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愛媛県史 民俗 下(昭和59年3月31日発行)

一 地名

 われわれが古来〝地名〟について強い関心を寄せてきたことは、記紀や風土記にみられる数多くの地名起源説話がこのことを物語る。『日本書紀』に〝伊予二名洲〟〝伊予洲〟が、『古事記』に〝伊予之二名島〟みえることは周知のことである。さらに、『古事記』は「此の島は、身一つにして面四つ有り。故、伊予国は愛比売と謂ひ」としるす。『伊予国風土記逸文』には「温泉」の項に、上宮聖徳の皇が湯の岡の側に碑文を立てられたので当土の諸人等が見まく欲ひていざなひ(誘いあって)来たので〝伊佐邇波〟と謂うこと、倭の天加具山が天降りしたとき二つに分かれて片端が此の土に天降ったので「天山」と謂うこと、摂津の国の御嶋(高槻市三島)から移られたので「御嶋」(大三島大山祇神社)と謂うこと、昔時熊野と云う船を設った所で今に至るまで石と成ってあるので 「熊野」と謂うこと、が記載されている。いずれも地名の根源を説明づける〝本〟形式をとっている。これらのことについては小泉道『伊予の説話資料の研究』に「伊予の地名の語源と表記について(伊予・愛媛・石鎚)」「伊予の古代説話について(熊野の岑・天山)」の詳細な論考がある。
 地名は気候地形などの自然環境、土地を舞台として生活を営む人間の所産、および人間活動の文化・歴史環境の複合条件の中から発生してきた。従って地名は、土地の総体印象を表現し、地域の歴史を物語り、それが形成された過程を説明する実在であるといえる。地名自体は貴重な文化遺産であるとともに現在に生きている生活資料でもある。この故に、地名は歴史地理的風土の再構成に際して重大な役割を担う。われわれは地名を探求することによって地域の内容とその推移・変遷・過程を知り得る。その鍵は地名の発生・伝播・分布であるが、そのいずれもが解明すべき謎を秘めている。由来不明に伴う牽強付会の説、地名に当てられた漢字、漢子の別音による呼称と多様性、地元読と他国者読との混乱などがそれである。地名解明のこの三つの鍵こそ地名表記と呼び方の正しさを導くものである。
 愛媛県の地名についての総合本格的な調査研究は、平凡社の日本歴史地名大系第三九巻『愛媛県の地名』(昭55)と、角川書店の角川日本地名大辞典『38愛媛県』(昭56)が相次いで出版されたことによってその端緒が開かれた。前者は現行市町村ごとに、後者は五十音順地名篇と市町村ごとの地誌篇によって編纂されている。特筆すべきは、平凡社歴史地名には江戸時代前期から現在にいたる行政地名の変遷の大略と近世各時期の藩別村高を一覧表にした「行政区画変遷・石高一覧」が、角川地名には明治一二年頃と推定される愛媛県各郡地誌を底本とした「小字一覧」が特集されていることである。

 縣名録伊呂波倚

 藩政時代、伊予八藩においては行政支配・幕府への報告などの必要からさまざまな地誌が編纂された。『縣名録 伊呂波倚』は宇和島藩庁が編纂した『大成郡録』の付録として宝永二年(一七〇五)一二月に編撰された。藩内村浦三九五か所のイロハ順一覧である。本文書式は、

い 御庄組              
 板尾村 御城下ヨリ僧 十里半    
 イタヲ        柏十一里半

 御庄組外海
  岩水浦 同舟十八里 柏十里
  イハミス      僧九里半

の如くであるが、当時の呼び名を読み仮名を付して記載してあるのが貴重である。所属組名と御城下よりの距離記載を除き村浦浜名と呼び方を記すとつぎのとおりである。(図表「村浦浜名と呼び方①~③」参照)

さらに、伊呂波倚は、「右村名之内同名并紛名左ニ記」として、同村名と紛らわしい村名を挙げている。

今田村…山奥組魚成内・保内組日土内  川内村…御城下組来村内・多田組  川之内村…川原淵組次郎丸内・矢野組・保内組伊方内  僧都村…御庄組・惣津村・山奥組惣川内  長谷村…野村組・山奥組魚成内  中之川村…川原淵組奈良ノ方・川原淵組次郎丸ノ方・山奥組窪野内・御庄組  中浦…御庄組外海内・保内組伊方内  野田村:山田組・矢野…御庄組外海内・保内組伊方内  野田村…山田組・矢野…御庄組外海内・保内組伊方内  野田村…山田組・矢野組窪浦…御庄組沖島内・多田組  矢野町・矢之浦…矢野組・御城下組遊子内  松尾村…山奥組横林内・矢野組  深浦…御庄組外海内・御城下組東三浦内  小屋野浦…御庄組沖島内・御城下組遊子内  寺野村…山奥組窪野内・山奥組野井川内  弓立浦…御城下組西三浦内・津島組下灘内  入谷・塩谷…多田組東多田内・御城下組遊子内  平野村…野村組・多田組  広見村…御庄組・川原淵組  中津川村…矢野組・山奥組

 以上の村浦名のうち難読地名は下相村・中間村・久良浦・明間村・下川村・入谷などが、誤読されやすい地名は磯崎浦・芳原村・保子野村・男川内村・大宿村・高茂浦・中當村・夢永浦・石応村・母島・清水村などである。撰編者が当時の地名漢字と呼び名を正確に採録したか否かについては若干の疑義があるが、記載地名は以後約三百年、わずかな例外はあるにしても堅固に継承されている。なお、平凡社の『愛媛県の地名』には画数別「主要難読地名一覧」が収録されている。

 市町村制と地名

 慶安元年(一六四八)『伊予国知行高郷村数帳』元禄一三年(一七〇〇)『伊予国村浦記』、天保五年(一八三四)『天保郷帳』に記載されている村浦名は明治一九年の『地方行政区画便覧』に継承されているが、明治政府によって推進された明治二二年の市町村制施行によって旧村浦名は行政単位名としては激減し大部分は字名となって、新たな市町村名が生まれた。命名・呼称は旧来の村浦名を集字合成したもの、中核となる村浦名に他を吸収したもの、郷名を用いたもの、象徴自然地名を冠したもの、新理想郷を謳ったものなどがある。ここに新市町村名のうち集字合成名と考えられるものを掲げる。(図表「集字合成名①・②」参照)
 以後、昭和二八年の町村合併促進法の公布、新住居表示・圃場整備・区画整理・国土調査など行政のさまざまな分野において古くから伝わる地名・町名の改廃や変更が進められ、不動産・観光業者は一種の商品名として新しい地名をつくり出す。こうした推移のなかから地名保存運動の全国連絡組織である「地名を守る会」が結成された。

 地名の種類と型

 地名の種類としては具体的には次のようなものがある。
 
〈自然〉山・峰・丘・台・峠・坂・平・難所  川・谷・沢・滝・淵・瀬・川原・湖・沼・泉・清水・井戸  野・原・森・林  狩場・漁場  島・瀬戸・岬・浦・浜・磯・入江・湾・灘  岩・石・洞穴・その他  〈遺跡〉先土器・縄文・弥生  古墳・陵墓・墓所墓碑・塚  官公庁・城・塁・古戦場・館・邸・屋敷・人物生家・陣営・刑場・その他  〈交通・産業〉道・駅・関・宿・茶店  津・泊・港  橋・渡・堀・溝・用水・堰・堤・溜池・貯水池  市・屯倉・御厨・牧・御園・荘園・保・新田・開拓地・鉱山・遊里  〈文化〉寺・社・霊場・祭場・札所・御旅所・庭園・堂塔・庵・学堂
 さまざまな地名を類型的に通観しそれぞれの特徴を分析すると次のような型が考えられる。一、大区分的分轄型 ①東西南北型 ②前後・上下・表裏・内外型 二、藩領区分型 三、郷名型 四、自然地域型(山中・山中型、河谷型、浜・浦型 五、生活圏型 六、行政圏型 七、特殊固有型 八、新興地域型(観光型)

