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愛媛県史 民俗 下(昭和59年3月31日発行)

三 愛媛の伝説①

 「伝説の分類」に述べたごとく〝伝説〟と称される領域に属する伝承の個々を吟味し〝昔話〟と分離する作業が「伝説」を記述する前提であるが、ここではこの論を避け、一般に伝説として紹介されている伝承をも含めることとする。記述の要領として、文化庁文化財保護部監修『日本民俗文化財事典』に準據し、1自然伝説 2歴史伝説 3信仰伝説に分類する。

 1 自 然 伝 説

 自然の諸現象の観察に基づく解釈・説明であって、動植物の形態・習性・発生・自然環境を主題とする。①動物(野獣・飼育動物・鳥・虫・魚等) ②植物(石芋・三度栗・片葉の芦・逆さ杖等) ③天体・気象(星・風・天候の由来等) ④鉱物(金属・宝石等) ⑤地形(岩・石・山・谷・峠・原・森・池沼・地形等) ⑥火・水等(消えずの火・弘法清水等)
   (1) 動 物

 狐

 まず四国に狐伝説が少ないことの根拠が語られている。

 「本朝故事因縁集巻二」に「四国ニ狐住マザル由来」がある。昔シハ四国ヲ二名嶋卜号ス 孝元天皇ノ御宇ニ此ノ国ノ人民王命ニ背テ国ヲ乱ス此ノ時天皇ノ御弟君藩屏軍ト号シテ二名嶋二下向シ給 逆民ヲ征伐アリ国ヲ治給フ 是ヲ伊与ノ王子卜云り 伊予トハ伊ニ与ト書ケリ 此ノ君ノ子孫代々相継キ其ノ末葉河野氏也 然処ニ享禄年中ニ前ノ河野通直ノ妻女二人ニ成同姿同衣装ニテ同ク座セリ 通直驚キ僉議シ何レ一人ハ化物ナルベシトアレバ吾正身ノ妻ヨ 吾コソ人ヨ 汝化者ヨト泣喚互ニ争フ 医師来テ 離魂卜申病 一女二女ト成卜薬ヲ与へ禅僧来テ 古則ニ倩女離魂ノ活ト云ハ一女二女ト成本則ナリト 一喝一棒ノ示其ノ外祈祷ニテモ許ノ如シ 通直二女ヲ捕ヘテ籠居シテ数日ヲ経ル中二人ノ女食ヲ喰事別ナリ 是レヲ捕ヘテ拷問ス 即チ狐トナル 既ニ殺サル可キニ定時ニ僧俗男女四五千門前ニ聚ル是レハ何者ゾト問へバ四国中ノ狐訴訟ニ来侯今度不慮ノ事仕ル者ハ貴狐明神ノ末稲荷ノ使者長狐ト申テ日本国ノ狐ノ王ニテ候是レヲ害シ給ハ国ニ大災ヲ起スベシ此ノ長狐吾等其師匠化ノ神変是レ自り断絶ス 願ハ助給ヘト云 阿野聞テ名誉ノ狐哉殺モ不便ナリ左アラバ四国中ニ一狐モ住間敷書物シ皆ナ舟ニ乗中国ニ渡バ 其ノ後此ノ長狐ヲ助ケ跡ヨリ渡ス可シト云皆ナ畏テ誓紙ヲ捧 舟ヲ借り数艘ニテ渡ル是レ自り四国ニ狐ナシ此ノ誓紙子孫ニ至り絶タル時ハ住ム可キ国ナリト云トナリ今ニ河野ノ家ニアリ評二曰 今ノ世マデ一疋モ住ズト云リ 奇妙ナリ

  「伊予温故録」温泉郡道後村「正傅寺跡」の記事は、右の記述にもとづき次のように伝える。

…又此處に居間といふ杉貳本ありしか元禄十三辰年枯たり是は河野殿狐をくくり賜ふ木なりといひつたふ古事因縁集に見へたり傅曰永禄年中一日河野霜壹の室貳人となり同姿同衣裳にて坐せり通直驚き詮議あり何れ一人は化けものなるへしとあれと我は正身の妻よ汝化物よと泣喚ひ互に争ふ醫師來て離魂と云病あり 一女か二女となること有とて薬を與へけれとも其験し更になし依て種々祈祷ありても猶本の如とし故に通直二人の者を捕へ顯居せしむ数日を經るに一女食事ごとに其耳を動しければ是そ化物なりとて捕へて拷問せしかは其本体を顯はし一ツの老狐となりたり既に殺すへしと定りたる時僧俗男女異様の者とも門前に群集せり是何者そと問ひければ四國の狐とも訴訟し來れり今度當城内にて不慮のことを仕出したる者は貴狐明神の末稲荷の使者長狐なり是は日本一の狐の頭なり是を害し給はゝ國に大變を起すへし且つ此長狐は我々共か師匠なり助け賜はゝ同類悉く四國を避け永く妨害を為さしと云ふ通直其願を聴き老狐を助け放ちけれは何人ともなく逃去りたり

 「松山のむかし話伝説」には「奥方に化けた古狐(道後公園)」と題して再話する。(図表「奥方に化けた古狐(道後公園)」参照)
 道後公園の中に、こんもりとした小さな山のような丘があろう。四百年ほど前、あの山には湯築城という、河野家のお城があったんよ。城主には河野通直という名前の方が四人もおいでるんじゃけど、この話は、その三人目の通直様のときのことなんよ。
 ある日、奥方がとつぜん、お二人になってしまわれたんよ。このお二人の奥方は、顔はもちろん、背の高さも、声も、何から何までまっついで、だれがみても、どちらが本当の奥方やらわからんけん、みんなとほうにくれてしもたんよ。医者にみせたら、
 「何ぞ魂が分かれるという奇病ではございますまいか。」などというばかりで、手のほどこしようもなかった。
 その時、通直様は、
  「ひとつ考えがあるけん。」
 と、おいいてな、この二人の奥方を座敷牢にとじこめてしまわれたんじゃ。座敷牢の奥方には何の食べ物もあげてはいけないというので、家来たちは心配しておったら、四目目になって、やっと、
  「食べ物を牢内に差しいれよ。」
 と、おいたんよ。そして、通直様は、じっと二人の食事ぶりを見ておいでたら、一人の奥方は落ち着いて、はしを運んでおいでるのに、もう一人の奥方は、ガツガツと耳まで動かして食べたした。それを見た通直様は、すぐにとりおさえてしまわれた。そしたら、たちまちそれは一ぴきの古狐の正体をあらわしたと。
 通直様は、自分をだましたこの古狐に腹が立ってしょうがないけん、火あぶりにしようとおもて、庭にたきぎを高うつみあげよったんよ。すると、大小三千びきもの狐がお城のねきに寄ってきて、その代表の狐が一生けんめいにたのんだんよ。
 「実はこれは、貴狐明神の子孫で四国狐の頭領です。今、焼き殺されたら、きっとご領内にわざわいがおきましょう。もしお助けくだされば、必ずご恩にむくいましょう。」
 と、命ごいをしたんよ。その神妙な様子に通直様も、
  「今後四国から出て行くんぞよ。」
 と約束させて、この古狐をおゆるしたんじゃと。大小三千の狐は、まもなく船に乗って、むかいの中国地方にいってしもたんじゃと。

※狐が四国に住まない起源伝説が「本朝故事因縁集」→「伊予温故録」→「松山のむかし話伝説」と経る間、原型が崩れないで伝承されてきた一例として同一伝説の三話をあえて挙げた。

 狸

 愛媛には狐伝説の影が薄いが、狸伝説は東・中予に濃厚であり、南予にも散見される。狸博士と称され、狸三味に明け暮れた趣味人富田狸通(寿久 明34~昭52)は愛媛の「狸伝説」番付を遺している。松山市上野町の大宮八幡神社の榎の大木に住んで、算盤が達者で文字もよく読めた狸として毎月の九・一九・二九の日に金森明神として祀られているのが金平狸。また、長福寺の南明和尚に可愛がられて碁をうった喜左衛門狸は東予市北条の大気味神社の境内に喜宮明神として祀られており、鼬・蝗封じに霊験あるによって虫除け守り札が発行されている。この狸は踊りが大好きで、もう帰ろうと誘う人間に必ず崇ったというが、最後は菊間の瓦屋のかまどで哀れな死をとげたとされる。小女郎狸はお社のお供えものを失敬して追放になり、一文字笠に化けて釣り舟に便乗したものの大鯛の目玉を盗み食いして水葬になるところ金の茶釜になりますといって免がれ、山陽路で女郎となって稼ぎながら新居浜市一宮神社に奉納をつづけて、恩を忘れなかった雌狸であって、その物語は変化に富んでいる。松山市役所前のお堀のかどに赤い幟が建てられているのは榎大明神の名で知られる八股のお袖狸である。市長であった産婦人科医安井雅一におのがお産の手伝いをさせたといい、安産と縁結びに効霊があるというが、いまや商売繁昌・家内安全・学業成就・交通安全などもろもろの願いをききとどけるとされる。昭和一一年、八股榎は市内電車複線工事に際して伐採されることとなったが崇りを恐れて枝すらも伐るものがなかった。しかたなくご祈祷のう大掘りあげて松山市石井の喜福寺に移植したが枯れてしまった。正岡子規に「小のぼりや狸を祀る枯榎」と俳句によまれたほどの貫禄のある狸である。挙句、古巣を失ったお袖狸は大西町小西に明童菩薩となって現れる。摩詞不思議な霊験にあやかろうとする賽客のために国鉄のダイヤは狂いぱなし、大井漁港には急造応急棧橋ができるやら、青年たちが農作業を放棄して線香を売るやら油揚げを仕入れるやらのさわぎになり、遂に県議会でも余りの過熱ぶりが問題となった。数多い狸伝説のなかから他に主たった狸を捨うと、岩の端狸(川之江市金川)、ねんねん狸・倉吉狸(伊予三島市)、与平狸・観音狸・小きん狸・思いぼ狸・慈明寺狸・土橋狸(新居浜市)、おなか狸・おそで狸・坊主狸(今治市)、荒神狸(川内町)、立石狸・毘沙門狸・俳諧狸・六角堂狸(松山市)、山王狸(野村町)など錚々たる狸がいて多士済々である。刑部狸は松山藩お家騒動に登場する狸である。「伊予名草」(文化二)として刊行された騒動記は講談師田辺南龍が「松山騒動八百八狸」と題して口演した。
   喜左衛門狸 (図表「喜左衛門狸」参照)
 ずっとむかし、東予市北条に喜左衛門ちゅうタヌキがおっての、いよいよちえのあるタヌキじゃったそうな。
 ある時、喜左衛門ダヌキが讃岐の金毘羅宮へおまいりにいたんよ。そして、金毘羅さんの山の上から方ぼうをながめよると、ちょうどそこへ屋島のはげダヌキがやって来ての。
  「おや、はげじゃないか。」
  「やあ、喜左じゃないか。」
 と、話し合いよるうちに、
  「おまえは讃岐一のタヌキじゃの。」
  「あんたは伊予一ばんの化けじょうずじやの。どうじや、ひとつ化けくらべをしよじゃないか。」
 といいだしての。そんなら、地元じゃけにということで、讃岐のはげダヌキのほうが先に化けることになったんよ。
 そこで、はげダヌキは、
 「それじゃ、讃岐に来たんじゃけん、源平合戦を見せよわい。」
 と、いうたかと思うとの、まわりはまっさおな海になって、那須の与一がおうぎのまとをねろうとるようすが、すうっと見えてきたんよ。
 じいっと見よった喜左衛門は、「ううん、これはかなわん。」と思って、神通力をはたらかしてみると、紀州の殿様が、来年の春、お国がえりをすることになっとるのを知ったんじゃの、それで、喜左門は、
 「なかなかうまいもんじゃの。どうじゃ、こんどはわしの番じゃが、来年の春まで待ってもらえまいか。紀州の見返りの松のところで待っておっておくれんか。」
 というて、その場は別れてもんたんと。
 いよいよその日が来たんでの。讃岐のタヌキが待ちよると、街道を「下に、下に。」といいもって紀州の殿様の行列が近よって来るんよ。
 木のかげで見よったはげダヌキは、ほんとに喜左衛門が化けたもんと思ての、
  「ほう、うまいもんじゃ、紀行の殿さんの行列とまっついじゃ、こりゃわしの負けじゃ。」
と殿様のかごが前に来た時に、とび出して行って、
  「よう化けた。おまえもたいしたもんじゃ、わしの負けじゃ。」
 と近づいて行くと、近くにおったおとものさむらいが、
  「無礼者」
 と、はげダヌキを切ってしもうたそうな。
 讃岐のはげダヌキはわざで勝って、伊予の喜左衛門ダヌキはちえで勝ったちゅうことじゃの。それから喜左衛門ダヌキが四国で一ばんのタヌキになったそうな。
  ※四国の狸物語は『腹鼓記』と題して、井上ひさしが「小説新潮」に連載している

 首なし馬

 松山御幸寺山城々主犬坊といふ人、月毛の馬に乗り谷より落ちて死にたり。又、合戦にて討死ともいふ。それにて、魂近頃まで馬に乗りて行逢ふものは必ず崇り煩ふことあり。夫を三木寺と崇む。大脇清太夫といふもの大守の命に依りて、甲冑を帯し、長刀のさやをはづし、馬に乗りて此麓に至りて、大坊に向ひ、立ち去るべきよしの君命なる事を高声に述べければ、白紙の如くなるもの東に飛び去ると見へたるよし。石手寺山の山上に止まる。今の愛宕堂なり。其の後あやしき事どもなしといふ。…ことが「予陽郡郷俚諺集」和気郡の記事にある。犬坊丸が首なし馬に乗って御幸寺山の麓あたりから樋又にかけて駆け去る。行き会う者は崇りわずらうのを清太夫が退散させた…と伝説の主題は〝首なし馬〟に変容する。松山市湯山の奥の城々主河野通存の子、九郎通賢が東野の松末館の娘を見染めて通う。父通存はこれを快く思わず守役に命じ殺害させる。守役は東野でまず馬の首を刎ね、ついで通賢を弑して自刃する。誰いうとなく夜々首なし馬が通うとの風説が立ったので村人は祠を建てゝ祀った。東野に竹のお茶屋を営み移居した久松定行は陰火の飛ぶを忌んで、この故事あることを知り奥城八幡宮を再建し鎮魂した。現在の東山神社がこれである。

 …上須戒村と高山村との境に小笹ヶ城とて古城あり。此山より毎月廿七日の夜の子の刻に烏帽子、狩衣を着したる貴人の、頭なき白馬に乗り、舎人一人ともして多田村の小笹ケ城といふ古城山へ通へり。所の人これを見、夜行の神といひて、もし此貴人に行逢ば忽ち熱病を受け死するといひ伝へて、廿七日の夜には恐れて此道へ出る人なし。ある時の秋の頃、高山村の百姓権四郎という者、稲の番に行て何心なく居る所へ、遥かに蹄の音聞えて、次第に人の来る声近づけり。権四郎ふとかの夜行の神の事を思ひ出して、日を数ふるに廿七日の夜の子の刻ばかりなりければ、俄に驚き恐しくなり、番小屋の内にもたまり得ず、道の下なる岸陰にかくれ、心中に氏神を念じ居る所へ程なく彼の夜行の神上なる道を行き、如何思ひけん、暫く足を留め差のぞき、「此の道の下に人あり。」と言ふ。舎人答へて「此の者は下人なり。」といひて、又何処へか行去りぬ。権四郎は不思議の命を助かりけれども、九十日程わづらひけり…と『大洲妖怪録』にある。首なし馬の通い路は一定の道筋である。松山市北梅本の有田児山城勢は津吉の城の台勢に敗れ怨霊と化し両城間の一本道を首なし馬に乗って夜毎に攻撃する。この道を繩手筋という。星ノ岡の合戦(元弘三年、土居通増・得能通綱が宮方として挙兵、長門探題北条時直の侵攻を受け敗北)後、馬なし首に乗った武将たちがノボリウチから平井城址を右に西し、スキザキ池から鷹ノ子・来住を通って星ノ岡五ヶ森に入って消える。みちみち、シャンチキ・シャンチキとかすかな音をたてる。シャンシャン馬・チンチン馬と恐れられた。重信町野田と牛淵の境にある長塚石地蔵もシャンシャン馬の供養と伝えられる。大洲市春賀に祖母井城があった。天正一三年七月六日朝、菅田宇津城主大野安芸守直光に攻められ、城主之照は愛馬とともに討死、以来旧七月七日早朝、和田から春賀の東門寺へ首なし馬が走る。ゆえに東門寺は六日夜から七日にかけて本堂の扉をわずかに開けておくという。異説に、毎月の朔日・一五日・二八日には祖母井城から延尾城へ馳るとも、或は大洲一木城の堂から祖母井城に至るともいう。
 首なし馬の怪異は、出現の場所と道筋が一定していて、繩目筋と深くかゝわると森正史(愛媛民俗学会々長)は考察する。祭事行事に伴うきびしい物忌や精進の夜を説明するための信仰伝承が、時代の推移・神祭の神聖感の薄れ・物忌観念の衰退によって、単なる世間話たる怪談として語られるに至ったと説く。北条市小川西組から隣組への稜線を横切る細道は神輿道でカミミチ(神道)でありその道筋はナワメと呼ばれる。重信町下林では繩目をヤマノシリといい魔所である。伊予市上野の行道山から松山市御幸寺山を結ぶ線も繩目筋で、天狗様の通り道といわれる。さらに出現する日時が一定しているものに、大晦日の晩に限る松山市太山寺おたちの藪・同所大淵、松山市興居島門田、今治市石井、宮窪町、大三島町の首なし馬がある。朝倉村竜門山の首なし白馬と城川町土居の首切馬は盆の一四日。百鬼夜行という夜行は、もと神祭に際し常人が見てはならない深夜の神幸の謂いであった。繩目筋というのはどうしても通らねばならぬ道筋でありながら、不思議・不幸の伴う土地で宅地に適せず田畑として耕さぬものとされてきた。野口光敏(県文化財保護審議会委員)は祖母井の首なし馬伝説の日が七月七日で城趾から東門寺の道筋が直線の小道で井手であること、祖母井は姥ケ井で水神を祭る女性の名であること、松前町神崎山王原の首切り馬走り道は出作神崎分から鶴吉に向って東西に流れ南北に湾曲している鴨川であること、などから水神との関わりをも示唆すると説く。

   殿さん道の首なし馬(図表「殿さん道の首なし馬」参照)
 むかし、この伊予の国が道後の湯築城の河野通宣という大殿さんにおさめられていたころのこと。いまの重信町志津川に、吉山城という城があった。
 この吉山城の殿さんも、もちろん湯築城の大殿さんのけらいだったのだが、あるとき、ふとしたことから大殿さんのごきげんをそこねてしまった。
 おこった大殿さんは、
  「ふらち者め、生かしておいてなるものか。吉山城など、ただちにとりこわしてくれるわ。」
 と、いまの松山市津吉町にあった城ノ台の殿さんにめいじて、吉山城をせめさせた。
 吉山城では、殿さんみずから先頭に立ってけらいをはげまし、ひっしにたたかった。城は、なかなかおちず、いくさは、なん日もなん日もつづいた。
 ところが、そのうちに吉山城の殿さんが、おもい病気にかかってしまった。それが、いまのせきりみたいな病気だったので、たちまちのうちに城じゅうにひろがった。
 こうなっては、まんぞくにたたかうこともできない。とうとう、城はおちて、殿さんもけらいも、ひとりのこらずうち死にした。
 吉山城の殿さんは、どんなにむねんじゃったろう。武士らしく、いくさでやぶれたのならともかく、わけのわからぬ病気のせいで、せめほろぼされてしまったのじゃからのう。
 それからしばらくたった、ある月のない夜のこと。ひとりの男が、吉山城から城ノ台を見とおす道すじをあるいておった。と、とおくから「シャン シャン シャン」と、すずの音がきこえてくる。音は、しだいにちかづいて、「カッ カッ カッ」
と、ひずめの音もひびいてきた。
 (こんな夜中に、だれぞ、遠のりでもしておられるんやろか。)
 そうおもうまに、馬は男の目のまえにやってきた。だが、そのすがたを見たとたん、男は、
  「キャーッ」
 と、さけび声をあげた。馬にまたがっているのは、よろいかぶとをつけた血まみれの武将で、そのうえ、馬には首から上がないのである。
 男がこしをぬかさんばかりにおどろいているうちに、その武将をのせた首なし馬は、城の台のほうへむかって、やみの中をはしって、きえた。
 その夜、男は、わけのわがらぬ熱がでて、三日三晩くるしんだという。
 首なし馬を見たという人は、それからも、なん人となくあらわれた。そして、きまって熱をだし、ねこんでしまうのである。
 うわさは、たちまちのうちにひろまった。
  「あれはきっと、吉山城の殿さんのゆうれいにちがいない。」
 むねんの死をとげた殿さんが、ああしてまい晩、城の台へしかえしにいかれるのだろう。」
 この首なし馬のとおる道は、いつもきまっておったので、〈殿さん道〉とよんでおそろしがられ、夜になると、だれもとおらなくなってしまった。
 そこで村役たちがあつまって、
  「これはひとつ、殿さんのたましいがやすらかにねむれるよう、供養せねばなるまい。」
 と、そうだんし、殿さんがうち死にした志津川の大きなハゼの木の下に、お墓とお堂をたてて、ていねいにおまつりしたという。そこはいま<どだんさん>とよばれている。
 おかげで、それからは、めったに首なし馬はあらわれなくなったという。
 吉山城のふもとにある和田霊神というお宮も、やはり、この殿さんをまつったもので、まい年八月の十四日、十五日の縁日には、ほうぼうからのおまいりで、にぎわっている。また、殿さんはおどりがすきだったので、
  「ご縁日には、おどりを奉納しますけん。」
 いうて、お願をかけると、なんでも、ねがいをかなえてくれるそうな。
                   〈再話・森正史〉

