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愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)

一 海の時代

 藤原純友

 瀬戸内海は古代から現在に至るいずれの時代においても海上交通の大動脈であったが、特に古代から中世を経て江戸時代に至る、九世紀から一九世紀までの間は日本の富の過半が運ばれたと言えよう。平安時代以後、九州と都の輸送路が陸路重視から海路重視に転じたためである。それは、富の中央集中が進むとともに、安価な輸送路が求められ、陸路と比較すれば遙かに有利な海上輸送に転ずるのは当然の帰結であった。古代において瀬戸内海が脚光を浴びるに至った原因は、波静かで、風待ち潮待ちのための島が数多く点在する多島海であったことである。
 九州をはじめ、西国各地から京都に送られる官物も船で輸送されることが多くなり、法隆寺・大安寺・元興寺・西大寺・東大寺・住吉社・大伴氏など中央の権門勢家が瀬戸内海沿岸各地に荘園を設けるようになると、年貢の輸送も盛んになって、瀬戸内海は往来する公私の船で賑わった。こうした物資の輸送に従事し、もしくは水先案内人となったのは、瀬戸内海各地で漁業を営んでいた人々であったろう。それらの人々は海に精通し、内海交通の主役となった。
 輸送の発達と同時に海賊が歴史上に登場する。『続日本後紀』には承和五年(八三八)に山陽道・南海道の国司に海賊を取り締まるようにという命令が出されている。漁民が交通業者としての活動のかたわら、なぜ海賊と称される行動を取ったのか、詳細は不明である。中央の権門勢家が塩の生産のため海岸部より漁民を追い出すなどの行動があったとすれば、権門勢家の一員として塩の生産に従事し、また専門の輸送業者となった者はさておき、立ち行かなくなった者たちは、官物・荘園年貢などを奪う行動に及んだのではなかろうか。
 九世紀後半になると海賊の活動は活発となり、承平二年(九三二)には追捕海賊使が置かれ、翌三年には南海諸国の警固使が任命された。しかし海賊の活動はおさまらず、同四年冬には喜多郡で非常の際の不動穀三、〇〇〇石余りが奪われるという有り様であった。承平・天慶の乱において、瀬戸内海各地を騒がせたのは藤原純友である。
 藤原純友の名が初めて登場するのは『日本紀略』承平六年六月で、「南海賊徒主藤原純友」と記されている。伊予国日振島に一、〇〇〇艘余りの海賊船が集結して官物を奪い、伊予守紀淑人が鎮圧に乗り出し、融和策でもって二、五〇〇人余りを服属させたとしている。『本朝世紀』には、伊予掾藤原純友が平定したとしているので、この段階での純友は鎮圧者側の一員であったとするのが妥当であろう。
 それはともかくとして、純友が公然と朝廷に反逆するのは(反乱を起こしたのは)、彼に対する追討命令が出された天慶三年(九四〇)とするか、その前年に純友の仲間である藤原元文が、摂津国芦屋駅を襲撃して備前介藤原子高と播磨介島田惟幹らを捕虜とした時とするか、説の分かれるところである。
 純友の乱は、同三年小野好古・源経基らが追捕海賊使に任命されて鎮静に向かう。純友は一、五〇〇艘の船団で対抗したが、次将藤原恒利の裏切りにあい、太宰府を占領して勢力の回復を目指したが、翌四年小野好古によって博多津で撃破され、伊予に帰った。帰国した純友は伊予警固使橘遠保によって討ち取られ、ここに純友の乱は終結するのである。現在策定中の西瀬戸経済圏の諸県に岡山・兵庫・大阪・和歌山を加えた大規模な海の反乱であった。古代にはこれらの地域が一つの経済圏と認識されていたことを暗示するものではなかろうか。