 地名のさまざま

 地名は複合的な要素をからめ合わせて名付けられ、伝承されてきた。恐らく誰というともなくそのように呼びならわせて、それとわかる名付けであったと思われる。こうした、いうなれば自然発生的な地名の誕生が以後文字に書き記されて定着していった経過を経て固定されてきたと考えてみるのが適当であろう。治政支配の必要から命名された地名がこれに加わり、集落の分岐発生に伴い〝型〟としての地名が生まれてくる。文字は佳字をもってこれに当て従来の地名文字を捨てたところもあり、或いは火災や天変地異によって古来の地名文字を忌み新地名を名乗った町村や集落もある。行政の変遷は行政地名に著しい変化を求めざるを得なかった。とくに合併地名はそれぞれの地名をいかに新地名のなかに織りこむかに苦悩した痕跡をのこしている。そして、昭和二八年以降の新住居表示はわれわれが伝えてきた文化財ともいえる地名の多くを無残にも消滅させ珍無類ともいえる町名を作ったところもあった。これもまた時代の趨勢であって地名考察の対象となる。
 県下の地名のいくつかをとりあげ、地名の拠って来たる由縁を考えてみよう。以下はそれぞれの地名の概括的な説明であって個々の地名に適せぬものもあり、異説も多く、かつ今後の研究に俟たねばならぬものをも含んでいる。

 島

海のなかの陸地が島である。複数の島が並んでいれば大中小、東西南北、上下などと区別する。あるいは青黒をつけて呼ぶ。植生によって竹ヶ島。動物によって馬・鹿・鼠を冠する。しかし、陸地内の集落にも島地名がある。宇和島は海に囲まれた島ではない。「シマはひとつひとつの邑落であり、人が久しく生活を共にした民家の群れのことであった」と柳田国男はいう。阿島(新居浜市)、下島山(西条市)、鹿島(伊予市)、上村島・下村島(大洲市)、小島(瀬戸町)は陸地の島である。

 網代

 漁場を網代という。宇和島藩では鰯網を元網(本網)・結出網・尻付小網・百姓網に分けていた。結出網は元網についで定数を限った藩の許可網であった。それにも大結出・小結出、古結出・新結出の種類があった。宇和島市下波の結出はこの網名が地名になった。あじろ(中島町)、中ノ網代(瀬戸町)、赤網代(保内町)、小網代・真網代(八幡浜市)、横網代(吉田町)、掛網代・鰹網代(津島町)、網代(内海村)、小網(双海町)は漁場にもとづく地名である。

 市

 社寺の祭礼や法会の日に市がたつ日が多い。ついで一定の日を標準とする定期市が道路や河川の合流点、社寺門前でたち、さらに五日目ごと月六度の定期市が、のちには日切り市が日々市となり常見世となった。在町での市では松野町吉野のホゴロ市、盆行事での草市(吉田町)の名があった。朔日市(西条市)、八日市(土居町・内子町)、廿日市(内子町)、古市(川内町・城川町・野村町)、市場(伊予市)、古市場(松野町)、新市(東予市)、上市(土居町・東予市・松山市)、中ケ市(面河村・大洲市)、野々市(西条市)、永野市(広見町)、綿市(川之江市)、竹ケ市(別子山村)、百市(柳谷村)、百ケ市(肱川町)、福市(五十崎町)など市にかかわる地名は多い。

 一之坪

 古代の土地区画方式に条里制がある。一辺の長さ六町(約六五四m)四方の一区画を里または坊といい、これを一郡あるいは数郡単位にして南北を一条・二条、東西を一里・二里と数える。里はさらに各辺を一町ごとに六等分し溝や畦などで坪と呼ばれる三六の区画に分ける。里の一隅から一坪・二坪と数えていく。従って耕地の所在地は何条何里何坪で明確に示される。考古学者の長井数秋は「父が所有していた農地の一つに〝がにがつぼ〟と呼ばれる土地があった。小学生のころ、なぜこんな変わった地名がついているのか不思議であった。高校三年になって県内の奈良時代の条里制遺構を調査する必要があった。この調査ではがらずも〝がにがつぼ〟の地名が、条里制に由来していることを知った。(中略)〝がにがつぼ〟に南接して壱ヶ坪という地名が現存しているのを思い出し、調べてみた。壱ケ坪の次の坪名はニケ坪でなければならないはずである。〝がにがつぼ〟はニヶ坪に当たる場所に位置していることが明らかとなった。〝がにがつぼ〟は二ヶ坪に接頭語化した〝が〟が番号の前についたものである。」と書いている(「地名と歴史」愛媛新聞・昭和56・10・9)。〝が〟の接頭語化の当否は措いて、論は正鵠を得ているのではあるまいか。一之坪(新居浜市)、一ヶ坪(東予市)、一ノ坪(新居浜市・東予市・松山市)、市ノ坪(東予市・松山市・伊予市)、伊ノ坪(川之江市)がある。

 今在家

 新しく形成された集落である。江戸時代には分家は制限される必要があったが、それでも二、三男は婿養子・隠居分家をさせた。在家の新設は協力苦心して田畑や屋敷地を開拓した結果であった。今在家(東予市・松山市・広見町)、新屋敷(小松町・今治市・伊予市・三間町・宇和島市)もまたこのような集落である。

 浦

 ウラは浦のほかに裏・末・東・北・占・心の意味がある。浦は湾とほとんど同意味であるが、由良・也良も同意といわれる。裏は表に対する語、末は本に、北は南を表として対照とした裏の意味である。東は北が東北にずれさらに東をも指した。心は表にあらわれぬから裏と同じに使ったのか。地の末(先端)で海に接するところ、また内陸では尖端・川の上流などをいう。大浦(波方町・中島町・北条市・明浜町・宇和島市・津島町)、東浦(宇和島市)、西浦(波方町・生名村)、南浦(吉海町)、北浦(宮窪町・松山市)はいずれも海に沿った地名である。なお漁村では居住集落が浦であり、網干場を浜としたという説がある。内陸部の浦には尾浦(伯方町)、東浦(西条市)、西浦 (西条市・面河村・久万町)、北浦(伯方町・内子町・五十崎町)、北裡(城辺町)、北裏(大洲市)がある。

 馬

 牧場を馬柵といい、駅伝の馬継宿駅を馬立・馬継という。馬継は松木と表記されるというので太政官道考察の有力な根拠となる。馬地は狭隆地で谷間、馬淵は走り馬・首無し馬の伝承とかかわりのある水神の地名でもある。馬木(吉海町・松山市・中山町・大洲市)、馬立(新宮村)、馬之地(久万町)、馬地(野村町)、午地(八幡浜市)、馬磯(松山市)、馬門(美川村)、馬越(今治市)、馬ノ淵(津島町)、馬淵(新居浜市)、馬乗(三崎町)、馬見 (大三島町)、馬根(三間町)、馬谷(長浜町)、馬瀬(御荘町)、馬場(土居町・川之江市・丹原町・北条市・野村町)、馬目網代(八幡浜市)がある。