 魚

 宮窪町の人たちは、鯛崎鼻の石地蔵の前を体半分ほどを水面に出して泳いでいく鯨たちを見かけると鯨のお礼詣りだとして地蔵さんに合掌する。次のような話しが伝わる。…桜が咲いているうららかなある日のこと、たくさんの子鯨を連れた親鯨が大きな岩の上で昼寝を始めた。子鯨たちが安心して遊びまわっている間に、汐が引いて親鯨は岩の上に取り残されてしまった。身をもがいてはみるもののどうにもならない。そこにおいでになったお地蔵さんがこれを見て可愛そうに思われて、衣をからげて磯に歩み寄り沖に向って印を結び、大きな息を吹き出された。すると蛸・鯛・鱸などが寄り集ってお地蔵さんのヨイショヨイショの掛け声に合わせて親鯨を海へ引き降してやった。お地蔵さんの前を何回も往ったり来たりしてお礼を述べた鯨の親子は、毎年桜の花どきになるとお礼にやってくるようになった…。鯨は、ことに南予の宇和海では〝おやじ〟と呼ばれて親しみ尊ばれた。鰯の大群を追って潮を吹き上げながら岸に近く寄る鯨は、鰯大網大漁の吉兆であった。その死は丁重に葬られた。明浜町高山の鯨塚には院殿号を持つ戒名が刻まれ、寺の過去帳にも記載され、位牌もある。他に瀬戸町九町・宇和島市遊子・西海町内泊なども鯨塚がある。
 伊予節に唄われる「…紫井戸や片目鮒」は、松山市山越在の者が鮒を焼いていたところ、弘法大師がごらんになり、不愍に思われて片側焼きかけの鮒を井戸に放させになる。すでに死んでいたはずの焼かれかけの鮒が元気に泳ぎだした…と伝えるし、丹原町久妙寺観音様近傍の池の鮒は左甚五郎が彫ったという本堂の龍神が抜け出して眼を抜いたといい、中山町出淵小池の片目鮒は村人数と常に同数で村人の生死と同数が生死するといい、大洲市田口底無池の魚も片目、三間町成家金山城跡古井戸の鯉も片目である。松山市高井の里の八ッ目鰻(砂やつめ)は、目無しであったのを弘法大師が八眼にしたといわれ所有権は長善寺にあって治病に妙効ありと伝える。津島町岩松の大鰻の伝承については「大鰻の小太郎」(川口一夫)がある。小田町のおこんという女、男に捨てられ水中に投じ、怨霊化して口髯八本、長さ二寸ばかり、赤褐色の小魚となる。触れると刺し毒す、オコンジョという。吉海町津倉の城主田房隼人正、秀吉軍の侵攻により落城討死、妻は幼子を背負い海中に没す、化して子背負いのアカエイとなると伝える。「西条誌」に…磯野祠の旧跡の辺より北は北御門、南は筧辺迄のうなぎ一眼のもの多し。其外の魚鱗にもたまたま然るものあり。今、磯野の神の使しめ也と言伝ふ。其然らん。豈其然らんや。是はもしくは此あたりの地気水性に偏にかたよりたる所ありて、其の間に生ずるもの其気に感じ、其性に染てかく異様に産れ出るものか。博物誌・述異記等に見へざる怪しき事に比ぶれば些細の奇事也。童子輩眼の魚をば捕得てもつかはしめ也と言ふに怯へて放ち棄つ。忌物を不ㇾ食はよろし…と、片目鰻が伊曽乃の神使たる伝承を記している。今治市波止浜竜神社の神使は鱶で、一・一五日には鱶が参拝するので建干網は不漁、水泳も禁止たることを伝える。
 砥部町田ノ浦に底なし沼ドンコが池がある。ある日、岸に近く大きなドンコが背中を出して休んでいたのを男が捕え背負って峠の道を急いでいると人声がする。人のいる気配はない。にもかかわらず人声がして「ドンコさん、ドンコさん、どこい行くんぞな」と問う。「余戸割木(小麦藁)で背焙りに行くのよ」と背のドンコが答える。男は驚いてドンコを放りあげて逃げ帰った…という。小田町上田渡 堂の浦池の成のドンコは「わしは臼杵の畝々に背焙りに行くぞえ」といい、肱川町嘉城の魔の淵のドンコは「おらあ、中居谷へ背を焙ってもらいに行くぞ」と答える。問いかけ声がし、ドンコが答える場所は峠か橋である。村境いで問答が行われるが、不思議は人語を解し物言うドンコにある。捕え運ぶ男は仰天してドンコを放り投げて逃げ去る。のち、ドンコがどうなるかは語られていない。とにかくドンコが人間のことばを語ることが焦点となっている。

   北が森のドンコ(図表「北が森のドンコ」参照)
 むかし、北が森の山のふもとから百メートルくらいおりたところに、岩の中にくりこんだおそろしいような水たまりがあってな。雨ごいのさいに、その水たまりの水を。バケツに一ぱいでもくみだしたら、用がふるんじゃけどなあ。でもそれをくみたしからどれだけ雨がふるやらわからんので、おそろしゅうて、そこの水をくみに行く者もおらなんだそうな。
 そこに三尺の赤ドンコと黒ドンコが二ひき住んでおった。
 それをあるとき、三津が浜のエンコというものが、北が森のドンコをつかまえて、やいて食べてやろうと思うて、北が森の水たまりにやってきた。そして二ひきのドンコをつかまえ、それをおいこでかるうて三津が浜に帰りよった。
 そして、砥部の通し谷の池の土手をとおりよったら、
通し谷の大じゃが、頭をあげて、
 「ようい、北が森のドンコ、どこへいきゃ。」
 というたら、
 「おらのう、たいくつなきん、三津が浜へ背中あぶりにいこうとおもて、ここにいきよらい。」
 と、かるわれとるドンコがいうた。
 ほしたところが、背負とったエンコは、
 「こらいかん、おれは捕っていんで焼いてくおうとおもとったのに、背中あぶりにいきよるんじゃがとぬかしやがる。ドンコはおれの考えていることを知っていやかって、こわいやつじゃ。」
 エンコは、こおなって、またもとの北が森ヘドンコをもどしたそうな。

   (2) 植 物

 花を賞で実を味う植物は四季のめぐりとともに常に人間の生活とともにあった。桃や椿・柳・柊などは辟邪性の濃い木として尊ばれ、菖蒲などの草花やあるいは柚などの果実も折々の行事伝承のなかでそれぞれの位置を占めてきた。老樹銘木は崇められ地域の表徴として〝おらが村の木霊〟として自慢されてきた。とくに銘桜・老松には独自の伝説がともなう。

 桜

 『伊予温故録』が摘記する桜はつぎのようである。
 
 〔宇摩郡〕熊谷桜…上野村字萩野に在り 天正年中新居郡郷村岡崎城主藤田大隅守の弟釆女といふ人 落城の後ち此地に来住せしが曽て大和国吉野山に遊びたるに熊谷桜といふ桜の萌芽を持ち帰り植えたるに名木となり近郷の人花時には来り観るもの多しといふ。 〔桑村郷〕一木桜…此寺の表庭に一樹の桜とて往古桜坊といふにありしを此庭に移す 幹囲み一丈余高さ五間其枝四方に垂下すること東西十二間本にて三株となる 毎年立春後六十日を開花の節とす 花開けば満庭恰も一団の白雲の如し景色絶佳なるを以て遠近より観花の客あり 冷泉為村卿曽て詠歌を寄せらる 庭の四方にさす枝ひろき桜花よその千本を一木のはる。〔和気郡〕十六日桜…山越村龍穏寺の北裏山にあり 二名島古跡集に云 此桜の事古老いひ伝へしは 昔此地に住ける老翁あり 日頃此花を愛せしが正月十六日のことなりしに 此木の本に彳みて 我今年八旬に及べり花咲頃にも逢ひがたかるべしと独言して立けるに此花忽ち開きけるよし 其の後今も絶えず年ごとに正月十六日に必ず花の咲きぬとこそ 此日は堂上にて踏歌の節会の日なればとて節会桜とも号けぬるよし 舒明帝行幸なし玉ひしに其の時しも花咲ざりければいとど興なく帰らせ玉ふに跡より花開きぬるよし申上げれば其所より御車を返へされしによって此所を今も車返しといい伝ふ 又天徳の頃橘主計頭とやらんいひける人勅使として来られし由いひ伝ふ 古蹟志曰、宝永二年桜為㆓枯木ト㆒我大龍侯深歎スㇾ之ヲ。、時ニ安田重太郎嘗接ニ-植ス。干家ニ㆒、侯聞ㇾ之ヲ命ジテ使メ移植㆒焉、乃環ラシㇾ柴ヲ攀ㇾ樹ヲ使ㇾ不ㇾ得近毀㆓㆒ヲ焉、古今記聞に云 定静公龍穏寺谷に咲ける十六日桜を冷泉為村卿へ進ぜられける時左の御歌を御送り有し由 此桜を進ぜられたる節は梢にさし覆ひをなして御進達有しよし御詠到来の砌御長歌の中に心ある人の見せばやといふ御言葉殊の外御歓び遊ばされたる由 為村卿の御詠 十六日桜といふ花を頃しもむ月半のたよりに折こせしを末の四日みやこにつきて色も美はしく驚ばかりの初さくら花になん 賞翫のこと葉 消のこる 雪かとみれば 年々の む月半に 咲といふ初花さくらはつ春の 柳の木のめ それもまた 色わき初る ころにはや 和か葉催し ほころふを ちらさぬ風の たよりまて 心ある人のみをはやと 折こそはこそ 気ふみそめつれ 為村 はつ春の初花さくらめつらしくみやこのむめのさかりにそ見る この詠草は今龍穏寺に納まりてあり 明治十一年有志者ありて堅五尺横三尺五寸の碑石を立つ 篆額は出雲の千家尊福大教正にて碑文は松山の中村清臣の撰なり 凡一千字余あり 明治十九年に至り桜木樵童の為めに伐られ枯れんとせし故番小屋を立て番人を置たり 今の新木は至りて少さけれど年々正月十六日にはかならず花を開く亦奇なりと謂べし 薄墨桜…西法寺、下伊台村字桜に在り(中略)爰に薄墨の桜といふあり 昔は勅使立し寺なり 薄墨の綸旨を下し玉ふことあり 又桜薄墨に見ゆるともへり 綸旨に依て名づくるともいふ 又異木の梅あり 花一輪実数多生ず 〔温泉郡〕 印桜…大宝寺、南江戸村に在り 古照山薬王院大宝寺と号す 旧蹟俗談に云 此寺両度の火災にて数株の桜焼亡し漸く一樹残れり 昔崇徳院讃岐より此地へ御幸の時御車を返し桜を叡覧ありて名にしおはばまた来て見ん花の春夕影残す雪の古寺 と御製ありしは此寺にて足より古寺ともいひ習はせり 石手寺の桜を車返しの桜といふは誤りなりと云ふ 此寺の上の山を花見山といふも桜花によりたる名なり云々古蹟志に云 堂前に桜あり印桜と称す 伝言大宝元年これを植ゆと 〔下浮穴郡〕砥部桜…宮内村にあり 客天神祠の庭にありて花時見事なり 和歌者流殊に是れを愛せり 古歌あり読人知らず 砥部桜 こゝろなき雲の眺めも絶へぬなり高根の花の夕暮の空 分け迷こゝろの限り尽るとや散ればまた咲く花の山道 三度桜…手足村に在り 春秋冬三度花咲稀代の名木なりと云ふ 姥桜…河井村に在り 昔し栄し時は枝行六十間も有し由 今は枯れて若木なり 後に植えしものなるべし 虎ノ尾桜…五本松村にあり 大森彦七が別荘の跡なり 昔は虎ノ尾桜あり 四十年前に枯れたりと大洲旧記に見ゆ〔北宇和郡〕 塩竃桜…来応寺、宮下村に在り(中略)西園寺宣久造営、門前に宣久の墓あり 名木の桜ありて春毎に遊ぶ人群集せし所なるに今は塩竈桜の跡の名のみ残れり(旧記) 正月桜…下灘村の内まけの浦といふ所にあり 此桜毎年かならず正月十二三日の頃は花盛りなり 世に珍しきとて此枝をつぎ木とするといへども外にては常の桜の如し(旧記)  〔喜多郡〕 松桜相生…名荷谷村に在り 字正山といふ所に松桜生合たる奇本あり 此木のある所は正山宮と称する神社の境内なり。
 このほか西条市大保木のお姫桜は某姫が此の桜で首を吊って死んだとされ東西に枝を広げているが、東の枝に花咲かぬ年は東の村に凶事あり、西の枝に花咲かぬ年は西の村に災事あるとされ、枝折れば血にじむといわれる。世だめしの桜である。小田町上川の大森神社跡の彼岸桜の開花は上下枝によって山地・山麓の村々の吉凶を占うものとされる。
 十六日桜 桜の花を愛した老人のまことが通じて開花したとする説と、孝子の願いがかなえられて花咲いたとする説がある。小泉八雲「怪談」は前説に従っている。桜渓の位置についても異説がある。井手淳二郎の「十六日桜伝説について」には解説・資料がある。いま桜谷に「十六日桜碑」がある。撰文は西村清臣(文化1~明12)、書はその門下青野清夫。磨耗して判読が困難であるので次に掲げておく。

いつの世の事にかありけむ 伊予の国和気の郡山越の里に名を吉平とよぶいとまめまめしき民ありけり 年老て家名を其子にゆづりおのれは草の庵に起ふして花を楽しみ月を憐むの外なかりしに 一年正月のはじめ此翁やまひの床にうちふして今は浮世にながらへむほども覚束なくおもひなさるる余りに家人らに語りていへらく 我が病俄に篤しく成りぬよはひ既に八十に余ればいつ世を過むもつゆ恨みならずといへども只口惜きは庭の桜の咲出ん今年の春を待得ずしてよみぢにたたん事の悲しさよとなみだかきたれ歎きければ 世つぎの吉平是をききやがて庭におりたち桜にむかひぬかづきていへらく やよ桜よ心あらば父の此世におはするほどにあはれ咲出て見せ奉れよかし 天地に神はまさじかわが願ふねがひを今宵充て給へと祈り祈りて明しけるに 雪まだ寒き桜の梢にさしのぼる朝日と共ににほひ出たる花のいろ香のうるはしき事いふべくもあらざりけらし 吉平驚きあわてつつこはこは桜やこころありけん神やたすけたまひけんわがねがひこそかなひはべれとふしたる翁をよび起こして背に負て木のもとをたちめぐるに翁がよろこびたとへんに物なし終にはおもき病をさへわすれふたたび世にながらへたりとなむいひ伝ふる むかしより親につかふる孝心のふかきは天地の神も憐とみそなはしていとも妙なる事のあるが中にもわきて目出度は此はなのいひの伝へになむありける さるは花孝子が願をうけひきしだにあるをそれを例に年ごとの睦月十日まり六日の日はかならず花咲きいづること千とせの今にかはる事なきは奇しともくすしき桜ならずや かかればなべてならず珍らしきをもてあそび今も猶近きあたりのみやびをら木陰につどひて是をめづるも年あるにいといとはるけき大御代にかしこしともかしこきおほひ帝のもののついでに玉の御輿をだによせさせ給ひて憐と叡感ましましけむもみな是孝子のつたへ世に名高き績になんありける かかるくすしき故よしある事をきかむ人は孝子の心をこころにくみて涙に袖をしぼらざらめや昔を今にしのばざらめや しかあるに其桜も年をへて老くちそのつたへもともにうせはて霜おく草のあとなくなりゆかん事を惜み同じこころの人々らちからを合せて其根に培ひ うなゐごどものたはぶれにも枝をらせじ柴こる童が利鎌にもそこなはしめじとてあたりに石垣をさへめぐらし其事のあらましを石に彫りてかく物するは明治十一年一月十六日なりけり 歌に曰 つくしけむ人のまことをにほはせてさくかむ月のはつさくらばな

 姥  桜(図表「姥桜」参照)
 乳母ざくら「怪談」(小泉八雲)
三百年のむかし、伊予の国温泉郡の朝美という村に、徳兵衛という善良な人が住んでいた。この徳兵衛は、そのかいわいでも、いちばんの金持で、村長を勤めていた。たいがいのことには不足のない身だったが、四十歳になっても、まだ父親になる喜びを知らなかった。そこで、徳兵衛と彼の妻とは、子供のないのを苦にやんで、朝美村の西方寺という、名高い寺のぬしである不動明王に、たびたび願をかけた。
 とうとう願がかなって、徳兵衛の妻は、一人の女の子を生んだ。その子はたいへんきれいで、露という名がつけられた。母親の乳がたりないので、お袖という女が、子供の乳母にやとわれた。
 お露は成長して、たいそう美しい娘になったが、十五の年に病気になって、医者たちも、とうてい助かるまいと思った。そのとき、ほんとうの母親のようにお露をかわいがっていた乳母のお袖は、西方寺にまいって、お露のために、心をこめて不動さまに祈願した。二十一日のあいだ、毎日おまいりして祈った。そして、その満願の日に、お露はきゅうに全快した。
 それで、徳兵衛の家では、大喜びだった。娘の全快祝いに、知人をのこらず招いて、祝宴をひらいた。ところが、そのお祝いの晩、乳母のお袖がとつぜん病気になった。そして、その翌朝、お袖についていた医者は、臨終がせまっていると知らせた。
 そこで、家じゅうの者は悲嘆にくれながら、別れを告げに、お袖の床のまわりに集まった。ところが、お袖はみんなにこう言った。
 「みなさまがたのご存知じないことを、申しあげねばならぬ時がまいりました。じつは、わたくしの祈願が、聞きとどけられたのでございます。わたくしは、お露さまのお身代りに、死なしてくださいますよう、お不動さまにお願い申しました。そして、この特別のおなさけを、お授けくだされたのでございます。こういうわけでございますから、どうかみなさま、わたくしの死ぬのを、お嘆きくださいますな。……けれども、ひとつだけお願いがございます。じつはわたくし、お礼と記念のしるしに、桜の木を一本、西方寺の境内に奉納いたしますと、お不動さまにお誓い申しました。ところで、もうわたくしは、自分でその木を植えることはできません。それで、どうかわたくしに代って、この誓いを果していただきとう存じます。……それではみなさま、もうこれで、お別れでございます。どうかわたくしが、お露さまのお身代りに、よろこんで死んでいったのを、お忘れくださいますな」
 お袖の葬式がすんでから、えり抜きの、りっぱな桜の若木が一本、お露の両親の手で、西方寺の境内に植えられた。その木は成長して生いしげり、翌年の二月十六日―ちょうどお袖の命日に、みごとに花をひらいた。こうして、二百五十四年のあいた、いつも二月の十六日に、その木には、絶えることなく花が咲いた。そして、その花は石竹色と白とで、ちょうど乳でしめった女の乳房のようだった。それで人々は、その木のことを、乳母ざくらとよんだ。

 松

 西行松・空也松・彦七松・八衛門松など人物の事跡にちなむ松のほか、竜神にかゝわる竜吟松・時雨松などがあり、大師伝説をともなう誓松等もある。樹勢姿態により名づけられた松も多い。燈明がともる松に、旧八月になると燈火があがっていた松前町西古泉金蓮寺の龍燈松がある。松山市白石鼻龍神社の海上に二つの神火が元旦に海上に現われ、二日の夜に数百となって海上を南に移り松前の沖に至って金蓮寺に上陸したという。砥部町麻生の金比羅さんと呼ばれる理正院有善寺、松山市高岡の生石八幡神社にも龍燈松があり、伊予市下三谷の龍燈松は朔日・一五日に龍燈がともった。大晦日に燈明がともるのは重信町北野田の徳威三嶋宮の老松で燈明松という。別称を錦旗松ともいう。夜毎に神火が輝いたのは吉海町椋名の渦浦八幡神社の燈明松であった。
 鎧掛松 源義経が平家を屋島から壇の浦に追撃の途中、長師の姫が浜に上陸し、鎧を掛けて休憩したという。松の下に地蔵尊が安置され、鎧神社の小祠がある。

