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愛媛県史 民俗 下(昭和59年3月31日発行)

三 伊予ことば

 日常の生活のなかで使っていることばのなかには、きまったものの言い方、きまった文句がある。日常の生活用語である。決まり文句や言葉は使われる場面や条件によって選ばれる。場所・時刻・状況や人間相互の関係などによって規制を受ける。対等・上下・親疎・慶弔の度合や、家族・友人など人間的なつながりによって微妙に変化する。人との出会い・買い物・祝儀不祝儀・旅行・見舞・感謝・儀礼などの挨拶のことば、賞めたり貶したりすることば、神や仏を拝むことば、若水迎え・七草粥・成り木責め・節分の豆撒きなど年中行事に唱えることば、釣り糸を垂れるときのエビスという招福のことば、悪霊を祓うとき怪我をしないようにするときの呪文のことば、山仕事・沖仕事・水商売などで嫌がり使ってはならないとする忌みことば、婚礼や葬式で用いてはならないことば、仲間どうしの間でしか通用しない隠語と呼ばれることば、職人の特定技術に名付けられた職人ことばや商人の数を表す符牒ことば、市場での糶りことば、いまはもう聞くことがまれになった金魚売り・納豆売り・竹竿売り・柴売りなどの振り売りの呼び声や鋳掛屋・研ぎ屋職人の呼び声ことば、叱責・動作にともなう掛け声ことば、喜怒哀楽をあらわす嘆声ことば、動物を使役することば…など数多くの決まりことばがある。

 伊予ことぱの背景

 日常の生活用語は孤立したことばではなく、ことばの背後には人間の生活や感情がある。地域社会の特徴や歴史や生活環境がある。旧藩時代、伊予にはわずかの天領があったほかは、ほぼ諸藩か支配した。西条・小松・今治・松山・新谷・大洲・吉田・宇和島の、いわゆる伊予八藩がそれぞれの領地のなかでいくらかの性格を異にした統治の色彩を持った。藩を形成する自然の様相や、産する物の種類、また住する人間の思考様式・発想形態の微妙な差異がおのずから言葉のちがいを生んだ。明治六年、愛媛県が生まれたが、以後一世紀を経たいまでも、同じ行政地域でありながら東・中・南予の人間気質にはいくらかの差異があることは否定できず、大量情報伝達の画一性にもかかわらず本音の生活用語には差異がある。
 地理学的な地勢から見るとき海岸線の長さと異質の海に気づく。瀬戸内海と宇和海はともに多数の島を持ちつつも西に突出した佐田岬半島によって海の色と住む人の心情を截然と色分けする。さらに瀬戸内海は来島海峡によって燧灘と斎灘に区分けされる。来島の沖合には山陽路につながる越智の島々がつらなり芸予諸島とも呼ばれ、松山沖には興居島から北に忽那の諸島が点在してその西に伊予灘がひろがる。また宇和海においても三浦半島と戸島・日振島を結ぶ線によって漠然とではあるが南北に二分できるであろう。内陸部は霊峰石鎚山を頂点とする脊骨四国山地が東西に走り、高知県との境を形づくる。県域内における高縄半島は東・中予をほぼ東西に分けている。
 海と川は文化の道であったという。瀬戸内海は都の文化を伊予に伝え、北九州の文物を道後・道前に及ぼし、かつ国東半島・佐田岬半島を通るか直接宇和海を渡って南予の地域にもたらした。芸予諸島は山陽路との交流をうながした。川は他県に注ぐものがある。嶺南に源を持つ銅山川は徳島県に出て吉野川となる。熊野信仰はあるいはこの流れを遡ったものではないかといわれる。面河川・久万川は仁淀川となり、広見川は四万十川となって高知県に入る。土佐との行き交いの道でもあった。

