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愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)

二 海と峠の風土

 海と峠の風土

 島が連なり、島と島、島と陸が重なるように並ぶ美しい瀬戸内海。人間は風土の申し子とも言われるが、生まれ育った土地の自然、そしてその社会の歴史的伝統の影響を受けて、物の感じ方や考え方にそれぞれ独得の色彩を帯びるようになる。また、人々が幼い時に慣れ親しんだ自然や文化の織りなす風景は、人々の心情や人格の形成に限りなく大きな影響を与えることも多い。こうしたことを考えると、愛媛県の場合、瀬戸内海と石鎚山が風土のシンボルとして浮かび上がってくるだろう。瀬戸内海は海に乗り出す伊予人を育て、石鎚山はその支脈を四方に伸ばして峠によって平野を分断し、県内の各地にあたかも桃源郷のような小国家的村落共同体を生んだ。
 四国の北西部に位置する愛媛県は、面積五、六七一平方キロメートルで四国全体の約三分の一を占めるが、その八〇%以上が山地であり、平地はわずか一〇%程度しかない。しかし、前に瀬戸内海や宇和海を臨み、後に石鎚山を主峰とする四国山地を背負っていることは、愛媛県が二つの異なる思考様式を育む風土性を持っていたと言えよう。四国山地は、その支脈によって平地を細かく分断しているため、県内の平野はいずれも小規模である。最大の平野である松山(道後)平野でも、面積は約一〇〇平方キロメートルで、讃岐平野、徳島平野、高知平野よりも狭く、関東平野のわずか一五〇分の一にすぎない。県下のあちらこちらに小さな平野や盆地が散在していることは、人々が県域全体を総合的に眺めようとする視点を弱め、ひいては県域全体の統一を妨げたことと深く関係している。しかし、その反面、各々の地域がおだやかな風土に恵まれ、地域の経済力も比較的豊かであったことは、藩政時代伊予の地に八藩を成立させる大きな要因ともなった。これは、阿波や土佐の地には、それぞれ徳島藩や高知藩の一藩だけであり、讃岐でも高松藩と丸亀藩の二藩だけであったのと著しく異なっている。
 平地が狭いという地形的なハンディを克服するため、伊予の人々は海に活路を求めるようになった。豊穣の海であった瀬戸内海は天然の大運河でもあり、文化の多くはこの海を通して伊予の地に入ってきた。島しょ部に古代や中世の遺跡が多数あることは、瀬戸内海が古くから交通・軍事上きわめて重要な場所に位置していたことを示している。大山積神を祭る越智郡大三島の大山祇神社が海の守護神としてあがめられ、中世には武神として伊予の河野氏はじめ全国の武将の崇敬を受けたのもこうした理由によるものであろう。また、大山積神は大山津見神とも書く山の神でもあり、農業神としても広く一般庶民の信仰対象となり、江戸時代には松山・今治藩領の諸郡は五穀豊穣や雨乞いの祈願のため初穂料を奉納したことが古文献に記されている。
 小さな平野や盆地は峠によって限られた。峠の多くは難所であったが、そこは新しい天地を見おろす場所でもあった。青雲の志を抱いた青年、新しい生活を夢みる花嫁、あるいは生活のために魚を運ぶ老夫たち、それぞれに何かを願いながら峠を登っていった。県内の峠は、松山平野や周桑平野と四国山地を限るもの、宇摩平野と嶺南を限るもの、南予の盆地群を限るものなどその数は多い。このうち、旧宇和島街道・大洲街道に沿う一般国道五六号には犬寄峠、鳥坂峠、法華津峠、松尾峠などがあり、昭和四〇年代に国道の大改修が施工されるまで、人々は峠越えに難渋した。また、松山平野と周桑平野を限る桧皮峠は、「桜三里」として知られているが、江戸時代初期までは中山越えと呼ばれ、険しい崖沿いの道が続く金比羅街道随一の難所であった。海岸沿いの平野部と山間部の境には三坂峠、黒瀬峠、井内峠、黒森峠などがある。山に住む人々は里へ行くときこれらの峠に立って新しい世界を見おろした。それは海の拡がりを強烈に感ずる世界でもあった。
 海と峠に囲まれた伊予の風土は、そこに住む人々に自然への共感をもたらし、「優しさ」と「集い」のメンタリティーを培った。山伏の山岳信仰と弘法大師空海の遍歴に端を発したと伝えられる四国遍路は、宇和島の和霊信仰と並んで海と峠の風土が作りだした庶民信仰であった。四国遍路は真言宗の僧侶による大師の遺跡巡拝として次第に盛んになり、江戸時代には民衆にも浸透するようになった。一般庶民の自由な旅行を禁止した諸藩でも遍路は病気平癒などの心願によるものとして巡拝を許可し、途中で行き倒れとなった場合はその土地の村々で看護するよう行政指導した。遍路はその出所の村庄屋を通じて所属寺院(檀那寺)から身分を証明するとともに、旅行目的や行き倒れのときの処置まで記載した往来手形をもらい、道々の善根宿など札所近辺の村人の接待にすがり、「優しさ」と「集い」の精神に触れながら伊予路の旅を続けた。和霊神社は宇和島初代藩主伊達秀宗時代に非業の死をとげた家老山家清兵衛の霊を慰めるために建立された神社であったが、伊予の海と峠の風土の中で庶民の信仰を集めるようになった。