 今から八百年ほど前、源氏の大将源義経は、屋島のたたかいで平家をやぶりました。義経は、下関のだんの浦ににげた平家をおって瀬戸内海をくだっていきました。言いつたえによりますと、義経は、だんの浦にせめていくとちゅう、水師をあつめるために長師により、ひめが浜に上陸して陣営をはりました。そのとき、かたわらの松に、ぬいだよろいをかけてやすみました。松でも義経の威光を感じとったのでしょうか。そのときから松は上にはのびず、よこへ、よこへと枝をはり出し、傘のような美しい形になっていったのだそうです。それで、人々はこの 黒松を「よろいかけ松」と呼ぶようになったといいます。よろいかけ松は、愛媛県の天然記念物に指定されておりました が昭和四十八年ごろついにかれてしまいました。(中島町教育委員会)

 他に、与力松(松山市平井町)・夜明し松(松山市上野 大宮八幡神社)・凱旋松(中島町怒和 若宮八幡神社)・袖掛松(砥部町土壇原)・衣干松(大西町大井浜)・菅公手植松(川之江市大門)・時頼手植松(河辺村植松西明寺)・汐干松(松山市畑寺 繁多寺)・ナミ女の松(宇和島市蒋淵)・夫婦松(宮窪町)・大師松(北条市下難波)などはそれぞれの伝説を持つ松である。
 八房の梅 清盛寺 寺村字中組に在り…(中略)…庭に座輪の紅梅古木あり 其の下に五輪塔一基在り 昔より清盛公の姫君を此所に葬り清盛と文字を改めしとかや本川の妙見にも能登殿の大矢とて大なる矢の根あり鎧も三領有しを命により公役所へ召されし時使の人役所にて急死したりと云 如何にも讃州八島崩の時平家の人々忍ひ来って塾居したるもの歟 此墓印に称尊院殿楠薫大童女大治二年丙午六月十六日とあり(伊予温故録)

   登貴姫と八房の梅

 小田町大字寺村に、太田山清盛というお寺があります。
 その境内には、八房の梅と呼ばれる美しい梅の木が一本、植えられています。これは、この木にまつわる、かなしくも美しい伝説です。
 今から、八百年も前のことです。飛ぶ鳥も落とすようないきおいだった平氏の一族は、源氏によって都を追い出されてしまいました。その上、文治元年(一一八五)、二月には屋島で、源義経にうちまかされました。そうして、とうとう、平氏は、壇の浦で、滅ぶこととなったのです。ほとんどの者は、この時、海のもくずと消えてしまったといわれています。けれど中には、逃げのびて、どこかにかくれ住んだ者もおりました。平清盛の五女登貴姫も、そういう者の一人でした。
 生き残った武士たち数人といっしょに、源氏の手からのがれ、安らかにくらせる土地をさがして、さまよっておりました。
 どこまで行っても、けわしい道が続くばかり。食べ物は、とうになくなって、飢えに苦しむ毎日。そして、別れ別れになった肉親への思い。いくら、おともの武士たちがいても姫の心は、不安と恐怖でいっぱいだったにちがいありません。
 そして、やっとの思いでたどりついたのが、浮穴郡太田山(今の小田)の地でした。姫たちは、そこに一堂を建て、かくれ住むことになったのです。時の領主は、そのような姫をかわいそうだと思ったのでしょうか。登貴姫に村を一つ与え、寺村と呼ばせることにしました。やっと、平和で静かなくらしができるようになったのです。
 ところが、まもなく、姫は、病気になってしまいました。そして、ともの者や村人たちの祈りもかなわず、六月十六日に、この世を去ってしまわれたのです。十六歳の若さでした。都育ちの姫には、旅のつかれがかなりこたえていたのかもしれません。それとも、いくら恋いこがれても帰れない都への思い、生死もわからぬ一族の者たちへの思いがそうさせたのでしょうか。
 この時、登貴姫のたもとには、梅の種がありました。それで、この種を姫の墓のそばにまくことにしたのです。これが、みごとな梅になって、毎年、きれいな花を咲かせています。
 この梅は、八重咲きの紅梅で、実が数個ずつ重なっているところから、八房の梅と呼ばれています。また、見ようによっては、舟が帆を張っているように見えるので、舟形梅と呼ばれることもあり、人々に名物として珍重されております。
 そして、この梅のかたわらには、約三㍍四方、高さ一㍍の台の上に、苔むした五輪の塔がのっている登貴姫の墓が、ひっそりとたっているのです。
 この美しい梅と、あわれな登貴姫の話は、人々の心を動かさずにはおかないでしょう。「小田の山月」の中にも、こう歌われています。…雲の宮居のあで人が 住居求めてあわれにも 都の空をこがれつつ 名付けて今は小田の里その者平氏にあらざれば 人にはあらずとうたわれし 姫の古墳は苔むせど 今も昔も梅香る
                 (再話 花岡礼二郎)

 竹

 切ると凶事があるという久万町露峰の「尾首城のうらなし竹」(此所にうらなし竹とて残らず末のなき竹生ると也。若人取れば凶事有故、一本も取ことなし、末有竹と云は一本も生ぜず。「大洲旧記」)、三足進て後手に当たる竹を根掘にして指物竿に用いれば祥瑞がある(予陽郡郷俚諺集)松山市興居島船越和気姫神社の竹林、頼政鵺退治にかゝわる矢竹(美川村二箆)などがあり、天赦園(宇和島市)は竹に雀の紋にちなむ藩主伊達家の別業として多種の竹をあつめて伝説がある。

 杖立
   
 伝説・歴史上の人物が杖を立て、その木が根づいて成木となったという。逆さに挿されてそのまま生長したとされるものが多い。新田義宗の椿の杖が根付いたと伝えられる新田椿は杖椿と呼ばれ(松山市河中両新田神社)、弘法大師のそれのお杖椿は逆さ椿(川之江市椿堂常福寺)と称される。馬目木が根付いたのは大師伝説にちなむ元結掛(宇和島市)、杉は尼の杉(一本松町篠山)、銀杏は大銀杏となっている(松野町妙楽寺)。菅原道真の鞭は逆葉の竹(松山市久保田)、源範頼には矢竹(伊予市上吾川鎌倉堂)、熊野三所神社勧請の逆さ竹(川之江市金田町)、客神社の柳(肱川町予子林)、太山寺のねじれ竹(松山市)などはいずれも杖立の伝説である。

   (3) 星

 北辰・北斗の妙見信仰伝説のほか、作物の播種収穫の時期、あるいは漁期漁場の方角、航行の指針を星に求める。松山市道後に三光の田という所があった。「五月に至り水を播し明日早苗取べしといふ頃、此泥水の中、殊に澄たる所有り。能く見れば日月星の影を顕せり。実にふしぎの事に思ひ、恐て耕をやむ。今は賤き山伏の有て業をする也、世に月の輪田と云。温湯の西五六丁に樋股と云所有、川に橋かゝる。是より南に有と云。或云、此所に古墳の如き有、是をすみ田とも、三光の田とも云ふ」と『予陽郡郷俚諺集』にある。太陽と月と星が同時に田の水面に映じたという。嵯峨天皇の勅命により弘法大師が悪星退散吉星招来祈願護摩を執行し星供養を受けて恵雨を得た石鎚山星ノ森峠(横峯寺縁起)、大西町星之浦幟立の星神社、松山市天山の星の岡などにも星の伝説がある。

   (4) 石・岩

 石に神霊がこもるとすると信仰は濃く、石を依代とする神は多い。神体を石とする神社は県下に見られる。さらに石は生育成長し割れて子石を生み出すものとされる。牛石・虎石などは形状色彩からその動物の化したものとされる。舟石は神が乗って来た舟が、駒形石は神馬が化し、手形 足形 足跡岩は鬼 巨人 歴史上の人物が印したもの、腰掛石はこれらが座しあるいは出現したものと伝えられている。神の投石伝説もある。
 また、腰折山(北条市)の脊丈くらべや相撲伝説、あるいは九島(宇和島市)九十九谷のごとき山姿山容地形伝説がある。池・沼・淵などの伝説は龍・蛇・蟹などとともに語られる。道後温泉は白鷺が傷をいやしたという。これらについては、第二節「昔話」で述べる。
 腰掛石 最明寺入道時頼腰掛石(川内町永野)は、宝永三年建立鎌倉堂小祠があり、近くの根曳峠に謡曲鉢の木型伝説をとどめる。菅公腰掛石(松山市北久米 天満神社・重信町北野田)、西行腰掛石(土居町上野関の峠)、新田義宗腰掛石(松山市米野々 新田神社)、大国主命 少彦名命御輿休石(菊間町川上 天一神社)、村候腰掛石(宇和島市仏海寺)、神功皇后腰掛石(別名汐留石、東予市今在家)、十六皇子腰掛石(津島町岩松)、八幡神腰掛石(宇和島市大浦)などがある。

 時頼腰掛石 金毘羅寺の近所に腰懸石と云あり。是は建長の比、鎌倉の最明寺入道諸国修行の時、最明寺此所に来り、暫く腰を懸け休給ふ也。向山の峠を根引峠と云也。最明寺へ嚮餉したる時、松を引て□としたるより今に根引峠と云ふ(予陽郡郷俚諺集)。腰掛石。東谷長野と云処に長四尺、幅二尺計の石有。昔時鎌倉の最明寺殿諸国修行の時此処を通り給ひしが腰を懸休息し石也とて今に是を腰掛石と云り。夫より二三丁北の方桑の木屋敷と云処に八兵衛と云る農民彼が先祖老人有りしが、最明寺殿此家に立寄給ひしよし云伝へり。今に其子孫として其侭爰に住ける由。宝永の頃右の脇へ小祠を建て是を鎌倉宮と称せり(予松古跡俗談)。 北条祠之碑(天保七年建之・松山藩教授日下梁撰文)がある。白猪の滝観瀑の帰途、正岡子規が「案山子もの言はば猶さびしいぞ秋のくれ 西子」の落書をのこしたのはこの鎌倉堂の柱であるが、今はない。

 降臨石・影向石 羽休め石(小田町本川、土佐から飛来せる老翁が深山に通うとき妙見が森で降下した石と伝える)、影向石(別名神幸石・岩神、松山市太山寺 諸山積神社)、歳の夜のおつづみ石(広田村玉谷玉森三島神社)、影向石(別名黒岩、本尊がこゝに漂着したと伝える、伊予三島市西寒川 新長谷寺)などがある。
 馬蹄石・足跡石・杖跡石・玉石・礫…足跡石(今治市神宮杉ノ下、野間神社祭神とその駒が降臨したと伝える)、駒の爪石(松山市五明柳谷、天人とその駒の降臨譚)、神馬足跡石(土居町天満大地神社・小田町久保)、龍駒石(久万町二名富重)、長慶天皇馬蹄石(玉川町奈良原山)、藤原純友駒立岩(松山市古三津 大明神山)、弘法大師足跡錫杖石(丹原町西山興隆寺参道)、お大師石(松山市東方町・砥部町岩屋山)、玉石(波方町 玉生八幡宮・丹原町明河 金刀比羅神社・伊予市上唐川本谷 浜出稲荷神社・松山市石手寺 衛門三郎玉の石・松山市道後湯之町 大国主命少彦名命玉の石)、大人の遊び石(伊予市上野行道山麓)、礫石(砥部町麻生 矢野神社)、お山の投げ石(松山市水泥)、石鎚の投げ石(西条市伊曽乃神社参道・飯積神社)などがある。

 石鎚神のなげ石

伊曽乃神社の一の鳥居の右手に、大きな石が、どっかりこしすえとるの知っとろ?四、五人で手えつないで、ようようひとまわりするぐらいの大きさじゃのう。
 その石に、まるでねんどでもつまんだように、大きな指あとがついとるが、なんじゃとおもう。あれは、神さんの指のあとぞい。
 とおい、むかしのこと。石鎚の男神と伊曽乃の女神が、加茂川のほとりでであわれたそうな。ちょうど若葉のかおるころじゃったと。
 女神は、男神をひと目見るなり、気にいってしもうた。きりりとしたまゆ、すずしいひとみは、見るからに男らしい。ほんで、おもいきって心のうちをうちあけたんじや。
 「どうぞ、わたしと結婚してくれませんか。」
 ほしたら、男神はあわてて、
 「いやいや、わたしは修行ちゅうの身。これから、たかい山にのぼって、もっともっと修行にはげまなければなりません。せっかくのおもうしでござるが……。」
 いうて、ことわったんじゃと。
 それをきいた女神は、男神にすがっていうた。
 「それなら、わたしもお山につれていってください。」
 「いやいや、お山に女がおとずれるのは、天のいかりにふれるのじゃ。けっして、ついてきてはいけん。」
 男神は、なおも首をつよくふって、ことわったんじゃ。すると女神は、ころものそでを顔にあててなきくずれた。
 そのすがたを見て、さすがに男神も女神をいとしくおもわれたのじゃろ。
 それでは、こうしよう。わたしが伊予の高嶺にのぼったら、そのいただきから、三つの大きな石をなげよう。その三つの石がおちてきたら、まん中の石のおちたところに家をたてて、まっていてくださらんか。」
 こういいのこして、いそいで石鎚の山にのぼってしもうたんじゃと。
 なん日も、なん日もたった、ある日。大空の一角から、ギューン、ギューン、ギューンと、ものすごいうなりをあげて、三つの大石が、つぎつぎにとんできたんじゃと。ほして、ド、ド、トーンと地ひびきたてておちたんよ。
 女神は、よろこびいさんで、まん中の石がおちた場所に、かわいらしい家をたてた。この石が、ほれ、一の鳥居のところにある石じゃ。指のあとは、男神がつかんでなげたときについたんじゃと。
 こうして女神は、それからというもの、男神のおいでになる日を、指おりかぞえてまっておったんじゃが……。 かんかんてりつける夏がすぎてしもうた。田んぼにすず風がふきぬけて、秋もいんでしもうた。こな雪のつめたい冬がやってきた。
 ほんでも男神は、まだ、もんて(もどって)こん。女神がそんなにまちよるのに、男神の修行は、おもうようにはかどらんかったんじゃ。
 (もしも、女神がこの山にのぼってきたら、どうしよう。)
 そうおもうと、男神は気が気でなかって、おもねず天ににげのぼろうとして、右足をあげてしもうたそうな。そじゃけん、いまも石鎚大権現さまの像は、右足を上にあげておられるんじゃ。
 それから、よう修行をつんで石鎚の峰に鎮座するようになった男神は、やくそくどおり、伊曽乃の女神と夫婦になることができたんじゃと。
 むかし、むかしの話よのう。これでおしまい。
                  (再話・阿部雅子)

 夜泣石・誕生石 夜泣石(松山市平井・松山城三の丸 爼板石・伊予市稲荷 稲荷神社・中島町北浦 泣石・双海町上灘亀の石・松山市高井 波賀部神社・松山市朝美町 赤子の足跡石)は捨て児が夜になると泣くと伝えられ小児の夜泣きどめに験があるという。誕生石(吉海町泊 三島明神誕生石)は安産守護の信仰がある。同じく安産祈願に子宝石(御荘町菊川 分神石神社神体)がある。
 分身石…「御荘組菊川村 分身石明神由緒之事 夫分身石乃由来は天文二歳癸巳八月舟乃川と申す処に独りの農夫あり 或日仏崎とゆう磯に行き釣をたれしに掛目三匁ばかりなる小石鈎にかゝり揚り 得る処の魚ならざれば渺と投捨て候 又釣をたれしに石の小石又々鈎を喰み揚り彼の漁夫不思議の思ひをなし我が家にかえり小さき祠を営み沖の権女とあがめ安置す内に石追々太さを増し年を経るに縦って分増し今にいたり尊石五体と相成り因て茲に分身石と…後年に相改申候以上 辰六月 同村別当 寿明院」(御荘町史) 町史記載による一ノ石~五ノ石の計量掛目記録を一覧表に作成するとつぎのとおりとなる。(図表「量集録」参照)

〈未ノ八月廿一日石大サ貫目改申候事〉一、壱番ノ石 拾六貫目 立廻り三尺九寸 横廻り三尺七寸六分 一、弐番ノ石拾六貫目 立廻り四尺五分 横廻り三尺六寸七分 一、参番ノ石 壱貫五百目 立廻り壱尺八寸三分 横廻り壱尺八寸七分一、四番ノ石 百五拾六匁 立廻り九寸壱分 横廻り八寸八分 一、五番ノ石 弐拾参匁 立廻り四寸五分 横廻り四寸 石ノ数大小五ツ 右之通改相違無之候依而如件 元禄四年未ノ八月廿一日 摺木村庄屋 徳左衛門 同組頭 甚兵衛同横目 新兵衛

  〈おきよのごぜんかけめ事〉一、一番石 拾六貫目 高サ壱尺参寸四分 廻り参尺八寸弐分 横指渡壱尺五寸九分 一、弐番石 拾六貫目 高サ壱尺四寸弐分 廻り参尺七寸五分 横指渡壱尺五寸 一、参ノ石 壱貫五百目 高サ六寸四分 廻り壱尺七寸七分 横指渡六寸弐分 一、四ノ石 百五拾九匁 高サ参寸弐分 廻り八寸六分 横指渡弐寸七分弐厘 一、五ノ石 廿三匁 高サ廻り四寸六分 横廻り四寸 右之通元禄四未ノ八月廿弐日改如此二御座候

 ちょうど布を曳いたごとき痕をとどめて三島明神が布を織られたとする布旋石(大島荒戸)、曽我兄弟の母が袂から落した小石が生長したというおんじの袂石(松野町松丸)、村を跨ぎ越すとき大人が落したという大人の袂石(別名弁天岩・城川町魚成)、弘法大師の両袂からこぼれた袂石(城川町古市・城川町窪野下里組)、鳥越の海中から引揚げて明治一九年に奉納された龍宝石は潮汐の干満により両側いずれかの穴の水が増減する干満石(別名干満石・日月石・銀杏石、伊予三島市 三島神社)、潮汐により石の色が黒白に変化する満石(北条市 高繩寺)、触れるとほろせができるとするほろせ石(玉川町小鴨部 熊野新宮神社境内・重信町上林瞽女童)、疣を治す疣石(朝倉村鶴の巣 水大師石・肱川町赤岩)、大晦日の夜湯気を立てるという甑石(北条市庄)、苧が無尽蔵に出る桶を得た村人が追い来る女に仙人の行方を明かしたため桶が化してしまったとされる苧桶石(美川村七鳥)、三月三日岩面に花形を生ずる花石(双海町上灘)、弘法大師が網をかけたとされる網掛石(松山市窪野)、碁盤と碁笥を備えるという碁盤石(小田町深山)、蛇石(内子町立川・西条市大町八ガ塔用水井手 蝮石・城川町下相江戸淵 蛇石)、虎石(別名鈴石 松山市恵原)などのほか、瞽女が道に迷うたが村人はだれも教えなかったので餓死して石に憩い、石に化したといわれる瞽女石(重信町上林)など、さまざまな伝説をともなう石がある。

   ご ぜ 石(図表「ごぜ石」参照)
 ごぜ部落を過ぎ、林道を十四町ほど登ると、上林から久万の畑野川へ通じる旧道に出合うがの、そこから右へその旧道を二町ほど降りると、そこにうす暗い杉林があり、その中に大きな岩があらい。
 人が二人すわったようなかっこうをした岩じゃがの、その岩は「ごぜ石」と呼ばれとるんよ。その岩の前には、竹のつえがだいぶこと立てかけてあり、また、その岩の根もとには、こんまい石の地蔵さんが祭ってあるんよ。
 このごぜ石には、こんな話が伝わっとるんよ。
 それは、三百年ほど前の話じゃが、三月のお彼岸のころ、この里では、めすらしく吹雪になって、日暮れには、辺り一面に深い雪が積もってしもたんじゃ。谷間の日暮れは早く、家々では、家族そろって、夕飯を食べているころじゃった。
 そのとき、この里に、どこから来だのやら、「ごぜ」さんが女の子の手を引いて、疲れきってたどりついたんよ。ごぜというのはの、目の見えない女の人で、家々の門口で三味線をひいたり、歌を歌ったりして、お金をもらって歩いていた人なんよ。
 このごぜさんの親子は、疲れてもいるし、雪も深いので、とても山ごえはできんと思い、どこかの家で、とめてもらおうと、一けん一けん、家をたずねて歩いとったんじゃ。
 「今晩一晩、とめてください。」
 と、たのんでまわったけど、どうしたものかどの家も、かたく戸をしめてしまい、この親子をとめてくれる家は、なかったんじゃ。
 かわいそうに、ごぜさんは、夜どおしかけて上林とうげをこえようと考え、女の子を連れて、とうげ道を登りかけたんよ。
 ところが、深い雪と強い風で、体はこごえてくるし、転んだり起きたりで、体中、傷だらけになるし、疲れはてて、とうとう今のごぜ石のあるところまで来て、動けなくなり、そこに、うずくまってしまったんじゃ。
 「ひもじいよう。苦しいよう。」
 とおらびながら、とうとう死んでしもうたということじゃ。
 そんなわけがあって、だれいうとなく、この岩を「ごぜ石」、このあたりを「ごぜおらび」、やがて「ごぜわらべ」と呼ぶようになったんじゃと。それから、いつの間にやら、そのごぜ石は、ごぜさんとその女の子が、並んでうずくまっているような姿になってしもうたんじゃと。
 さて、それからというものは、そこの村には、病人やけが人が多く出て、不幸なことがつぎつぎに起こった。これは、まちがいなく、あのごぜさんに情けをかけなかったことのたたりじゃ、と思うようになって、村人たちは、山伏さんを呼んで来て、ご祈とうをしてもらったんじゃ。すると、それからというものは、一つも悪い事が起こらんようになったということじゃ。
 おまけに、目の悪かったごぜさんの、このごぜ石に、目の不自由な人がお願をかけると、おかげがあるということでの。岩のところに、供えられてある竹のつえは、目がよくなったお礼に、祭るようになったということじゃ。
 このごぜ石には、もう一つのお話があるんよ。
 それは、むかし源平の合戦のあったころの話じゃが、戦に負けた平家の生き残りの、多田蔵人という人が、この上林に落ちのびて来てくらしていたんじゃ。そのうち、ここの庄屋さんのむすめとけっこんして、しあわせにくらすようになったんじゃが、京に残っていた蔵人のつまは、夫のい場所を風のたよりに知って、この上林へさがしに来たんじゃ。
 「わたしの夫、多田蔵人を知りませんか。」
 いつまでも帰って来ない夫を、さがし回ったが、村人は、いつもお世話になっている庄屋さんや、幸せに暮らしている蔵人にえんりょして、みんなが口を閉ざして教えなかったんじゃそうな。
 つまは、村人のあまりのしうちに、なげき悲しんで、とうとう目が見えなくなり、石になってしもうたそうじゃ。               (重信町教育委員会)

