ、香川県が設立した高松師範学校・高松病院附属医学所などの諸施設が愛媛県に合併後次々に廃止され、教員・医師を志願する者も遠隔と学費がかさむので就学を果たせなくなった。公共施設が松山に集中しているため、讃岐人が負担した地方税のうち二、三万円は伊予の地に配当されて収支相償わず、税の使途でも讃岐は不利益をこうむっていた(一三年度決算報告による讃岐人民からの徴収額は一九万二、八四五円で讃岐のための支出は一六万三、〇七二円であった)。
 讃岐人の不満は大きく、分県の希望は強かった。明治一三年と二〇年の「県政事務引継書」は共通して讃岐国統治の難しさを指摘していた。また参事院議官山尾庸三は、「愛媛県巡察復命書」の中で、「讃岐地カハ頓二分県独立ヲ企望シ其目的ヲ達センカ為メ県令ノ行為二対シ一挙一動之ヲ攻撃シ之ヲ妨碍センコトヲ務ムルノ情況アリ」と報告した。
 明治一三年三月隣りの徳島県が高知県から分離し、同一四年三月鳥取県が島根県から独立した。これら近隣諸県の分離独立に刺激されて、香川の分県運動が開始された。同一五年五月、高松の渡辺克哲・鈴木伝五郎・森島鼎三らは「讃豫分離ノ檄文」を各方面に配布して、分県運動協議のため六月二〇日高松に来会するよう呼びかけた。檄文は、「何ソ我ガ天皇陛下ガ偏二豫人ヲ仁シ豫人ヲ愛シ、我ガ讃人ヲ虐シ給フノ理アランヤ、我が政府何ソ豫讃人民二偏頗不公平ナル処置アルノ理アランヤ、之レ生等が確ク信シテ疑ハサルヨリ此ノ挙ヲ起ス所以ナリ」と天皇・政府の公平な処置を期待して請願を提唱した。ついで、(1)県庁有無の利害や地方税に関する箇条を列挙して讃岐国が幾重にも不利益を受けていること、(2)海上陸路ともに数十里の波濤を越え数日程の嶮路を経るのでなければ遠く県庁に達することができないこと、(3)古来讃豫阿土をもって四国と称するのに我が讃岐のみ独立国でないことは懐慨に堪えないことを挙げて分離論の原由としていた。鈴木・森島は民権結社高松立志社の中心人物であり、讃岐分県運動は民権家が地域住民と結びつく格好の問題であった。
 豫讃分離請願有志集会は、高松の弘憲寺で三日間開かれ、会員・傍聴人三〇〇有余人が参加、その中には六車三郎・片山高義・安井勇平・蓮井慎一ら県会議員も交じっていた。熱気を浴びて会は進められ、「豫讃ヲ割キ讃岐二一県ヲ置キ高松二県庁ヲ設置スル上願」を決議、鼓舞委員を選んで全讃団結の運動に盛り上げることにした。
 この集会後、分県運動は日々高まり、明治一六年二月に讃岐の分離独立願書が上中された。内務省は面積・人口が狭少であるとして讃岐一県の独立に難色を示したようであり、讃岐国を愛媛県から分離して再び徳島県と合体させるという情報も乱れ飛ぶようになった。分県運動を推進していた渡辺克哲らは徳島県との合併を画策しはじめ、徳島県と合併するのなら愛媛県に留まったままでよいとする一派も生まれた。
 県会議員小西甚之助と安井・蓮井らは、明治一八年一一月一八日付で「豫讃ヲ分割シ讃岐高松二県庁ヲ設置ノ儀二付建議」を内務卿山県有朋に提出、讃岐人一般の意志は讃岐国の分県独立にあることを明言して、分県の早期実現を要望した。建議は、政府が讃岐は面積・人口ともに他県に比べ狭少で到底一県を維持する実力がないと見るならば誤った認識であるとして、豫土阿三国の面積・人口を比較、伊豫には劣るけれども土佐・阿波に比べれば超過か対等であると反論した。また讃岐の特産物砂糖・食塩は質量ともに全国の重要産品であり取り引き金額も少々のものではないとして、面積・人口から見ても貧富の度をもってしても、我が讃岐は全国の中等以上に列する土地であり十分に一県独立し得べき資格があると強調した。