 伊予方言区画

 地域の言葉を方言というのであれば、伊予の方言は日本の方言区画のうえではどのような位置にあるのだろうか。まず地理的位置と同じく四国方言地域に含まれる。そしてそれはことばとしての語彙・語法・音韻・アクセントなどのいずれの面からしても近畿方言と共通するか、あるいは類似する要素のいくつかを持っている。しかし、四国方言を近畿方言の変形とみなすとしても山陽方言とはアクセントのうえから別系統とみなされる。四国全域を単一の方言地域とみなした場合、そこからはみ出すと考えられるのが四国に近く位置する少数の島々を除く瀬戸内海上のほとんどの島々と、四国西南部の宇和海に面する南予の地域である。瀬戸内海島嶼部の言葉は東京型(乙種)アクセントで山陽方言と共通するものが多く、語彙・語法上の類似点が多い。南予の言葉の一部は謂南方言と呼ばれその周辺には京阪型・東京型両種のアクセントの接触地帯がある。以上のことから伊予のことばを地域的におおまかに区画づけると、まず四国方言と軌を一にする東・中部区域(=東中予方言地域)、九州方言と同一系統であるかあるいはその変形と考えられ加うるに土佐西南部方言と重なり合う区域(南予方言地域)、山陽方言の影響のもとにある島々(瀬戸内海島嶼方言地域)とに三分することができる。
 東中予は四国山地の北側で、瀬戸内海の燧灘・斎灘に沿った細長い地域である。瀬戸内海の航路・太政官道とその延長によって昔から京阪との接触が濃く、ことばは近畿方言の影響を受けている。この地域はほぼ同質の方言地域であるが、吉野川上流の一つである銅山川流域は徳島方言の影響をうけるとともに土佐との山越えの交通があったために高知方言の流れも残っている。また仁淀川上流の面河川流域でも高知方言の侵入がうかがわれる。
 東・中予方言の境界は行政上の越智・温泉の境界とほぼ同じである。地勢的には高縄半島が東・中予を分かっている。越智郡島嶼部のうち今治市に近い大島(吉海町・宮窪町)は東予方言地域に属するが以北の芸予諸島は瀬戸内海島嶼方言である。
 東中予方言地域と南予方言地域の境界は、久万・小田町境から砥部町→伊予市・広田村境→双海町上灘を結ぶ線が考えられる。瀬戸内海から四国山地に南北の線を想定すると、犬寄峠―上尾峠→真弓峠→大川嶺を連ねた分水嶺がその地域区分線となる。行政上は一般に中予に含まれている小田町・中山町・広田村は大洲市に流れる肱川の上流にあり、また双海町は喜多郡との交流が濃く、いずれも南予方言地域に組み入れられる。この方言地域区画は民俗文化の地域区画ともほぼ軌を一にする。
 東・中予方言のアクセントは京阪型でアキノソラがタカイと発音する。可能態副詞はエー行カン・ヨー行カン、禁止語は行ッタライカン、一音節名詞の母音長音化(木(キー)・手(テー)・目(メー))などが挙げられる。東予・中予方言は語法においてやや異なる。キン・キニ・ザッタ(雨が降ル キン・キニ 行カザッタ)、ホーデェ(そうですか)、オ…マセ(オ行キマセ)、ア・ソ ロン(あれ・それを見よ)などは東予方言である。松山を中心とする中予方言では、可能態副詞はエーである。疑問のケ(行クケ)、念を押すゲェ(行クゲェ)、接尾語のナモシなどがある。オ…ナは語調によって意味が異なる。「オ食ベナ」は上り調子のときは(お食べなさい)で、下り調子のときは(食べるな)となる。(図表「伊予方言区画」参照)

 瀬戸内海島嶼ことば

 瀬戸内海島嶼のうち、越智郡大島と松山市興居島および温泉郡中島町野忽那島は東・中予の陸地に近く、経済圏・通婚圏を陸地部と同じくしているので島嶼方言地域から除外され、東予・中予方言地域に包含されている。愛媛県行政区画内にある前記以外の多数の島々はアクセントからすれば山陽方言地域に帰するが、語法・語彙は東・中予方言と同じき傾向を示し共通する部分が多い。藩政期に伊予諸藩の治政下におかれていたからであろう。一音節名詞長母音化は聞かれない。可能態副詞はヨーが主体である。行クジャ行カンジャコトノ言ウナ・行カダッタ・ドウシタンナラ・知ラーデ・水バーノム・庭ヲハーテクレ・誰バレニハ見セン・投ゲルド・アノノーヤ…などのことばを耳にする。

