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愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)

2 県政の始まり

 岩村県政地方民会の設置

本県は、政府から見れば難県の一つに数えられていた。右大臣岩倉具視の命を受けて参事江木康直を督励に訪れた政府役人は、「数多ノ旧藩庁合併ノ県ニテ風俗人気均シカラス、又旧習還俗モ各趣ヲ異ニシ、立県モ日浅ク未タ均一ノ県治二立至ラス」と報告している。新政を不満とする官民の苦情が相次ぎ、江木参事は健康にすぐれず権参事大久保親彦との対立で、県政は滞っていた。
 明治七年一一月二四日、政府はこれまで欠員であった令に岩村高俊を任命した。長官としての任期が浅いため権令の肩書きであったが、名実ともに本県最初の地方長官であった。岩村は高知県宿毛出身の士族で、長兄は北海道開拓判官としてらつ腕を振った岩村通俊、次兄は自由民権運動で活躍する林有造であった。高俊は、戊辰戦争に際し北陸討征軍の軍監を務め河井継之助との談判を打ち切って長岡城を攻撃、維新後政府に出仕して各官を歴任した。明治七年一月、兄通俊を引き継いで佐賀県権令となり、江藤新平の佐賀の乱の処理に当たった。その後、台湾出兵問題で渡清する内務卿大久保利通に随伴、帰国したばかりであった。
 岩村が赴任する直前に江木参事が松山で病没したが、着任早々に大久保権参事を罷免して、後任に山口県士族の赤川戇助を昇格させた。ついで、石原撲・藤野漸・竹場好明・内藤素行ら県内の旧藩士族を登用して県政の中枢にすえ、地租改正・学制などの遂行に当たらせた。薩長土肥出身の士族が全国府県庁の幹部吏員を占める中で、岩村の本県士族の積極登用は、岩村の評価を高める一因となった。(表2ー1参照)
 当時の地方長官に課せられた最大の任務は、国家財政の基礎となる地租改正事業を成功させることであった。その事業の担い手となるべき戸長が、村治に苦しみ辞職する傾向にあったので、岩村は明治九年六月「戸長公撰仮規則」を定めて、前戸長の転任免職や死亡に際しての後任戸長を小区内の組頭・議事役に選ばせることにした。翌一〇年四月には「組頭撰挙仮規則」で、町村ごとに置かれた組頭も町村会議事役が選ぶことにした。戸長・組頭の資格は年齢二〇歳以上で品行方正、学識があり通常の資産を有する戸主であった。地域の地主・豪農に公選された戸長・組頭を「人民ノ惣代」と位置づけ、地租改正・学制・徴兵など住民に直接に影響ある国家政策の促進を求めたのである。
 同様の政治的意図をもって、岩村は町村会・大区会を開設した。明治八年三月「町村議事会心得・仮規則」を公布して、衆庶公同の利益を図るために町村議事会を設けるとした。審議事項は官令の趣旨の遵守、開化の進捗、町村費の決定、租税諸公費の検査、備荒儲蓄、学校設立と就学、貧民救恤、警察保安、水利土木、産業開発、町村共有財産取り扱いなどであった。議事役の選挙権・被選挙権は町村内に居住し不動産を所有する年齢一八歳以上の男子の戸長であったが、不動産がなくても選挙人すべての推薦があれば議事役になることができた。議会は町村ごとに設けるのを原則とし、広い人家や寺院などを議場にして毎月第一金曜日に開くことにした。この年六月に召集された地方官会議での報告によれば民会を開いている府県は神奈川・兵庫など七県に過ぎなかった。岩村は町村議事会が盛大になることは県民の幸福のみならず県の名誉でもあり、大小各区事務取り扱いの助けにもなると、区戸長に説いている。町村費・徴税・学校づくり・水利土木などを合議制に基づく決定に依存することは、町村行政の発展と事務の円滑化をもたらし、行財政に関する民衆の不満を議会という一定の枠の中で解消させようとする政治的安全弁とも考えた開明的地方長官の先導的試みであった。
 町村会は翌九年七月までに県下のほとんどの町村で開設され、その数一、〇一八にのぼった。しかし町村会は岩村の期待どおりには活動しなかった。議員の不参遅刻が多く議会はしばしば流会、議員の才能が乏しく徒らに紛議を重ねて時日を費すに過ぎないといった建言や伺上申が県に寄せられた。岩村は、「廟堂ノ太政」や諸成規・定則を改変したり区戸長に対決したりすることは会議の本旨に背くので、公同協和の精神を失わないようにせよとか、公私の会議に不参遅刻するのは文明国人ではないので人々相互に規約を順守し信義を失わないようにせよといった告諭を出さればならなかった。町村会議員は、欧米流の議会制度に対応するだけの知識・技量を持たず、自覚も乏しかったのである。
 明治九年七月、岩村は「大区会仮規則」を定め、町村会に続いて大区会の開設を促した。大区会の選挙人・議員資格は小区内に居住して不動産を所有する年齢二〇歳以上の男子戸主であった。一小区ごとに一~二人の議員が選ばれて、大小区費、民積(民費)、風俗取締、物産興隆、土木運輸などの事項を審議することになった。大区会も、目下至急を要する事件がないとか議員の出席が少なく半数に至らないなどの理由で延期を願い出る大区が多く、町村会同様あまり活発ではなかった。