 沖

 海・海浜・広い田畑野良・平野・広い田畑の中央部・家の前方・山の方角に対しての川の方角・奥など多様の意味を持つ地名である。沖(朝倉村・今治市・吉田町・城辺町)、沖浦(今治市・長浜町)、沖組(広見町)、沖村(吉田町)があり、興野々(広見町)は『吉田古記』には沖野々村とある。

 影

 陽地に対して影地がある。北面して日照時間が少ない陽陰の地であり、谷間の地である。日浦などとの対地名である。陽当たりの良好な山腹の集落を影無(丹原町)という。影浦(丹原町・中山町・八幡浜市)、影平(津島町)、影野(玉川町)、影地(肱川町)、蔭ノ地(野村町)、大影(新宮村)、下影(丹原町・城川町)がある。

 鍛冶屋

 鍛冶は金打の略という。鍛はきたえる、冶は熱した金属を冷水に入れて固くすることである。金属道具を作る職人が鍛冶屋であって、農山漁村にあっては必要不可欠の存在であり、蹈鞴師・鋳物師を含めての総称でもあった。鍋釜の家庭具をも作った。梶屋・梶谷、芋野(新宮村・伊予三島市・別子山村)、芋地谷(津島町)も金属職人の居住地名ではなかったか。鍛冶屋(丹原町・玉川町・大三島町)、鍛冶屋町(松山市)、鍛冶屋峠(広田村)、鍛冶屋浦(宇和島市)、鍛冶屋敷(内海村)、梶屋岡(八幡浜市)がある。

 片

 潟・片・方・堅・固はいずれもカタである。片は両に対する語である。地形的には片方に山があり他方に原野が開けている地である。山は緩斜面で南面している。片山(吉海町・宮窪町・今治市・北条市・伊予市・八幡浜市・三間町)、片岡(松山市)、片平(城川町)がある。

 木

 植物地名のうち木にちなんだ地名は多い。木には辟邪的呪力を持つものが多い。桃・椿・柳などがそれであり、松は正月の神迎えには欠くことが出来ぬ。榊は文字どおり神の木である。柿は成木責めの対象木であり、盆行事には飯を葉に盛り餓鬼に施すなど民間信仰にかかわる。梶はその繊維を採り太布をつくり衣料とした。柚木は自生の梶が豊富であったところで由布嶽もこれにもとづくといわれる。椿は春の木で生命の復活を、榎は斎木であって降神の標木である。桜の花びらは稲の花に見立てられ豊作を祈られる。黒木は松・樅・梅などの総称である。これらの木々の元や下で神を祭った。松本・木下などの地名である。椿(中島町)、柿ノ木(松山市・野村町・野村町・宇和島市)、榎(松山市・河辺村・野村町)、柳(松山市)、柚ノ木(大洲市)、柚木(砥部町)、松ノ木(松山市・内子町)、杉ノ木(三間町)、檜本(松野町)、梅ノ木(川之江市・中山町)、桜(松山市・川内町・長浜町)、桜木(新居浜市・北条市)、橘 (西条市)、李(西条市)、桂 (玉川町・城川町)、椎木(朝倉村)樅ノ木(久万町)、藤(松山市)、朴 (三瓶町)、楠(東予市)、楠 (宮窪町)、楠ノ木(長浜町)、楢ノ木(西条市)、奈良木(玉川町・城川町)、栗(野村町)、黒木(広田村・大洲市)などがある。

 木地

 ロクロ(轆轤・六呂・六路・六郎)と同じで、轆轤をひいて椀・盆などを作った木地師が居住した。奥山の〝霞がかり〟と呼ばれる八合目以上の山地の橡・欅・樵・栂・檜を伐って材料とした。木地師は小野宮惟喬親王を祖神とする伝説をもつ山地漂泊民で、小椋・小倉などの姓を名乗った。木地(玉川町・重信町・柳谷村)、地木地(美川村)がある。玉川町の楢原山東麓木地川に沿う下木地・竹ヶ成・上木地の三集落を鈍川木地、西麓蒼社川に沿う木地集落を竜岡木地という。古くはすべての樹木をキといい薪を意味してもいた。国木は燃料採集地であった。河辺村・八幡浜市・保内町にその地名があり、松野町には国木谷がある。

 久保

 窪・深の佳字である。凹地・谷地・山裾である。水と太陽が豊かである。柳田国男は「祖先たちは、身体のクボに似た地形をクボと名づけたのかもしれぬ。」と説く。久保(土居町・吉海町・北条市・肱川町・保内町・双海町・大洲市・広見町・城辺町)、大久保(新居浜市・松山市・大洲市・内子町・五十崎町・野村町・宇和町・津島町)があり、窪(宇和町・広見町)、窪野(松山市)がある。

 郷

 律令制の地方行政区画の最末端組織である。七世紀末より施行された国郡里制の里が改称されたもので五○戸を一郷とした。郷里制は二五年間続いただけで廃止されたが平安中期ごろから自然発生的に荘や国衙領の中にさらに郷ができ中世まで農民支配と結合の単位として存続した。太閤検地によって基本的に否定され近世の郷村制にくみかえられた。郷(新居浜市・小松町・今治市・波方町・川内町・長浜町・肱川町)、郷内(関前村・宇和町)、惣郷(内子町)、佐郷(波方町)、上郷(八幡浜市)、郷桜井(今治市)、田処本郷(大洲市)、本郷(伊予三島市・新居浜市・西条市)がある。

 河内 

 土佐の高知市はもと河中・河内と書いていたが山内氏築城の時高智と改め、のち高知となった。河内は河谷の意味である。河内(土居町・大洲市・内子町)、河内(伊方町・宇和町・吉田町)、川内(宇和島市)、河内(内子町)、河之内(東予市・菊間町・川内町)、川ノ内(柳谷村・八幡浜市・松野町)、川之内(三間町)があり、高知(東予市・丹原町・重信町)、高地(今治市)、大河内(大西町)、大河内(北条市)、大川内(吉田町)、男河内(城川町)もある。

 古味

 山峡の狭間の意味である。ゴミは泥地であり、五明も同根であるとされる。居住地域の移動に伴ってもとの地名が付随して使われることも珍しくない。新居浜市小味地は山腹地にある。移動地名とはいえぬだろうか。古味(美川村・柳谷村)、古味ノ川(宇和島市)、小味地(新居浜市)、小見山(大三島町)、五明(土居町)、五味(面河村)、五味地(丹原町)、五明(松山市)がある。

 反

 土地面積の単位で段とも書く。収穫量の基準となる地積単位ははじめ代であったが、大化改新後は町段歩制が採られた。和銅六年(七一三)六尺平方を一歩とし、三六〇歩を一段と定めた。太閤検地は六尺三寸平方を一歩とし、一段は三〇〇歩と定められた。一〇歩は一畝、一〇畝が一段である。明治の地租改正で六尺平方を一歩、三〇〇歩を一段とした。地積面積を地名としたものに五反田(八幡浜市・御荘町)があり、三反地(玉川町)、五反地(松山市・重信町)、六反地(東予市)、八反地(丹原町・北条市・重信町)、八反地(松山市)がある。

 佐古

 狭間や小さい河谷、狭く細く行きつまったような谷をサコという。山狭の細道を桶狭間のごとくハザマといい、迫・間の文字をあてる。佐古(今治市・北条市)、大佐古(菊間町)、長佐古(北条市)、なごさこ (中島町)、迫田(八幡浜市)がある。御荘町平山の左東風浦は佐古地と置き換えることは出来ぬだろうか。ハザマ系統に狭間(宇和町)、迫目(三間町)、小狭(内子町)がある。