 伊予水軍

 藤原純友の傘下にあった船の数は一、五〇〇艘を数えたという。これらが瀬戸内海で活動していたすべての運送業者であったとはいえないが、中央の権門勢家の傘下として組織されていない運送業者が純友という核を得て、海運・交易に関する権利の要求をしたところに事件の背景を求めることができよう。
 中央政府がその行政機能を失い、荘園領主も弱体化すると、瀬戸内海海運の担い手は中央に直結した従来の運送業者ではなく、これまでは海賊と称されていた民間業者となった。
 そのような民間業者を傘下におさめ、瀬戸内海交通の主導権を握ったのは、一〇世紀ころから頭角を現し始めていた越智氏である。越智氏は海賊鎮圧に功績があったとされる越智用忠の一族で、郡司として実力を蓄え、国衙の置かれていた越智郡において着実に勢力を伸長し、雑任国司(地方で任用される介以下の国司)に任命されることにより、一〇世紀後半ころから一二世紀にかけて伊予国の実質的行政権を取得するようになった。
 越智郡は九州から大坂に向かう瀬戸内海交通路(いわゆる伊予路沖乗りと呼ばれるコース)の最も重要な所に位置している。すなわち瀬戸内海の最も狭い(高縄半島が北に突き出し大島・大三島などの島々が航路をさえぎっている)所を押えているわけだから、水先案内人としても、また海の武士団としてもこれくらい好都合な場所はない。瀬戸内海を支配するものは、日本歴史のカギを握ると言えるほどの活躍を示したのである。平氏の勢力伸長のきっかけとなったのは瀬戸内海における海賊の追捕であった。日宋貿易や厳島信仰も平氏と瀬戸内海を強く結びつけた。
 源氏と平氏の争いにおいて、伊予の河野氏が支配下の水軍を率いて源氏に味方し、源氏の最大の弱点である水軍力を提供して、平氏を壇ノ浦で滅亡させている。『平家物語』には「伊予国の住人、河野四郎通信も百五十艘の大船に乗り連れて」と記している。河野氏は前述の越智氏の一族である。通信は平氏滅亡後、元久二年(一二〇五)鎌倉将軍家から、伊予国の御家人三二人の統率を認められている。平氏との戦いに抜群の功績を挙げたからである。鎌倉時代中期に勢力を失っていた河野氏は元寇における通有の活躍によって復活した。
 越智氏の流れを汲む御家人に大祝氏がある。同氏は大山祇神社の神官であるが、根拠地は越智郡高橋郷で神事の度に渡海していたと伝える。伊予の一の宮としての大山祇神社の神官であることが、大祝氏の地位を高くしていた。同神社の所蔵する刀剣・甲冑は日本国中の代表的な武将から奉納されたものが多く、日本の国宝のうち同部門では七割を占めている。大三島を押さえているということは、瀬戸内海交通路の最も重要な地点を支配していることになるから、ここを通行しようとするものは、必ず大山祇神社に参拝しなにがしかのものを奉納し、大祝氏もしくはその一族に海上の安全を確保してもらう必要に迫られたわけである。
 大三島の近くにある弓削島は塩の荘園の異名を冠せられており、中世荘園のなかで最も著名なものである。塩の生産地としての比重は当時の日本ではかなり高く、商業の発展に伴い塩が重要な交易品になったから、荘園領主である東寺(一三世紀前半に領主となった)は、塩浜と塩山(塩の生産に必要な燃料を供給する山)の管理に力を注いだのである。
 南北朝の動乱期に瀬戸内海で大きな勢力をもったのは、風早郡忽那島神浦に根拠を有した忽那義範である。義範は南朝に加担し、延元四年(一三三九)から三年間、征西将軍懐良親王を忽那島に迎えた。戦力的に圧倒的に劣勢であった南朝方が比較的長く命脈を保ち続けた理由の一つに、西瀬戸内海の制海権を確保した忽那氏の活動があることを忘れてはならない。
 室町時代の伊予国は形式的には、瀬戸内海水運を掌中にした河野氏が守護として君臨していた。しかし、実質的には東予の宇摩・新居の両郡は細川氏が勢力を伸ばし、南予のうち喜多郡では室町幕府評定衆である宇都宮氏(鎌倉時代伊予国守護・喜多郡地頭職)が、また宇和郡では公家である西園寺氏(代々伊予知行国主、宇和荘に土着)の勢力が鎌倉時代以来の関係から隠然たる勢力を有していた。伊予が八藩に分割されるにいたる素地はこのあたりにも求められるのではなかろうか。
 室町時代、いわゆる海賊衆(海上輸送に従事した人々及び警固衆として瀬戸内海を舞台に活躍した海の武士団)は、内海交通の担い手として、また正式の大陸貿易とは異なる私貿易を目指して朝鮮半島から中国大陸の沿岸部各地に出没した。こうした人々を大陸側では倭寇(前期倭寇・後期倭寇とがある)と呼んだ。この時期の代表的水師として因島・能島・来島の三島村上氏が挙げられる。このうち主筋の河野氏に逆らって豊臣秀吉の四国征伐に手を貸しだのは来島村上(のち来島と改姓)氏であった。
 伊予水軍の活躍の場は秀吉の朝鮮出兵に際して与えられた。来島氏は我が国水軍の一翼として、因島・能島両村上氏は小早川氏の一部隊として活躍した。