 石鎚山と愛媛の風土

 日本は富士山の裾野と言われることがある。しかし、富士山の日本全土に占める割合いの低さからみれば、決して日本は富士山の裾野ではない。これに対し、四国は地形的にも割合いの高さからも石鎚山の裾野と言っても過言ではない。西日本一の高峰である石鎚山(一九八二メートル)は、海岸からわずか一八キロメートルの所に位置し、人里に近いにもかかわらず、地形がきわめて急峻であるため、容易に人が近づくことを阻んできた。このため、古来日本の七霊山の一つに数えられ、神々の住む山として信仰の対象となってきた。石鎚山は、石土山、石槌山、石鉄山などと記されたこともあるが、この名は『日本霊異記』(八二二年)で「石槌の神いますがためなり」として山名の由来を記してある。なお、伝承によると白鳳一四年(六八五年)に行者役小角が修験道の霊山として開いた山で空海も修業したと言われている。武将の信仰も篤く河野通直・来島通総は社領を寄進し、豊臣秀頼は成就社を建てた。一般庶民の間にも石鎚信仰は広まり、四国はもとより中国・九州の各地にも石鎚講が組織され、代表者が登山した。お山市(七月一~一〇日)が開かれるころになると、各地から船を仕立てて参拝に訪れ、海の玄関口であった氷見港は参拝船で埋め尽くされることもあった。山岳を修業地とする山伏の多くは町や村に拠点を置き修験者・聖として尊崇の対象となるとともに雨乞いなどの加持祈祷に従事した。
 四国山脈の特徴は、石鎚山に代表されるように急峻であることと、山脈が海岸近くにまで迫っていることであろう。険しくて高い山は風と雨を防ぎ、沿岸部におだやかな風土をもたらし、海岸近くにまで迫る山地は、各地に峠を生んだ。全国的にみて、愛媛県は峠が多くある県の一つであろう。また、石鎚山があまりにも大きく、しかも海に迫っているため、県内の河川はいずれも短いものばかりであるが、反面、大規模な氾濫による被害はきわめて稀である。吉野川や仁淀川などの氾濫に悩まされ続けた徳島・高知両県と比べて愛媛は非常に治めやすい土地柄であった。おだやかな風土に育まれた地域、それは峠によって囲まれた地域である。こうした地域から生まれてくるものは「桃源境」に他ならなかった。人々はそこを自分の故郷としてこよなく愛してきたのである。藩政時代、伊予の地には松山藩をはじめ西条・小松・今治・大洲・新谷・吉田・宇和島藩など、いわゆる伊予八藩があったが、比較的狭い地域が一つの藩として成立していた背景には、河野氏や村上氏などのような中世の豪族の力が伊予一国の広さに比して弱く、一円領主たり得なかったことにもよるが、根本的にはあたかも桃源境のような地域が各地に存在したことによると言えよう。藩域の中には、さらに小さい峠と峠の間に桃源境ができ、人々はおだやかな交流の中で生きた。海の魚は里の食膳を豊かなものとし、里の織物は山の生活を寒さから守り、山の木材は海や里の人々の手によって船や家となった。海と里と山の間に丸い経済が形成され、海、里、山が各々丸く栄えていた。清少納言は「受領は、伊予守、紀伊守、和泉守、大和守」(枕草子一六五段)として、守としてなりたい国をあげているが、その筆頭は伊予守である。これは、都への往来が便利であり、地味豊かで治めやすく、しかも風光明媚な国のためと解されているが、平安時代の当時、すでに京の人々が伊予国に対し、一種憧れに似た感情を持っていたことを示すものであろう。
