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愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)

4 殖産興業

 士族授産事業

明治維新後、士族は家禄打ち切りで職業を求めて生活の活路を見付けねばならなかった。このため、全国各地で藩・府県当局や有志によって士族授産事業が進められた。伊予国では、松山藩が明治四年一月「郷居令」を発して帰農する士族を対象に賜金制度を設けたり、今治・大洲藩が士族に養蚕を奨励し、宇和島藩が士族の子女に養蚕を伝習させたりしたが、成果があがらないうちに廃藩置県となった。愛媛県誕生前後、県内各地の有志士族が自発的に授産事業を開始した。今治の「正米売買会社」、大洲の融通会社「協勤社」、松山の小林信近らによる靴・紙・織物業の授産会社「牛行舎」、宇和島の金融会社「信義社」など士族授産のための結社が生まれたが、事業として定着したのは養蚕製糸業であった。
 松山士族白石孝之らは、豪商藤岡勘左衛門・仲田伝之じょうらの後援で同五年京阪神で養蚕機織を伝習して帰り、松山養蚕会社の経営に参加した。大洲士族の福井茂平は、明治六年子女二人を伴い丹波綾部で養蚕製糸を学び。「開盛社」を設立して座繰製糸を営み、大橋有は同一〇年県内最初の器械製糸を創業した。宇和島士族の小川信理らは同七年群馬県相生町で捻糸・機織を学び、同一三年小笠原長道らによって製糸会社が設立された。吉田士族遠山矩道は早くから養蚕製糸業に着目、明治一三年「興業社」を設立した。同社は、同一五年広小路に三〇釜ケンネル式器械製糸と座繰機一五台設備の新工場を建て、株主五〇〇余人を有する会社に成長した。松山士族池内信嘉は同一五年松山蚕糸会社を設立して、士族の子女一一七人を群馬に派遣した。東予では新居郡長の和田義綱が同一三年に西条の自宅で製糸業を開始し、翌年郡長を退官して三〇釜の製糸を経営した。
 県当局もこれら先覚者の努力に刺激され、明治一二年一〇月、温泉郡素鵞村立花の興産社製茶場を借りて一二人繰りケンネル式機械を設備し、各郡から一八人の女子を募集して機械製糸を伝習させた。政府が起業基金による士族授産金貸し付けを開始したのは明治一二年(一八七九)三月からであった。士族授産資金制度は、同一四年に勧業委託金、同一五年に士族勧業資本金と名称・内容を変えたが、ともかくも同二二年三月まで資金貸付けが継続された。政府の資金貸付けが開始されると、県内士族団の貸付け申請が相次いだ。