 怒田

湿地泥地をいい、田を付すが、水田との係わりは少ない。沼田とも仁田とも書く。猪の臥床をヌタ場という。和え物の饅は形状が泥土に似ているところからの名付けであり、ぬたうつ・ぬたくるは猪が身体に泥土をつけること。「恋をして臥猪の床はまどろまでぬたうちさます夜半のねざめに」(久安百首)とある。ヌタウツはノタウツに誂してもいる。菟尾・怒田野尾・荒野尾(肱川町)、饒藪(丹原町)があり、伊方町に仁田之浜がある。

 沢

 低地で水がたまり草が茂る湿地、山岳地帯の渓谷をいう。タガログ語でのsawah・バタク語でのsabaが沢に関連することは泉井久之助・奥里将建・柳田国男らの説である。水田→湿地→沼沢地→小川→谷川と水を追って意味が遡上していることになる。稲作民族としての眼が源を求めようとしたわけである。沢(新居浜市・西条市・波方町・松山市)、沢津(新居浜市・弓削町)、沢渡(美川村)、沢池(波方町)、沢松(今治市・中山町)、長沢(三間町)、清沢(宇和町)、須沢(長浜町)、菅沢(松山市)、西ノ沢(御荘町)、平沢(中山町)、両沢(伊予市)、吉野沢(城川町)などがある。

 佐礼
     
 崖崩・小石の多い所をザレといい、座連・佐連・作礼・佐礼の字をあたえた。サレはザレの転訛と考えられる。山の崖崩・山峰の緩斜面の崩れ・崖地をいう。佐礼(川之江市)、佐礼谷(中山町)、広田村と久万町との峠であるサレガ峠・中山町との峠である大佐礼峠、玉川町の佐礼城がある。伊予三島市の土佐国境に佐々連尾山があり土佐越の道があった。佐々連銅山の開坑は元禄二年(一六八九)といわれる。やはり、サレと関係があるようだ。

 寺

 神仏の所在地や信仰地がそのまま地名として定着したというところが多い。三島・八幡・天神・天満・天王・金比羅・石鎚・白山・厳島・春日・稲荷・権現などがそれである。仏教関係では山号よりも寺号を地名としたものが多い。廃寺号地名は考古学資料でもある。寺号地名は五万分の一の地形図には六二も記されている。寺町(丹原町・松山市・長浜町)、寺新町(御荘町)、寺村(小田町)、寺組(野村町)、寺山(今治市)、寺野(中山町・城川町)、寺藪(河辺村)、寺地(中島町)、寺内(新宮村)、寺ノ下(津島町)、寺成(小田町)、寺尾(丹原町・中山町・大洲市)、寺谷(北条市)、寺崎(津島町)、寺家(吉田町)、寺井堰(松山市)、寺川原村(今治市)がある。丹原町久妙寺には寺古屋敷・寺下新地・寺屋敷・寺下屋敷など久妙寺関係の小字がある。

 清水
     
 『大言海』は「すみみづ(澄水)ノ約ト云フ、泉ノ清キモノ」と説く。『日本書紀』の好井(神代巻・寒泉景行天皇)、『和名抄』の妙美井(之三豆)・清水(之美都)を引用している。冷水・志水とも書く。丹原町・朝倉村・今治市・松山市・大洲市・保内町・野村町・宇和島市・城辺町に清水の地名がある。広見町は清水と呼ぶ。志津(瀬戸町)は清水の約音といえるか。志津見(吉海町)、志津川(重信町)がある。

 出作

 「神崎出作村(松前町)は神崎荘民が荘境を越えて耕作した事実を示すものであろう。中世に存在した石清水八幡宮善法寺の荘園であった神崎出作保はここであり出作して開拓した土地と考えられる。」と『愛媛県の地名』は解説している。開拓地であることを示す出作に東予市安用出作村がある。ここは大明神川のつくった扇状地で水に乏しく開拓が遅れたが、享保一七年(一七三二)の『桑村郡大手鑑』には安用出作として一村をなしている。丹原町の徳能出作村は正保二年(一六四五)徳能村より別れ、寛文七年(一六六七)古田村を分けてこれに合したとされる。出作に対するのが入作で志津川村入作(重信町)がある。田窪村との中間にある江戸期の開拓地であり、浮穴郡から久米郡志津川村に所属替えになった。個人名を付した孫兵衛作(今治市)もある。

 新田
    
 開墾地はヒラキ(開・平喜)、ハリ(墾・針・張・治・萩)といい、こうした文字を地名として用いる。今治は現今の〝今〟と開拓の〝治〟との合字といえよう。開拓・開墾は近世に入って飛躍的に多くなる。山間部・荒地をはじめ海岸の埋立が著しい。藩の事業として、あるいは個人の事業としての埋立が盛んに行われた。西条市氷見の猪狩川干拓地は「新兵衛」という個人名そのものである。大西町九王の五衛門新田、今治市桜井の石丸新田・宇和島市の小笠原新田など個人名を冠した新田は多数ある。単に新田とある地名は川之江市・新居浜市・東予市・今治市・朝倉村・大西町・大三島町・菊間町・松山市・明浜町・吉田町・広見町にあり、新田は吉海町・今治市にある。一本松町には 新 がある。新開(伊予三島市・大西町)、新開(宮窪町・北条市・松山市・城川町)、新地(岩城村・大三島町・北条市・長浜町)も開拓・埋立地である。松前町筒井は味噌が淵に清水が出ていたので筒井と名付けた。その筒井に城新田・唐新開・西新田・北新田・宗意箱新田・江川下塩新畑・南新田・代官新田などの小字がある。

 瀬戸

 海峡を瀬戸と名付けるが、谷間が狭くくびれ両岸が迫って川が細くなったところや、山狭の細道をも瀬戸という。上浦町の瀬戸は海岸であるが、宇和町・久万町の瀬戸は内陸である。西園寺源透は「宇和郡考」(伊予史談101)に、宇和郡(宇和町)は太古湖沼であったのでその名残りが遺称として地名に見られるとして、旧村名(大江・清沢・加茂・伊崎)、字名(島巡り・見廻り・舟戸・舟川・舟著・瀬戸・沢・沢津・柳ヶ沢・中沢・上沢・下沢・後沢・沢向ヒ・清沢・沢山・島岩・荒瀬・左島・沼丁・江良・江湖・ワタシ・本渡シ・洲先・狭渡り・籾ノ洲・菅尻・スゲノ谷・入宇・菅生田・マヒコミ等五七か所)を挙げた。それぞれの地名については湖沼関連の地名であるか否かは異義を生ずるが、宇和盆地に瀬戸や舟の文字をあてる地名があることは事実である。

 左右水
      
 添水は水車や竹筒などによって水を引き入れる装置である。語源未詳であるが、僧都からとも案山子からの変化とする説もある。歴史的かなづかいはソフヅともいう。一方を削って水が溜るようにした竹筒に懸樋などで水を落とし、その重みで片側が下がり水が流れ出すと跳ね返って他の端が落ちて石や金属を打って音を出すようにした装置で、普通シシオドシと呼ばれているものを指すともいう。沢津(伯方町)、惣津(中島町・野村町)、総津(広田村)、僧都(城辺町)、左右水(御荘町)がある。城辺町の僧都は『宇和旧記』に左右水とあったのが万治元年(一六五八)に改字されたものである。御荘町の左右水は菅菊太郎の説によれば左右に深い入り江がある故という。美川村に惣津山が、明浜町に小僧津が、今治市日吉に左右都城があった。