 東予ことば

 新居浜市垣生公民館報「はぶだより」に稲見正が〝ふるさとのことば〟を紹介している。東予のことばとしてそのいくつかを記載する。
 ・ほんまのとこ わきもとうから使わんきん わっせてしもとんじゃ、覚いとる人はおっせてつかや。
 ・夕立がきそうじゃ はよ桑摘んでこい 田の草も這わな稲が泣っきよるぞ わいらもはよ来い。
 ・今年やぁお医者はん代も少ないし秋もよかった 歳末も掛取りにすくまされんですみそうじゃ。
 ・障子凧もよかんぺ凧も早よ揚げてつかい 投げ独楽するきにあぶないぞ 女の子はのいとらんとしらんぞ。
 ・なんとおおかましかったねや まだ春一番じゃなかろうのう 早よ麦ん中耕すまして梅見に行こぞな。
 ・ええ若い者が何ちゅうつらぶしぞ だらだらと春陽にぎょうせん流すようにすな しゃんしゃんとせんかい。
 ・役場の小使が明日は足洗いぞなと鈴を振って来るきん柴餅でもどっさり作って農休みしょうぞよ。
 ・今日で十日も浜持続きじゃ この分じゃと夕立でも来てお天気がこおれるまで雨は降らんぞな。
 ・ねえはん買うてつかや 安うて良えぞな・おいはん何ぼでえ・ほんならもらおうかい・まけとこわい・おおきに。
 ・明日は里芋取りじゃ 手が沢山いるんじゃけんねや おばはんもねえやんも手伝てつかと頼んどいとけよ。
 ・歳末までにゃちと山人に行かな薪木が乏しいぞよ 子供らは垣生山に松落葉かき行って猫束背負うて来い。
 ・お前らも今日から一つ年齢が増えたんじゃきに しっかりせなあ よその人に笑われるんぞよ。
・牛の麦を搗く臼場は苦手ぞな 呑気そうじゃが足のだいこと しんどうてかなわんのじゃがぼつぼつやるかい。
・よう降るのう いつわきたらあがるんかいねや どこもかしこもじとじとしてたまらんわい―と父、また傘破ったんか
い 裸足でそれどうなりゃ 昼のこしらえしてあるきに早よ食べてこんまい子の守りを頼むぞよ―と母。
・姉やん螢籠編んでんや 兄やんが夕方に螢取りに連れて行たる言うたんじゃきん大きい結構なのたのまの。
・お婆はん今日も沖い行よんでぇ 元気のもし 何歳になったんかいね・おおけに ちょう八じょわの 年齢だけ荷い捨てるほど取ってしもてどおなりやいね 早よ死なと思いよんじゃけんどお迎いが来なのもし・何言いよんぞな そやって
元気に働らけるのに まお互い老耄んように気いつけて長生きせんでどおすんで。
・何とええお天気じゃねや 稲刈りゃもうすんだかや・へえ 昨日ようようおさんばいあげしとわの・どうぞい今年ゃ よかったかや・そうじゃのもし秋日和ゃ続いたきんお蔭でまあまあじょわの・まあまあならええじゃないか 欲いうたら
きりゃないけんのう ところでおいはん今日も鯊釣りでえ・そうよ こりゃ一番ええきんねや。
・むかしから節分寒中というが寒い日や続いたわや 今日はどこ行きぞい・へえ新須賀まで・涅槃会かい わしもそう じょ いっしょに行かんか ときにわれんくは誰の読立があるんぞ・東のおばはんじょわの・ほんならおなごし連中はさきに行たんかや・へえ 昼前にあるゆうてとうどうに出かけたわのもし。