 特設県会の開設

明治一〇年五月八日、岩村権令は「愛媛県会仮規則」を布達して、県内大小の事「衆庶ノ公議」を尽すため今より「公撰ノ方ヲ以テ人民ノ代議人ヲ定メ」、県会を開設して公同の利益を協議させると宣言した。権令は、町村会の体裁がほぼ立ったならば大区会・県会に及ぼすと予告していたが、同九年八月四日香川県が本県に編入合併したので、両県民協調のためにも公議世論の体制を早急に樹立する必要を感じたのである。県会は、不動産を所有する年齢二〇歳以上の男子戸主に選挙権・被選挙権を与え、各大区を選挙区として総計七〇人の議員を選出した。
 初めての県会議員選挙は、五月二三日と定められたが選挙規則の疑義や誤解から各地で混乱が生じ、実際は期日より遅れて実施された。そのうえ当選辞退者が続出して、議員がようやく出揃ったのは六月二〇日であった。選挙民や当選者の多くが県会議員選挙に戸迷いを見せた。議員は役人や区長戸長の経験者で、町村会・大区会の議員もいた。族籍別には不明四人を除くと士族二六人・平民四〇人で、士族の中には松山の小林信近、宇和島の都築温・得能亜斯登、今治の石原信樹など幕末・維新の藩政の中枢にいた人物が含まれていた。
 六月二二日五四人の議員が出席して県会は開会された。岩村は、「夫レ公同ノ利益ヲ図ラント欲セハ、衆議異論二基カスンハアルヘカラス、苟モ衆議概論二基カント欲セハ、広ク之レヲ衆庶二諮詢セサルヲ得ス、此レ議会ノ已ムヘカラサル所以ナリ」「本会ヲ以テ将来本県一百三十余万人ノ洪益福祉ヲ期ス可クシテ、而テ其ノ県治上二望ムノ意モ玆二於テ初テ達スル事ヲ得可シ」と挨拶した。県会議長には小林信近が選ばれた。小林は議員を代表して「我衆議員不肖ニシテ素ヨリ厚意二副フニ足ラスト雖トモ勉メテ協心同力以テ其実功ヲ奏セルヘカラス」と議員を代表して奉答した。議会は七月一〇日の閉会式まで一五日間にわたり民費・学資・警察費賦課の議案について熱心に討論を重ねた。
 。特設県会”と呼ばれるこの県会は、翌一一年四月にも第二回が開催されたが、会期途中で府県会開設が決定されたことが伝えられたので、案件を審議未了のまま閉会した。特設愛媛県会はわずか二回で幕を閉じたが、民費賦課などの議案審議を通じて議員たちは民意を代弁して徴収方法の公平と合理化を要求した。岩村はこれに柔軟に対処して県会の育成に努めた。町村会・大区会の地方民会に続くこの特設県会の開設は、地域代議政体の基礎づけをしたという意味で開明県令岩村高俊を象徴する事績となった。