 明治一三年には、旧松山藩卒族一、六六一人が起業基金を申請して同一五年に認可された。この年八月、松山士族小野山義大ほか四人が申請していた紅茶製造資金一万円が下付されたので、小野山らは上浮穴郡久万山に紅茶園・製造場を設営した。同一四年には、松山士族小林信近・本郷重清らか困窮士族救済のための伊予縞木綿工場設立を計画して資本金五万円の貸し下げを出願した。また小松士族池原利三郎ほか八〇人や大洲士族四人が製茶資金を申請した。同年六月、県当局も無産士族のため陶器授産工場の設立と起業資金の下付を願い出た。しかしこれらの資金支給はいずれも農商務卿に拒否された。翌一五年九月、吉田士族遠山矩道ほか三八六人による興産社の事業振張のための資金貸し下げ願いは認められた。明治一四、一五年に政府から貸し付けられた授産金はわずか四万二、四七七円に過ぎず、いきおい旧卒の困窮士族に振り当てられたので出願士族すべてには行き渡らなかった。起業資金は無利子で農業に属する事業は五年、工業は三か年据え置き四か年賦で返納する定めであった。抵当は、公債証書及び地所建物のほか事業用の器械などを徴した。このほか、府県は拝借金高に応じた株金で事業を保証しなければならなかったから、旧藩主・有産士族にこれを割り当てた。
 明治一六年(一八八三)一月から貸し付けを開始した士族勧業資本金は、これまでの起業基金・勧業委託金の時代よりは金額が潤沢になり下付条件が緩和された。この年の旧伊予各藩士族への貸与内容は、小松士族竹鼻陶次ら一二一人の奉書紙の製紙を営む資金八一〇円、今治士族の製糖業(一二八人)・養蚕製糸業(一〇九人)・白木綿機械業(五六人)を営むための資金合計一、九六三円、宇和島士族による足袋製造(一〇四人)・紡績業(一八〇人)・養蚕製糸業(二一○人)の資金合計三、六三一円、大洲士族一二七人の製茶業のための資金一、二〇〇余円、新谷士族による柞蚕(九三人)・養魚(五八人)のための授産金、西条士族の養蚕製糸(一三四人)・傘轆轤製造(五一人)・製紙(一七三人)を営む資金計二、三九八円、松山士族二四三人の蚕糸業経営資金一、六二八円などであった。その後も授産金の申請が相次ぎ、同一八年二一月には旧松山藩卒族山内清平ら七一五人が、松山ー三津浜間の鉄道敷設のための資金八、一七八円の貸し下げを出願、同二〇年一月に認められた。
 表2‐3は、明治二〇年までに勧業資本金から貸し付けられた県内士族授産金の内訳である。業種別には養蚕・製糸に就業した者が全体の四五%を占め、この業に県内士族の多くが自活の道を求めようとしたことが知られる。さらに注目されるのは、未就業者が全体の二五%にものぼることであった。実際には、松山卒族の鉄道敷設計画のように授産金を貸与されながら一部の者は資金提供をしなかったから未就産者はこれ以上になる。また、事業を起こしても、他と比べ破格の貸付金を与えられた小野山義大らの製茶事業が、価格の低落と内紛でたちまち経営難に陥ったように、失敗する場合が多かった。
 こうして、授産事業に従事した士族のほとんどは貸付金が返還できず担保の金禄公債を失って没落していった。この中にあって、遠山矩道らの吉田興業社、池内信嘉らの松山蚕糸会社、宇和島の小笠原長道らの南予製糸会社の三社は、機械製糸工場を経営して活動し、県内製糸業発展の先駆的役割を果たした。