 瀬戸内海時代

 江戸時代は瀬戸内海が日本の経済活動を席巻していた時代である。すなわち徳川氏が政権を握り諸大名を一年毎に江戸と在所を往復させ(参勤交代)、大名領相互の経済交流を制限してすべての物資の流れを江戸・大坂に集中した。商品作物の生産が盛んな西日本を背景とする大坂は「天下の台所」と呼ばれ、瀬戸内海沿岸には尾道のように中継貿易で財を成す港町も出現した。
 瀬戸内海交通がさらに発展するのは、まず寛永一四年(一六三七)島原の乱に際して軍船の安全通行のための配慮がなされ、ついで河村瑞賢によって日本海沿岸地方の物資を瀬戸内海を経て江戸に回送する、西廻り航路が寛文一二年(一六七二)に実用化されて以来日本海側の大型船が内海を頻繁に往来するようになったことによる。松山藩が風早郡津和地島の通称燈籠が鼻に常設の灯籠を設けて航海の安全に供したのは、嘉永一四年一一月のことで、島原の乱開始から一か月後である。藩ではこの地に御茶屋を建てて番人を置いた。諸大名の参勤交代の安全に寄与するとともに公的旅行者への海の接待場所としての役割を持たせたのである。番人には松山藩士八原佐野右衛門が任命されて以後八原氏が世襲した。『八原家日記』には幕府公用船や朝鮮信使・オランダ使節・琉球使節、諸大名の往来が克明に記されている。
 諸大名の収入源として最大のものは、領内で徴収する年貢(ほとんどが米)であり、これを大坂(東日本の多くの大名は江戸)に送って蔵屋敷に貯蔵し必要に応じて換金した。幕府が親藩・譜代大名などに委託して貯蔵した米を「御城米」と呼ぶ、この米は幕府が必要に応じて各地に転送するわけだが、「御城米船」通行に際しては関係地域の村々にあらかじめ航海の便宜を図るよう、また遭難などの時の救助を厳命した。
 当時の船は軍船は五〇〇石積(七五トン)以下に限定され(寛永一二年の武家諸法度より)、商船については一、〇〇〇石積を超えるものもあったが、一般には数百石積の小型帆船であった。讃岐国直島庄屋三宅家に伝来した文書のうちに、同島近海で遭難した船舶の記録一、二〇〇点(約四〇〇件)余りがある。そのうち伊予国関係のものは七二件で断然他を圧倒した数である。同文書によれば伊予の船舶が九州をはじめ西日本の諸地域の荷を積み大坂・尾道などを往来している姿が伺われる。
 主たる積み荷は米・雑穀の外に燃料としての薪・国木・山炭・石炭、その外には紙・酒・油・干鰯・鯛・縞木綿が見られる。塩や蝋の輸送に関係するものが見られないのは、輸送路が異なっていたためかもしくは遭難が無かったためであろうと思われる。
 尾道の橋本家文書にも伊予船舶の活動が伺われるものがある。一般に大名の徴収した年貢米は大坂の蔵屋敷に送ることが通例であるが、藩士が払い下げた米は民間業者によって大坂に直送されるかもしくは大坂周辺の中継交易地に回送され、そこで一時貯蔵された後、価格が有利になったところで大坂に送られるという手順を踏んだようである。
 愛媛県の海運県としての下地は、古代そして伊予水軍の時代から江戸時代にかけて幾多の盛衰を繰り返しつつ着実に形成されてきたのである。伊予八藩の分立も海運の発達に貢献している。というのは主たる港が特定の地域に限定されず、東予・中予・南予それぞれに特色ある港を形成したのである。川之江・三島・新居浜・西条・広江・壬生川・桜井・今治・波止浜・堀江・三津浜・長浜・八幡浜・吉田・宇和島などがその代表例である。
 瀬戸内海時代のもう一つの担い手は塩田である。播州赤穂地方で正保年間(一六四四~四八)ころから入浜式塩田が築造されるようになり、宝暦年間(一七五一~六四)になると塩浜の数が二、〇〇〇軒を超え、文化年間(一八〇四~一八)には生産高も四五〇万石前後に達したという。伊予の入浜式塩田は波止浜・多喜浜塩田などが大規模であり、越智郡島しょ部にも小規模ながら数多くの塩田が築造された(五一ページ「海と山」参照)。

図1-5 波止浜塩田開発推移図

図1-5 波止浜塩田開発推移図