 愛媛新聞の創刊

明治初期の文化ないし世相を「文明開化」と呼ぶのが慣例である。それは、単なる文化現象を意味するのではなく、この時期の政治・経済・文化のさまざまな相が投影された明治日本の近代化現象を指すものとみられる。この文明開化期に、新聞は政治関係の報道・評論ばかりでなく、新しい思想や諸文化を伝えるうえでも、大きな役割を果たした。近代ジャーナリズムは、幕末に端を発するが、明治最初の新聞は、会訳社が明治元年に刊行した翻訳ニュースを主とする「中外新聞」である。明治三年に宇和島出身の神奈川県知事井関盛艮らが企画した最初の日刊邦字新聞「横浜毎日新聞」が創刊され、近代新聞の形態を備えるに至った。やがて自由民権論が、民選議院論争を軸に展開され始めると、新聞はその論争舞台ともなり、宇和島出身の末広重恭(鉄腸)が記者として活躍した「朝野新聞」は民権派新聞として、「東京日日新聞」は木戸・伊藤らの開明官僚に支持された官権派新聞として、それぞれ世論の形成に大きく寄与した。
 これら中央新聞に対して、地方新聞も明治四~五年ころから各府県の援助を受けて各地に発刊され、文明開化の地方浸透に一定の役割を果たした。明治五年に石鐡県では「新聞紙売弘所」を設け、一方、神山県では布告全書などとともに新聞を村浦役人の責任において回覧するなどして「開化之域二進歩候様」に図った。実際にその発刊が行われたかどうか不明であるが、同五年には「石鍼県新聞」の発行が許可されている。
 明治九年(一八七六)になって、県布達類の掲載を核とする「本県御用」の肩書の「愛媛新聞」が岩村権令や愛媛県英学所長草間時福らの後援を受けて創刊された。しかし県民の新聞への関心は低く発行部数が伸びなかったため、まもなく経営権は松山出淵町の木村庸に渡った。木村は、これを「海南新聞」と改題し、日曜・祭日以外発行の日刊紙として再出発させた。その編集長に旧宇和島藩士族西河通徹が迎えられ、社説を民権論を基調としたものとし、また西南戦争の観戦記事をのせるなど紙面刷新を図って、一、〇〇〇部の発行をみたが、やがて経営難に陥り、翌一一年に政治結社の松山公共社に移譲されることになった。「海南新聞」は、本県自由民権運動の中心的言論機関として、啓蒙思想の紹介や政府・県の施策に対する論説などを掲載して、県民の政治的開化と政治運動への参加に大きな影響を及ぼした。その後、新聞紙の取締り方針が厳しくなると、罰金・発行停止処分が相次いだため、再び経営が傾いた。その危機から脱するために、公共社から独立させ、同一六年二月に小林信近を社長とする株式会社が発行することとなった。この時期の「海南新聞」は、絵入りの小説風読みものの掲載、全文総振り仮名の紙面への切り替えなど大衆新聞へと近づいていった。
 「愛比賣新報」は明治一四年に発刊され、文学少年正岡子規が数回にわたり、その風詠集欄に漢詩を投稿した新聞であったが、翌年に廃刊している。「豫讃新報」(のち「愛媛新報」)は、先の自由党系の「海南新聞」に対抗して、明治二一年(一八八八)に発刊された改進党(愛媛進歩党)系新聞である。この「ヒメ新」と「海南」の両新聞は、二〇年代の県内政財界の対立を反映して、激しい論争を展開した。
 「世相としての文明開化」は、洋食・洋服・洋館などすべて洋の字がつくように西洋趣味を志向した。その開化世相は都市や横浜などの開港場から地方へと伝播した。明治二二年に帰省した正岡子規が、河東碧梧桐らにベースボールを教えたのが本県に野球が伝えられた初めである。洋食などの県内普及は、いわゆる文明開化期から遅れて明治三〇年代後半の日露戦争後に、ロシア人俘虜が松山に多く居住したため起こった「俘虜景気」の際まで待たねばならなかったようである。一方、行政側も、風俗習慣、生活様式を改善し、それらを文明開化の新時代にふさわしいものに変えていこうとした。県当局は、明治六年の男女混浴の禁止をはじめ、立小便、若者組、盆踊りなどを一掃しようとし、さらに太政官達を受けて同八年に「違式註違条例」を定め、開化時代にふさわしくない「悪習」の改善の徹底を図った。