 屯田兵の公募

士族授産事業と関連して、士族を対象とした北海道・東北原野など国内各地の開墾移住が勧奨された。北海道の屯田兵と福島県安積の開拓入植がその代表であった。安積には、会津・二本松・棚倉・半沢の近隣のほか九州久留米・鳥取・岡山・高知・松山の諸藩士族が移住した。愛媛県が、旧松山藩士族五〇戸・一八四人の安積開拓移住を福島県に照会したのは明治一四年七月であった。福島県からは、開墾移住の官費補助も残り少なくなったので一〇~一五戸位にしてほしいと回答があった。室崎久遠・和久脩ら一五戸・五〇余人は同一五、一六年に旅立ち安積牛庭原開拓地に移住した。これらの人々は旧卒の困窮士族で、金禄公債を売却し土地・家屋などの資産もなかった。新天地での安積入植は寒冷の厳しい生活を強いられ、収穫もままならず負債に苦しんだ。移住者のうち二戸はやがて開拓地を離れたが、残った一三戸は労苦を忍び同心協力して困窮に耐えた。八〇年の星霜を経過した昭和三六年一〇月、一三人の子孫は旧松山藩主の孫久松定武に揮毫を依頼して牛庭移住記念碑を建立、祖父一五人の名前を刻んだ。
 屯田兵の募集は明治八年(一八七五)に開始され、一〇年代の五年間を除いて明治三二年(一八九九)まで実施され、全国から合計七、三三七戸、三万九、九一一人が移住したといわれる。明治八~一七年にかけては、屯田兵は、青森・酒田・宮城など東北地方を中心として募集された。明治一八年以降は中部・中国・九州、ついで近畿・四国にも拡大した。明治一八年二月、愛媛県は本年より五か年間にわたり屯田兵を徴募するので、県下士族中年齢一七~三〇歳で身体強壮の者は志願するよう勧誘した。この年は公募に応ずる士族はなかったが、翌一九年に多くの士族が屯田兵を希望、翌二〇年五月に四三戸の士族が室蘭兵村に入った。
 士族屯田は期待したほど入植者がなかったので、同二三年士族に限定していた応募資格を平民に開放した。同二四年四月本県は明治二五年の屯田兵召募を告示し、郡市役所・町村役場に適当の者の誘導方を訓令した。五月、召集者を検査して採用者七〇人・予備一二人を決定したが、郡市別合格者は宇摩郡・越智野間郡が各二二人で最も多く、松山市一六人の順であった。この年は他県での屯田兵希望者が不足したため、六月に松山・今治付近で三〇人の再募集を行った。県は松山・今治の士族の応募を期待したが、人員を満たすことができず、宇摩郡の平民で過半を補わねばならなかった。
 こうして合計一〇七人の屯田兵とその家族が東旭川兵村に移住した。松山市からの屯田兵一六人はすべて士族であり、中でも水野忠恭と津田泰政は松山藩家老の家柄であった。津田は二〇歳のとき屯田兵に応募して北海道に渡り、のち屯田兵村監視を奉じ、東旭川村長・富良野町長を務めるなど、人望を集めた。昭和一三年四月一五日、泰政はNHKラジオで「屯田事情と東旭川屯田兵村に於ける服務と開拓の体験に就て」を語り、これを補足して『屯田回顧録』を雑誌に連載した。これにより、松山士族の屯田入植と開拓の様子をくわしく知ることができる。松山士族出立の際、県知事勝間田稔は「赤きこころを中にして銃と鍬とを右左、家をとまして国を守り、高きほまれを世に残せ」の送別の歌を染めた手拭いを贈った。
 その後、屯田兵は同二六年四〇人、同二八年四八人、同二九年四二人が採用され、九回の募集で本県から二九八戸・一、四八一人が移住したといわれる。