 兜岩・烏帽子岩 武将が脱いで逃げた兜が岩となったという兜岩(松山市湯山・松山市恩地・松山市福見川)、宇和島・吉田藩境界石の烏帽子岩(松野町地蔵峠)や少彦名命の冠岩(大洲市菅田)、菅公が衣冠を乾かしたという衣干岩(今治市桜井 綱敷天満宮)、あるいは天智天皇が御衣を置かれたと伝える衣岩(土居町中村 井守神社)、落人伝説をともなう平家の小袖岩(面河村大味川)などがある。
 雨乞岩 南予では梅雨をナガセという。梅雨期に蛇が姿をみせるというナガセ岩(日吉村上鍵山)・ろんぎ岩(小松町石鎚)、柴草を燻べると瑞雨を招くとされる燻岩(朝倉村 多伎神社奥の院)はいずれも雨乞岩である。もと猪木の大窪谷にあった夫婦岩(北条市猿川)は享保七年の洪水で流れ、下流に再び揃ったといわれる。大蛇が住んでいるという三つ岩(松山市興居島白石)は時化をよび、それぞれに馬・牛・犬の足跡がついている三つ岩(小田町南山)もある。
 大人の石 巨人が落した弁当が岩になった焼飯岩(明浜町俵津)、岩を運ぶ畚が切れた畚岩(肱川町名荷谷)、下駄歯にはさまった石がぽっくり落ちたぽっくり岩(中山町重藤)。足跡石(宇和島市下波・吉田町喜佐方・三瓶町布喜川・三瓶町蠑螺ヶ岳・長浜町青島・三間町成妙・美川村大川)、鬼の燧石(宇和町山田)がある。

  2 歴 史 伝 説

 村落の発祥が神仏や平家落人伝説とともに語られ、あるいは開拓先住者としての百姓株の家筋として伝えられ、家船・木地師は移住定着譚として意識される。地名起源伝承が濃くうかがえる。草分地主や戦国武将たちが絶え滅びた後の屋敷跡が伝えられてもいる。神仏や歴史上の人物が石や塚・祠堂などとともに語られ、聖地とし清浄を保たれねばならぬとされている所が多い。とくに、塚は人や動物を埋葬した場所として発掘崩壊を禁じている。地蔵 薬師 観音 権現 不動など民間信仰に支えられる社寺の神仏や路傍の小祠石仏は固有の名称を持ち、その性格や機能について地域の伝承がある。県下には、神武天皇 神功皇后 紀貫之 菅原道真 小野小町 赤染衛門 藤原純友 西行法師 安徳天皇 平家公達姫 時頼 範頼 曽我首塚など英雄 美人のほか、弘法大師 一遍上人も伝説として伝えられている。

   (1) 屋敷・館・御所

 (新宮村上山泉田) 日野光明館跡。(伊予三島市)中之庄村字汐汲道 坂上正義館跡・寒川御前ケ城 小川館跡(小川六郎祐長)・寒川神の木 正法寺氏館跡(正法寺左衛門尉下屋敷)・上柏屋屋敷 寺尾土佐守直政宅跡(宅内築山は夢想国師留錫して自ら築くという)・上柏御所 越智玉澄館跡(御座置石あり、木梨軽太子の御所とも伝える)・三島陣屋 河野通郷館跡・三島亀水 得能通時館跡(御鉾権現勧請、神供清水を花立井より調進する)。(川之江市)金川国秀 山川国秀宅跡。(西条市)中西古中西 野津子屋舗。(東予市)喜多台村東 高橋右京進宅跡(藤森荒魂神社を勧請し氏神とする)・新市北ノ丁 桑村館(郡司越智深躯、鉄牛和尚開基長覚寺移営)・旦之上 青野氏館跡(青野豊後守只之)・今在家鶴ノ掛 塩崎氏宅跡(汐崎播磨守通兼は野々市原にて討死する)・北条蛭子 多賀谷氏館跡(多賀谷修理亮通堯)・石田土祖神 戒能氏宅跡(戒能三郎通久、東屋敷という)・石田宮地 (十河又五郎一保)・今井中通 今井氏宅跡。(丹原町)高知矢倉山 矢倉山館跡(称徳天皇御宇神護景雲三年笠朝臣雄宗は伊予国員外橡となり白鹿を献ず、八倉館ともいう)・北田野国広 国広氏宅(国広某は当地産馬を源頼朝に献ず、名馬となり磨墨と称し愛馬となる)・田野上方三天 野口氏宅(野口左衛門尉重俊)・関屋城屋敷 玉井氏宅(玉井右京進)・志川山田 兼頭館跡(兼頭修理亮清生)・臼坂笹ケ峠 臼坂氏館跡(臼坂三郎兵衛知清)。(今治市)鳥生 鳥生屋敷(鳥生又三郎貞実)・登畑 三宅川館跡(土居構、三宅川美濃守通常、竹原合戦討死)。(北条市)別府 柳原館(延徳元己酉年三月、柳原権中納言尚光罪ありて勅勘を蒙り河野伊予守通春に預けられ、通春これを風早郡小村に居らしむ、世人其の所を柳原殿と称した)・夏目 河野八郎右衛門通忠館跡(福生寺があったが天正年中廃寺となった)・浅海本谷 浅海氏館墟(浅海四郎能員)。(松山市)恵原 新居純屋敷(仁平三年源三位頼政怪鳥を射た恩賞に、上林 下林 津吉 恵原 浄瑠璃寺五邑を賜い、頼政官司を置き租賦等の事務を執らせた官舎の跡という、別説に土岐頼政が鵺を射る功によりてともいう)・湯山 柚之木谷館跡(河野通有の長男通忠を柚之木谷殿と称した、その所は湯谷山正福寺という。むかし湯の気たつこと甚しきによって湯の気谷と呼び柚之木谷の文字をあてたともいう)・松末 松末館跡(河野家士大将一八家、松末美濃守通為の居館、影堂は清盛寺にある)・南江戸 安城寺館跡(河野家士大将一八家、久枝肥前守宣盛居館、天正一五年湯月屋形と同時に亡ぶ)・今在家 松田美作守跡(松田彦四郎通氏、河野家幕下となり桑村郡吉岡郷の内にて一三〇貫余を領す)・北久米 乃万屋敷(四角なる宅地広さ七反余、数尺の石垣これを繞る)・山内 山内御所(御所の城ともいう、延元元年九月征西将軍懐良親王伊予国浮穴郡の府中に御進発あり)・高浜 長者屋敷(内山長者が太山寺本堂建立のときここに工匠を集めたという、一説に北条大夫氏の長者が諸所に屋形を建てたその長者屋敷の一という)。(伊予市)上吾川 五河館(高市秀儀三谷の館にあったが河野通信に攻められ讃州に赴き平氏の陣に馳せ加わる)。(大洲市)野佐来 奥方屋敷(黒木亀ヶ森城主の奥方の居所)・東宇山 後藤新兵衛宅(祖母井氏家老、隠岩がある)・宇津 王屋敷(武州熊谷より伊予に入り宇津に住み給うた宮の住所という。大野屋敷と称したのが王屋敷と縮まったともいう)。(広見町)中野川 坪ノ内館跡(「清良記」に奈良坪内摂津守清俊その子権之進清近があるが、奈良の内に坪の内はないので、二郎丸の中の川坪内であるうとされる)
 那須与市館跡(野村町阿下)熊野神社 本願主下野の人、那須与市宗高、所願のため紀州熊野神社御分霊を勧請し、正応元年社殿を建てたという。『宇和旧記』に「此三所権現は源平両家の戦の時、讃岐矢島の沖にて、下野国那須与市扇の的を射らるゝの時、心願に此扇の的を射落しなば、四国の地に守りくだし崇敬可致旨ふかき心願の処に、心の侭に射落し給ふ、依之熊野より御守くだし給う、権現のよし」とある。

阿下村の内字下野にあり。今に与市屋敷、又御刀かつぎ小姓の屋敷・御笠指掛の者の屋とて三ヶ所あり。小名を下野村といふは下野国をかたどり付けたるなりと云ふ。又此所に音無権現とて熊野権現の一社あり。是れも正応元年熊野より勧請すと云ふ。しかれば難病といふは虚説にて心願ありたる為に此所へ下られしものなるべし。神主の家に巻物ありしが紛失したりと云ふ。此神主は那須氏なり。定めて与市の後胤なるべしと云ふ。或人の云ふ、那須与市の落胤熊野にあり、此子別当として権現勧請の時阿下村へ下られたるよし。依て那須与市殿建立のよし申し伝ふることなんさも有べしと云々と大洲旧記に見ゆ。又同書に云ふ、爰に野村の老父予に古き書物を見せしに、那須与市宇和郡へ来られしいはれ筆記に、抑、源平大乱平氏西に漂よひ終には八島へ追下し、平家は沖、源氏は陸、互ひにいどみ戦ひてしばしためらい居る処に、遙の沖より飾り立てたる船一艘渚の方に漕ぎ寄て、玉の姿に紅ひの袴着し、女房紅の扇に日出したるを船の舳先に立て、是れを射よと源氏の方を招きける云々。大将仰有けるは、あの扇仕れ晴の所なれば不覚するなと仰せける。与市仰を蒙り子細申さんとする所に、伊勢三郎義盛・後藤兵衛尉実基等与一を御前に引据へ、面々に故障申すに依って日すでに暮れなんとす。兄十郎さし申上は、子細や有べき急ぎ給へ、海上暗く成るは由々敷味方の大事なり早くゝと申にぞ、与市仰を領掌し甲をば童に持たせ操烏帽子に引立、薄紅梅の鉢巻し、手綱かひくり扇の方へぞ向ひける。生年十七歳、小髭生色白く、馬の乗ぶり弓の持やふ天晴無双の若武者なり。打浪きはに打寄て云々。弓箭の冥加に叶ひなば扇を席に定め玉へ、殊には熊野権現、本意達成せし其上は四国の地に守り下し新に崇敬奉らん。若しも源家の運尽きなば矢放たぬ先に海底へ沈めたまへと、深く祈念して云々。七段ばかり此方より日の丸は恐ありとて、蚊目際をねらひつゝ切って放せば、あやまたず蚊目は串にのこりて、扇射切れはひらめきながら海に入る。敵も味方も一同に挙る声止まざりける。斯くて与市は後年に至り宇和郡野村に下り、兼て約の如く熊野権現を勧請せられ今に与市屋敷・御小姓・御笠持屋敷とてあり云々。(伊予温故録 )

   (2) 塚・墓

 八塚(松山市恵原)は衛門三郎の愛子八人を葬る墳墓といい田の中に土を封じ石地蔵を安置している。
 和気姫墓(松山市興居島船越)は、『予陽郡郷俚諺集』に「往往昔、沖嶋に五郎太輔と云漁父あり 明暮釣を垂れ世を渡りける、或時海上に浮びたる物有、取上見れば空船也、海辺に上て打砕き見れば、十二三歳の女子也、其故を問ふに、我は唐土の者也、子細有て如此と、名は和介姫とい云り 家につれ帰り養育す、国色なるに依て、伊予王子の妃とすと云云。」『伊予温故録』はつづけて「墓の南一町ばかりに和気比売神社あり和気姫の霊を祀りたるものなり」とある。
    壷から出たお姫さま                  
 昔、興居島に、和気五郎太夫という漁師がおったんよ。
その人はなあ、子どもがおらなんだんで、さびしく暮らしとったんと。ある日のこと、沖に出て魚をつっとったら海に丸いもんか浮いとったんじゃと。丸いもんをように見るとちゅうと、それは大けな壷じゃった。拾いあげて、いその岩にボーンと当ててくだいたんじゃと。そうすると、中から十二、三才ほどの、そりゃべっぴんさんが出てきてなあ、五郎太夫はもうたまげてしもうて、
 「お前さんは、なんで、こんなとこにおるんぞなもし。」
 と、大声をたてた。すると、そのかわいらしい子は
 「わたしは唐の国の者でございますが、わけあって壷の中に入れられて流されたのでございます。私の名は和気と申します。」と言う。
 子どものない五郎太夫は、大喜びで自分の子供として育てたんよ。大事に大事に育てられた和気姫はなあ。おせになってから、伊予の王子の奥方となって、河野家の先祖と言われとる小千御子をお産みたんよ。小千御子のお母さんが住んどったというんで、この島を母子島とよんどったが、いつの間にやら、興居島と呼ばれるようになったんじゃと。(松山市教育委員会)

 曽我首塚(内子町大瀬) 『大洲旧記』…大瀬村 広瀬郷 鳥喰うゐ山と云所に曽我十郎祐成五郎時宗の墓有 頼朝公富士巻狩之節 親の敵工藤左衛門を討 依之富士のすそ野に獄門に懸けられる。祐成の家臣に鬼王と云者有。是宇和郡鬼が城辺より出たるもの也 依之右兄弟の首を盗取 古郷へ帰りたれ共、道筋吟味つよければ、山林づたいに漸爰迄帰りたれ共 日数の労れ甚敷足痛 重き首を持ち 宇和島迄帰り得ず此辺を見合、椎木だばとて大なる森にてたやすく人の行ざる所故 兄弟の首を法埋置 其身は鬼が城へ帰り 鬼王寺と云寺を立 一生弔て暮せし由 京都地利を学する人 当国の牢士に尋問に依て 古跡を改 序に依て猶新也 椎木だばと申は 昔はいらず山にて有し也 大ひなる屋地有 清水寺と云寺にて 切石の檀有て銘は見へず 若し鬼王が居けるにあらずや 言伝もなし 少し手前に山田有て 其隅に三段に祐成の塚有 下に時宗の塚有 五月廿八日には 其塚より霊出て雨ふり出し 此国中雨ふらずと云事なし 当年より十年程は雨降らすことも有。 『宇和旧記』…河原殿之事 芝村(広見町) 奈良山等妙寺 開基は元応二庚申年 開山埋玉和尚は生国淡路之人也 理玉和尚故ありて奈良山に入し時 黒毛の駒を洗居たる弐人のおのこにあへり 其もの所持せしとて 仏舎利二粒和尚へ奉る 是曽我兄弟の亡霊と也夫より目黒山の奥へ入給ふ 老翁二人居住せり 此地に住宅せし事何程ぞと尋給へば 紙袋弐つ出して 我等生涯の内替りたる歯なり 年々入置候 是にて御察候へと申 牛玉鹿玉を和尚へ奉ると云 則鬼王段三郎となり。「予州奈良山等妙寺縁起別紙付録」…奈良山等妙寺曽我兄弟の由跡を伏して惟ん見れば、往昔建久のころ曽我兄弟父の讐を復して宿意を達し、虎口を遁れ薄氷をふむ心地して世を忍び世をはばかる身となり、深山幽谷の中に身をかくさばやと思ひける所に、宇和の荘内に土予の二国に帯たる火山あり。此山中に歳久しく住居する民家に強勇無双の壮士あり。常に士たる道を好み終に鎌倉に身を投じて士冠しけるが、いかなる謂れにや、曽我兄弟の臣下となり、名は鬼王と云いけるが、武道は世に高して忠道怠らず君に仕えけるが、悲しいかな主人祐成時宗の身一つを隠すべき宿り木なきと憂いて、宇和の大山目黒村なるは、我が本の故郷なれば迚遇の通路もいとわず、漸々に我が主人を供奉して、何の界とも知れざる幽山の奥にかくし参らせて、世を忍びおわしける由、鬼王主従こもりたる故にや、今に此の山鬼ヶ城とぞ呼びにける。扨て夫より曽我兄弟鬼王段三郎主従に宿意をとげ、身を深山の中に退けるは天の道なりと思ひ、世に望みもなければとかく後世菩提の為と思ひやりて、主従共に心根を尽し、大山の霊を祈り奉りて一宇を建立し如意顕院と号す。夫より後に旧りにし古跡数多く残りて今古寺山のかたわらに曽我の十郎深き谷数丈の所を名馬にて飛び越したる由、駒とめの岩に馬の蹄の跡今にこれあり。そのあたりに又、蟇の岩とて蟇に似たる由申しけれども必ず是は引きなるべし。鬼王段三郎の両力者大岩を引き寄せ、大岩を引き集め、巌を城郭として主従こもりたる由、旁に鬼ヶ城山なるべし。彼の引き岩には鬼王段三郎手のかたちの跡げんぜんとし今に之あり、其の外岩屋の戸杯とて旧りにし姿名のみ残りてありけるぞかし。其の後またはるかに程へて如意顕院も破れ損じ見る目もあはれ廃転となり浅ましく人の往来もまれにして、只恐ろしくも地獄が谷など呼びあへり。されば、此の時四海は烽乱の世となりぬる故に衆僧は皆にげ散りて如意顕院には戒師もなく、夫故に、曽我兄弟主従共に修羅の巷に迷うて、修羅道の戦いに山鳴動し、をちこちにこだまのひびき太刀音と喧すしく、隠山の鬼は哭し、魂魄むすんで天院々たりと言うもことわりなり。さればこそ元応の頃に至りて理玉和尚開山の祖となり給ひて伽藍を建立し給う。奈良山如意顕院等妙寺是なり。
 七童子塚(伊予三島市長田児塚)…文和の頃ここに妙本坊という寺があって、七人の童子が住持に師事していたが、或日のこと杜鵑花と干柿とを食い合わせて即死した。住持は塚を築き祀って、自分も同じく合食して絶命した。
 大西志磨守墓(伊予三島市中之庄光明)…志磨守が或日のこと親子で外出したのを門人の加藤・秋山・土佐が襲った。子の彦七は加藤に首を切られようとしている。志磨守は加藤に切りつけたが勢い余って彦吉とともに両断した。秋山をも打ち殺してその場で自害したのでこの地に葬った。病に霊験ありというので諸人がこれを崇敬する。
 河上但馬守墓(川之江市川之江)…川之江仏殿城主妻鳥釆女正友春が長宗我部元親に通じたので伊予国主河野家は但馬守安勝に命じこれを討たしめた。轟城主大西備中守元武は秋山嘉平に命じ安勝を誘殺せした。吃り神として祀られる。
 河上但馬守安勝墓 三島村の東北字沖田井之江道の東側に在り。安勝は川之江仏殿城主なりしが、天正二年大西備中守元武の家来秋山嘉兵の為めに此所にて欺き殺さる。元武徳明験録に云ふ、腹心の秋山なれば誣謗を誠と思ひ即時に馬引き出せと、秋山も共に轡を並べて浜辺に打出づ。此旨予て馳せしらせ大守に遣し置き、夫れより浜伝ひ歩卒少々召行程一里を経て三島に着にけり。その帰る道悠々と浜辺を過ぎける時黄昏になりけるに小松原の内より呼子笛鳴とひとしく誰とも知らず数十人抜連れて切って掛かゝる。但馬守大音声に、何者なるや斯る振舞卑怯なりとて太刀抜放し防戦す 何とかしけん来りたる馬高く嘶して刎ね上る。流石の河上堪り兼ね逆様に落しかば、秋山得たりと馬より飛下り無手と組む。但州も強勇他に越へたれば互に揉み合けれども運の尽か秋山に組しかれて首掻切て立上り、河上但馬守を秋山嘉兵衛討取たりと高声に呼はりけり。大西備中守は予て秋山が内通にて此企てを委しく知り士卒を引率して黄昏に金川まで来り、相図今やと待折城中より挑灯松明立出で浜手の広野に充満す。時こそ好けれと鋭卒百騎ばかり従がへ川之江城まで馳付け大手の門際にて鬨を揚げ短兵急に攻め入れども誰ありて支ふる者なく忽ち落城に及べり云々。(伊予温故録)
 大西与一墓(川之江市下山赤土山頂)…与一は人々に害する大蛇を射殺し毒気に触れ即死。病を祈るに霊験あり。
 後藤玄哲墓(川之江市仏殿城)…又兵衛基次の長男玄哲は松山城主加藤嘉明会津移封に際し川之江に移住、のち京師に遊び医を学んで近衛家に奉仕するもその子玄篤に譲り、再び川之江に帰住、寛文元戊巳年一二月廿八日卒。
 大西備中守元武墓(川之江市金川神の内)…碑石なく石を積んで墓標とする。天正二年河上但馬を攻め其の所領を得て轟城主たり。長宗我部に攻めらるるもよく耐えたが、五年但馬守の遺臣、二宮官平・内田左馬丞・和田新九郎・太田権六など三百余人に攻められ、七月一〇日山川国秀宅にて自殺した。その後、内田は狩に行き日暮に及んでの帰途、備中守父子とその家来が馬に乗ってくるのに逢い絶倒し、ようやく家に帰ったが大熱を発し生気を失い、合戦のときの声をなして起き上り狂死した。二宮・和田・太田も追って同じく狂死。その後も大西父子の妖怪常にありて里俗恐怖したので、元禄年中金川の住人南三郎右衛門義久は金川大津山に大西神社を建立して慰霊した。
 木梨軽太子墓(川之江市妻鳥春宮山上)…封土高さ一間、その上に松樹がある。妻鳥海岸に御船繋ぎの春宮石がある。
 桂尾古墓(伊予三島市上柏桂尾)…桂王の墓といわれるが詳細不明、四方に小墓があるのは殉死者を葬るという。
 常真塚(西条市大町)…光明寺開基の僧常信は加茂川の流れを今の如くに付け変え石垣を積み樋を通した。
 鎌倉塚(西条市中西鍋倉)…石塚一四あり。大は三間、小は方二尺ばかり。里人恐れて敢て近づくものなしという。
 唐津塚(新居浜市中村上原)…皿・碗・盃など陶器出土したので名付けられた。文化年中発掘者の助右衛門は発狂した。
 越智信濃守墓(西条市西泉東谷)…竹林の中にある。越智信濃守の名は「河野軍記」に見える。天正の戦に討死したか。
 千人塚(野々市原古戦場)(西条市西泉野々市上組)…天正一三年七月、小早川隆景侵攻により討死した新居・宇摩の武将 の首塚、金子備後守・石川織部の墓も近くにある。むかし歳末にこの野原で歳暮市が立ったので野々市という。
 丹民部墓(西条市西泉本郷東組)…天正一三年、丹民部、毛利の家臣吹上六郎と戦い刺違えて死す。里人常に香花を供す。
 経塚(西条市氷見)小松との界にあって京塚ともいう。某天皇ここに崩御ありしを葬め奉りしと言い伝えるが詳細不明。
 高橋政輝墓(西条市氷見里城)…碑石あり、慈光院大居士 天正十二乙酉七月十七日 高橋美濃守政輝の二七字を勒す。
 金子備後守墓(西条市荒川山)…ここに討死すとも切腹せりともいう、従臣三四人の屍をも同穴に埋めたりとも伝える。
 壬生川摂津守墓(東予市円海寺築山)…天正のはじめ、摂津守通国は城を出て大曲に陣し、剣山城主黒川美濃守の周布村に陣すると合戦するも、黒川の兵強く戦うごとに敗れる。黒川の臣、久米通清・首藤金世が通国に迫り、首藤が通国の馬の首を斬り久米が組む。首藤が追い来って通国の草摺を上げて刺して首級をあげる。久米・首藤は戦功を争い隙を生ずる。美濃守は安藤某をもって和解せしめて両士を賞し弓を与えたという。なお、首藤の弟新内蔵亟金長は一八歳にして勇戦し、摂津守の老臣鵜木新左衛門を討ち取ったので、通国の屍をここに葬ったと伝えられる。
 西園寺公俊墓(東予市安用佐々久山)…天授五年、河野通直を援けて細川頼之とこの地に戦い討死した公俊を葬るという。
 四方塚(東予市新市)…細川頼之の侵攻による戦死者の塚、頼之の「今よりのち四方太平」というにちなむ。太平塚ともいう。
 櫛部氏墓(東予市上市片山)…象ヶ森城主櫛部伊賀入道兼氏、その子肥後守兼久の金田ヶ原に討死せるを此の地に帰葬。
 芥川新左衛門尉将吉墓(東予市福成寺横道)…天正七年、金子備後守に襲攻され、防戦するも終に討死す。櫛部氏旗下。
 古塚(東予市福成寺炭谷)…古塚数十個谷間平術の地に散在す。古人穴居の跡といい、或は天より火降りたる時造った土室なりというが妥当ではない。これらは皆、地方君長等を葬りたる墓なりーと古書は伝えている。
 天皇塚(東予市北条鳥繩)…封土堆積して数株の古木がある。天皇の塚といい伝えるのみでその何者たるかはわからない。
 能勢越前守墓(東予市北条山王)…享禄年中、周布郡千足山中森城主が黒川元春に攻められ此の地に逃げ来て死すという。
 安藤美濃守墓(東予市玉ノ江由ケ内)…安藤次郎右衛門は黒川氏の執事、元亨三癸亥年四月一七日歿。その館跡と伝える。
 日野中務墓(東予市玉ノ江細田)…天正一〇壬午年八月八日歿、館跡があり、後世の建碑がある。日野中将墓と誤まられる。
 首藤金世墓(東予市玉ノ江土田ノ木)…金世は通称大内蔵進、黒川氏の臣。天正年中(川内町)則之内村で討死と伝えられる。
 河野式部少輔通生墓(丹原町高知西千檀木)…報恩寺境内にある五輪塔、通生は河野刑部太輔通直の五男、文明十一年歿。
 近藤長門守重久墓(丹原町高知大平)…新居郡中野村船形城主、天正一三年小早川隆景と戦い七月二八日討死。子孫この地に葬る。
 千人塚(丹原町田野上方古馬久)…元和のころの洪水で流没した道満寺の墳墓と死人を祀る塚で、浄明寺にある。
 松本豊後守墓(丹原町来見中の町)…碑石を瓦屋で覆っている。村民の崇敬するところとなる。
 三十三墓(北条市中村寺ノ内)…大小の五輪塔四五基がある。大は四尺七寸、小は一尺の高さ。重見氏の墳墓といわれる。
 甲盛塚(北条市閏谷敷地)…備後国西寂は高繩城を攻め城主河野通清討死。通清の子通信、西寂を欺き捕え誅殺しこの地に葬る。
 奥濃城七人墓(松山市湯山宿野々)…奥濃城主は河野六郎通存、一説に小千玉興一三代温泉郡司元興ともいう。甲岩という石と梅の古本があったと伝えられる。河野の一族七騎がここで討死し、村人に崇ることがあったので墓碑を建て七月二四日これを祭る。
 二つ塚(松山市北久米)…高さ三間、周三三間。二塚相対するので里人これを二つ塚というも何人の墓たるか不詳。
 千人塚(松山市来住)…軍ケ森神社にある。正平二三年戊中年九月、足利の将仁木兵部大輔義尹の兵一千余騎伊予郡八倉に布陣し、