 英学所から松山中学校へ

明治八年(一八七五)八月、岩村権令は松山二番町に英学所を設立した。県立松山中学校の前身である。すでに県内各地で〝文明開化〟の方向を英学教育に求め、この種の教育機関開設が試みられていた。
 明治三年一〇月松山藩校明教館は洋学科を置き、慶応義塾から稲垣銀次を雇って担当教授にした。同五年一〇月には慶応義塾出身の下井小太郎が中心になって大洲英学校を設立した。同六年一月宇和島第一本校(小学校)内に英学舎が付設され、「来る者は棄てず」という意味から、不棄学校と名付けられた。不棄学校には、福沢諭吉の推薦によって中上川彦次郎と四屋純三郎が派遣された。中上川は福沢の甥であり、英語教授だけでなく、学校の制度・規則の設定や学校経営の指導まで行った。また同窓の塾員下井の求めに応じて大洲英学校へも四屋とともに出張教授として出向した。松山の第一本校に付設していた洋学科は同六年三月英学舎と改称、六月には西条にも英学舎が設立された。こうして県内の英学教育は慶応義塾の塾生を担い手として進められ、福沢も中上川らを激励した。しかし中上川は在任八か月を経て慶応義塾で教鞭を取るため東京へ引き揚げ、不棄学校は開校と同じ六年の九月に早くも廃校を余儀なくされた。大洲英学校も県費補助金の打ち切りで一二月廃校した。西条英学舎は予期に反して生徒が集まらなかったので開校に至らなかった。
 岩村権令は、英学教育の必要を察し本格的な英学所の開設を企画した。明治八年七月地方官会議で上京した際、末広鉄腸の斡旋で慶応義塾を出たばかりの草間時福と面接、初対面から政治論を展開する二三歳の青年に松山英学所への赴任を懇請した。草間は、雇入れの期限は満一か年、給料は一か月四〇円・宿代二円などの契約書を交わして八月一個の行季を携えて来松、英学所の開校準備に取り掛った。八月二百に告示された「英学所仮規則」によれば、入学資格は小学校卒業を条件とし、授業料一か月一〇銭で、英学所内の寄留を認め、八月二〇日から開業するとしていた。課業は五級から一級までの教育課程を編成し、教科書は英文原書を使用した。バーレー『万国史』、カッケンボス『米国史』、クェーランド『経済書』『修身論』、スマイルズ『自動論』、ギゾー『文明史』など、その内容はかなり高度なもので、これらは英語の辞書とともに生徒に貸与された。
 英学所に最初に入学した者は勝山学校の課外席(英学舎)と本科小学第一席の男生徒合せて四〇人ほどであった。明教館の三隅にまるくテーブルを囲み、上級組は草間時福が担当してギゾーの『文明史』などを教え、課外席から移った中級生は草間と助教の拓植武憲が受持ち、勝山学校からの三〇余人の児童には最上級生の村井保固・三輪叔載が綴字やビネオの『英文典』など初歩英語を手ほどきした。学生たちは英書を学ぶ以外に月に二、三回演説会・討論会を開いた。岩村権令はじめ県官が臨席して演説を聴いた。ある時、岩村が正面の演壇に着席して両側に居並ぶ学生を一々指名して「銘々が立身の目的如何」と諮問