 峠は相接する二つの地域の経済活動を違ったものにし、両地域の産物を全く異なったものにすることが多い。例えば夜昼峠をみてみよう。この峠は大洲市と八幡浜市を限るものであるが、東側の大洲盆地は霧に包まれて日照時間が少ないのに対し、峠を越えればそこは南国の明るい太陽がぶりそそぐ地域となっている。この結果、峠をはさんで西側は全国的に知られる柑橘栽培地域となり、東側は「伊予生糸」として古くからの伝統がある養蚕・生糸業地域となった。次に三坂峠をみてみよう。この峠は松山平野と久万高原(盆地)を限るものであるが、峠をはさんで北側は災害が稀にしかおこらない温和な地域であり、南側は雨が多くて雪深い地域となっているが、その結果、南側は久万林業の名で知られる林業地域となり、北側は豊かな稲作農業地域となった。稲作農業は経済活動を一段と活発化させ、商業も高度に発達した。このように、峠によって産物が異なることは、愛媛の経済を分断経済とし、ひいては一次産業中心の南予、二次産業中心の東予、三次産業中心の中予というように、経済の発達段階に対応する形で東、中、南予という地域分化を明瞭にすることにもなった。
 全国的にみると、各々の地方には中枢となる都市が形成されているのが一般的である。東北地方の仙台市(人口七〇万人)、中国地方の広島市(同一〇四万人)、九州地方の福岡市(同一一六万人)などはその良い例である。ところが四国は、石鎚山に分断されて四県の経済交流がほとんどなかったため中枢都市が成立し得なかった。換言すれば、四国の経済は分極空間化されていないということである。「伊予竹に、阿波糊はりて、土佐紙の 讃岐団扇がしごく(四国)涼しい」という江戸時代の町謡にも四国経済の非統一ぶりがよく表されている。しかし、他県の場合は、県域の経済そのものは分断されていない。愛媛県の場合は、峠による交通の分断、産物の違い、さらに伊予八藩の成立等々により、地域経済は細かく分断され、全体として県経済の活力を低下させる大きな要因ともなった。また、県経済が分断されているため、県都の地位は他県に比べて低く、中核都市としての機能を十分に発揮できない状態となっている。
 県都の人口は、県人口の約三分の一が標準とされているが、松山市の場合は二八%しかなく周辺各県の中で最も低くなっている。製造品出荷額の割合にいたってはわずか一六%であり、大分市(同六一%)、高知市(同四一%)、広島市(同三三%)に比べて著しく低い(表1-1)。このような傾向は卸売・小売事業所数などにも現れている。従来の愛媛県政の大きな柱は、風土に育まれてきた東、中、南予の地域性を生かしつつ、経済発展の段階が異なる三予の格差を是正することにあった。しかし、今後は地域格差の是正を推進することとともに、県勢向上のため、県都の地位を他県なみに向上させる具体策を緊急に検討することが必要であろう。