 中予ことば

 中予方言はいわゆる松山弁である。ナモシで代表される。この特徴をうまく捉えているのが夏目漱石の小説『坊っちゃん』である。
 「バッタたこれだ、大きなづう体して、バッタを知らないた、何の事だ」と云ふと一番左の方に居た顔の丸い奴が、「そりゃイナゴぞなもし」と生意気におれをやりこめた。「箆棒め、イナゴもバッタも同じもんだ。第一先生を捕まへてなもした何だ。菜飯は田楽の時より外に食ふもんじゃない。」とあべこべにやりこめてやったら「なもしと菜飯は違ふぞな、もし」と云った。いつまで行ってもなもしを使ふ奴だ。「イナゴでもバッタでも、何でおれの床の中へ入れたんだ。おれがいつ、バッタを入れてくれと頼んだ」「たれも入れやせんがな」「入れないものが、どうして床の中に居るんだ」「イナゴは温い所が好きぢゃけれ、大方一人でお入りたのぢゃあろ」

松山名菓のCMを伊丹十三が自作自演した。小道具まで自分で準備して松山弁の味を出そうとしたという。

もんたかや まあ一六のタルトでもおあがりや
ほて しぇーしぇき①はどうじゃったんぞ どげ②かやほら
おまえがのふぞうな③けんよ
つばえて④ぎり⑤おったんじゃろが
残念なねやもう残念からげる⑥ぞよ
まあ 精だしてタルトでも食べることよ

まあお聞きや どーしててこしてて① わしゃたまげたぞよどがいにもこがいにもよーいよい②じゃが こんながねや
一六のタルトを 贈ってきたんじゃが ほよほよ③ あのよもだ④ぎりいよるんが⑤ おまえ 一六のタルトぞ わしゃもうおとろしいかい

もんたかや 一六のタルトがあるけれまあお茶でもおのみや 手洗わにゃいくまいげ①(略)ほがいに②おらばいでも③
よかろうがね いま洗いよるが
「電通」制作

①「先生」をシェンセェイというのは四国では徳島以外にみられない。「せ・ぜ」を「シュ・ジェ」というのは、今では伊予誂りの特徴にはならない。 ②ビリの成績。どけつ(ド尻)の略③野放図、怠慢 ④じゃれる。古語「戯ふ」 ⑤(ばかり)に当たる副助詞 ⑥残念でしかたがない。「きのどくからげる」〈伯方島〉などと使う。

①どうしたもこうしたも ②やれやれ、骨折損のくたびれもうけの気持ち。なげやりな微妙な気分を表出する語 ③(ほうよ)ともいう。そうよの意。主として女性。 ④ふさげ、本気にならないこと、など広いニュアンスを持つ伊予特有語 ⑤(言っている者が)の意。

①ならないだろうね。松山などでは〈いかまい〉とも。 ②そんなにも ③どならなくても。「い」は「ん」の転誂。また、「ない」の「な」の脱落とも。「おらぶ」は古語「叫ぶ」の意。
 「伊予地方のことば」(松山言語談話会)より