河野通直の兵は久米浄土寺より進撃し久米原で合戦する。義尹の兵敗走し死傷多く、以後軍ケ森という。義尹の兵を葬る。

耳塚(松山市高浜新浜飛地北山)…越智益躬が播磨国蟹坂で外寇の賊を誘殺したとき耳を切り埋めたというが所在不明。
和田塚(重信町田窪海稲)…香積寺の傍にあって、樋ノロの岩伽羅山城主和田通勝の墓。碑面に斎藤別当と刻んであるが由據不詳。
高塔婆(重信町下林)…河野通直が仁木義尹とこの地に戦う。仁木勢の討死者を埋葬しその霊を弔うと伝えられる。
黒川通俊墓(川内町則之内斉院瀬)…松を植えて墓標とした。里人これを黒川松と呼びならわしていた。
土壇(砥部町麻生)…松前城の刑罪地という。五輪塔ありて梅応義紅居とある。河野七郎天文元年討死の墓といわれる。
衣更着神社(砥部町赤禿)…窪田兵右衛門正明の霊を祭る。明和八年の大旱魃のとき、麻生市の井手水論により即死者あって、備中倉敷代官所に村民ことごとく呼び出され、幕府老中松平左近将監・松平播磨守の公裁をうけた。村民付添として正明は村民が水火の拷問を受けるを慨然として、死を決し魁首と申し出、衆人の罪を負い安永三年二月二三日、行年三四歳にして死刑を受け、村民のすべては赦免され帰郷するを得た。その恩恵に感じた村民たちは寛政三年二月二三日、この社を創建し歳時これを祭祀しその徳に謝してきた。社号は正明の辞世句「衣更着のあわれ尋ねよ法の道」によるとされる。

芳我神社(広田村猿谷西屋敷)…はがんたい塚 「大洲旧記」第八 浮穴郡広ぬ田郷 猿谷村の記事に次の記述がある。

其昔、平家の御代に京より懸人有。兄弟大勢有共、何れも是忌て我行んと云者なし。其内女子有て、はんがたいと号す。甚だ剛強にして男子の及所にあらず。我男子の形として行ん、左なくては家の起居は格別、一門の命あるまじ、若女体あらはるる時は、不及㆓是非㆒夫を家門の運と決し給ふべしと、出て仕ゆる事年久し。其内粗人知り、あわれみて執成暇給はり無難に帰りたり。最早年もたけ聞も憚、其家の役介として暮けるが、老て奥深く住、心は猛くこそ有つらん、家内厭果、灰火を起したる序に投入、押へて焼殺ける。而天の怒速にして、家に凶事のみ有て、明神として祭今有所也。然共折々たたりて怪異有と、南洞和尚に語る。神としては直道の気有、仏法にて祭らんと、則彼僧に頼、塚を営み微笑院宝顔了知大姉と号、其後鎮るといふ。一説に大坂軍の出陣と云ふ。
 七ッ墓(広田村猿谷)…庄屋の前にあって、総津橘城合戦のときの討死者を葬ったものと言い伝えている。
 平若左近墓(松前町出作)…五輪塔ありて我見燈明神の刻字、小早川侵攻のとき上三谷に討死。七人の家来ここに葬りしのち自害した。
 九門修理墓(伊予市大平)…修理は源範頼の臣で名馬虎月毛の飼育者といい、暇治畑に屋敷があったという。
 多喜寺跡(伊予市上三谷)…元暦の頃、平家に従い射術の名を得た高市武者所清義の遺骨彫籠仏像あり。
 一木太郎直盛墓(伊予市上吾川布部)…大洲蜂ノ森城主一木左馬助直則の子、太郎直盛が河野へ出仕の途中、この地で平岡弥十郎
と口論となり決闘に及び打ち負けて死亡した。太郎墓は直盛を葬ったとされる。霊験あって里人の尊崇をうける。
 首塚(中山町佐礼谷陰浦組)…階上城主佐川喜三兵衛、長曽我部に侵攻されたときの討死者の首塚。居館は城の麓にある。
 篠崎右馬之丞対馬墓(内子町論田)…井上城主は曽根の一族井上勘解由左衛門正継、子孫は論田庄屋、村に対馬の墓がある。
 藤三郎塚(内子町川中)…曽根方の藤三郎という者三谷への使者として福島修理の森山城を通るとき乗り打ちを咎められて、帰途勝負すると言い捨てて通過した。修理の勢が待ち受け打ち留めた。塚は三島神社の鳥居の傍にある。
 四ツ墓(大洲市喜多山)…喜多山の郷士森六右衛門は、藤繩郷士大西山城が北山川で禁を犯して鮎を獲るのを咎めその兄を鉄砲で射殺した。山城は兄の屍を肩にして引き取るを、六右衛門が追いかけて二人を重ね切りにした。これを収め葬り四ッ墓という。
 塚の伝説に金鶏伝説がある。大晦日の夜(今治市新谷松浦の夫婦塚・松山市石井星ノ岡左五衛門藪・宇和町石城東山田大林の五色笹藪)、節分の夜(今治市上徳鴻の森三島神社神石)、元日の朝(川之江市川滝徳丸の徳石)金の鶏が鳴くという。金鶏を得て長者になったとするのは徳石だけではなく、鶏石(松山市東野御茶屋跡観音堂)、一夜城の柿の木の下の金の茶釜(肱川町名荷谷)、鶏島(大三島町福島・伯方町鶏小島)などがある。しかし、金鶏の鳴声を聞くは凶なりとする(宇和島市祝森薬師谷権現山その他南予地域)異例もある。鶏鳴伝説(伯方町有津鶏小島=船折瀬戸・吉田町喜佐方・広見町牛ノ川・松山市生石八幡神社の堂の口明け神事・小松藩小団平譚)などには九十九伝説を伴うものもある(新居浜市船木の大池の九十九谷伝承・丹原町今井福岡八幡神社の生木地蔵・宇和島市九島の九十九谷伝承・広田村玉谷の九十九王・美川村岩屋寺など)。

   黄金づくりのニワトリと小判(川之江市)(図表「黄金づくりのニワトリと小判(川之江市)」参照)
 川之江市川滝町には、古くから「朝日かがやく、夕日受け、白つばきのもと、うるし百貫、朱百貫、黄金千両がうまっている。」という言い伝えがある。今から六百年ほど前、南朝方と北朝方とが戦って、南朝方が敗れた。南朝方の新田一族は、いつかの用意にと黄金づくりのニワトリとたくさんの小判を持って、阿波の国から西へ西へと落ちのびていった。一族のうち五人は、とちゅうでみんなと別れて伊予の国へ入った。そして銅山川を上流に向かって、どこかよいかくれ場所はないものかと、西へ西へと人目をさけながら上りはじめた。惣兵衛谷の川のほとりまでやってきたころには、みんなは綿のようにつかれはてていた。五人のうちの二人は、歩くことになれていないおひめ様だったので、もう、一歩も前へ進むことができなかった。みんなは、川原の岩に体をぐったりともたせかけて、ぼんやりとあたりをながめていた。ふと、みんなの目に赤松峠が目にとまった。そこには、赤・白・黄などの花が明るい日をあびて、美しくさきみだれていた。みんなは、あまりの美しいながめにつかれも忘れ、心をうばわれて見入った。そしてみんなは、これは何かよいことが峠の向こうにあるにちがいないと思って、つかれ切っているのも忘れて、赤松峠に向ってむちゅうで歩きはじめた。けわしい坂道を半ときもかかって、やっと峠に出てみると、そこには田尾のうねとよばれている、思いもかけない広い平地があった。五人はここを開たくして住みつくことにした。小さな家も建て、畑もしだいに広くなっていった。けれども、心配なのは、都から持ってきた黄金づくりのニワトリと小判のことである。五人は、ぬすまれないように、小判を田尾のうねのエノキの木の下に、黄金づくりのニワトリを徳丸(川之江市)の大きい石トリを徳丸(川之江市)の大きい石の下にうずめた。五人は都のようすが気にかかりながらも、だんだんと年をとっていき、やがて次々と死んでいった。それから何十年かが過ぎた。残された黄金づくりのニワトリと小判たちは、さびしくてさびしくてしかたがなかった。「いったい、いつになったら外に出られるのだろう。早く外に出たいなあ。」「そうだ、そうだ。早く明るい黄金づくりのニワトリはとうとうたまりかねて、徳丸の石の下から何か月もかかってはい出してしまった。そしてエノ木のところまで歩いていって田尾のうねの小判に、「おうい、小判たち、さびしいじやないか。都を出てからというもの、何十年たっても土の中だけで、まったくいやになるなあ。どうじゃ、お正月も近づいたし、これからは毎年、元旦の朝早く起きて、みんなで行列でもしようじゃないか。そしてせめて、都のゆめでもみようじゃないか。」と大声で言った。小判たちも、黄金づくりのニワトリと同じことを考えていたので、「黄金づくりのニワトリさん、それはいい考えだ。すぐにここをほって、わたしたちを外に出られるようにしてくれないか。」とこたえた。いよいよ元旦がやってきた。黄金づくりのニワトリは、東の空が明るくなるころ、大きなはばたき一つして、新しい年の歌を力いっぱい歌った。小判たちもその歌を聞きつけて、あわてて土の中からとび出し、田尾のうねに集まった。みんな、もうむちゅうになって、都にいたころおぼえた歌を歌ったり、ふえをふいたり、たいこをたたいたりした。そして、みんなで行列をつくってぞろぞろと歩きはじめた。その行列は、長く長く続いて、東の空も西の空も明るくなるまで、豊受山のいただきのほうに向って、きらきら光りながら登っていった。それからというもの、毎年元旦の朝になると、黄金づくりのニワトリと小判たちの行列が見られるようになった。村人たちは、黄金づくりのニワトリと小判たちが行列しているとは知らないものだから、豊受山のいただきを光りながら登っていく光の行列を、たいへん不思議に思いながらながめていたということである。それから何百年もたってのことである。徳丸に住んでいたある家の主人が庭をほり起こしていると、徳石の下から黄金づくりのニワトリが出てきた。主人はゆめかとばかりに喜んで、家の宝にしたということである。(再話・佐伯宗一)

 椀貸伝説を伴うのは金鶏伝説の夫婦塚・三島神社神石・左五衛門藪である。塚・池・淵・穴などに頼んで膳椀を貸してもらう伝説で、東・中予に濃く南予では稀である。膳椀を貸りた者が破損して謝らなかったとか、返還に際して数をごまかしたので以後は貸してくれなくなったとかいう結末を持つ伝説として伝えられている。なかには西条の大塚狸譚として伝承されているものもある。鶴椀淵(川之江市川滝)・樽御前淵(面河村笠方)・岩子山麓洞穴(松山市南斎院)にも椀貸伝説がある。
 桝洗い伝説は、長者となった者が再び以前の貧者になりたいと希求し、桝を洗うことによってその願いを達するとする伝承で、松山城の長者が平の長者伝説は九十九伝説をもともなっている。

桝洗池 味酒村妙円寺の西側の小池是なり 大同年中当地富豪の人 或時桝を此池にて洗ひしかば 其の後久からずして其家貧窮となる 因りて後世伝へて桝を洗ふことを嫌ふといふ 松山僅人談に云 昔勝山に住する一人の貧者あり 横谷の毘沙門へ百日丑時詣をなす 夜な夜な其の辺の竹を印にとて取返り九十九夜に毘沙門告て曰く、我舎を荒すことなかれと 依て又百日、竹を運ひ返し祈願成就せり 是より銀米自然と富饒になり幽閑の地に住し安静に暮さんことを欲すれとも財物の多きために心身を苦しむを以て貧ろうの身とならんことを望む 折柄或人いひけるに 池の辺に出て桝を洗ひ底を叩くへしと 其如くしけるに夫より漸々貧になり終に死す 因て勝山を旧は飢山といひしを加藤嘉明築城の時、山の名を問ひしに処の者飢山といふへきを勝山と答へたりと云ふ (伊予温故録)

   (3) 城・寺社・祠堂建立・落城
 一夜にして建立された太山寺、大洲・松山城築城人柱伝承、南北朝・織豊期の攻防に際しての白米落城の伝説が県下各地域にある。

人柱伝説…横田伝松の西園寺富水宛書筒(大正一四年八月六日付)…松山の築城に就て今現に取り残されて居る伝説は尠くも個中(ママ)の消息が如実に窺はれるものがある 松山城は元、南北の二峰を埋めて一峰とし其上に城を築き上げたものであるが、その際地固めと称して、どうしても人柱を立てなくてはもろくも城は壊滅の悲運に逢着するものであると云ふ古来の伝説を継いで頭領(大工頭)は一歩も譲らなかったものである かうした習はしはズット以前から伝へられたもので格別不思議がる者もなかった訳であるが、イザ其人柱となって生き埋めの犠牲に立つかと云ふ事になると誰も立たんとするものが無かった 大洲城の築城の如くオカメと云ふ女が城主たる福良通豊に恩顧があり、殊に一命を救はれた特別の関係があったので主人の命を全ふするは此時であると自ら進み出で大洲城の人柱となりしが、松山築城の際は斯る篤志家がなくて加藤公も弱ったが一策を案出して、もとこの麓にある小谷山雲祥寺の盆踊を勝山の頂上で華々しく行ふとのお令を出した村の若人は集ひ寄って松山地方特有の古典的な踊りを始めた 藩主の御令であるから血にはやる若者等は若娘に添ひ寄って喃々を交しながら我を忘れて破天荒の踊りは夜遅くまで鑿々の響と共に山の頂きから消えなかったと云ふ 此踊子にオサヨと云ふ美しい娘の姿が見えなくなった それを第一に気付いたのは吉松と云ふ彼の恋人である 彼は血眼になってオサヨの姿を捜したが見出す事は出来なかった 彼は胸を裂く程の焦燥に射られて勝山の森を上へ下と探しあぐんだ末、遂に此の城の人柱がない為に彼を浚(ママ)って行ったのでは無いかとハタと思ひ当ったものである その後、踊の晩オサヨは人柱となって其犠牲となったと、それからそれえと伝へられたものだ云々(白泉) 右は逞造説に候乎鳥居龍蔵博士も踊の晩に浚った女を松山城の人柱にしたと大毎に載せ候而別紙の如き読者課題解答を海南紙上に連載中に候 東宇和郡多田村関地ノ池は関所に據る名にあらずしてオセキてふ女を人柱と為せし伝説は御承知の御事と存候」(冨水頭註・松山城ノ人柱…蓋し逞造説カ 大洲城の人柱…余ガ聞ク所トハ違ヘル也)