 瀬戸内海と愛媛の風土

 日本は第二次世界大戦前までは瀬戸内海国家であった。これはヨーロッパの文明が地中海に育まれたのと類似している。しかし、地中海は、「海の砂漠である。そこには本来海の幸が乏しい・地中海沿岸地方に漁業や海草食が発達しなかったのは当然のことなのである」(和辻哲郎)のに対し、瀬戸内海は豊かな海であり、琵琶湖から京都、淀川、大阪、瀬戸内海を経て太宰府までが文化の通り道となり、論語や孟子が、車の作り方が、水稲生産が伝わったルートである。経済も文化も瀬戸内海を除いては考えられなかった。これは、瀬戸内海が中国大陸や九州と京・大阪を結ぶ航路にあたり、北前船の往来する航路や西海路として重要な価値を持ったことによるものである。江戸時代、経済の中心は瀬戸内にあり、江戸では酒や飴玉のようなものすら生産することが困難であった。当時、大衆の生活を一変させるような先端技術・先端商品の多くは瀬戸内海の産物であった。木綿をはじめ砂糖・菜種油・ろうそく・畳表などはその代表的なものである。
 瀬戸内海と宇和海に面する愛媛県は非常に長い海岸線を持っている。換言すれば、その海岸線は岡山県から宮崎県にいたる長大なものである。このことは愛媛県が各地と結びつくことを必然的に可能とした。そのルートは大阪へのルート、中国へのルート、九州へのルートの三つに大別される。香川県が大阪・中国へのルート、徳島・高知両県が大阪へのルートしか持だなかったのに比べて。バラエティーに富んでおり、県内の各地が多様性を帯び、経済・社会が分散型の構造をとる原因の一つともなった。それとともに、伊予人と海とのかかわりを強める結果となった。朝廷や幕府の対外交流は主に瀬戸内海を経由して行われたが、それは高度の造船技術や航海術を生み出し、中世に瀬戸内海で活躍した村上水軍や忽那・河野水軍などの伊予水軍を生み出す大きな要因ともなった。アジアのバイキングとも言うべき倭寇も瀬戸内海で生まれ、最後まで瀬戸内の人々がかかわっていた。彼らは騎士であり商人であった。現在も沿岸や島しょ部の各地に残る船にまつわる伝統や文化は、瀬戸内海がたどってきた独得の歴史を反映したものであろう。
 瀬戸内海の航路は、大きく三つに分けられていた。一つめは、下津井から尾道・三原・音頭瀬戸を経て三田尻にいたるもので、これは「安芸地乗り」と呼ばれた。二つめは、下津井から鞆を経て鼻粟瀬戸を通り、倉橋島から釜戸にいたるもので「伊予中乗り」と呼ばれた。また、三つめのルートは、下津井から燧灘を経て来島海峡に入り下関に行くもので「伊予地乗り」と呼ばれた。近世に入って大阪が我が国の経済の中心地になると、西国ばかりでなく、東北や北陸の物資も、河村瑞軒による西廻り航路の改良以後、ほとんどが海上ルートによって輸送されるようになった。また、鎖国以後、長崎が唯一の対外交流の港となってからは、海外からの舶載品はもとよりこれに対する国内の銀・銅・俵物などを長崎に送るにも瀬戸内海が利用されるようになった。単に物資ばかりでなく、松山藩などのように海路を利用して参勤交代を行う西国大名も多かった。
 豊臣秀吉による兵農分離令により、水軍とか海賊とか称せられていた人々は武士的性格から脱却し、農業や漁業に従事するようになった。しかし、狭い土地での零細な農・漁業だけでは全ての島民を養うことは困難であり、人々は他に生きる道を求めて脱農・脱漁民化の道を歩んだ。西廻り航路が開かれた当初、北前船の水夫のほとんどが瀬戸内出身の人々で占められるなど水軍の伝統は根強く残り、明治以後は多くの人が石炭船に乗り込み、阪神工業地帯に燃料を運び続けた。瀬戸内海の沿岸部や島しょ部は、四国山地と中国山地の風下にあたるため降水量は少ないが、なかでも今治以東の地域は西からの風も高縄半島によってさえぎられるため著しく少雨で、越智・上島諸島の中には年降水量が一、〇〇〇ミリメートル下の所もある。こうしたことに加えて、遠浅の海岸が多かったため、近世以後は各地に塩田が開かれた(図1―4)。石炭船はそれらの塩田にも燃料を送り続けていた。高縄半島の先端にある小部落の波方(現波方町)が、全国的にも有名な海運の先進地となった背景には、海とのかかわりが深い風土が強く影響しているものと言えよう。しかし第二次世界大戦を境にして、関西の力は急速に衰えてしまった。この主な理由は、政治・経済とも首都東京を中心に展開されるようになったこと、中国や東南アジアの国々のマーケットの大半を失ったこと、エネルギーが石炭から石油に変わったこと、工業が消費地立地型に移行したこと、東北地方の力が上がったこと等々があげられる。さらに昭和三〇年代後半以後にみられた経済構造の急激な変化は、大量の重量物資を安価に運ぶ船舶輸送の価値を相対的に低下させつつあり、これとともに瀬戸内海の持つ重要性も減少していることはいなめない。