 南予ことぱ
       
 南予のことばの軽妙さを巧みに小説に仕立たのは獅子文六である。戦後、津島町での疎開生活の経験・見聞が生かされている。南予の風土と人情が会話文のなかで躍動している。

「あ、先生、いまお迎えにきたところですらい。今日は、戦後初めてのツキアイがあるけん、越智さんが、先生を誘うてこいちふことで…」「なんのツキアイですか。」「ツキアイちゅうたら、牛にきまっとるがなし。」「おう、だいぶ、ツキアイ見に行きますらい。今日の土俵は、久し振りやでのう。」「犬丸先生は、闘牛は初めてだしょうなし。」「もちろんですよ。それは、相当、危険な遊びですな。」「じゃけん、面白いのですらい。賭けても、暴れ牛もないようなら、盆踊りとわらぞなし。」…
 『てんやわんや』
 「お前、まだオコトワリにも来んのは、どがいしたことぞ。それァ、家のお嬢さんは、美人じゃけに、若い者が、つけ文ぐらいするのは、無礼といっても、我慢ならんことでもない―と、わしも胸のなかでは、そう思うとらい。しかし、大且那や若旦那が、腹立てていなはるのは、そのつけ文が、謄写刷りやったちゅうことや。な、腹立てなはるもムリなかろうが…。つけ文を印刷にかけるとは、どがいしたことぞ。これァ、お嬢さんを侮って、したことじゃ。お嬢さんを、ナブリモノにして、蔭で、笑おうちゅう悪企みに、きまっとらい。そして、お嬢さんを侮るちゅうことは、森家を侮ることやけに、これァ、大旦那も堪えなはらんのが、道理やないか。そうとしか思えんやないか。面白半分、やりよったにちがいないわ。その心根が憎いやないか。大旦那は、人格侮辱罪という法律で、警察に訴えると、いいなはるぜ。そして大旦那のいいなはるには、これには、きっと、共犯がある。いや、そやつか、主犯らしい。丑之助のような、トッポ作には、過ぎた知恵じゃ。そやつを、捜し出せ―と、こがいにいいなはるのや。」「へい、きっと、そうだすらい。おおかた、外に、唆かした奴がおりますらい。」「そやつの名を、丑之助の口から、白状ささんならんので、わしが、今日、訪ねてきよったんじゃ。丑之助は、ほんまにおらんのかね。」「へい、今日は雨で、畑が休みじゃけに、どこかへ出かけよりましてなし。」「そやったら、明日朝にでも、わしのところへ、顔を出すように、いうてやんなせ。いや、丑之助か、なんぼ隠しても、相棒は、どの辺におるか、こっちには、おおかた、知れとらい。」『大番』
 南予は山地が多く地形が複雑であり、くわえて宇和海は海岸線が長く変化に富む。小集落が孤立傾向にあってことばも微妙な分布状況を示す。アクセントは東京型系統の謂南方言、東宇和郡と北宇和郡鬼北地方(鬼が城山の北)の特殊型、喜多郡と大洲市での一型(無アクセント)が指摘される。一音節名詞の長母音化は佐田岬半島と西宇和郡で見られるが他は短音であり、可能態副詞はヨー(ヨー行カン)である。中予方言地域に接する山間部ではエーが併用される。共通語のイケナイはイケンを用いる。
 南予方言は中山町・双海町・広田村、小田町、長浜町・河辺村・肱川町・内子町・五十崎町、大洲市の地域を大洲(あるいは喜多)方言地域とし、八幡浜・宇和島両市と東・西・南・北宇和郡の地域を宇和方言地域とする。宇和方言のうち南宇和地域のことばは高知県西南部の幡多方言とともに豊後水道を隔てた九州東北部と同じ系統とされ、とくに謂南方言と呼ばれる。大洲方言アクセントは平坦な文アクセントであり、語法は中予方言と宇和方言語法を相半ばして含んでいる。宇和方言アクセントは”ア”キノ”ソ”ラハタ”カ”イと東京型であり、終助詞はライ(ソウデスライ)、ナハル ナル(行キナハル 行キナル)、ナーシ ナシ(寒イナーシ 寒イナシ)、サイ(行キサイ)を使用する。