 田

 「耕作して稲などを植える土地、湿田と乾田とがある」と小学館『国語大辞典』には書いてある。「耕して水を湛え稲を植える土地」とあるのは『広辞苑』であるが、稲作民族たる日本人は田に濃い神観念を宿していた。「田を行くも畔を行くも同じ神の道」の諺どおり、われわれは稲作農耕のさまざまな儀礼を伝えてきた。正月の予祝儀礼・田の神迎え(オサンバイサマ)・収穫祭(亥の子行事)などがそれである。田は自然地形・信仰の諸相・伝承の様態などによってさまざまな性格を持つ。田の文字にその諸相・様態を示す文字を冠して地名とする。
 相田(吉海町)、赤田(大洲市)、秋田(新宮村)、畦田(朝倉村)、朝生田(松山市)、熱田(津島町)、生田(広見町)、池田(新居浜市他)、泉田(城川町他)、石田(東予市)、一貫田(伊予三島市他)、内田(三間町他)、裡田(宇和島市)、宇和田(一本松町)、太田(弓削町他)、大田(一本松町)、小田(伯方町・小田町)、小野田(宇和町)、小山田(北条市)、音田(川内町)、皆田(宇和町)、貝田(東予市)、柏田(広見町)、門田(松山市)、金田(川之江市)、鎌田(大洲市)、川永田(伊方町)、神田(北条市他)、喜田(今治市他)、北田(小田町)、能田(中島町)、久保田(八幡浜市他)、栗田(中山町)、里田(新宮村)、香田(大洲市)、甲田(日吉村)、幸田(松野町他)、高田(菊間町)、合田(八幡浜市)、光下田(丹原町)、越田(西海町)、古田(丹原町)、古下田(川之江市)、古藤田(三間町)、御領田(北条市)、佐田(三崎町)、猿田(伊予三島市)、申生田(宇和島市)、四十田(御荘町)、下田(今治市)、神田(津島町)、菅田(大洲市)、須合田(宇和町)、須田(城川町)、砂田(今治市)、清田(内子町)、瀬田(八幡浜市)、杣田(今治市)、高田(東予市他)、高尾田(松山市)、武田(大洲市)、竹田(伯方町)、多田(大洲市)、丹田(松山市)、東田(新居浜市)、徳田(一本松町他)、友田(面河村)、豊田(双海町)、長田(東予市他)、永田(松前町)、波田(北条市)、新田(五十崎町)、西田(西条市)、新田(松山市)、沼田(大洲市)、猫田(御荘町)、野田(朝倉村他)、針田(松山市)、半田(西条市他)、冷田(北条市)、平田(吉海町他)、広田(広田村・城川町)、福田(城川町他)、福田(丹原町)、古田(五十崎町)、坊田(北条市)、堀田(八幡浜市)、前田(西条市他)、増田(三間町)、今田(城川町)、丸田(今治市)、水満田(砥部町)、明田(菊間町)、莚田(八幡浜市)、務田(三間町)、持田(松山市)、矢田(今治市)、保田(宇和島市)、山田(宮窪町)、横田(松前町他)、吉田(東予市・吉田町)、柳井田(松山市)、論田(内子町)、脇田(内海村他)、和田(大洲市)、羽田(伯方町)、和井田(新居浜市)などの地名を容易に挙げうる。しかしながら地名は佳字をもってこれにあて、しかも時を経るに従い地名文字の呼び名・読みが変化するので地名文字の意味がそのまま現地地名を正確に表しているとは限らない。皆田狭田、野田←沼田←饅、針田←墾田などとも考えられる。また、柏田は谷壁・山麓・自然堤防・砂丘などの急傾斜地の、高田は高畦を必要とする深田の、増田は開拓による増加田の、論田は低湿・谷頭の、和田は河川曲流部のやや広い平地か同形の入り江の称である。さらにいえば半田は二分の一の田ではなく、三六〇歩を一反歩としたときの大の田(二四〇歩)、半の田(一八〇歩)、小の田(一二〇歩)の中世からの称である。大田・小田もあるいはこれによる地名であるかと思われる。

 大門

 寺院の門前は参詣者のための町並が形成され、交易のための市が開かれ、交通の要衝ともなる。大三島町の大山祇神社、御荘町の観自在寺ほかの札所、内子町の願成寺などに門前町が出来た。いま、門前の地名は菊間町・北条市・中山町にある。川之江市大門は菅原道真が太宰府へ配流の途次上陸したところと伝えられ往古は入海になっていたという。いま菅原神社・天神松(舟寄松)がある。菊間町・小田町・八幡浜市・津島町にも大門がある。

 旦

 大宝令のうちの軍政令によると一国に在住する二一歳から六〇歳までの男子で身体に障害のないものの三分の一が兵士となり、その居住地の近くの軍団に服属していた。伊予に軍団が設置せられたことは、宇摩郡土居町の八雲神社に、この当時の伊予軍印を伝えていること、および「類聚三代格」寛平七年(八九五)の条に、兵士を訓練する伊予の駑師の語が見えていることなどで証せられるという。東予市旦之上・今治市旦は、それぞれ古代の軍団のあった所といわれ、律令時代に軍団の置かれた地と推定される。新居浜市・川内町に旦ノ上、久万町に段がある。川内町・久万町の旦・段は台地・平頂山の地形名であろう。

 茶堂

 城川町・野村町・河辺村など高知県幡多郡や高岡郡と境を接する町村では道傍に茶堂が多い。城川町の旧道の辻々には五一か所の茶堂が残存する。一間四方の茅葺方形造り、径一尺ほどの丸太角材の柱、三方開放、正面奥板張りで棚を設け石仏を祀る。床は板張り地面から一尺五寸ばかり。石仏は大師・地蔵・庚申・馬頭観音などさまざまである。旧暦七月一日より晦日まで毎日各戸輪番で茶を沸かして献茶し、漬物・煮豆・かき餅などを用意し通行人に接待する。お茶供養という。七月一七日は巡礼講で御詠歌、二一日は大師講で念仏、申の日は庚申講、田休みの日には実盛さまの虫送り、春秋には部落総出のおこもりをする。旅人、遍路の接待のための茶堂もあった。川之江市・津島町・一本松町・川内町などに地名としての茶堂がある。峠には茶屋があった。内子町にその地名が残る。峠の茶屋はなぜか二軒が軒を並べていた。大洲市に二軒茶屋がある。

 土居

 西条市中野日明に土居構跡がある。洲之内高外木城の城主の居館に西之館・東之館があったが天正一三年(一五八五)小早川勢の進攻により焼亡し、東之館のみ石垣・土塁が残存し土居構跡と呼ばれる。東に堀の跡を残し、鎹積の石垣に囲まれ、東側と入口両側に犬走の構造を持つ。鎌倉時代の土豪・武士の屋敷は土塁や堀に囲まれておりその一廓を土居とか堀之内といった。土居内あるいは近傍の田畑は正作・門田畠といわれ屋敷主か下人を使って耕作し、戦時には防御攻撃の拠点とし平時には農業経営の場所として使われた。土井・土肥の文字をも当てた。また単なる土垣・土手を土居といった。新宮村・川之江市・伊予三島市・土居町・西条市・小松町・吉海町・宮窪町・今治市・面河村・大洲市・城川町・宇和町に土居地名があり、松山市・新居浜市・大三島町・三間町の土居には東西南北などの方角名が冠してある。