 藤村県政養蚕振興策

関新平死去の後を受け、明治二〇年(一八八七)三月九日前山梨県知事藤村紫朗が本県知事に任命された。藤村は熊本藩士で若い時代は萱野嘉右衛門と称し、十津川郷土とともに高野山に義兵をあげ、禁門の変にも参加した勤王の志士であった。明治維新以来御親兵会議所詰・北越出先軍監などを務めた後、京都府少参事・大阪府参事を経て明治六年一月山梨県権令ついで同県令となり、愛媛県に転ずるまで一四年余の長きにわたって山梨県に在任して県政の基礎を確立した。
 藤村の山梨県政は、養蚕製糸を中心とする殖産興業政策や洋風学校建設など文明開化策に見るべきものがあり、同一〇年五月には特設県会を開設して民費・凶荒予備金貯蓄・小学校費などについて審議させた。同一二年の郡長任命にあたっては、地元の有力者を登用、その中には在野の民権運動家も口説かれて奉職した。こうした藤村の施策は岩村県政と共通したところがあり、開明県令として知られていた。
 藤村が愛媛県に着任早々最も力を入れたのは養蚕の振興であった。本県では、士族授産事業などで蚕業発展の気運が起こっており、明治一九年三月県は温泉郡持田村の民有地四千余坪を借り入れて桑苗園を設けた。藤村知事はこれを一町六反歩に拡大し、ここに県立松山養蚕伝習所を設けて、各郡より蚕業篤志家を募集し、学術の大要及び実業を伝習させることにした。ついで農事巡回教師制度を設け、県官や池内信嘉・小笠原長道らを各地に巡回させて養蚕の誘導に当たらせた。また郡長・戸長に命じて蚕業奨励演説会を開催させ、篤志家に蚕業の効用と利益を説かせた。藤村自身も山梨県での経験を生かし、しばしば告諭を発して蚕種・桑樹の精選と桑苗植え付けの心得などを具体的に説いた。
 この結果、養蚕が県内各地に急速な勢いで普及した。ことに中南予に比べて従来関心の薄かった東予にも桑園が増加したので、愛媛県の産繭は明治一九年時で九五四石であったのが、同二一年一、六六九石、同二二年二、一三五石に増大した。養蚕業は本県の新しい物産として注目されるようになり、明治二一年一〇月には愛媛県蚕業協会が結成された。
 藤村知事はまた本県の懸案事項であった土木事業における地方税と町村費負担区分を明確にし、営業税・雑種税を地域等級税による徴収方法に改めようとした。明治二〇年通常県会に提出された「地方税土木費支弁区分及町村土木費補助法」案は、旧藩時代以来の不統一な土木慣行を是正しようとしたものであったが、県会は重要な問題であるので改廃を決しがたいとしてこれを否決した。同時に提出された「営業税雑種税徴収規則」改正案は、売上高による等級税法を廃し営業地区単位に等級を設けて負担額を定めるという新しい賦課法で、徴税事務を経済的に運用し脱税防止を意図したものであった。議会は等級地の変更などの論議が続き、原案を各箇所で改めた。
 愛媛県尋常師範学校は、松山市二番町の旧藩校明教館跡に勝山小学校・伊予尋常中学校と雑居していたが、明治一九年の「師範学校令」で施設の充実が要求され生徒定員も二〇〇人に増員したので、移転新築が急務となっていた。藤村知事は迅速な英断をもって師範学校の新築を計画、敷地を木屋町・府中町に予定して地所購入の示談を進めた。しかし地主の一部と金額面で折り合わず、県は「公用上地買上規則」を適用して強制買収した。地主はこれを不当として裁判所に提訴した。この間、山梨の洋風建築家小宮山弥太郎を招へいして師範学校の建設が開始されたが、訴訟との兼ね合いがあって起工から落成に至るまで三か年を要し、完成したのは明治二三年九月であった。この校舎は、愛媛の〝阿房宮〟と称せられるほどの華麗な建築物であったが、山梨県の土木業者の請負いが地元業者の反感を呼び、また多額の出費がかさんだ。
 藤村紫朗は、明治二一年二月二九日突然本県知事を依願退職して熊本農工銀行頭取に就任、やがて貴族院議員に勅選された。「海南新聞」明治二一年三月三日付は、養蚕の奨励など殖産興業に熱心な知事であったが、「此等に熱心せらるゝの余り或は少しく干渉の弊に陥ることは無きやとは昨今世人の専ぱら唱導する所なりし」と評した。山梨県で事績をあげた藤村知事であったが、万事性急な独断専行の気質が愛媛の風土と合わず、わずか一年の在任で自ら本県を去った。風土と人が適合せず、前任地と人物評価が分かれた典型であろう。