 挨拶ことば

 送別の挨拶ことばに「お道ように」がある。いまはもう廃れてしまったことばであるが、南予の婦人の口から時に聞くことができるなつかしいことばである。「さようなら」バイバイにとってかわられ、それもバーイと簡略化されてしまった。
 古語に「からかふ」がある。押したり返したりするの意味である。すなわち、肉体的な努力をするということか。全国的な意味のカラカウは愚弄嘲笑であって、南予ではテガウ・ナブルという。「カラコウテ…スル」は無理をして・反抗して…する、という意味である。田畑の仕事を終えて家路をたどる夕闇どき、まだ仕事をやめないでいる人に挨拶して通る=カラカイナスナヤ、たいていで置きなはらんかな=そんなに根をつめて無理をしないように、もう仕事を終えられてはいかがですか、という気持ちを表す。
 他家を訪問しての呼び掛けのことばはゴメンクダサイであるが、伊予ではハーイと相手の注意をうながすか、モーシと呼びかける。モーシは「申し」であり、電話のモシモシと同根であることはよく知られている。子供たちはごていねいにもハイモーシと呼び掛けた。ハーイとモーシを結んでハーイを短音化したのである。自宅を出るときはイッテマイリマスといわないで「行って来ます」「行って帰ります」といい、他家からの帰りには「インデクライ」(往んで来らい)を別れのことばとした。
 慶応三年(一八六七)一一月一五日、京都河原町近江屋で坂本龍馬・中岡慎太郎が暗殺された。このとき中岡の頭蓋はコナクソの掛け声とともに切り割られた。刺客は新撰組とも、いろは丸事件を遣恨に思っての紀州藩士ともいわれた。のちに京都見廻組の佐々木唯三郎以下七人によるものであったとの説もあり謎を秘めている。現場に残された先斗町瓢亭の駒下駄と鼠色の鞘、鞘は新撰組原田左之助のものと判定する者がいた。左之助は伊予松山の出身。コナクソは伊予の掛け声。よって刺客は新撰組と推測されたのであった。小説『花屋町の襲撃』(司馬遼太郎)が描く伊予ことばのひとつである。

 時制ことば

 いつもその場所に在るものが遠去かったり近付いたりすることを古くは〝去る〟といった。移動することをいいあらわすことばであった。近付く・遠去かるのいずれも〝去る〟といった。夕去ればひぐらし来鳴く生駒山・夕去れば小倉の山に鳴く鹿の…の「夕去れば」は夕暮が〝近付くと〟の意である。明浜町でのみ言われることばにユーサガタがある。夕去(り)方…ではないかと思われる。夕暮時をあらわす時制ことばである。遠去かるほうの「去る」と思われるのが久万町・宇和島市・広見町のユーザレで「昨夜」を指す。大洲市・三瓶町・三崎町では夜更しの習性をユーダレコキ・ユーザレコキ・ユザレコキという。この場合のユー・ユは夕暮で、ダレ・ザレは「去れ」であろう。なおユザレをヨザレともいう。ヤ行音のユ・ヨの転訛はよくあらわれる現象であり、夕→夜と変化したものである。夜去りは一晩中の意味があり「あの子はヨサリ泣いとった」などという。終夜・夜もすがらの意をあらわすことばヨガサラを用いるのは南予方言である。一日中をヨガサライチニチと表現するのは、一日が「夜が去ら」に強く引っ張られている感がする。ヨガノヨシクラ(一晩中)は県下の各地に点在している。夕暮時をコマツガクレというのは印象深い。宇和島市下波で聞いたことばである。網船の網代での操業交代時刻を示すことばで、夕陽がおちて薄闇があたりを包み、尾根の小松が闇に姿を消す時刻をいうのである。自然と人間とが融合した最善のことばではないかと感銘をうけた。
 夕・夜に対しての昼の一日をヒートイ・ヒイテ・ヒーテといいイシテともいう。「無理せんとヒシテぐらい休まんかい」などという。ヒシテガイは一日交替であり「船はヒシテガイに通うとるぞな」という。ヒシトテガイとも変形する。朝から晩まではヒシトイジュウ・ヒシテジュウ(一日中)である。ヒシテミチは一日行程の距離である。宇和島市→(黒の瀬峠)→吉田町(法華津峠)→宇和町は宇和島の鮮魚行商人が魚荷を担っての行商ヒシテミチの商業圏であった。