 水泥

 松山市の水泥は「伊予国知行高郷村数帳」の久米郡の項に〝水泥村 目損所〟とある。『新編温泉郡誌』は、聖徳太子が来予した時この地がその通路となったので「御堂路」といったのが水泥に転訛したと伝承するが、文字どおり湿地に由来すると考えるのが本来であろう。今治市にも水泥がある。吉田町の深泥は河内川下流西方にあり、もと海に接した地と思われるが、吉田藩陣屋などの埋立により海岸部を持だなくなった。御荘町の深泥は、村柄は下々・田畑とも下々・水掛りは吉(『弌墅截』)とある。寛文七年(一六六七)の『西海巡見志』には「遠干潟」で家数五軒とある。水泥・深泥、於泥・泥目水(津島町)はいずれも湿泥地にもとづく。轟(広見町)、土泥(面河村)、トロメキ(美川村)は河流の豊かな水音に擬した地名といえよう。

 泊

 大船のはつる泊りのたゆたひに…と『万葉集二』にある。船の泊まるところである。潮待ち・風待ちの港であり漁港でもある。―泊の地名の九五%は海岸線にあるという。泊(吉海町・三崎町)、上泊(八幡浜市)、下泊(三瓶町)、外泊・中泊・内泊(西海町)、西泊(内海村)がそれである。魚泊(宇和島市)は魚止りで魚群の回遊するところである。元禄一三年(一七〇〇)六月までは塩屋浦と呼ばれていた。武者泊は文字にひかれてムシャドマリと呼ばれて平家伝説に仮託されるが、細螺貝(別名きしゃご・しただみ)の豊かな海岸である美砂子(いきしゃご)系の地名であろうとおもわれる。下田水(吉海町)もまた細螺の別名である。

 鳥越

 渡り鳥の群が越える鞍部を雁の腹擦という。尾根を越える渡り鳥の旅路である。この地名は川之江市・中山町・五十崎町・宇和町・内海村・城辺町にある。

 中村

 村は群で、人が群がり住んでいるところであるという。その村々の中心となるところが中村と名付けられたことは当然のなりゆきであった。愛媛の中村は河川流域に沿う地域に多い。伊予市の中村は森川下流沿岸に、大洲市の中村は肱川右岸に、玉川町の中村は蒼社川中流右岸に、土居町の中村は関川と古子川の合流点に、東予市の中村は大明神川左岸に、新居浜市の中村は東川が形成する扇状地に、北条市の中村は立岩川上流左岸に、松山市の中村は石手川左岸の平坦地に、広見町の仲村は三間川流域の平坦部に、それぞれ位置する。山崎城趾・鹿島城趾があるのが伊予市中村。幕末頃在町内に南北三百間道路がつくられ両側に奥行一五間の家が一三〇軒も建ち並ぶ市街地が形成された大洲市中村。律令時代の鴨部郷以降郷荘の中心地であったと考えられる玉川町中村。地内に『和名抄』に見える近井駅に比定される松木の小字がある土居町中村。新居郡のほぼ中央に位置する新居浜市中村。中世の那賀郷の地に比定する説がある北条市中村。いずれも地域での中心的な村であったことをうかがうに足りる歴史を持つ。

 成

 高地の平坦な土地、山腹の傾斜の緩い上地をいう。奈路・奈呂と変化し、また奈良と転訛する。別子山村・丹原町・面河村・城川町・三間町・美川村の山間、内陸の町村に成の地名がある。奈路(一本松町・内海村)、奈呂(一本松町)は南予に多く、奈良もまた広見町にある地名である。奈良野は五十崎町にある。大成・成畑など地名の前後に成の文字がある地名は多い。成藤(広見町)、成家(三間町)、成野(大洲市)などがそれである。

 垣生

 埴生は埴のある地域をいう。埴は質の緻密な黄赤色の粘土で瓦や陶器を作り、また、衣に摺りつけて模様を現した。概して貧しい土地柄であったのか埴生の宿というのは貧しい小さな家という意味である。土生・波浮とも書く。全国的には崖・急斜地・土手を意味するというが本県の場合は適合しないようだ。弓削町・宮窪町に土生があり、新居浜市・松山市・三瓶町に垣生がある。新居浜市垣生は埴生の〝に〟を省略してハフ→ハブとよんでいたものを、埴と垣を書き誤って垣生としハブと読ませたものかと『西条誌』に記載される。『新居郡地誌』に「田其土薄黒ニシテ埴シ其質悪シ」とある。松山市垣生も埴生の誤記かという。建武三年(一三三六)足利尊氏の菅生寺衆徒への宛状「檀生郷西方地頭職」(後鑑所収予州松山旧記)、文和三年(一三五四)後光厳天皇綸旨(佐々木文書)に見える佐々木道誉の所領「伊予国殖生郷」はいずれも埴生の誤記とされる。呼び名があくまでも伝えられ、文字誤表記が通用するめずらしい地名といえよう。

 日浦

 南面して陽光に恵まれた土地をいい、浦は住宅地であり、必ずしも海辺とは限らない。北面して太陽に乏しい地は蔭と呼ばれる。新宮村・別子山村・丹原町・北条市・川内町・小田町・大洲市・野村町など山間部に日浦があり、日ノ浦もまた中山町・広田村・長浜町・八幡浜市・城川町にあり、陽ノ地(日吉村・松野町)、日野地(長浜町・内子町・大洲市)、日ノ地(保内町・野村町・宇和町)、日ノ平(河辺村・肱川町)、日ノ平(吉田町)がある。同系統に日当場(長浜町)、日南登(中山町)、日向谷(日吉村)がある。

 樋口

 樋は水導管であり、せきとめた水の出口の戸であり、水門である。樋口ともいう。河川の水を水田に導入する採り入れ口である。重信町樋口は志津川の東にあたり水口があることに、波方町樋口は近世初頭まで樋口川下流にあった樋門に、西条市樋之ロは加茂川の用水取入口の樋があったことにもとづく。伯方町にも樋口があり、樋之口は土居町と西条市にある。城辺町は樋口と呼ばれる。

 平野

 平は一般に平坦な土地をいうのであるが、逆に泉比良坂(古事記)というように坂や傾斜地、はなはだしきは崖を指すことがある。県内には平の文字をあてた地名は多い。すべてが平坦地ではないことに注意しなければならない。また開墾地の開を当てるのを適当とする地名もある。平(西条市)、平野(伊予三島市・西条市・大洲市松尾・五十崎町)、平田(伊予三島市・吉海町・松山市)、平地(大洲市・野村町)、平岡(中山町・伊予市・五十崎町)、平山(川之江市・今治市・北条市・内子町・御荘町)、平井(松山市・美川村・津島町)、平木(川之江市・伊予三島市)、平林(北条市・朝倉村)、平畑(大洲市)、平畑(一本松町)、平原(宮窪町)、平城(御荘町)、平坂(大洲市)、平石(波方町)、平岩(城川町)、平沢(中山町)、平川(小田町)、平松(伊予市)、平草(吉海町)。

 福来

 川や海に近い袋状の土地に名付けた地名であるといわれる。また谷間の小平地の地名であるとされる。福は袋にも通ずるともいう。海岸線や河川の屈曲部にあって風をしのぐ平穏な土地柄といえよう。宇和島市の福来のほかに、津島町・西海町に福浦があり、大福浦は宇和島市にある。