 讃岐の分県運動は党派的対立や地域的利害を含みながらも県会議員中野武営・菊池武煕・小田知周、元県会議長松本貫四郎ら改進党系有力者も加わって政府・内務省への陳情が続けられた。政府が、讃岐の民意を汲んで香川県を再置したのは明治二一年(一八八八)一二月三日であり、同日付で逓信局の林薫が香川県知事に就任した。愛媛県からの香川県分離を最後に全国行政区は三府四三県となった。以後、府県統合は構想としては時々に提示されたが、実行に移されることはなかった。

 自由民権運動言論人末広鉄腸

自由民権運動は、明治六年政変で下野した板垣退助ら四参議が、翌七年(一八七四)一月に「民撰議院設立建白書」を左院に提出したことから始まった。これは、大久保利通政権下の有司専制政治を克服し、民選議院の開設により士族・上流平民に政治的発言を認めさせようとする運動であった。愛媛の民権運動は長屋忠明らによって先鞭をつけられた。彼らの民権結社公共社は、明治一〇年に「人民ノ権利ヲ鞏固こし、人心開化を旨として組織されたもので、愛国社に加盟して全国民権結社につらなるとともに、「海南新聞」の発行などを通じて県内民権運動に大きな影響を及ぼした。明治一四年(一八八一)に国会開設の詔が出されると、自由党や改進党が生まれ、本県でも、長屋らに代わる藤野政高・白川福儀らの若い指導者が、公共社政談部を廃し松山自由党を発足させた。しかし、その間に開明県令岩村高俊が離県し、明治一三年制定の「集会条例」などによる政党への圧迫が強化されたため、経営難となった公共社及びそれに依存した松山自由党は、同一五年に解散を余儀なくされた。その後、長屋・藤野らは海南協同会をつくり、国会開設に備えて板垣退助を招くなど幅広い活動を進めたが、これまた資金難と会員の不熱心さから、自由党解党の翌一八年に解散した。
 こうした不振の県内政治運動に大きな刺激を与えたのが、地租軽減・言論集会の自由・外交の挽回を目指す三大事件建白運動である。これに熱心にかかわったのが、自ら〝佐倉宗五郎〟を気取った藤野政高である。藤野は、伊藤内閣の退陣を求めて上京したが、保安条例によって東京から退去させられた。井上馨外相の条約改正に反対して起こった超党派の反政治運動=大同団結運動は、本県民権派勢力を活気づけた。大同団結の機関紙「政論」主筆の末広重恭(鉄腸)が帰省し、「我党の目的」「代議政体ヲ利用セヨ」などの政談演説を行ったのは、この時である。末広は、国会での多数派工作と自らの衆議院議員選挙出馬のため、各地を遊説し、改進党を排除した旧自由党系の地方団結を呼びかけた。他方、改進党に傾いた県政財界の重鎮小林信近や高須峯造らは、改進党が大隈重信の入閣を機に大同団結運動から離脱した後、同二一年に「豫讃新報」(のち愛媛新報)を発刊し、その発行所内に条例による検束を避けるため政治結社の体裁をとらない豫讃倶楽部(のち愛媛倶楽部)を創設した。藤野ら大同派と小林ら改進党系は、愛媛と香川の分離に伴う二二年の県会議員総改選で、激しい選挙戦を行ったすえ、改進党系が二一議席を得て大同派をおさえた。大同派は、同二二年に入ると大同団結運動の指導者後藤象二郎の黒田内閣入閣を機に、二派に分裂した。この二派の対立解消を目指す板垣らによる自由党再興や愛国公党加盟をめぐって、県内大同派も、藤野らの愛国公党系と鈴木重遠―末広らの大同倶楽部に分かれた。明治二二年秋、大同派は条約改正中止を、また改進党系は改正断行を元老院にそれぞれ建白するとともに、各地に自派傘下の政治倶楽部の結成を促した。その間、自由党再興に反対の末広ら中央論客が、足しげく帰県した。翌二三年の県会議員半数改選では、大同派は、その分裂・抗争にもかかわらず一五人を当選させ、非改選議員を合わせて二六人の多数を制した。こうした政情下で、県内政社三派-小林・高須らの改進党系、藤野・白川福儀らの愛国公党系、鈴木らの大同倶楽部系は、それぞれに中央政社との連携を強めつつ、同二三年七月の第一回総選挙に向けて活動を展開していった。