 ことわざ

 江戸期の『譬喩尽』が「四国猿」を挙げ〝四国ノ人物ヲサシテ云フ悪口也〟と書いている。明治期正岡子規は〝世の人は四国猿とぞ笑ふなる四国の猿の子猿ぞ我は〟と詠んだ。同じ四国でも、瀬戸内海側と太平洋側とではかなりの気質の違いがある。土佐の食い倒れ、阿波の着倒れ、伊予の建て倒れ・伊予の食い倒れ…などという。四国では「伊予猿」という。これを別に「伊予の連れ小便」(伊予のともばり・伊予の三人ばり)ともいって、自主性の弱い、お人好しと自嘲する。しかし、これは、気候温和・食生活の豊かさが生んだ、人付き合いのよい、おおらかでのんびりした性格からきたものといっては言い過ぎであろうか。郡市町村誌などを見ても伊予特有のことわざは案外と少なく、全国的に使われていることわざが多い。それを伊予に適合させたことわざも見うけられる。
 全国的俚諺に伊予のことばを付加したものに「桃栗三年柿八年」+〔イノス(柚子)が九年でなり難い〕・〔梨の大馬鹿十八年〕・〔梅はすいて十九年〕、「秋茄子嫁に食わすな」十〔コチの頭嫁にやれ〕、「氏より育ち」+〔へんどの子〕、「半夏半日」+〔うどんで休め〕などがある。このほか、語句を入れ換えたものに「京の(娘)に隣りをかえな」、「捨てる(ヤブ)があれば拾う(ヤブ)がある」、「転げたら(石)でも拾って起きよ」、「下手の長(縄)」、「(汗をかいた)乞食は来ん」、「言うことは(朝)言え」←(うまいものは宵に食え)があり、なしをありと反対にした「背中に眼(あり)」、類音語に置換した「仕事(ゆるゆる)飯弁慶」(ゆるゆる→幽霊)もある。特有伊予方言と代替したものに「(まがらぬ)蜂は刺さん」(まがらぬ←触らぬ)、「(ちゃばたたく)と牛の値がさがる」(ちゃばたたく←しゃべる)がある。
 独自に展開させて使っている伊予の俚諺には伊予の地名・人名を織り込んでいるものが多い。「延喜の松山行き」(延喜は今治市の地名、やりかけたことを変更・中止すること、或いは計略をめぐらしてご馳走にありつくこと)、「吉田のお茶漬け口ばかり」(宇和島十万石から吉田三万石が分封され吉田藩が成立したのが明暦三年で、この時から高直しまでの間宇和島は七万石であった。分封の経緯の間に巧言令色があったと宇和島藩側からの批難のことわざ)、「お出石参りの日帰り」(長浜町金山出石寺参詣は一日行程では困難な地域。無理をするなの意)、「河野の後築地」(伊予の豪族河野通有が元寇弘安の役に築地=石塁の前に布陣し不退決死の戦意を示した豪胆さをいい、度胸のよさを讃える)、「八十島斬っての相談」(宇和島藩の検地奉行八十島が、検地に反対する庄屋三好家一族を斬首した事件をいい、事がすんでからの相談ごと、あるいは後の祭りで時期を失することをいう。八十島の三好庄屋斬殺については史実として疑義があると山口常助はいう。)
 伝説や歴史や事件に仮託されたことわざに「和霊様の晩に言え」(和霊様は山部清兵衛公頼を祭神とする神社で南予地域での信仰顕著な神社。お庚申するな…と同じで長話しを咎める)、「死んだ亀さん話にならぬ生きた亀さんままならぬ」(松山藩にあった事件で張本人の亀さんと間違えられた他の亀さんが殺害された。話にならぬ・ままならぬの意をこめる)、「明日も時化、明後日も時化」(幕末期、宇和島藩が長州征伐を決めながら重臣たちがその実行を決意しなかったことをいい、実践をしぶり日和見的態度を取るのを非難嘲笑すること)、「御用の火事」(大洲藩主が火事を見たことがないというので家臣が民家に火を付けて火事見物させたと伝えられることから無駄なことをする・阿諛追従することをいう)、「二合半枡の尻たたき」(半人扶持の二合半では一日の生計は保てぬ、枡の底を叩いて嘆き、爪に火をともす生活しかできぬたとえ)、「ご巡見さまがはじまった」(巡見使は幕府から藩へ派遣する査察使で直参旗本が任命される。藩では巡見使を迎えるにあたっては周到な準備と丁重な待遇をもってしたのは当然であった。泣く子と地頭には勝てぬ…と同様に、子供の我侭には抗すべくもないことをいう)などがある。
 地名を、洒落ことばに使ったことわざも多い。洒落は言葉の同音を利用して人を笑わせたり説得したりする気の利いた文句である。普通には「……で……」の型を採り、(で)を脱落させ、あるいは後半を〈省略〉する。「大林寺前のお勝(で)〈いつも居る〉」は〝いつも居る〟のは大林寺前のお勝(で)あらてこれを序詞として、言いたい言葉である〝常に居る〟を導き出すのである。(で)は前半の事柄を順接的に……であって…と受け、後半の結語にむすびつけてそれを印象深く強調する。(で)を逆接的に働かせると文句は面白さを増す。……ではないが……と続けるのである。「大林寺前のお勝、そのお勝ではないが→いつも居る」の型とするのである。さらに重要なことは後半結語部分の省略である。重要な後半部分を語り示さなくても理解できるのは知的な仲間であり、地縁つづきの仲間である。謎めいた前半部のみで後半部を理解し合える仲間意識は人間の集団意識をくすぐり寛ぎの安心感すら生ぜしめる。ことばの不思議な魔力のひとつであり呪術であるとすらいえる。「闇夜の太山寺まいり(で)〈和気=訳がわからぬ〉」(松山市和気は太山寺の手前にある町名)、「久万山の豊年(で)〈黍=気味がよい〉」、「円光寺の門(で)〈いなげな門〉」などがある。地名を含まぬ洒落俚諺に「牛のお糞(で)〈出が太い〉」(龍頭蛇尾)、「鰆の刺身(で)〈皿までねぶる〉」、「コノシロなます(で)〈皿までねぶる〉」、「ロスていれぎ(で)〈はびこる〉」(日露戦争のとき松山に俘虜収容所が設けられ多数のロシヤ兵が送られてきた。ちょうどその頃テイレギに似た雑草が繁茂したことに由来する)などがある。
 その他「屁放りゃ三つの得がある、おなかも空いた、気も晴れた、お尻のがらがら皆のいた」「肥取りに屁かます」「追剥でも脱ぐ間は待つ」「吾が子とふぐり(=睾丸)は荷にならん」「腹に竹が生える(嘘をつくな)」「芦の陰にハゲも居る(口は禍のもと)」など、伊予のことわざは多彩である。