   大洲城の人柱(大洲市)(図表「大洲城の人柱(大洲市)」参照)
 大洲盆地をゆったりと流れる肱川のそばに、城山がある。城山の大洲城のやぐらや石がきは、今もむかしのままの姿を残している。むかし、宇都宮という殿様が、大洲に城を築いたときのことである。下手の高石がきだけが、なんべん積んでもすぐにくずれた。いろいろ工夫をしてみたが、同じことであった。人々は不思議に思って、「これは神様のたたりにちがいない。」と言いふらすようになった。
 それで、神様のいかりをしづめるために石がきの下に人柱を立てることになった。しかし、いざ人柱を立てるとなると、だれも人柱になるのをおそれて、自分から進んで人柱に立とうと言う人はいなかった。ほかによい方法もないので、くじ引きで人柱になる者を決めることにした。すぐにくじがつくられ、くじ引きが行われた。運悪く、このくじに当たったのは、おひじというむすめだった。家族の悲しみはひとしおりではなかった。人々は気の毒に思ったが、どうすることもできなかった。
 「何か言い残しておきたいことはないか。」と聞いてやるのが、せめてものなぐさめのことばだった。
 「ほかに望みはありませんが、この城下を流れる川に、どうか、わたしの名をつけてください。」
 おひじはそう言い残して人柱になった。間もなくできあがった高石がきは、もう二度とくずれることはなくなり、お城もりっぱに建った。人々はおひじのたのみどおり、城下を流れる川に比地川(今の肱川)という名をつけ、おひじのたましいをなぐさめた。その後、おひじの住んでいた所は比地町、お城は比地城と呼ばれた。(再話・大本 毅)

   (4) 神仏
 地蔵・薬師・観音・不動や、路傍の小祠・石仏などにはそれぞれ固有の名称があってその性格や機能についての伝説がある。地蔵や観音は身代りになって人々の危急を救い、あるいは労働を助ける伝承を帯びる。子持・子育・子安の地蔵は安産を祈り嬰子の霊を慰め、田植・代掻・鼻取・水引の地蔵・観音は農作業を助けてくれる。神社や仏閣の縁起には不思議を物語る伝承がある。

 水引地蔵 (吉田町立間 玉鳳山大乗寺)昔立間郷四五之両月早勉村田渇水、其時云㆓萌玉㆒有ㇾ僧、生平地蔵菩薩、成㆓晨香夕燭之勤、向㆓地蔵㆒曰、菩薩者被ㇾ護㆓五穀㆒、若有㆓ 方便㆒、使㆓村田種苗㆒、不ㇾ然秋不ㇾ得ㇾ納、秋不ㇾ納者、檀越乏、檀越乏、則仏法亦乏、拙僧亦口皮辺乏、若不ㇾ補㆓口皮辺㆒者、朝暮献㆓香花灯燭㆒無ㇾ力、言了、傍退而静坐、其夜天晴無雲、早朝見㆓田面㆒、水溢ㇾ畦、村人成㆓不思議㆒、謂㆓希有㆒、看㆓田中㆒有㆓大足跡㆒、尋㆓其跡㆒者、即入㆓地蔵茅屋之中㆒、看㆓薩・(土へんに垂)像㆒、泥土着ㇾ身全体尽湿、此故村人得ㇾ力種㆓村田㆒、其年之米穀籾生ㇾ籾、寔地蔵方便難ㇾ有、自ㇾ是悉皆同ㇾ心而奉㆓尊信㆒之、干今有焉、以ㇾ是世々号㆓水引地蔵㆒、(吉田古記)
 尼地蔵  (吉田町立間 玉鳳山大乗寺) 古昔有㆓盗兵者㆒、而催㆓徒党㆒、大勢来欲㆔焼ㇾ寺奪㆓法財㆒、干時地蔵菩薩、現㆓老比丘尼㆒、設㆓酒食㆒饗応㆓-之㆒、盗兵者、乱酌ㇾ酒飽成ㇾ食、依㆓老婆尼心切㆒、忘ㇾ焼、尼向㆓盗兵㆒曰、此寺莫㆓焼却㆒、本尊長八尺、忝弘法大師一刀三礼之作也、焼㆓此茅屋㆒者、可ㇾ憐仏体焦土、大師再無ㇾ出㆓-生干世㆒、作仏亦豊有焉、尼老衰、故不ㇾ能ㇾ出㆓本尊憑伏各々、莫ㇾ焼㆓此寺㆒、盗兵者、老尼懃意不ㇾ浅言了、終不ㇾ焼而退ㇾ寺、従ㇾ其以来村里老翁、言伝号㆓尼地蔵㆒云ㇾ爾。(吉田古記)
 俵飛山福見寺 (重信町山之内福見) 山之内村真言宗 本尊観音 法道仙人草創也。古へ開基の地は、今本堂より十八町山上に有、仁王門力士河野某作ㇾ之、元亨釈書に曰、法道仙人は天竺の人也、或夜、紫雲に乗り我朝へ来り、播州法花山に住し、常に法花を読誦し秘法を修す、天竺より持来物には千手の銅像、仏舎利宝鉢也、孝徳天皇の御宇 大化元年八月、藤井と云船頭、大船に官貢を積南海を過ぐ、彼鉢虚空より飛下る、藤井が云是公米也、私に法施する事あたはず、鉢高く飛去ば、数千の米穀鉢を逐て飛行く、藤井驚き科を謝すれば、法道免ㇾ之、則米穀飛帰って本の如し、此故事に因て俵飛山と云、法道開基諸国に多し、蓋し当山も其一也。(予陽郡郷俚諺集)

    俵飛山福見寺の由来(重信町山之内福見)
 むかし、三蔵法師という人が、インドの国から、仏教を広めるためにわが国に来られたときの話じゃ。瀬戸内海を通っていた法師ははるか東の山の上に浮かんだ紫の雲の中に光るものを見付けたそうな。ふしぎに思うた法師は、船を和気の浜へ着けて東の方を向いて、すずをふった。すると法師の体がちゅうに浮いて、山の上をめざして飛びはじめたんと。法師が山に来てみると、何やらよい香りがし、ふしぎな光がさしていて、そこには十一面の観音様が立っておられた。法師は、すぐ仮のお堂を作り観音様をお祭りしたそうな。それから十年ほどたって、この山深い村が大雪におおわれたことがあった。村人は、食べ物がなくなり、十日以上も水だけで、死にそうになっていたんじゃと。そのころ法道仙人というえらいお坊さんがおった。法道仙人は、山へ登って観音様をお祭りしたお堂にこもり、村人のためにおいのりをしたそうな。ある日、瀬戸内海を見ていると、米俵をいっぱい積んだ船が通りよったので、仙人は、村人のために米を分けてもらおうと思うて、空を飛んで船に行き、
 「なにとぞ、大雪で飢えている村人たちにお米をほどこしてやってくれまいか。」
と、船主にたのんだそうな。船主は、がんこもので、
 「これは、年貢米ゆえほどこすわけにはいかん。」
と、なかなか聞き入れてくれなんだ。
 「それでは。」
というて、仙人はそれ以上はたのまず山へ帰りかけたそうな。ところが、おどろいたことに、米俵がどんどん仙人の後を追って飛んでゆくのである。船主は、これには、たまげてしもうて、あわてて、米俵の後をつけ山の中へ行って仙人にあやまったそうな。そうすると仙人はな、
 「これはお前があまりにも欲ばりだからこらしめたまでじゃ。慈悲の心を持って、一俵だけこの飢えに苦しんでいる村人たちに分けてはくれまいかのう。後はすべて船に返すけん。」
というたそうじゃ。船主がしょうちして村人たちに一俵をあたえると、山の中に飛んで来た米俵は、ふたたび、ちゅうにまい上り、もとの船に返っていったんと。このことがあってから、この寺のことを「福見寺」、この山を「俵飛山」と呼ぶようになったそうな。(重信町教育委員会)

 金山出石寺 (長浜町豊茂)此寺高山にて雲にそびへ、遠海目前に迫り、肩を並山なし。養老年中、宇和郡の猟師猪を追て来、地劈巌開て千手観音・地蔵尊の石像湧出す。其威容凡様にあらず、則奇怪の思をなし忽発心して剃髪し、道教と号して草庵を此山に結び、二仏を供養す。其後弘法大師、此山に入り久しく行有。其節の法具、其後色々の宝物有。中にも龍の爪冷し、奉納の文有。(大洲旧記)
 金山出石寺は、日土・土谷・上須戒、此三か村の境より湧出し給ふ千手観音なり、秘仏なり、開帳本尊弘法の御作なり。此寺の本尊は、元正天皇養老二年に、猟師見付奉り、仮に堂建立の時、石仏湧出し給ふ故、次第に御長高くならせ給ふ故、棟の槌うち申時、大工そと御ぐしを打候へば、槌二つに割れ飛来り申所を日土土屋と申のよし。日土の内、中峠村につち田と申所あり、此田へ槌落申よし、然ば日づちのつちの字は、槌の字たるべし。彼本尊見付申人、相果たる所、日づち之内、出石寺道にあり、黒ぬたの神と祝ひ宮有、日上の森山村祭仕のよし、出石寺道に、猟師が岩とて、諸鳥獣の踏跡有る岩あり。同道にくぐ石とて、人形なりたる石神あり、出石寺へ参詣の人は、礼をなし花を捧る由。同道小坂村の内に、穴の御堂とて岩谷弐つ有、湧出の石仏有ㇾ之由、岩より壱尺弐三寸も高くはへあからせ給ふよし、是も観音のよし。日土村の内、杭野にて、畑壱町六反八畝廿四歩出石寺へ被㆓付置㆒也。大同二年夏の比、弘法大師本堂一夜建立にし給ひ、護摩を被ㇾ修之時、天狗魔をなせしにより、独杵にて片足を打折られ給ふよし、夫より此山に片足の天狗住給ふよし申伝なり、時に雷雨の時分は、片足の跡有ㇾ之由也。出石寺縁起(※漢文体・省略)。昔の縁起には、観音出現を見初し人は、宇和郡田野人と有し故、此縁起相違と存再三相尋る処、一漁翁とあり、抛㆓釣竿㆒とあり、道教末類とて、正月三日磯崎より三人づつ毎年登山故、右之処を磯崎浦と改直し申由、法印より答書あり。(宇和旧記)

 金山出石寺(八幡浜市)(図表「金山出石寺(八幡浜市)」参照)
むかし、磯崎に、作右衛門という猟師がいた。ある日、作右衛門はいつものように山へ狩りに出かけた。ところが、一日じゅうえものをさがし求めて山の中を歩き回っても、その日に限っていっこうにえものが見つからなかった。日はもう西の山にしずもうとしていた。作右衛門がなかばあきらめて家に帰りかけると、不意に目の前を横切るものがあった。すばやく目で追ってみると、はねるようにして山のおくへかけていくシカの後ろ姿が見えた。作右衛門は、「しめた。」と思って、どんどんその後をつけていった。しばらく追っているうちに、シカがふっと見えなくなった。不思議に思いながらも、あちこちさがし回っていると、大きな岩のあるところに出た。見上げると、シカが作右衛門を見下すようにして岩の上に立っていた。「よし、どうしてもうち取ってやるぞ。」作右衛門は、足場をかまえ、今にも鉄ぽうをうとうとした。そのとき、急にあたりが暗くなったかと思うと、ゴーゴーと大きな山鳴りがしはじめ、空の中ほどが金色にかがやいた。シカは、もうどこかに消えていた。作右衛門は、かみなりにうたれたようにその場に立ちすくんでいた。すると、目の前の岩がゆっくりと二つに割れはじめ、中から後光がさしてきた。作右衛門はこしをぬかさんばかりにおどろいたが、それでも、おそるおそる岩に近づいていって中をのぞいてみると、おどろいたことに、観音様が、金色に光りかがやいて、まわりを照らしているのだった。「なんと不思議なことだ。もったいなやありがたや。」作右衛門は何度もふし拝んで、カヤとハギとで観音様を包み、さらにカズラでしばった。そして、観音様のいる岩に目印をつけて、その日は山を下りた。次の日、さっそく作右衛門は、観音様に入ってもらうお堂を建てるために、大工たちと山に登った。お堂を建てているさいちゅうのある日のことである。観音様がだんだん大きくなりはじめ、お堂の屋根からちょっぴり頭をお出しになった。大工は、このままではお堂がこわされると思って、その頭をつちでコンとたたいた。そのとたん、つちが二つに割れ、柄といっしょに飛び散った。作右衛門はおどろいて、「観音様、こんなせまいところにお入れしたことをお許しください。もう少しのしんぼうですから、どうかそれまでがまんしていてください。」と言うと、それからは、観音様は頭を出されなかった。けれども、やっぱりきゅうくつだったのか、今度は足をぐっとのばされた。そのとき、土がいっしょにぐぐっと海の方におし出された。そしてできたのが、佐田岬半島だと言われている。作右衛門は、その後、深く心に感じるところがあって、名を道教と改め、仏につかえる身となった。道教は、観音様を安置した山の上に小屋を作り、そこを霊峰山出石寺と名づけた。弘法大師が伊予の国をおまわりになったとき、出石寺にお登りになって「護摩が石」の上で修行された。修行が終わると一晩で本堂をお建てになり、金山出石寺と名を改められたと言われている。ところで、その後、割れて飛び散ったつちのかけらの一つが落ちたところは槌谷(長浜町豊茂・積積)、もう一つ落ちたところを飛槌(八幡浜市日土町)、柄の落ちたところを柄の木(日土町榎野)と呼ばれるようになったということである。(再話・清水昭伸)

 湯神社(松山市道後湯之町)  道後温泉の玉の石
 大昔のことよ。大国主命という神様と親指くらいの大きさの少彦名命という二人の神さまが、道後においでたんよ。ところが、ある時、少彦名命が急に重い病気になられ、今にも息をひきとりそうにおなりたんよ。びっくりされた大国主命は、少彦名命を手のひらにのせ、道後温泉においれしたんじゃそうな。ほしたら、少彦名命は、すぐ、すっと元気になられ、立ちあがって、「真暫寝哉」とおっしゃって、湯の中にある石を踏んでお立ちになった。その足あとが、石に残ったけん、その石を道後温泉の玉の石と呼んで、後の世に伝えたんじやそうな。「真暫寝哉」の語は、道後温泉本館の神の湯の浴槽に刻んであって、玉の石は本館北側に今も置かれとるんよ。ほして、そのそばのまるい筒型の碑には「伊予の湯の汀に立てる玉の石これぞ神代のしるしなりける」の歌が刻まれとるんよ。この少彦名命と大国主命の二柱の神様は、湯神社に今もお祭りしてあるんよ。 (松山市教育委員会)

  伊予国の風土記にいはく、湯の郡、大穴持の命、見て悔い恥ぢて、宿奈・(田へんに比)古那の命を活かさまく欲して、大分の速見の湯を下樋より持ち度り来て、宿奈・(田へんに比)古那の命を漬し浴ししかば、暫しか間に活起りまして、居然しく詠して「真・(斬に定)、寝ねつるかも」とのりたまひて、践み健びましし跡処、今も湯の中の石の上にあり。凡て、湯の貴く奇しきことは、神世の時のみにはあらず、今の世にも疹痾に染める万生、病を除やし、身を存つ要薬となせり。(伊予国風土記)
 此温泉入浴の濫觴より世々の天皇行幸の概略を述れば、上代において高皇産霊命の子少彦名命は二名洲の国造となりて此地に住み、医薬禁厭の法を始め、民の病苦を救ひ給ひしかば其名遠く聞へて治療を乞ふもの多し。或る時、足に傷けたる鷺あり。来て湯泉に彳み居たりしが、日を経るに従ひ足の痛み全く療へ、飛び去るを見て温泉の疾病に効能あることを知り、少彦名命自ら湯壷を掘りて疾あるものに入浴を教へ給ふ。因て此温泉を鷺の湯と呼び、温泉のある辺の地名を鷺谷と名づく。此時代に当り、素戔嗚尊七世の孫大己費は出雲国の国造たり。遙かに此温泉の霊験あることを伝へ聞き入浴せんとて此地に来り、少彦名命に面会の折節忽ち気塞ぎ絶へ入給ひければ、少彦名命大に驚き、湯壷に入れ漬したり。果して大己貴頓て起上り、其れ暫し寝たるかなと口吟みながら湯の中にある大石を踏み立出給ひたりと釈日本紀に引ける。伊予風土記に見へたり。されば此事に因て舒明天皇行幸の時詔して湯の側に一社を御造営あり。大己貴・少彦名二神を祝ひ祭り給ひたり。延喜式神名帳に載する温泉郡四社の内の湯神社なるものは是なり。故に上代の湯壷は今の温泉より二町余東北の谷合に在りて、其地今は和気郡祝谷村の地内に属せり。古へ湯神社ありたるに因て土地の字を二神といふて今猶一の小祠あり。今の湯神社の地は延喜式神名帳に載する温泉郡四社の一、出雲神社なり。然れども後代温泉場今の地に転じたるより湯神社たる出雲岡の神を宮外へ出たし末社のごとくす。是湯月町数百戸の人民繁営富饒にして世を渡るは全く温泉の徳に因るものなれば、人の信仰崇敬も亦自ら湯神社に帰する故なるべし。(伊予温故録)

  (5)人物
歴史上著名な人物・英雄・才女美女・宗教人などの伝説はその由縁の地域において、地形・地名や木・石などの自然物とむすびついて伝承される。貴種流離譚としての軽太子と太郎女、地名にまつわる平家落人、武人としては鵺退治の頼政・藤原純友・範頼や時頼・大森彦七などの伝説があり、脇屋義助と新田一族が追悼され、宗教人としては一遍上人・弘法大師が語られ、文人としての紀貫之・小野小町などについてもいい伝えられる。
 軽太子と大郎女(松山市姫原)…軽之神社 姫原村に在り。軽太子・軽皇女を祭る。允恭天皇第五子軽大娘皇女、伊予に流され此地に住み玉ふ。此地を昔より姫原郷と称せしは、皇女の住み玉ふ所なるに因て郷名とはなりたりと云ひ、又此社の東北の山を軽の御山といひしを今は略して軽山と呼べり。軽大娘皇女墓 姫原村軽山麓に在り…(伊予温故録)姫塚 姫原村奥谷池の南脇にあり、小塔あり姫墓所と刻す。此墓に小き白蜷生ずと云。(予陽郡郷俚諺集)
 神功皇后(松山市高岡)…神功皇后征韓の時、帰国の後産すべしとて産霊神に祈って石を拾って箱入して産戸を塞ぐ。帰京の時、箝入の石の産戸をまず出たので里人はこの石を祭り生石八幡神社を創営した。(西条市船屋)…船屋は神功皇后の命により軍船を建造した地という。また、同市玉津帝は仲哀天皇御巡幸のとき行宮をつくり駐輦ありし地といい、櫟津岡ともいう。「拾えとて櫟つきせぬ岡の辺に秋の夕日はしぐれてぞ来る」にもとづくという櫟津は飯積岡の転化したものであるとする。
 天智天皇(西条市大生院早川)…天智天皇、京を立ち出で給ふも行方を知らず。斉明天皇駐輦の地を慕い崩ずとす。
 斉明天皇(西条市古川御所殿)…熟田津西条説によればその津を西田とする。御所殿は熟田津石湯行宮跡という。また、日本書紀にいう「干那大津」は土居町津根の水屋がその入口であり、「磐瀬行宮」跡は土居町津根の村山神社の地という。
 来目部小楯(松山市南梅本)…播磨塚、昔より石室数多くあり、何故に播磨塚と云事を知らず、今は石室の残り少に成て、彼処や此処の広野平原に見ゆ、神武天皇御即位前後に恙と云虫出て人を剌殺す、さるに依て、土を掘て穴を拵へ其中に入り災を逃る、穴賢恙なしと云事此時より始ると云、一説に武烈天皇二年庚辰帝孕婦の腹を割る、皆日天より火雨故に石室を築くと云々、按に上古室屋なし、故に穴を掘て石を畳み居家とす、俗是を塚穴と云ふ。伝曰、人王廿三代清寧天皇御宇、予州の住人来目部小楯と云者、播磨守に任じ彼国に至る、顕宗・仁賢の二帝を供奉し上京す。後、任罷て皈国し此所に館を造て居し之、其居所を播磨塚と称すと云へり。(予陽郡郷俚諺集)
 菅原道真  一夜天神(吉海町)
 吉海町名の田居という集落に、天満宮という菅原道真をお祭りした神社があります。ここは、延喜元年に道真が九州に流されていく途中、ぼう風におそわれ、風をさけて上陸したところといわれています。今では吉海町の幸の海岸から遠く、むしろ山手となっていますが、以前には、この近くまで海であり、千石港だったといわれています。ここに道真が上陸されたとき、土地の人々はさっそく仮御殿をつくって、丁重にお迎えしました。近くに小室という地名もありますが、そこは従者が泊った所だといわれています。道真の一行は、土地の人々の真心のこもった接待に感激して、出発する時にその記念として、金のウグイスを置いて行きました。この土地の人々は、このウグイスを御霊として天満宮をお祭りしたのです。それ以後、毎年大みそかの夜になると、美しい声でウグイスが鳴いたのでいつしかこのお宮をウグイス天神と呼ぶようになったそうです。また、道真は、仮御殿にわずか一夜泊っただけで出発したのでこの天満宮は「一夜天神」とも呼ばれています。(再話 藤本吉一)