し、学生はそれに答えて所感を述べたが、新聞記者を志す者が過半を占めたという。
 愛媛県英学所は、翌九年から教育内容を充実して中学校の形態に近づけることにした。今までの原書本位のものから国史・漢学・算術などを加え、課程を少年科と青年科に分けて修業年限を各三年とした。校舎も従来の明教館のほかに二階建ての教場と寄宿舎を建て、慶応義塾に学んだ西河通徹はじめ中島勝載(小林信近の弟)、高木明暉(長屋忠明の弟)、山路一遊(のち愛媛県師範学校長)、太田厚らの青年教師を加えて教職員は一二人に増えた。学校は九月一日から開業して北予変則中学校と称した。これより先、五月には宇和島の不棄学校が再興、慶応義塾出身の細川劉を招いて南予変則中学校として開校した。
 北予変則中学校の校長兼総教には草間時福が契約を延長して引き続き任じたので、草間の学風を慕って県内各地から秀才が集まり生徒数は一二○人に膨れた。この中には宇和島の告森隆徳(後、清水)・谷口長雄・堀部彦次郎らも交じっていた。学校の空気は英学所同様自由で活気に満ちていたが、学業は厳しかった。毎月末には小試験があって席順が決定され、四か月ごとの大試験で等級が定められた。大試験は洋書・漢書・算術が課せられ、誤謬一五点に及ぶ者は進級できなかった。例えば同九年一二月の大試験には、少年科第四級にニウーセルス「英国史」、「日本外史」、算術(単利法・按分逓析比例・少数・分数)が課せられ、矢野可宗・永江為政ら八人が合格したに過ぎなかった。これらの試験結果は、すべての生徒の点数を掲載した「等級試験表」として印刷され父兄に送られた。
 北予変則中学校は明治一一年六月県立松山中学校になり、南予変則中学校は南予中学校と改称、八月大洲に共済中学校が開校した。草間は翌一二年七月に任期満ち、岩村県令はじめ二〇〇余人の知友に送られて松山を去った。この前後に、草間を慕う多くの若者が東京に遊学した。矢野可宗・村井保固・門田正経ら仕送りのある者は慶応義塾に入り、永江為政ら学資の続かない者は官費の学校か私立の各種学校で苦学した。東京でも草間と学生たもの師弟の情義と学生相互の交流が続き、加藤恒忠・藤野正啓・服部嘉陳らを加えての松山同郷人の定期懇親も始まった。
 演説会を開いての自由活達な校風は、草間の後の校長西河通徹らによって継承され、個性豊かな人材を育てた。西河は、岩村が転出した明治一三年に東京に去り、これと前後して正岡常規(子規)が松山中学校に入学した。常規は、草間時代の自由の気風を懐かしみ、回覧雑誌を発行し盛んに演説会を催すが、岩村県令と草間・西河両校長が去った後には束縛を受けることが多くなった。常規もまた明治一六年中途退学して東京に遊学したが、彼を中心に高浜虚子・河東碧梧桐らによって展開される俳諧革新運動は、松山中学校の校風の中で培われた集いの精神を具現化したのであった。