 以上の政治的自由・国会開設などを求める本県の自由民権運動は、中央政界のほか高知県の動向に左右された。その一端は、本県民権結社が、末広らの中央論客の去就に伴い離合集散する傾向にうかがえる。また福島事件などの激化事件が松方デフレ下で展開するパターンが、南予の無役地事件のなかにもみられず、その上、大同団結運動・三大事件建白運動の参加者は、旧庄屋層であったため、地域農民の生活に根ざした要求などは吸い上げられることはほとんどなかった。このことは、本県の自由民権運動が、士族・豪農民権の域から大きく出ることはなかったことを意味していた。
 愛媛の自由民権運動の理論的指導者であった末広重恭は、士族民権を「偽民権論」と断じ、志を官途に得ることの出来ない者が「名ヲ民権論二籍ツテ政府二抵抗シ以テ其ノ不平ヲ霽サンド欲スル」に過ぎないとしている。末広は嘉永二年(一八四九)二月宇和島藩士の家に生まれた。藩校明倫館に学び、「日夜苦学、殆ント文庫中ノ蔵書ハ読ミ尽クス」勉強家で、若くして藩校の教授に抜擢されたが、やがて江戸・京都に遊学した。明治五年帰郷して神山・愛媛県の官吏を務めたのち大蔵省に入ったが、ほどなく同省を辞した。折から民選議院設立建白を機に政論が盛んになってきたので、言論人として立つことを決意して明治八年四月「曙新聞」社主の招きに応じて編集長に任じ、筆名を鉄腸と号した。約二か月後、政府が「新聞紙条例」を公布すると紙上でこれを痛撃して禁錮三か月の刑を受け、最初の処罰者として言論界の注目を浴びることになった。刑を終えると「朝野新聞」に入社して、主宰者成島柳北と共に政府批判を続けしばしば刑に服したが、朝野新聞の名物記者として論壇の花形に躍り出た。
 明治一四年板垣らが自由党を結成すると末広鉄腸はこれに加わり、朝野新聞の主筆のかたわら党の機関紙「自由新聞」の社説係となり、自由と権利を主張して党勢拡張に尽くしたが、やがて板垣の外遊問題が起こると、これを不可解として同党を去った。末広は士族民権に不信を抱き、健康を害したこともあって政治小説『二十三年未来記』『雪中梅』『花間鶯』を執筆、国会開設に対する期待と政治青年の理想的生き方を活写して好評を博した。
 鉄腸はこの印税で欧米に旅行、一年間の漫遊の後、「大阪朝日新聞」
を経て「関西日報」の社長兼主筆となって健筆を振るい、やがて大同団結運動に共鳴してこれに参加した。明治二二年宇和島に帰省した末広は、南予地方だけでなく松山など県内各地の政談演説会に招かれて弁舌を振い、国会開設に備えての地方団結と政治への覚醒を呼びかけた。同二三年(一八九〇)七月の第一回衆議院議員選挙に当選して念願の国会議員になったが、地元大同派の分裂抗争に巻き込まれ、また国会で政府案に賛成して政治的節操を疑われるなどして同二五年二月の第二回総選挙では落選の憂き目にあった。理論面では士族民権を偽民権論と断じながらも本県での遊説行脚は大同派のてこ入れであり、末広自身の国会進出のための選挙運動であって、その政治行動は士族・豪農民権の枠を出るものではなかった。その拠り所とした有権者豪農層からの支持を失っての今回の落選であった。そこに地盤がなく地名度のみの言論人末広鉄腸の弱さと限界があった。このころから『南海の大波瀾』でフィリピンの独立闘士ホセ・リサールを描き、シベリア・支那方面に旅行して『東亜の大勢』を著述するなど、アジアに関心を示しはじめた。明治二七年九月の総選挙で国会に返り咲いて以後は鈴木重遠らと対外硬派新政同志会を結成、舌がんの悪化するなか病床にあって遼東半島の還付を憤慨した檄文を書き、『戦後の日本』を執筆して、翌二九年二月死去した。