 札掛

 四国八十八ヵ所の寺を札所という。また巡拝の旅を〝打つ〟という。参詣の札を捧げるところが札所であり、参拝木札を打ちつけることが参詣の証であった。しかし札所が難所に在るところでは脚腰の弱い者は札所のはるか手前で、札所を望見できる大師堂などに参拝札を掛けて参詣にかえた。ここが札掛である。一本松町の札掛は番外札所お篠権現への札掛場であった。大洲市鳥坂峠下にも札掛がある。面河村には札峠がある。札場(重信町・三崎町)は藩政時代に高札が建てられた場所である。法度・掟書など、主として禁令事項を記載した板札を高く掲げた。松山市に札ノ辻がある。

 船越

 岩城村・中島町・松山市・内海村・西海町の海岸部にある地名である。内海村の船越は地峡部を人の手を借りて船を越させたことに由来するという。謝礼は船一隻につき酒一升~二升であったと伝えられるが、いまここには船越運河がある。しかし、船を担いで稜線を越すところだけが船越ではない。船の渡し場、船形をした凹みをもつ峠道・山道に名付けることもある。

 藤原

 伊予三島市の藤原は戻ヶ嶽のやや上流を渡って山腹を登ったところに忽然と開ける山裾の緩傾斜地である。藤の文字を冠した地名では植物のフジを連想する。藤の花の名所を想像するのが普通であるが、山裾や緩やかな崖地、崖崩れ地、地縁のほか富士とかかわって富士山型の山地・富士信仰の地にも〝藤〟の文字を当てる。土居町・松山市にも藤原がある。元禄期の記事を載せた『松山町鑑』には、藤原魚町・藤原片町・藤原末之町・藤原西町・藤原半町の町名がある。藤野々(松山市・広見町)、藤之原(肱川町)、藤川(大洲市・日吉村)、藤之内(重信町)、藤ノ実(三崎町)、藤ノ棚(久万町)があり、また吉藤(松山市)、成藤・大藤(広見町)もある。

 別府(べふ)

 別府(べふ)の地名は大西町・重信町・松山市・中山町・長浜町にある。北条市は別府(べっぷ)である。別府は別符(べっぷ)であろう。平安末期から鎌倉時代に成立した土地制度であるが諸説がある。初見は永承三年(一〇四八)の譲状とされる。国守の所在する国府に対し介以下の支庁の府、別勅符で賜った田地、令制において太政官と民部省から免税の特権を認められた不輸租荘園たる官省符荘の周辺開墾地であって新たに国符で認められた荘園地、国司・郡司・荘園領主が本来の郷・荘とは別に許可して成立したもの、などの説がある。

 星原

 新居浜市の星原は泉川の一部であった。隕石を祀る「星の宮」があり、この神社を中心に古くから星原市が開かれていた。同市には星越町もある。大西町の星浦にも星大明神が祀られ、流れ星が落ちた伝承を持つ。松山市には星岡があり、『予陽郡郷俚諺集』に〝三光の田〟がみえる。道後村付近の田で、田植前に一か所だけ澄みきっだ場所があり、太陽・月・星がともに現れているので田植えをやめたと伝える。石鎚山の北に星ノ森峠がある。石鎚山遙拝所である。弘法大師が悪星退散の星供養護摩を修行されたという伝説がある。

 程野

 保土・保戸・保渡の文字を当てる〝程〟は女性の性器をいう古語のホトをいい、含所の義であるとか火所であるとかの説がある。ここから、やや長みのある舟形の凹地に名付ける地名であるという。しかしこの説にこだわるのは妥当ではない。新宮村・美川村・内子町・城川町の程野、別子山村の保上野、内子町の程内などは山間部にある地名で耕作・居住に適する地であり、ところによっては二つの山の間の平地でもある。あるいは河谷でもある。山間の平地と解するのが適当と思われる。

 馬越

 応永六年(一三九九)の「三善景衡紛失状」に鳥羽浜とともにマコシの名がある。宇和島市の馬越は現在その名が失われていていずこともわからない。来村郷内の坂下津にある三島神社が文禄四年(一五九五)に遷座する以前の鎮座地であろうかと推定されている。狭間越えの地名である。奥浦間口堀切は奥南運河とよばれ、架せられた橋は間橋と通称されている。保内町の馬越も狭間越えの地名であったのが集落とともに転位したとの説がある。三間町には馬越がある。今治市の馬越は蒼社川の左岸にある。今治の地域は本湊山より南入江にて石井村まで入り海という、満汐には馬にて渡したる所を馬越という―と『予陽郡郷俚諺集』にある。

 明神

 明神は名神に由来するという。名神は『延喜式』に定められた社格で名神祭にあずかる。崇尊の顕著な神々のことである。三崎町の明神は氏神の客大明神によるものである。久万町の明神は土佐街道が通り荷駄運送が盛んであって三坂馬子唄に歌われる地名である。北条市・弓削町にも明神がある。松山市の明神丘は区画整理により成立した町名で丘陵名による。西条市の明神木は碇明神社の近くにあり昔同神社の大樹がよく見えたのでその名があるという。山名の明神山は、伊予市・双海町の境(標高六三四m)、美川村・柳谷村の境(標高一五四一m 別名中津明神山)がある。中津明神山は山頂に五輪塔と祠があり権現を祀る。旧暦六月二五日が祭り日である。島名に宮窪町の明神島があり鯛の漁場である。家ノ島・美濃島・鼠島とともに四阪島と総称される。

 梁瀬

 神武天皇の吉野巡幸を記した『日本書紀』に〝梁ヲ作リ魚ヲ取ル〟とあり、古くから梁をやなと訓じた。『万葉集』にも〝梁打ち渡す瀬を速み〟(巻一一・二六九九)とある。梁は簗とも書き川の瀬などで魚をとるための仕掛けである。木を打ち並べて水を堰き、流れてくる魚などを梁簀に陥らせる。広見川や面河川では石積をしたり自然石を利用したりして流れを導き竹材を用いて梁を構築する。松野町に梁瀬がある。大洲市菅田町大竹小倉に少彦名神社がある。少彦名命が肱川を渡ろうとして溺死しその遺骸を祀ったというお壷谷は梁瀬神陵となった。梁瀬山といい巨石遺跡がある。伊予三島市に柳瀬ダムがあり、上浮穴郡に柳谷村がある。柳谷村は西谷・柳井川村の合併名で、面河川支流の黒川が村内を横断する。柳瀬・柳井川は梁瀬・梁井川の意であったかもしれぬ。魚梁場は伊予三島市にある。