菅公古跡 (川之江市大門)…左遷の時、路次この地に上陸し休息ありて自ら松樹を植え給うという。
天満 (土居町天満)…天満神社は橋ノ川にある。此浦に舟を泊し給うた場所とも、菅公木像の漂着し来た場所ともいう。
綱敷天満神社 (今治市桜井志島ヶ原)…延喜元年辛酉年の春、道真太宰府に左遷の時、風波の難に遇ひ、当所の海岸に漂着す。今の神官の先祖時に海浜に在りてその難を見、走り迎えて舟の纜を曲げ座を座け奉事しければ道真終に其家に留宿す、其の間に揖柄を以て神像を作り、これを授く、後、此地に社殿を建るに当り其神像を以て当社の神体となすと。(伊予温故録)
天神の森 (東予市壬生川高橋)…菅公この地に上陸し、のち中山越を経て道後に至ると。
綱敷天神 (東予市壬生川)…古へ菅大臣しらぬ火の筑紫へ貶謫の囚と成、下り給ふ、一葉漂着して逆風浪をいからしぬ、時に神詠「風こそは浪の腹をば立さすれとがなきふねのうたるべきとは」、吟声終らせ給ふと、斉しく本のごとく青山を増、忽ち風浪の難を遁れ給ふ、舶綱艫綱を解き、御船を平沙に寄せ、所の白大夫と云者、綱を曲座させ給ふ、仍て綱敷と称す、則ち御船町と云有、或は風波の難に逢ひ、鯨飲の吹息に舟を入られける時に、神詠を吟ずれば、其愁忽ち休すと云へり。
天神山 (大西町星浦天満)…菅公の御船、安芸国御手洗沖を過ぐる時、風波にわかに起る。よりて碇をこの山の下に降ろす。繁留最日に及んだので山上に板屋を営む。ついにこの地に碇を留めて去る。里人、公を慕いその碇石を敬すること神の如し。
履脱天満宮 (松山市久保田)…菅公、越智郡桜井浜に上陸し、中山を経て此の地に滞留するを、延喜帝が紀久朝をして半途にとどまるを責問せしめられたとき、菅公が左の沓を脱ぎ捨て遂に此地を立退き給うたという。船に乗り漕ぎ出るとき所の人に「今出る」と別れを告げられたのでその浜を「今出」という。久朝が悶絶して落下したという勅使橋は西垣生にある。また飛天神画像を伝えていたという客天神社が松山市祝谷にある。

 藤原純友の駒立岩(松山市古三津)
 古三津の大明神山に藤原純友の館跡があってなあ。今から千年ほども昔の話じゃけど、藤原純友は筑前博多から逃げ帰って、ここにいた本国からの警固使橘遠保に子供の重太丸といっしょにとらえられてしもうたんよ。純友は獄中で死んでしもたけん、その首を打って京都に送っだけど、重太丸は京都まで送られて罰せられたんじゃそうな。遠保は、そのてがらのため宇和郡を賜ったんじゃと。純友の館跡のそばに古い松が一株あってな、その松は、純友の駒繋の松と伝えられとるんじゃけど、百五十年ほど前に枯れてしもたんよ。また、その北の方の田の中に純友の駒立岩というものがあるし、東北の東仙寺山の西麓には鬼塚とよんどるもんがあるんよ。純友の重臣の墓じゃそうな。(松山市教育委員会) (付・古三津の孀塚山にある孀塚は純友の乳母の墓であると伝えられる。

 此日振島(宇和島市)に、天慶の乱、純友千余艘の舟をかけて、海上往来の官物を奪取、西国方を伐取せんとせし事、王代一覧記に有よし、千余艘の舟は、日振島にはかけがたからんといへば、純友其徒党を集、西海をかたぶけんとするからは、日振島計と心得てはあしからん、上は佐田二間津、下は内海外海をかぶり、宇和郡内の浦々にみちみちたるべし、純友日振島に居住するゆへ、只一浦計のやうに聞えたるよしいへり。(「宇和旧記」板島殿之事 日振しま)
 龍王神社(宇和町野田龍王ヶ峯)…純友討伐のとき、官軍この峰に登り日振島を見下し軍議の時忽然と一人の龍女来って軍法を告げて雲中に去る。其の教に随ひ純友を討つに果して大勝を得たり。事定まるの後、橘遠保・島田惟幹両公此峰に祠堂を創営。(伊予温故録)
  ※「大和物語」4段・126段 「大鏡」中、内大臣道隆 「今昔物語集」巻25第2、藤原純友 依海賊被誅語 「純友追討記」抉桑略記所載 群書類従本 「古事談」巻4 勇士 「本朝文粋」巻13 後江相公、朱雀院平ㇾ賊後、被ㇾ修法会㆒願文 「勘申」陸地海路に盗賊旁起ること 「純友勢入船」黄表紙 寛政3刊 「伊予簾垂女純友」合巻 文化14刊 「愛媛の文学散歩」1海と風と虹と(海音寺潮五郎)

 藤原佐理 三島明神額(弓削町)…三島明神が夢に現われ、乞われて佐理が社名額を書く。「大鏡 上・太政大臣実頼」記事。
 紀貫之 (北条市猿川原堂の山)…五輪塔二基。『予陽郡郷俚諺集』風早郡に…「紀貫之墓、猿川村の内、じんどうの原にあり、伝へて曰、又宇和郡土居村甲森城主紀実平都より下向の時、猿川にて病死す、遺骨をば土居村に送り、下谷と云所にて一社に祭けるよし、彼村に申伝へたり、此所にて貫之といへるは、実平の事を聞惑ひて伝へけるにや、一説に貫之は土佐国に配流とも、又土州知行ともいふ、分明ならず、貫之の墓の近所に花垣の里といふあり、貫之の歌に「今日祭る神の心やなびくらん卯月に匂ふ花垣の里」、柿の本といふ所あり、貫之宿をかり給ふに、心よくもあらざりければ「柿本に渋渋宿をかりければ亭主のこころ熟せざりけり」、腰折山、冠山の麓にや、誰かよみけん「伊予の湯の甲斐こそなけれ風早のこしをれ山を見るにつけても」、此歌、小式部の読けるよし俗説にいひ伝ふゆへ書付侍る、慥成来歴なし、腰折山名所にもあらず、いと不審也、又一説に貫之読とも云へり、分明ならず…とある。「伊予二名集」風早郡 にも…神道の原 紀貫之墓 墓側川端に飄箪石あり。貫之の宮あり、四月五日祭日なり。」とある。また「宇和旧記」北之川殿之事 北之川には…「土居村甲之森城主は、紀貫之末裔にて実平と云、嫡子常安、其子勝千代、常安弟通安、其子親安討死の由、尤実平京都より下向之時、伊予之内道前猿藪(ママ)所にて病死、骨をば土居へ取参候て、下谷と云所に納置申を、八幡と祝中之由、猿藪(ママ)村にては貫之の墓と申のよし。」…記事がある。

 小野小町 (中島町粟井歌崎)(図表「小野小町 (中島町粟井歌崎)」参照)
 粟井部落の東北に、出ばったはながあります。ここは、いろいろな伝説のあるみさきです。むかし、ここをいききする船が、このみなとで潮待ちをしました。その人たちの中には、身分の高い人もいて、潮待ちをしているあいだに、山に登ったり、歌をつくったりしました。そんなわけで、このみさきを歌崎とよぶようになりました。これらの伝説のなかで、小野の小町のおはなしが、いちばん大ぜいの人につたえられています。小野の小町は、大同四年に生まれました。十三歳の時から皇居につかえました。そのころ小町といえば、大変な美人で、また、歌づくりにもすぐれていました。ある時、深草の少将という人が、小町の美しさにみせられて、恋をうちあけました。小町は「百日のあいた、ひとばんもかかさず私のうちへかよう真心があるなら」、とこたえました。少将はよろこんで、雨の日も風の日も、かよいつづけました。とうとう九十九日が過ぎて、あしたが百日めという夜になりました。ところが、その日は大雪で、少将は小町のうちへいく道がわからなくなってしまいました。うろうろあるいているうちに、からだが凍って死んでしまったのです。小町はこのことをきいて、たいそうかなしみました。そして、少将の霊に、わたしは一生独身でくらしますと、ちかいました。それから後、小町はみやこをたって、旅にでました。旅の末に、忽那島の大泊のみなとに、たどりつきました。その時、山に登って、風早(北条市)にある腰折山をみて、「伊予の湯はあるに甲斐なし風早の腰折山を見るにつけても」とよみ、ここに自分のほねをうめようと、決心しました。そして歌崎のふもとの白崎の丘にいおりをつくりました。この世にかず少い美人とさわがれた小町も、年をとってからは、これといってたずねてくる人もなく、星をながめてはみやこのことを思いだし、さびしい毎日をおくりました。そのうち、なんどめかの秋がきて、「終わるまで身をば身こそとおもひつるみすがらおくる歌崎ののべ」という和歌をのこして、九十二歳でなくなったと、つたえられています。むかしの人の話によると、畑里の旧庵松尾堂に、すすきの中に小町がよこたわっていて、鳥がついばんでいる風葬の絵があったといわれています。この絵は、毎年一回ご開帳があったそうですが、明治の中ごろ、なくなってしまいました。また、江戸時代のおわりごろまで、小町が死ぬ前につくったという句をきざんだ石が、白崎のテラヤシキ丘にたてられていたそうですが、山くずれがあって、うもれてしまいました。今もテラヤシキという地名は、残っています。(中島町教育委員会)

小野神社(新居浜市大生院)…此の神社は小野小町を祭るとあるが、小野神社と称するにより小町を附会したものとされている。
正観寺(松山市北梅本)…寺伝に云、文武帝御宇慶雲三丙午六月十七日、僧行基本村長尾山の麓の霊地たるを以て一宇を創営し薬師を安置す。里人今に至り六月十七日を以て群集礼拝し香花を献ず。其の後、小野小町曽て病あり、住吉神に祈る。仏教に従ひ当国に来り此寺に留り病平癒を祈る。誓ふに一百日の籠居を以てす。満日に至り爰に歌を得る。云、「春雨のふると見へしがはれにけりそのみのかさをそこにぬぎ置く」。病終に癒ゆ。此寺に寓すること三年。薬師の像を刻み短冊に書し、其の像の頭中に蔵めて此寺に安置す。世人呼て小野薬師と云ふ。其の寺を小野山、地名を小野、谷川名を小野川と改称す。後、河野通弘祈願す。効あるを以て庵を営み、其の像を安置し、小野谷梅元寺と改む。河野家累世の祈願所たり。天和元辛酉年、村民の望に依て今の地に移す。寺号を正観寺と改めたり。梅元寺はなほ小野谷に在しが、明治七年これを廃せり。(伊予温故録)。小野谷と云所に、薬師の像あり。仏体の内に美女の容を彫籠たり。俚俗の諺に、昔小野小町此所より出たり。其形相を写し籠たりと言伝ふ。尤、所の名に応じたれども、小町は出羽郡司小野良実が女と云。然れば不審の事也。如何様故有べし、委しく辯じ難し。今は梅の本永尾山正観寺に此本尊を引移し安置也。按ずるに小野某が女と云ふ。(予陽郡郷俚諺集)。

 小野篁 (長浜町加屋)…ここに伽羅陀山宝幢寺という大寺があった。廃絶して小堂となり雨露のために本尊が破損した。修覆のため京都に送った。京の仏師が本尊の頭を割ると「小野篁自作之」とあった。日本七体仏の一つであるという。また小野篁がこの地に居住していたとも伝える。久しく里人は小野地蔵として崇敬し参詣者は後をたたぬという。

 源三位頼政 鵺退治 (美川村二箆)(図表「源三位頼政 鵺退治 (美川村二箆)」参照
 むかし、むかしの話じゃがの。この村の山の上に赤蔵が池ちゅう、自然にでけた、古い大けな池があっての。この池にはの、わが子の出世を願う、母の美しくもあわれな話があるんじゃよ。
 八幡太郎義家の子孫で、源三位頼政ちゅうさむらいの家は、代々、源氏の大将として、京都ではばをきかしとったんじゃがの。それがの、頼政のころになると、平清盛ちゅう、がいな大将がでての、平家の力がつようなり、源氏の力は、だんだんしぼんできたんじゃよ。頼政の母は、それをみるのがつろうて、つろうての。とうとう、都をすてて、この村の二箆山にかくれ住んどったんじゃよ。今でも、そのあとがあるがの。長者屋敷ちゅうんじゃ。かくれ住んだ頼政の母はの、その長者屋敷で、毎日、毎ばん、わが子が出世するように、神様やほとけ様においのりしとったんじゃよ。じゃがのう、いっこうにらちがあかんのじゃ。そこでの、二箆山にある矢竹を、猪野早太ちゅう頼政の家来にたのんで、毎年、京都に送ったんじゃよ。この矢竹での、わが子が、手がらをたて、出世をしてくれるように、いのっての。あれこれしてみてもの、都からは、いっこうに、ええたよりはこんのじゃよ。なんとしても、わが子の、一日も早い出世が見たい、母の心はの、たかぶるいっぽうじゃったんじゃよ。
 とうとう、母は、赤蔵が池に行っての、三十三日の、おこもりにはいったんじゃよ。いっしょうけんめい、水神竜王に、わが子の出世を、おいのりしたんじゃ。いよいよ、三十三日の満願の日、母のすがたはの、世にも不思議な、鵺ちゅうばけ物になったんじゃよ。鵺ちゅうのはの、頭がサルで、どうはトラで、しっぽはヘビで、おまけに、羽がはえとっての、がいな早さで空を飛ぶんじゃよ。「ヒョー、ヒョー」と鳴いての、ひとばんのうちに何百里と飛んでいくんじゃよ。それにの、鵺の鳴き声を聞くと、気分が悪うなり、おそろしゅうなっての、みんな病気になって、ねついてしまうというんじゃけ、まっこと、おそろしいばけ物じゃよ。
 鵺になった母はの、毎ばん、久万山のきりに乗って、都へ飛んでいったんじゃ。そしての、紫宸殿の屋根にとまって、天皇やまわりの人らをなやましての、朝がたには、もう、赤蔵が池に、もんとったちゅうことじゃよ。
 やがて、天皇はの、病気になってしまわれたんじゃよ。まわりの人らは、えらい心配をしての、がいなさむらいをさがしては、鵺たいじをさせたんじゃよ。じゃがの、だれひとりこたえんのじゃ。とうとう、頼政と早太に、鵺たいじの命令が、くだされたのじゃよ。頼政はの、いよいよ、手がらをたてるときがきたと思い、早太をつれての、紫宸殿の庭にかくれ、鵺のくるのを待ったんじゃよ。真夜中ちかく、西の方から飛んできた鵺はの、いつものように、紫宸殿の屋根にとまっての、「ヒョー、ヒョー。」と、鳴きはじめたんじゃ。今ぞとばかり、頼政はの、母がいのりをこめて、送ってくれた、矢竹でこさえた矢をつがえ、きりきりと、ひきしぼったのじゃ。「おのれ、にくき鵺め。」と、ねらいを定めてうったんじゃよ。ねらいはたがわず、みごとに命中しての、鵺は、屋根から、どさりところげ落ちたんじゃよ。そしての、早太に、とどめをさされたのじゃ。こうしての、今まで、だれもたいじでけなんだばけ物は、たいじされたんじゃよ。このときからの、天皇の病気は、うそのようになおったのじゃ。頼政は、この手がらでの、従三位という位をもろて、がいな出世をしたんじゃよ。じゃがの、頼政は、自分がたいじしたばけ物が、わが子の出世を願う、母の化身だったとは、ゆめにも知らなんだんじゃよ。
 わが子の出世をみとどけた母のたましいはの、矢を受けたままの、いたましいすがたで、赤蔵が池に帰ってきたんじゃよ。そして、池の底深くもぐり、二度とすがたを見せることはなかったということじゃ。(再話・森岡春夫)

 源義家 (坪江観音) (五十崎町大久喜)…八幡太郎義家奥州討伐のとき三所観音を祈る。勝利を得て安置せるうちの一つという。
 源頼義 (丹原町高知)…西檀木の高知八幡神社に、伊予守頼義は、この地の形状が河内国誉田八幡の境内に似ているとして神剣を奉納した。またこの地を「河内」と改称したという。社側の泉は頼義が河内国壷井の霊泉を灌いだと伝える。
 鎮西八郎為朝 (川内町滑川)…下中屋の光明寺境内に墓と称せられる苔石がある。
 山吹御前 (中山町佐礼谷)…木曽義仲の夫人山吹御前は、元暦元年義仲が近江国粟津ヶ原討死ののち、従者を伴い伊予に逃れ来るも、河野氏をはじめ伊予の国人ことごとく頼朝がたとなったので身を寄することかなわず、ひそかに灘に上陸したが労に耐えず病み倒れて死去。従者は屍を人知らぬ所に納めようと笹竹に載せ山坂を曳き登る。いまに曳坂の名があ
り、登り切りたる人家ある地を楯築というのは従者が楯を突き立てた故と伝える。
 斎藤実盛 (東予市石延実盛)…実盛の後裔長井氏この地を領し祭るという。県下の虫送りには実盛伝承が顕著である。
 平家落人 …平家は屋島に敗れ、壇ノ浦で滅んだ。屋島に敗れた平家は吉野川上流の銅山川をさかのぼり、いま嶺南地域と呼ばれる金砂・富郷の山地に潜んだとされ、この地域のあちこちには地名にちなんだ平家伝承が伝えられている。さらに宇摩新立から逃れ来た系統があるとされる。三島から翠波の峰を越した流れもあるとされる。七騎・折宇の里がある。金砂湖畔平野小川橋には前田伍健の「金砂湖にきこう寿永と今むかし」、合田一系の「公達の残せし径や山桜」の句碑が建てられている。上長瀬・藤原・中尾・城師・葛川・宮城・中之川など、それぞれに平家落人の話を秘めている。別子山村は除四郎兵衛・豊後兵衛・延仏兵衛の平家落人三兄弟が開いたといい、三森山の「平家平」では旧六月一日に源平の白・赤旗が入り乱れて争うという。新宮村には「鬼の岩屋」や、新瀬川の「血原」に平家落人が語り継がれる。川之江市切山には安徳天皇の伝承があり、「安徳の窪」「上の宮」「下の宮」の地名がある。屋島合戦の前年にあたる元暦元年六月、安徳天皇を奉じて田辺太郎平清国・真鍋次郎平清房・参鍋三郎清行・間辺藤九郎平清重・伊藤清左衛門国久は切山に来たのだという。安徳帝行在すること半歳、屋島合戦が切迫した元暦二年正月、平家一門の知盛・教盛の迎えにより帝はこの地を去り五士はこの地に残ったという。野村町大野ケ原の源氏駄馬のカルストの白さに驚いた平家落人もある。関前村の正月岬は毎年正月に壇ノ浦の平家残党が海上はるかに壇ノ浦を望み一門の冥福を祈ったところと伝えられる。小田町寺村清盛寺の登喜姫が寄進したとされるのは長浜町沖浦瑞龍寺の木像十一面観音立像(国指定重文)である。保内町に平家谷がある。宇和島市堂崎観音平家伝説は昭和のはじめ新聞記者の創作したもので伝説としては若く、史実の誤謬が顕著とされ教育資料から削除されている。堂崎につづく「船隠」「蕨」の地名にも平家落人話を添える。その他の平家伝説地名に覗岩(宇和島市赤松)・油袋(内海村)・武者泊(西海町)・敦盛・槍松・太刀洗水(城辺町)などがある。また平家落人をまつる屋敷神に地頭八幡さま(西海町福浦)・白王様(城辺町垣内・津島町下灘・同町国永)もある。
 平家落人伝説は東予東端と南予に濃い。屋島合戦・壇ノ浦決戦の場所とのかかわりがうかがわれる。また平家落人が源氏の白旗におびえ、平家の赤色によって所在を発見されるという赤と白の禁忌がきわめて強い。