 「東京朝日新聞」は「今や邦家の前途について画策すべき事頗る多く、益々志士を要するの時に当り、硬骨男児を失ふ。惜しみても余りあると謂ふべし」とその死を弔った。郷里宇和島からは鉄腸の文名を慕いあるいはその指導によって、西河通徹・滝本誠一・二宮孤松・須藤南翠・中野逍遥・大和田建樹・木村鷹太郎・村松恒一郎ら多くの文人・言論家が輩出した。末広鉄腸もまた正岡子規同様、郷土の集いの精神の中心にあった。

 政党時代に向かって藤野政高・井上要

予讃分県後明治二三年の県会議員選挙と第一回衆議院議員総選挙では、大同派が改進党をおさえて多数を占め、以後二〇年代はしばらく大同派-再興自由党の多数派時代が続いた。このころ、県下各町村は学校造りや環境衛生の整備のほか、競って道路の改修・新設を計画し、また各政党はこうした地域の諸問題を取り上げ、県会に提案するようになった。
 明治二六年結成の自由党愛媛支部の中心人物は、藤野政高である。藤野は安政三年(一八五六)生まれの旧松山藩士で、代言人(弁護士)を家業としながら三大事件建白・大同団結運動の推進者として活躍、中央にも知られ、「保安条例」で帝都を強制退去させられた。藤野の演説は、講義めいた理屈を言わず激しい熱弁を奮い、「前後顛倒スルコト」があるが、面白く聞かせた。当時の自由党には、長老の長屋忠明のほか、井手正光・白川福儀・岩崎一高・柳原正之(極堂)らの活動家がいた。
 一方、改進党は、一院制・普選を唱える自由党に対して、イギリス流の代議政体を主張した。小林信近・高須峯造・石原信樹・有友正親それに有友の義弟の井上要らが中心人物であった。中央の改進党が大隈の条約改正案を支持したことから国民の反感をかい、第一回総選挙では改進党は敗北した。本県第一区から出馬した小林は、藤野ら自由党におさえられ落選した。
 改進党の井上要は、慶応元年(一八六五)、喜多郡菅田村庄屋有友正盛の子に生まれ、松山で代言人を業としながら、三大事件建白運動が盛り上がる明治二〇年ころまで、藤野らと行動を共にした。同一七年に井上は「政府ト国トノ区別」を演説して、「若手二弁者ナリ」の評判を得た。その後、井上は東京専門学校(現早稲田大学)でイギリス法学を学び、大隈重信の影響を終生受ける政党人への道を歩み始めた。井上の改進党への入党は明治二四年のことである。以後、愛媛の政界は藤野・井上を両軸にして展開された。
 日清戦争後の中央政界では、伊藤内閣が自由党と結び、板垣を内務大臣に迎えたのに対して、改進党は革新党と共に進歩党を結成した。これに伴い進歩党愛媛支部が明治二九年に生まれ、支部長に革新党の鈴木重遠、幹事に井上がそれぞれ就任した。伊藤に代わる松方内閣が大隈を外相に迎えると、愛媛県知事としては初めての政党知事室孝次郎(進歩党)が着任した。さらに同三一年に第三次伊藤内閣が成立したころ、民党合同の気運が高まり、自由・進歩の両党が合同し、憲政党が誕生した。本県でも藤野と井上らがその支部を結成し両党の融合を図った。帝国議会で議席の三分の二を持つ憲政党は、短命とはいえ我が国初の政党内閣-隈板内閣を組閣した。しかし、明治三一年一〇月に憲政党は旧自由党系の憲政党及び旧進歩党系の憲政本党に分裂、前者は同三三年に誕生した伊藤博文の立憲政友会に、後者は同四三年の立憲国民党にそれぞれつながっていった。この間、藤野と井上は海南政友会を組織して民党合同を継続しようとしたが、中央政界が分裂した状態での蜜月は長くは続かなかった。