 愛媛県が大阪(=市場)と九州(=エネルギー資源供給地)の中間地に位置していたことは、本県の工業発展にきわめて大きい利益をもたらした。一寒村であった新居浜が、四国にありながら今日のように我が国を代表する工業都市に発展したことは、別子銅山の存在ということとともに、この「中間地の利」による恩恵を除いては考えられないだろう。また、遠浅の海を臨む長大な海岸線を持っていることは、埋め立てを容易にし工業用地の確保や拡大を安価に実現させることができた。新居浜市をはじめ松山市・伊予三島市・川之江市・西条市などの工業地帯を見れば明らかなように、愛媛県を代表するすべての工業地帯が臨海部に立地していることも、この「臨海地の利」「遠浅の利」を生かしたものに外ならない。
 愛媛県の場合、陸には限られた平地しかない。反面、前を見れば豊かでおだやかな海が広がっている。伊予水軍以来、海に乗り出すことが愛媛の伝統となっているが、海に乗り出すということは、冒険であると同時に「海ほど多元的な見方を人間に与えるものはない」(カール・シュミット)のであり、多面的にものを見る人間を育成した。しかも、その冒険は、漁業にしても捕鯨や通商にしても、計算なくしては行われない。さらに海には陸の束縛から離れて自由があり、未知な所へ行ける、また、行きたいという新しいものへの要求が満たされる場所でもあった。そこは階級制の通用しない世界であり、制度主義より機能主義の重んじられる世界であったと言えよう。冒険・計算・無限追求をシュムペーターはイノベーションと言った。進歩はイノベーションによってのみ可能であると言われるが、海は伊予の人々にイノベーションの気性を培った。あちらこちらにみられる伊予の進取の気性はこうした風土に育まれたものであろう。
 その代表は中世の日本史を彩る伊予水軍の活躍であろう。進取の気性に富んでいた伊予水軍は、恵まれた立地条件を生かして情報を収集し、それを駆使することによって歴史の変わり目に大きな役割を果たした。その後、鎖国が行われるようになると、伊予水軍の命脈は完全に断たれてしまい、伊予の進取の気性も消失したかのように思われた。しかし、この風土の中に育まれた伝統の精神は脈々と残っていた。幕末の動乱期、宇和島藩に伊達宗城という名君が出現したが、わずか十万石余であったにもかかわらず、宗城が当時全国の三百諸侯の中で「天下の四賢侯」の一人に数えられたのは、伝統的な伊予の精神があったからであろう。大村益次郎を藩士に登用し、幕吏に追われていた高野長英を庇護したのも伊達宗城であった。藩士となった大村益次郎は、町人前原巧山と共同して日本で二番目の蒸気船を建造し、高野長英は蘭学を通してこの地に近代的知識を吹き込んだ。
 愛媛の風土は庶民の生活の中にも生きており、イノベーションをバックボーンとした伊予人の活躍や努力の足跡も各地に見ることができる。宇和海沿岸は、「耕して天に至る」と言われた段畑耕作で全国的に知られた所である。限られた土地しか持たない宇和海沿岸の人々の歴史は海と山に挑み続けた歴史でもあった。最初に段畑が形成されたのは享保の飢饉以後であり、この時期、いわし網漁を重視する宇和島藩の保護のもとに、各所に新浦が形成され、その漁民の食糧確保のために集落背後の傾斜地が段畑に変わっていったとされている。昭和三〇年代には水荷浦や九島の段畑は極限状態にまで達し、リアス式海岸の入江に影を落とす縞模様の段畑景観は、南予を訪れる人々に強烈な印象を与えた。こうした努力があっても耕地の狭さを十分に解消するまでには至らなかった。このため、南予地方の人々の中には、伊方杜氏などのように国内を移動するものばかりでなく、アメリカ移住やオーストラリアの木曜島出漁など国外へ進出するものも多くいた。
 島しょ部の場合、土地はさらに限られてくる。段畑を開く山地すら持だなかった島の人々にとって、海は無限の可能性を彼らに与えた。越智郡魚島村は燧灘に浮かぶ面積三・四二平方キロメートルの小島であるが、島の周辺は古くから瀬戸内海を代表する鯛の漁場として知られており、漁期には今治藩から鯛奉行が来島するほどであった。この魚島にあっても、徐々に増加する人口を養うためには、島の周辺に留まらず、さらに遠くの海へ進出することが必要であった。魚島の場合、遠洋漁業は朝鮮出漁という形をとった。朝鮮出漁は明治中期から始まったが、大正三年に遠洋漁業で出漁した愛媛県人約一、四〇〇人の約半数が魚島村の人々で占められていた。四挺艪の帆船に八~一三人乗り込み、交代で艪をこいで巨済島(現大韓民国)を目指した。和船で玄海灘を乗り切って海外の漁場におもむいた魚島の人々の姿は、中世の瀬戸内海に君臨した伊予水軍の姿を彷彿とさせるものであり、その漁業意欲と進取の気性は十分に誇り得るものであった。