 愛媛の地名の特質

 地名学者である鏡味明克は愛媛の地名について概略つぎのように述べている。
 愛媛の地名でまず注目されるのは県名のきわだった文学性である。日本の県名が県庁所在地等の市名や郡名を採ったが、愛媛は『古事記』の〝伊予之二名島〟(四国)の国生みのくだりに見える〝伊予国は愛比売と謂ひ〟からとられている。西日本最高峰石鎚山は『万葉集』には〝伊予の高嶺〟と詠まれたが、その名は古く『日本霊異記』に見える。道後温泉の名で知られる〝道後〟は高縄半島をはさんでその東を道前、西を道後と称したことに由来するが古くは『万葉集』に〝伊予の湯〟、『日本書紀』に〝熟田津の石湯〟と呼ばれた。
 全国の地名分布のなかで愛媛県にとくに集中する主な地名型には次のようなものがある。①山名の「~森」。二ノ森・瓶ケ森・堂ケ森・五代ケ森などがある。高知県に雨ケ森があるように、この用法は愛媛・高知の両県に集中しており、かつ害鷹森(岩手県)・高森(秋田県)・黒森(青森県)など東北地方北部と、波照間森(西表島)の沖縄県に見られる。このように東西をへだてて〝森〟を山そのものにいう用法の分在は太古に山をモリという用法が全国にあり、それが東西に分かれて残存しているものであろう。「~森山」という呼び名はこの「~森」のあとをとどめるもので、モリが山を指すことが忘れられ、さらに「~山」と命名したものである。三ツ森山・黒森山・大森山などがそれで、東北地方にも三ツ森山は多い。②峠を〝トー〟と読むこと。鴇田峠・窓峠などがある。峠の古いことばであるタワ・タオは中国地方に多く残っているが、その長音化した〝トー〟は愛媛県が最も多く、ついで高知県にかけて分布する。これはタワ越・タオ越からトウゴエを経てトウゲに至る変化過程でのトウであって越のつかない過渡期の語形である。現在はほとんど〝トウゲ〟と読み変えられているが、もとは韮峠・水戸森峠であった。〝タオゴエ〟の過渡期語形は別子山村から高知県へ越える大田尾越がある。③岩礁名の「碆」。岩礁をハエ・バエ・バヤ・バなどと名付けるのは豊後水道が最も多く、愛媛・宮崎・大分県にその名があり、さらに徳島・高知県および九州の各県でも見られるが、いずれも主として〝碆〟の文字を当てる。平碆・大碆・相碆などがある。〝碆〟の文字は本来「やじりにする石」の意で、その音ハをハヤ等の岩礁に宛てたものであり、かつ波の下に石がある文字であるから岩礁を連想しての当字であろう。④平地の「平」。平地を示すナルはナロ・ナラと根源を同じくする語で全国各地にその地名があるが愛媛・高知はとくにこの地名が多い。奈路・奈呂の二字地名は高知県に多く、愛媛県はナルで〝成〟の字をあてる。東予では別子銅山の東平、西条市の平組、小松町の大平のごとく〝平〟の字が目立つ。⑤集落名の接尾語の「~組」。中予・南予は全国でも分布密度が最も高い。下川(宇和町)の小字の上組・中組・下組がこれであるが、宇和島藩では領内を十組に分けた行政区画としての御城下組・山奥組・津島組などの名称があった。⑥海岸集落・山間集落の「浦」。宇和海の海岸集落には深浦・矢野浦・成浦など「~浦」の地名型が多いが、他県の日向にあたる南面地として山間部に日浦など〝浦〟の名付けを持つ地名があって高知・徳島県と共通する。⑦「~方」型。芸予諸島その他に阿方・伊方・伯方・波方(もとはハガタ)・旭方・佐方・宗方など。⑧大山祗神社の勧請地名。伊予三島市や別宮町(今治市)など。
以上、鏡味の指摘した愛媛県地名の特質は説明不足の点があるにしてもそのいずれもが首肯されるものといえる。

 南予の山名

 森…南伊予、とくに滑床付近の独立山頂の山名は古くは〝~森〟と呼ばれていたものが多い。笹が森・三ツ森・おどん森=(八面山)、権現森=(権現山)、和泉が森=(三本杭)、横ノ森・小屋が森・串が森・笹が森・萱越ノ森=(串ガ森)、かぐい森・大森=(かぐい森)、櫓ガ森=(高月山)、水ガ森=(鬼ガ城山)、梅ガ森=(毛山)、櫨ガ森(成川渓谷源流)、長尾ノ森(目黒の西ノ川奥)、泉ガ森=(三間富士)、瀬戸黒森(槇川)、三ノ森(篠山の南)などがそれである。

 平・駄場・窪・坪・成

 成川平(高月山北西斜面)、扇平(鬼ガ城山北西斜面)、若山平(櫨ガ尾根北西斜面)、御槇の影平とそれに対する台湾平、黒尊西谷の日平とそれに対する影平など山の傾斜地であって平滑地の地名である。上駄場・中駄場・下駄場(御槇)、大駄馬・小駄馬(黒尊)、欅ノ駄馬(滑床)、篠駄馬(薬師谷)、藤治ガ駄馬(大超寺奥)、藤ガ駄馬(一本松正木)、栗ガ駄馬・ケジガ駄馬・蜂ガ駄馬(大道)、白猪ノ駄馬(黒尊)、池ノ駄馬(御槇)、寺ノ駄馬(大久保)、淡路屋駄馬(黒尊源流)などもまた山腹傾斜平地名である。窪は山地凹地名であり、大久保(大窪)、ブナガ窪(八面山西南)、稲ガ窪(清満)などがある。竹ガ成(光満)は山の傾斜地で、もと竹が坪であった。坪・成とも鞍部・斜面以外に窪と同様の渓谷緩傾斜地名に及んでいる。鞍部名に梅が成峠、渓谷傾斜地名に温地ガ成(音地ガ成)などがある。滑床万年荘付近の音地ガ成は上温地ガ成(出合滑~鳥居岩)・中温地ガ成(鳥居岩~万年沢)・下温地ガ成(万年沢~船岩)に三分され、渓谷左岸の河岸段丘音地質の平地である。

 峠・切・越

 鞍部をタオと呼んでいるものに大峠(大黒山北西鞍部)・風の峠(譲ガ葉森北東鞍部)がある。鞍部はタルミとも呼んだ。三本杭と横ノ森の鞍部は尾根のタルミが鍋底の形で天空を画しているので藩政時代にはナベワリと称され、その形状が折れたかに見える御槇の篠山と瀬戸黒森の鞍部はウチオレ(内折)と名付けられていた。藩政時代における滑床周辺の山々の鞍部は峠の名はなくそのほとんどは(切)と呼ばれていた。成川ノ切(梅ガ成峠)、櫨ガ尾ノ切(猿ノコル)、権現ノ切(アザミ峠)、滑床ノ切(鬼ガ城山と中岳の鞍部)、薬師谷ノ切(鹿ノコル)、一ノ俣ノ切(猪ノコル)、黒尊ノ切(熊ノコル)、一ノ城切・ニノ城切(古鬼ガ城北西)などである。峠はコシ・コエ(越)の名もある。滑床越、藤ガ生越(横ノ森と小屋ガ森の鞍部)、目黒越(女郎峠)、大宮越、出井越などはいずれも黒尊谷からそれぞれの集落への峠を呼ぶ名であるが、逆にこれらの各集落から黒尊谷へ越える場合はすべて黒尊越と呼ばれる。

 森と牟礼

 南予の森は大分県の牟礼に対応し、比較的低い山でも形が整っていて付近の高地や山頂と異なって兀然として孤立しその存在が明確な山頂として識別される。『大言海』はムレは百済語であるとし、飯田武卿は「韓語の訛れるか、但し古言か」(日本書紀通釈)と記す。大野晋はその著『日本語の起源』で、山を日本語でムレ、朝鮮語でモイといい、モイは日本語のモリのR音の脱落であろうと推定する。南予出身の谷有二は、森は神祭り場であり霊魂の宿る禁断の地であるとし、朝鮮語の祖霊の宿る地を意味するモイが森に転じたのではないかと分析している。

村浦浜名と呼び方 ①

村浦浜名と呼び方 ①


村浦浜名と呼び方 ②

村浦浜名と呼び方 ②


村浦浜名と呼び方 ③

村浦浜名と呼び方 ③


集字合成名 ①

集字合成名  ①


集字合成名 ②

集字合成名 ②