 警察制度の発足

 維新期の混乱にあって士族反抗・農民騒擾の取締りをはじめ犯罪予防、人民保護、風俗改善などに当たる警察制度の整備が急がれた。明治四年(一八七一)七月、政府は司法省を置いて警察権の一元化を完成した。同年末には県兵制度を全国的に廃止、これに代えて府県聴訟課の下に捕亡吏を設けた。この一連の改革は、軍事と警察の完全な分化と軍政警察時代から司法警察時代への転換を意味するものであった。
 石鐡県では、これに従って捕亡掛を任命するとともに、独自に邏卒を配置した。捕亡掛が犯罪の捜査など主として司法警察を任務としたのに対して、邏卒は犯罪予防・人民保護など行政警察を担当した。県聴訟課所管下の捕亡吏と邏卒の二元取締り体制は愛媛県になっても継続され、明治七年時でその数は捕亡吏一五人・邏卒七一人であった。邏卒は、松山・今治・大洲・宇和島の四屯所と一二の支屯所に配置されて、「懇二人民ノ安寧ヲ警保スル」ことを任務として昼夜「巡邏」し、不審者の発見・泥酔者・行路病人などの保護、火災現場の取締り、地理教示、乞食の追い払い、遺失物の受理などに当たった(明治六・六・五「邏卒章程」)。しかし邏卒の絶対数が不足していたので、本県では各大区ごとに民設の番人を適宜置いて邏卒の補佐に充てた。
 明治六年一一月内務省が設置されると、翌七年一月司法省の警保寮が内務省に移された。警察制度は司法警察時代から行政警察時代に移行して、内務省の統轄の下に全国的な統一期を迎えた。まず同八年三月「行政警察規則」が制定され、警察の職務として人民の防護、健康の看護、放蕩淫逸の制止、国法を犯そうとする者の探索警防の四件をあげた。また、その前文で捕亡吏・邏卒・番人など警察職員の名称を邏卒に統一した。
 愛媛県は同規則に基づき四月一五日に「邏卒心得並勤方」を定め、邏卒の具体的な任務として、人命などの保護、持区内の実態把握と不審者の発見、民心の動向査察、道路交通の妨害排除、販売飲食物の検査、旅館などの立ち入り、火災予防及び消防と人命財産の救護、夜間の防犯指導、雑踏警備、迷い子・泥酔者・精神病者などの保護、猛犬・奔馬などの処置、地理教示、遺失物の取り扱い、乞食などの追い払い、特権階級の横暴の制止など極めて広範囲な任務を挙げた。また邏卒の活動拠点である屯所の設置を進め、同八年八月に各大区ごとに一か所ずつ合計一四か所の本屯と八五か所の支屯を設けて一七〇余人の邏卒を配備した。
 邏卒は同八年一〇月全国的に巡査と改称され、巡査を管理する府県官吏として警部が置かれた。県行政での警保事務は同年一一月の「府県職制並事務章程」で第四課(同一三年三月以降警察課)が担当することになった。また、一二月内務省の指示に基づき西条・今治・大洲・宇和島の四か所に警察出張所を設けて警部を派遣した。これに伴い、従前の本屯は屯所に、支屯は分屯所にそれぞれ改称された。明治一〇年に至り、各警察出張所は警察署に、屯所は分署と改称することが指令されたので、本県は二月に高松・丸亀・西条・今治・松山・大洲・宇和島に警察署を設け、その下に六四分署を置いて、五二一人の巡査を配置した。警部の人員は二二人であった。翌一一年には人民保護の徹底を期し難いとする県当局の提案が特設県会で認められて巡査一〇〇人が増員され、同
時に分署を統廃合して四五に減じる代わりに六八の交番所を置いた。同一三年四月には警察課は警察本署となり、一四年一一月から府県警察事務の責任者として警部長が任命された。本県初代の警部長には県令関新平と同郷佐賀県士族の真崎秀郡が就任、同二三年一〇月まで一〇年にわたり在任して、全国に先がけての巡査教習所の開設や水上警察の創設などの事績を残した。
 明治一九年七月の「地方官官制」の制定で、地方警察制度は一層の組織的整備をとげた。これにより、知事が府県警察事務全般を総理することになった。また警察本署は警察本部と改称され、四課が置かれたが、翌二〇年七月に庶務課・保安課・監査課と職務を明確にした課名に改められた。さらに同二三年一〇月の地方官官制改正で警察本部は警察部になり、その下に警務課・保安課・高等警部(のち、高等警察主任)を置き、同二六年一二月には衛生課が内務部から移管された。警察署・分署については、地方官官制ぱ一郡区に一警察署を置く「一郡一署主義」を採用するとともに知事の職権で適宜警察分署を設置できるとした。この基準に従うと愛媛県では三〇の警察署を置かなければならなかったが、小郡の多い本県では警察署の増設はいたずらに警察力を分断するのみで民衆保護の完ぺきを期し難いとの判断から二〇警察署の下に二一分署を置く妥協的な配置を実施した。この結果愛媛県のうち伊予国内では川之江・小松・三津・久万・郡中・八幡浜・卯之町の警察分署が警察署に昇格した。同二二年五月には従来の交番所を全廃して一九の派出所と二〇九の駐在所が新設された。
 こうして地方警察制度が確立し、明治二三年時で警部四七人・巡査四九〇人が警察の職務に従事した。警察費はほぼ県費で支弁され、その予算は県会の審議を経たが、県費中に占める比率は全体の二〇~二五%に及び、県民の大きな負担費目となった。