 このような進取の気性は桜井の椀船行商に典形的に見ることができる。食器などの漆器を船に積んで各地に出かける桜井の椀船行商は全国的にも有名であるが、その商法の特色は、長期にわたって巡回行商を行うこととともに、明治三〇年代後半に始めた現品前渡しの月賦販売であろう。特筆すべきは、この商法が漆器以外のどんな商品にも適用できることを確認したことであり、家具全般・衣料・貴金属などの月賦販売を東京や大阪で開始したのは日ならずしてのことであったが、その後交通機関の発達や品目の変化に対応しつつ近代的月賦販売業へと発展していった。昭和五五年の日本月賦百貨店組合連合会に所属している会員五六六人のうち九五%までが今治市を中心とした「伊予商人」で占められているという実態は、海に生きた愛媛県人の進取の気性、また、商業の民としていかに高度な計算性を身につけていたかを端的にものがたるものであろう。このような商法は他の追随を全く許さないものであり、現在はクレジット商法の先駆者としてゆるぎない地位を全国的に保っている。「峠」によって囲まれた桃源境では保守性を、未知の可能性を秘めた「海」は進歩性を醸成した。そして、注目すべきことは、それらの底辺を共通して流れる大きな精神は、温和な風土によって育まれたおだやかさが醸し出すハイタッチ(交流)に外ならないということである。現品前納、各月集金という月賦販売商法は、一面危険度の高いものであるが、それを容易に可能としたのは行商時代からの地縁・血縁関係に結ばれた強力な信頼関係に根ざすものであり、そこにも伊予人特有のハイタッチをみることができる。
 瀬戸内海は多くのイノベーターを生み出した。密教王国を築いた讃岐の空海、念仏宗をおこした美作の法然上人、踊り念仏の発案者である伊予の一遍上人らはその代表であろう。一遍の念仏は瀬戸内海のおだやかな波の音、涼しい風の中から生み出された。一遍はそのやさしい念仏をもって海を渡り峠を越え山野に臥して賦算札を配りながら捨身遊行の旅を続けた。伊予の山河草木と瀬戸内海の吹く風たつ波の音に育まれた一遍念仏は潮騒のように全国の庶民の血となり踊躍となって浸透し、文化や芸能の中に染めこまれて新しい庶民芸能を創造していった。
 讃岐が生んだ平賀源内は本当の意味でのイノベーターであった。愛媛県の場合、イノベーターのシンボルとしてはまず俳人正岡子規と軍人秋山真之があげられる。秋山は海軍参謀としてハイテクに通じたイノベーターであったが、彼はアメリカ留学中に西洋の軍学を会得し、帰国後は伊予水軍野島流など日本古来の兵法をも修得した。その結果として秋山軍学が確立したのであるが、日露戦争の日本海海戦において未曽有の大戦果をもたらした「丁字型戦法」は、伊予水軍の戦法にヒントを得て編み出したものともいわれている。また、彼は情報収集及びそれの分析に秀でていたことでも知られる。日本海海戦の勝利は情報戦の勝利でもあった。認知した情報によって作戦計画をたて、それを実行に移し、直ちに結果を評価して新たな作戦をたてるという一連の流れが、きわめて円滑にかつ適切に行われたのであるが、その中心的な役割を果たしたのが参謀秋山真之中佐であった。
 子規は文学界におけるイノベーターであった。『歌よみに与ふる書』とか『俳諧大要』などは子規が俳句の革新者、短歌の革新者であったことを明らかにしている。反面、子規ぐらい故郷や仲間を愛した人はいない。また、子規ぐらい故郷の花を愛した人はいない。「足あり。仁王の足の如し」というあの苦痛のなかで、子規が求めたものは、友との友情であり故郷の家の庭に咲く花との交歓であった。桃源境の精神をもった革新者であり、彼の中に愛媛の風土によって育まれた「イノベーション」(進取)と「桃源境」(保守)とが実を結んでいるようすをみることができる。

表1-1 四国及び西瀬戸各県県庁所在都市の現況と地位

表1-1 四国及び西瀬戸各県県庁所在都市の現況と地位


図1-4 瀬戸内地方の年間降水量と昭和30年頃の塩田の分布

図1-4 瀬戸内地方の年間降水量と昭和30年頃の塩田の分布