 小林信近伊予鉄道の創設

 小林信近は、近代愛媛における士族授産・殖産興業さらには県政界に大きな足跡を残した重要人物である。小林は、松山藩主久松勝成及び定昭の小姓として江戸・松山・京阪などの間を足しげく往復し、また長州再征には内藤素行らと行動をともにした。廃藩置県後の明治五年に石鐡県九等出仕、七等出仕として、当時進められた県の統廃合の事務引き継ぎなどにたずさわった。その後、小林は地方行政のみならず、松山同志会・立憲改進党への参加など政界とのかかわりを持ちながら、士族授産さらに県内殖産興業の道を自ら身をもって探っていった。明治六年に政府が家禄奉還制度を定めると、小林は早速に家禄奉還を申し出ている。そして特設県会の議員に当選した同一〇年に至る間、浅田原桑園の開墾、陶器製造、東野茶園の開発、松根油の試製など、士族の生活の糧を模索してやまなかった。それは、専ら自己の営利を追求するためだけに試みられたのではなく、当時俸禄を失った士族が、どうすれば生活の途を切り開くことができるかを自ら率先して実験したものといわれている。また、次に見る小林による諸事業の経営についても、終始一貫、地方産業の開発・振興、県民生活の向上という高い理念によって導かれたものと評価されている。
 まず牛行舎は、小林を社長とする士族授産のための工業会社であった。明治九年に旧松山藩主久松家から資本金一万円を授けられ、松山木屋口にあった旧藩の製紙場の建物を借りて設立された。製靴・製紙を男子部、織物を女子部とした。しかし、製紙・織物については、従来の商工業者と競合する形となったため、「士族の商法」の牛行舎は経営不振となり、明治一九年閉業せざるをえなかった。なお県内製靴業の始まりは、この牛行舎によるものであった。第五十二国立銀行は、小林が、加藤彰らと協議の上、明治一一年に資本金一〇万円で創立したものであった。銀行への投資は、秩禄処分によって困窮しつつあった士族の家禄経済を保持するには、最も適した措置とされていた。小林は、この銀行の発足と同時に頭取となったが、明治一一年の郡制施行に伴い、和気温泉久米の郡長に任命されたため、行務は加藤に引き継がれた。
 日本最初の軽便鉄道といわれる松山ー三津浜間の鉄道が開通したのは、明治二一年(一八八八)一〇月のことであった。この鉄道敷設に情熱を燃やしたのが、小林信近である。小林は、明治一六、七年に神戸鉄道局の用材(枕木)調達を請け負い、そのためもあって、すでに払い下げを受けていた自分の所有林(上浮穴郡杣川村中山)の檜を製材して大阪に輸送することとした。久しく大阪に滞在して阪神間の汽車旅行を楽しむうちに鉄道事業に関心を持った。当時、松山-三津浜間の道路は、物資の輸送に適さず、その整備が急がれる状況にあった。小林は、資本金三、四万円で利益を生むと見積もった鉄道の敷設を計画し、資本の半額は授産金で引き受け、他は地方有志より募集した。資本金集めは初め容易でなかったが、その問題は、殖産興業に極めて熱心な藤村知事の支援などがあってやがて解決し、伊予鉄道会社は明治二一年一○月二八日に営業を開始した。当時「陸蒸気」とか「マッチ箱」の異名をとったドイツ製機関車・客車は、今日、愛媛県指定有形文化財(歴史資料)「坊っちゃん列車」として県内外に広く知られている。松山-三津浜間鉄道の高浜までの延長は、明治二五年に実現した。それに伴って起こった高浜築港問題は、同二七年の高浜築港期成同盟会の発足以来、三津築港問題とからんで県政全体を揺がしたが、結局、同三九年になって新しい高浜港が開床し、大阪商船の船舶が高浜に寄港し始めた。
 小林はまた、明治二八年に仲田槌三郎らと資本金一〇万円の松山電気会社を設立、さらに同社は二九年に篠崎謙九郎らと合同して資本金二〇万円の伊予水力電気会社に発展した。しかし水利問題、不況などから営業の開始は遅れ、三四年に至って社長仲田伝之じょうと取締役専務小林信近の経営陣で、湯ノ山発電所が発電を開始し、本県に文明の照明が当てられることとなった。小林らが着手した電気事業は、県民の生活感覚や様式を大きく変えていった。ちなみに、柳田国男は、照明の近代化を「電氣燈の室毎に消したり點したりし得るものになって、愈々家といふものには我と進んで慕ひ寄る者の他は、どんな大きな家でも相住みは出来ぬやうになってしまった。」(「明治大正史・世相編」)と分析した。
 小林信近の一生は、以上のように、本県経済活動の根幹というべき金融、運輸、電力事業などの発展にささげられたといえる。また彼は、経済界の先覚者であったばかりでなく同時に県政界の先覚者でもあった。伊予鉄道など小林の事業を継承した井上要は、小林信近について「翁は政治上社会上の地位に安着するを好まず常に興味を以て新事業の開発に志し、次ぎから次ぎへ新らしき知識、新らしき技能を欲求し、其実現を企てて止む処を知らぬ有様であった」「此鉄道と電気とだけは幸に成長を遂げた」と語っている。

表2-3 愛媛県の士族授産金(勧業資本金)による就業別一覧(明治20年 伊予国のみ)

表2-3 愛媛県の士族授産金(勧業資本金)による就業別一覧(明治20年 伊予国のみ)