 防疫・衛生行政

我が国で衛生行政が開始されるのは近代になってからであり、明治七年(一八七四)に欧米の衛生行政制度に範をとった「医制」が発布された。「医制」は当初東京・京都・大阪で差し当たり実施されたが、本県でもこれを参考に衛生行政の基礎づくりが進められた。愛媛県誕生当時の県庁機構には衛生事務を担当する所管はなかった。明治九年一月に至り県職制改正で庶務課内に衛生科が設置され、中属の伊佐庭如矢が専任者となり、ここにはじめて「衛生上二関スル一切ノ事務ヲ取扱フ」機関が県庁内に生まれた。同年六月には各大区に医務取締が置かれ、区内人民の健康保全と医業・薬舗・産婆などの取締りを任務とした。医務取締には、谷口泰庵・谷世範・安倍義任など西洋医学に通じた医師が任命された。これら医務取締と松山病院・高松病院の院長・薬局長・医師が集まって、同九年一二月に第一回医事会議を開いた。医事会議は愛媛の医事衛生制度の成立を目指す専門会議で、権令岩村高俊の掲げる公議世論政治の一翼を担うものであり、翌一〇年一二月にも第二回目の会議が開催された。この会議に、医師の資格問題や種痘普及・伝染病予防方法などが諮問され、その答申は、「種痘所規則」などとなって逐次布達活用された。
 この時期、衛生行政の最大の懸案は、コレラなど伝染病に対処することであった。幕末に猛威を振るったコレラは、明治一〇年から一二年に大流行して多くの死者を出した。同一二年のコレラは本県を中心に流行、伊予国域で患者五、二〇九人、死者三、三六二人を出すという惨事となり、岩村県令も罹患する騒ぎであった。非常事態に直面した県当局は、この試練に懸命に取り組み、コレラの流行が頂点に達した七月には「虎列刺病予防仮規則」「虎列剌病予防心得方」など県布達は防疫関係で占められた。
 年々流行する伝染病に処するためと公衆衛生の強化や医事の近代化の必要から、政府は府県に衛生課設置を指示した。明治一三年(一八八〇)一月、本県の庶務課衛生掛は衛生課に昇格、初代課長には伊佐庭如矢が就任した。衛生課には医事を取締る医務掛、飲食料取締・清潔法注意・病災予防にあたる衛生掛、衛生統計を作成する統計掛が置かれた。中央指令による衛生課の設置は、本県などが試みた医師を動員する衛生医事体制から官吏による全国画一的な衛生行政体制への移行を進めることになった。衛生課とともに設置を指示された地方衛生会・町村衛生委員も明治一三年中に設けられた。
 その後、衛生課は、明治一九年九月の地方官官制改革で一時廃止されたが、明治二〇年のコレラ流行に際し防疫面で支障をきたしたので、同二一年二月に復活した。同二六年一〇月、地方官官制の全面改正により、衛生事務は警察部保安課で取り扱われることになった。当時の地方衛生事務のうち最も繁忙な防疫事務は警察取締り的性格が強く、これまでも伝染病流行の際にはしばしば警察の力を借りねばならなかった。こうした経験から、この際衛生事務を警察行政の系統に入れて防疫に万全を期することにしたのである。明治三一年一〇月には警察部の中に衛生課が設置され、昭和一七年(一九四二)に内政部に移るまで警察行政の一環として衛生事務を管掌した。
 町村には、明治二〇年六月、戸長役場に五人以内の町村衛生係を配置することが義務づけられた。これより先、明治一三年七月には「伝染病予防規則」が制定公布されて、コレラ・腸チフス・赤痢など急性伝染病に対する一応の総合的予防法規が成立していたが、同予防規則は二三年一〇月に改正された。その緒言で、伝染病予防は市町村の負担する事務であることが明言され、衛生組合を設けて互いに警戒、隣保相互の制裁をもって各人の注意戒慎を喚起して防疫に当たるよう指示された。また伝染病患者の避病院隔離が強制されたから、これ以後市町村に避病院の建設が進められた。しかし、防疫など衛生費は町村財政の大きな負担になったので、政府は明治三〇年(一八九七)に制定した「伝染病予防法」の中に、市町村に対する国庫・地方税の補助規定を加えた。この伝染病予防法は、以後しばしば改正されたが、防疫の中心法令として現在に至っている。大正八年(一九一九)には「結核予防法」が制定され、〝亡国病〟と恐れられた結核の本格的対策が開始された。

表2-1 明治10年愛媛県官員の出身地一覧(数字は人数)

表2-1 明治10年愛媛県官員の出身地一覧(数字は人数)