※伊予ことばについては西園寺源透(富水)が多くの写本を県立図書館・松山商大図書館に残している。県立図書館には伊予言葉・伊予の方言・伊予の俚諺・伊予方言集・方言資料などがある。刊行されたものでわたしたちが容易に手にすることができる主なものに、国村三郎『宇和島語法大略』・岡野久胤『伊予松山方言集』・奥里将建『四国の方言』・武智正人『愛媛の方言―語法と語彙』・久門正雄『国語拾遺語源考―愛媛新居方言集―』・日本放送協会「全国方言資料5(中国・四国編)』・森田虎雄『宇和島方言語彙』・藤原与一『昭和日本語方言の記述 愛媛県喜多郡長浜町櫛生の方言』・久門正雄『言葉の自然林―方言俚諺の詳密研究と日本語源論―』・秋田忠俊『伊予のことば』・森田虎雄『宇和島方言語彙拾遺』・杉山正世『いよじのほうげん』『伊予路のことば』・和田良誉『女の腕まくり』・松本麟一『伊予のことわざ』などがある。
 なお、愛媛大学教育学部国語国文学研究室柳田征司による『愛媛県方言関係文献目録稿』は昭和五七年末にいたるまでの郷土誌と新聞記事を除く愛媛県方言関係の刊行本および雑誌掲載論文を広く収録した労作であって研究の参考になることを特に付言しておく。また、愛媛県の方言についての詳細は愛媛県史部門史「学問・宗教」を参照していただきたい。

伊予方言区画

伊予方言区画


図10-2 愛媛県方言地図

図10-2 愛媛県方言地図