 明治三〇年の「府県制」実施に伴って行われた第一二回県会議員総改選のとき、井上要は喜多郡から出馬し、当選、三五年まで議長を務めた。晩年の井上が、憲政本党時代のこのころを振り返って、「県会議員は県下各地の一流の人物が推され、役員を争ふといふこともなく、議長の如きは衆望のある者が自然に押し上げられて、初めから終わりまで勤めたものだ」(「井上要翁伝」)と回顧している。井上議長時代の県会には、演壇の設置など帝国議会なみの議事進行様式が採用され、真剣な論戦が繰り広げられた。
 一方、藤野政高は、明治三四年に政友会愛媛支部を結成、その支部長として党勢の拡大に努めた。また海南新聞社長として言論界をリードした。井上が中央政界に進出したのは、改正選挙法による明治三五年の第七回衆議院議員総選挙であり、以後同三六、三七年と三選を果たした。このころ井上は、東京から「中央の政界において二大政党が期せずして其の趨勢を共にする時に於いて、愛媛県会が一種変様の争ひを為しつつあるを悲しまざるを得ず。淡然相迎へ堂々相接して共に県政に貢献せんことを望むものなり」(前掲書)と県会の在り方に苦言を呈した。さらに井上は、四国に国鉄を、県下に電話敷設をと願って各関係当局に働きかけるなど腐心した。
 明治三六年の第一四回県会議員選挙の結果は、憲政本党一八・政友会一八の同数であったが、入脱党があって、政友会が多数を制した。選挙後、井上らは政党としての組織を強化するため、それまでの愛媛地租増徴反対同盟会に変えて、愛媛進歩党を結成した。同党は、中央の憲政本党-国民党と結び、政友会及び同愛媛支部との対決を深めていった。特に、同四〇年の第一五回県会議員選挙では、政友会の安藤知事が提案した二二か年継続土木工事計画をめぐって、政友会・進歩党両派は激しい選挙戦を展開したが、その結果は政友会二三・進歩党一三と、政友会の優位は変わらず、同四一年の臨時県会で先の大土木計画案は可決された。その後、この計画に含まれていた三津浜築港問題について、これを推進する藤野ら政友会と、これに反対し高浜築港を進めようとする井上ら進歩党が、中央政界を巻き込んで激しく応酬した。安藤に代わって伊沢多喜男が本県知事になると計画は変更され、「三津浜疑獄事件」が摘発された。藤野はその罪を一身に背負って明治四二年に政界を退いた。
 井上要は、明治四一年の任期満了に伴う総選挙に自らは出馬せず、〝電力事業の巨人〟といわれた才賀藤吉を推し、国会に送った。井上の不出馬の理由は、伊予鉄道経営の最高責任者として代議士を兼ねることの困難さ、選挙運動費が膨大になったことなどであった。明治四〇年代の県政について、井上は「県会に、政党勢力が及び、二大政党の抗争に入ったのは、明治四〇年安藤知事時代からで」「県庁は政党の出張所の観を呈して居た。土木、教育、産業その他社会施設にしても、県庁の人事にまで立入り、すべて政党勢力の盛衰が、如実に反映するといふ有様であった。」(前掲書)と回顧している。大正二年に桂太郎の立憲同志会が結成され、高須峯造ら進歩党の幹部がこぞって同会になだれ込んだとき、井上は一人その動きに超越し、政界の第一線からの引退を告げた。政界の表舞台から退いて以来ひたすら謹慎していた藤野も大正四年に死去した。