  シラサギと白旗(保内町)(図表「シラサギと白旗(保内町)」参照)
 九州へむかって手をさしだしたようにのびている、佐田岬半島のつけ根のあたりに、平家谷というところがある。もとの名は狭間谷というた。
 およそ八百年まえ。源義経を総大将とする源氏の軍ぜいに、平氏は、一ノ谷、屋島のたたかいでまけて、西へ西へと海をにげのびていった。おいつめられた平氏は、長門の国壇ノ浦で、さいごのいくさをこころみたが、勝ち運にのる源氏に、とうとうとどめをさされてしもうた。おもだった大将たちは、「もはやこれまで。」と、つぎつぎに自害していき、女たちは海に身をおどらせた。生きのこったさむらいたちも、ちりちりばらばらに、おちのびていった。
 つぎのつぎの日の朝はやく、一そうのいくさ船が、いまの長浜町磯津にながれついた。中にのっているのは、平教盛、是盛、有盛ら五人の落武者と、わずかのけらいであった。陸地にあがった一行は、海岸づたいに、山にかくれたり、また海にでたりして、伊方越から山をわけいった。ようやくにして、狭間谷のおくまでたどりついたが、もうつかれきって、これいじょうはあるけない。
 ここまでは源氏もおってこんじゃろう。この谷に、しばらくかくれていようではないか。「そうしよう。それには、とりあえず雨つゆをしのぐ小屋をつくらんならん。」「たべるだけのものもつくらんならん。」こうして十人ばかりの主従は、小屋をつくり、弓矢もつ手にくわをにぎるようになった。さいわいに、山のたかいところに水があって、田もつくることができた。
 かんがえたすえ、谷の西と東にある烏帽子岳と赤銅岳に見はり所をつくって、けらいに見はらせることにした。「敵が見えたら、すぐに知らせよ。」「これで安心して、しごとができるぞ。」けらいは、いわれたとおり、くる日もくる日も、いっしょうけんめい見張っておった。けれども、たべるものといえばアワやヒエばかり、それも、はらいっぱいはたべられない。からだもよわっていたし、目もうすうなっていた。
 ある日の夕がたのこと。ひるまのつかれで、見はりの者は、つい、うとうととしてしもうた。そこへ、ポツリと松のつゆのしずく。はっとおどろいて、われにもどった。うすうに月がでていた。なにげなしに、ふもとのほうに目をやった見はりの者は、目をこすった。なにやら、しろうにゆれてうごいているものがある。はじめは二つ、三つと見えたが、しだいにかずがふえていく。これはとおもうて、とおく海のほうに目をむけると、里のほうにも、白うにおしよせてくるものがある。見はりの男は、もう、のぞけるようにたまげた。
 「白旗じゃ、源氏の白旗じゃ。」
 いそいで見はり所をとびだすと、ちょうどちかくをとおりかかった女衆をよびとめて、狭間谷のさむらいたちへ知らせにはしらせた。知らせをうけた教盛は、「いよいよ、くるときがきたか。」と、かぞえるほどしかいないみかたを見まわした。たのみとする是盛、有盛は、ちょうどそのとき、里のほうにおりていっておらなんだ。ふたりに知らせたいにも、知らせようがない。谷をとりでに源氏とたたかうにもみかたはすくなすぎる。弓矢もない。もともと、源氏の目をかくれてのくらし。たたかう気力も、とうにうしのうておった。「もうこれまでぞ。」「壇ノ浦で死んでいった者のあとをおおう。」「このままでとらえられてころされるよりは、せめて、さむらいらしく自害しよう。」とうとう、村草一本木という荒田の中で、源氏をのろい、白旗をのろいながら、はらをきって死んでいった。
 ところが、山の見はりの者が源氏の白旗と見たのは、じつはシラサギであった。シラサギは夕ぐれになると、山のふもとの林のこずえにすがってやすむ。それが、なぜか知らん、ほそい枝にとまる。だから、少しでも風があると、ゆらりゆらりとゆれる。見はりの者は、このシラサギのむれを見て、源氏の白旗がゆれうごいているのと見まちがえたのであった。
 さて、里へおりていった有盛、是盛のふたりが、たべものや布などをもとめて、谷へかえってみると、なかまはひとりのこらず、血にそまって、いきたえている。
 「なんとむごいことぞ。」「いったい、なにごとがあったのじゃ。」と、おどろいたが、わけを知ると、「見はりが、白旗と見たのは、シラサギのむれだったのじゃ。ああ、はやまったことを。」「おぬしたち、なにも死ぬことはなかったものを。」と、なげきかなしんだ。「これからさき、われらふたりだけで、この山おくで、どうやって生きていけばいいのだ。」有盛がいうと、是盛は、「わしらもあとをおうて、はらをきろうぞ。」こういって死のうとした。だが、有盛ははんたいした。「いや、それはいけん。生きておったら、また平家のためにはたらくときがくる。ふたりして、なんとか生きのびようではないか。」そういうて、まず死んでいったさむらいたちを、谷のおくの石むろにおさめた。そして、そこにお宮をたてて、平家大明神としておまつりした。それから、ふたりは刀をすてた。里の女をむかえて妻とし、子どももできた。
 なん十年がたつうちに、まごも生まれ、部落ができて、ここを両家というようになった。狭間谷も平家谷と名もかえた。有盛、是盛のふたりは、部落に、いろいろなおきてをつくった。まず、大明神をまつった森は〈入らずの森〉と名づけて、女の人は、はいってはいけないことにした。これは、山の見はり所から、まちがった知らせをもってきたのが女の人だったので、死んださむらいたちのたたりがあってはと禁止したのじゃそうな。そのうえ、源氏の白旗と見まちがうようなもの、白い馬や、白いきものをきた人が、この森のちかくをとおることもとめられた。それで、お宮のもりをする神主さんにさえ、白いものは身につけさせなかったという。また、お宮につきものの、のぼりや御幣も、白いものはつかわんようにした。そして、死んでいったさむらいたちのみたまをまつる日を、十一月はじめの申の日ときめた。
 いま、この両家には、平家という姓をもつ家が、三十けんばかりある。むかしここの人たちはもちろん、部落のだれひとりとして、正月がきても、けっして白いもちはつかなかったという。そのかわりに、みそかのうちに赤飯をむして、正月の十五日まで、まい日それにお茶をかけてたべたのだそうな。赤は、平氏の旗じるしじゃからな。それから、おまつりのときには、平家大明神のみこしのまえに、かならず菊の紋章のついた赤い旗をおしたてるそうな。平家谷をながれる川のそばには、いまも、壇ノ浦で平家と運命をともにした安徳天皇の分石をまつるほこらが、のこっている。(再話・吉田信保)

両家村 平家大明神と云宮あり、是は平家の侍此所にかくれ居給ふゆゑ、所の名を平家谷といひ、死去の後神と祝ひたるゆゑ、かく申のよし地下人かたりぬ。鼓の緒と云う村へ、越す所の坂を大筒と云、之は鼓の筒と云心を以て名付たることと所のものは不ㇾ知して暮せること無下也(宇和旧記)
客神社 宮内村(保内町)に在り、此社の境内に平家神社あり、平家落人の霊を祭る、口碑に云ふ平家神社は平家の一将平惟盛公並に諸士の雲神を祭る、社の上に不入山あり、里人畏れて入らず、樹下陰森たり、伝へ云ふ不入山の中に谷川及び巌窟あり、其の窟に長き石を墓印の如く立て並べ在り、此所へ太刀兵具等を納めたりと云ふ、又た此不入山より出し上に一本木と呼び畑中に大木あり、此処へも兵具を蔵めしと云ひ伝へたり、此辺にて小刀を掘出したることあり、不入山より三町余下に狭間谷と称する所あり、一名平家谷と云ふ、此処に上宮下宮と称する二山あり、宮と称すれども社殿なし、大樹繁れり村民甚だ畏るる所なりと伝へ云ふ、不入山狭間谷に平氏の諸人潜匿せしが一夜白鷺飛び来るを見て敵の族旗と思ひ俄に自殺せしとなり、往昔は此辺白馬を牽き通れば忽ち崇りあるを以て神となし祭る、因って爾後は怪異なること止みたり、又た村草より下に蜂巣といふ地に橋あり、今も橋より奥へは白色の鳥は飛び行くこと能はずと云ふ、又た伊方越といふ処に御上り場といふあり、此処にて船より出て上陸し村草を越へて不入山に来り留むと云ひ伝へ今に御上り場の名存せり(伊予温故録)

蒲冠者三河守源範頼 (伊予市上吾川)…範頼は将軍頼朝のために罪を得て伊豆修禅寺で自殺した。称名寺(伊予市上吾川)は範頼が再建したといわれ同所の鎌倉堂は範頼を祀る。難を遁れて河野氏に寄ったとされる。

此所の前に源範頼公の御墓有、臣下の塚なるべし、下へ並数々有よし、今なし、埋れ見へず、虎月毛の沙汰も有、何れ当所に来り給ふ事虚説に有まじ、伊豆国へ北条侫を以移したるよし 若又其上失んと計事共有て、此地に忍び給ひしや… 蒲殿御墓の辺に箭竹有、壹歩程有、己前より少しも増減せずと也、其人さし給竹といふ。(「大洲旧記」伊予郡吾川郷上吾川村・壇寺称名寺)臨江山称名寺  是は貞永の比、三河守範頼を葬る也 麓の池の上に五輪有、又鞭を指し給ひしに生付今にあり、(伊予郡郷俚諺集)
…按ずるに、余明治廿四年四月を以て上吾川村に至り範頼公の墓を訪ふに称名寺東南一町ばかり登りて小山の上に鎌倉神社あり、其の社の後に範頼公の墓あり、囲み弐間ばかり円形の廻りに古松五株あり、内二株は立枯となり居れり、此松を見るに六七百年も経たるものと思はる、三十年前に立たる新碑石あり、其の下に五輪塔又は台石と見ゆる破石遺れり 此墓地の西南少し下りたる地に小さき五輪並列して十六七基あり 是れ大洲旧記に臣下の塚にて埋れたりといふも近頃に至り掘り出したるものなるへし、五輪石も皆破損し中には石質朽ちて土の如きものあり、いづれも其の古さは範頼墓上にある古き五輪と同じ(伊予温故録)

 最明寺入道時頼  時頼腰掛石(川内町永野)のほか、時頼手植松(河辺村植松)は植松村の村名の起源といい、最明寺(北条市上難波)は時頼が伊予巡国の時、月庵禅師とはかって創営し、行基作の薬師像を安置したという。
 脇屋義助 (今治市国分寺) 南朝の臣・義助、国分寺で卒した。貝原益軒「挙兵廟算 伏義速駆 桓桓雄武 可起懦夫 戦功籍甚 名与兄倶 病終南海 時乎命乎」の碑がある。(※脇屋義助の伊予下向 「太平記」巻22)
 篠塚伊賀守 (今治市大浜) 新田の驍将伊賀守は世田城落ちてここ大浜湊山より沖の島(魚島)に渡って生を終えたという。また、魚島より今治市大浜のうち伊賀に還ってこの地で空しくなったので篠塚明神として祭ったともいう。魚島村古殿山八幡社の傍に篠塚伊賀守の墓と称する宝箆印塔がある。(※「太平記」巻22)
 新田義宗  南朝の臣・義宗の死所と伝えるところは県下に多い。新田神社(川之江市下山新田・松山市河中・小田町中田渡・北条市米野々・宇和町野田・野村町予子林猿ヶ滝城など)がそれである。義宗の二男・新田左衛門義忠は保内町須川の新田神社で祀られ、また丹原町鞍瀬馬崎の新田墓は新田義貞の墓とも新田義興の墓とも伝えられている。
 大館左馬助氏明 (世田山城 栴檀寺) 天保八年丁酉春三月建立の墓誌がある。
 大森彦七 (砥部町五本松) 大森彦七館・彦七宮といふ。昔、大森彦七盛長家居の遺構。彦七は心あくまで不敵にして、力は此の常の人に勝れりと。はじめは土佐国奥山の猟師であったが足利尊氏九州より発向のとき、細川定禅の手に属し兵庫において楠正成をして自刃にいたらしめた。功により大庄二三か所を所領するに至ったという。

  大森彦七と鬼女(砥部町)(図表「大森彦七と鬼女(砥部町)」参照)
 いまから六百年ほどむかしのこと、伊予郡の砥部に、大森彦七というて、たいそうなごうけつがおったそうな。兵庫の湊川で足利尊氏と楠正成とが大いくさをしたとき、彦七は、足利尊氏にみかたして正成にはらをきらせたてがらで、このあたりの土地をほうびにもらい、うつりすんできたのじゃそうな。そして、砥部の五本松にたてた大きなやしきにすみ、また花畑というところには別荘をつくって、ゆったりとくらしておったんと。いままでは、いくさにあけくれて、ちっとも心のやすまるひまもなかったからじやろうのう。砥部にきてからは、よく別荘で、花やモミジをながめて酒もりをしたり、すきな舞いをまったりして、たのしんでおったそうな。
 ちょうどそのころ、伊予郡松前の金蓮寺で、猿楽の舞があるとの知らせがあってな。「殿、ひとつ、お気ばらしに見にいかれてはいかがでしょう。」けらいの者がすすめたところ、「ほう、それはおもしろかろう、ぜひ、いってみたいものじゃ。そのときは、わしもひとつ、まってみたいのう。」とのおことばじゃ。それでけらいたちは、村むらに高札を立てて、このことを知らせたそうな。

きたる三月のなん日、大森彦七どのの舞が松前金蓮寺でおこなわれることになった。みなの者にもけんぶつをゆるすから、あつまるように。

 知らせは、すぐにひろまってな、「ほう、あのごうけつの大森さまの舞があるとな。それは、なんがなんでも見たいものじゃ。」と、なかなかのひょうばんになったそうな。
 やがて、まちにまったその日が来た。ゆうべの雨もあがって、うららかな、ええ日よりじゃったそうな。彦七は、五本松のやかたをでて、松前へむかった。砥部川にそった山道を麻生まですすみ、そこから矢取川へでる。金蓮寺までは、およそ六里の道のりじゃ。いまでこそ矢取川には、りっぱな橋がかかり、県道がつうじておって、橋からは松山の街や瀬戸の海が一望できるし、とても見はらしのよいところじゃが、むかしの道は、この橋から二百メートルほどおくまった山すそをとおっておった。いま茄子ヶ窪と呼ばれとるところじゃけんど、むかしは〈魔住ヶ窪〉いうてな、木がおいしげってひるまでもまっくら。名まえのとおり魔ものでも住んでいそうな、きみのわるいところじゃったそうな。彦七一行がこの魔住ヶ窪をぬけて矢取川についたころには、もう日もくれかかっておった。さて、川をわたろうとしていると、だれやら、人が川ばたにうずくまっている。見ると、お姫さんみたいな、きれいな女じゃ。おもむず、彦七が、「あんた、どうしたんぞな。」と声をかけると、「川むこうへいきたいのですが、ながれがはやいし、ふかいので、こまっております。」というた。「それはかわいそうに、よし、わしがおんぼしてわたしてやろう。」はじめ女は、はずかしそうにしておったが、彦七が背をむけて、「はよう、おんぼせい。」というと、ようやく、かたにつかまっておんぼしたそうな。
 ちょうどそのとき、東の山の上に月がでて、あたりが、ぱっとあかるくなった。彦七は、月のあかりをたよりに、川をわたっていった。ところが、どういうわけか、川の中ほどまできたところで、きゅうに、せなかの女が、石みたいにおもうなったんと。
  (これはどうしたことじゃろう)
おかしにおもって、川面をのぞくと、なんと、かみをふりみだし、口の大きくさけた女が短刀で彦七をつきさそうとしておるすがたが水にうつっとる。たまげた彦七は、「おのれ、くせもの、なにやつじゃあ。」とおらぶなり、ばけものを川の中にぶちこんだ。しかし、ばけものは、そのしゅんかんに空にとびあがったかとおもうと、ものすごいはやさで魔住ヶ窪のくらやみの中にきえていった。あとには、かげもかたちもない。あまりにもとつぜんだったので、ごうけつの彦七も、さすがにたまげたんじゃろう。「ゆうれいじゃ、楠木正成のゆうれいじゃあ。」と、おらんだきり、気がくるってしもうたんと。もちろん、金連寺の舞もとりやめじゃ。このことがあってから、このあたりでは、「大ごと、金蓮寺」ということばが、よくつかわれるようになったんと。おもいがけないことにでくわして、大あわてすることよ。(再話・森 正史)

・大森彦七事(「太乎記」巻23)・福地桜痴 歌舞伎脚本「大森彦七」(明治30年10月初演・九代目市川団十郎・明治座)・謡曲「大森彦七」・浄瑠璃「大森彦七」・近松門左衛門「吉野都女楠」砥部町(大森彦七石塔…宮内 千里城・城主神社…川登千里山 大森彦七花畑・大森彦七館…五本松 塩売淵・魔住ヶ窪…麻生)松前町(金蓮寺)伊予市(彦七松…導の森)

真善坊 (松山市斎院)…武田信玄の弟ともいい、家臣とも伝えられる。曽我五郎時致法華経の功徳によって武田信玄に生まれかわったという。信玄自ら法体となり、その弟信義をして法華回国させた。信善は真善と名を改め、ここで遷化したという。
明智光秀 (今治市野間坪の内)大きな墓があって光秀の墓と伝えられているが、その伝承はつまびらかでない。
一条兼定 (宇和島市戸島) 清良記に、土佐一条殿家門の子家実を、元親聟として、一条家を継がせて、後家門をば、上下三十人ばかりにて、天正元年十月末に下田より舟にのせて、追出すとあり。入江兵部と云もの、一条殿家来にて有し時、元親計策にて、御所様を落人となし給ひ、伊予板島之内日振島に御浪人にてありしを、元親にたのまれ、此入江見廻にことよせ、彼地へ罷越、二刀迄打といへども、相伝の主筋故か、打得ずしてやうやう舟に取乗り、土州へ皈りては、打ち得たると、元親へは申上るよしなり。(「宇和旧記」破板島殿之事 日振しま)※秋田忠俊「続愛媛の文学散歩」愛媛新聞夕刊、昭和48年11月19日 於雪-土佐一条家の崩壊-(大原富枝)・昭和48年11月26日かげろうの館-ルイス・ド・アルメイダの手記(田岡典夫)。兼定の墓は宇和島市戸島にある。
 長宗我部信親 (宇和島市日振島) 土佐軍記に、天正十四年島津退治の時、長宗我部弥三郎信親心戦場へ被ㇾ向ける故、元親も伊予の日振島迄打出、九州の案否を聞給ふ処に、新納武蔵守所より陣僧壱人元親在陣のよし承知せられ、日振島に遣はす、其旨趣は今度中津留川原にて、弥三郎殿と出会槍を仕り、弥三郎討死と承る、天も照覧あれ、弥三郎殿と不ㇾ存して勝負仕、我等も家の子郎等余多討死させ、無㆓十方㆒と申送る、…(「宇和旧記」板島殿之事 日振しま)※秋田忠俊「続愛媛の文学散歩」愛媛新聞夕刊昭和48年8月27日長宗我部信親-叙事詩(森 鴎外)
 後藤又兵衛基次 (伊予市宮ノ下惣津池長泉寺北下大塚清七宅)…長泉寺住僧は後藤又兵衛の伯父なり。大坂落城の後ち廻国の姿にて当国へ渡り、久万の岩屋寺に詣ふて座禅して在りしが、松前城主加藤嘉明公参詣し給ふ。先き走り来って、今日国主詣ふて給ふと云ひければ、目を見開きて、国主とは加藤左馬前かといふ。先き走り帰て見坂といふ所にて主君に出逢ふて其の顔色様子を言上す。依って嘉明公ここより引返して岩屋寺に詣ふて給わず空しく帰城し給ふと云ふ。夫れより又兵衛は長泉寺に寄留し一生此寺に潜みて居て死したり。半弓鉄炮は一所に埋み笈は寺に在りとい云ふ。村内百姓屋敷に墓ありと。(伊予温故録)

  3 信仰伝説

 日常の生活とのかかわりの深い神さまや仏さま、高僧、自然物や人の精霊、妖怪変化などについての伝承がある。稲荷神・田の神・山の神・水の神は農耕生産にとって重要な意味を持った神さまであり、家の神もまた常にわれわれの生活とともにあった。そしてまた疫病神は常にわれわれの生活をおびやかした。樹・岩・池淵にも霊があって禁忌をともなって尊崇され、かつ怖れられた。人が死ぬと霊魂は他界へ旅立つとされたが、不慮悲恨の死者の霊はこの世に浮遊して死霊となり、死者が恨みや願いごとを果すために幽霊となった。あるいは生者の魂も肉体を離脱して生霊として浮遊した。
 御霊信仰 人のたたり(七人ミサキ・聖職者のタタリ)、神仏のたたり(マツリ神・若宮様・聖神・屋敷神・水神様・地主さま・荒神様・トンベ神)、土地や岩石のたたり(土地・塚・岩石・神仏)、動物のたたり(動物・時間的契機のたたり)、憑きもの(山犬・エンコ 河童・カワウソ・犬神・トンビョーガー 蛇神・狸・夜雀)、憑き神(ジキトリ・ヒダルガミ・オクヨサマ・オシオリサマ・柴神様 柴折様 足軽様)、妖怪(ヤマンバ・メレオチゴ・小豆洗い 小坊主・海坊主・船幽霊・ノビアガリ・タカタカ坊主・ノッゴ・ノガマ・天狗)については、県史「民俗上」第五章信仰(上)・第三節民間信仰において述べられている。また、妖怪変化についての伝承は奇説として西園寺源透の「伊予奇談伝説」に数多くの話を記載している。高僧伝承としては弘法伝説が広く名高い。行信禅師(「真言伝」巻第4)、一遍(「地蔵菩薩霊験記」巻四ノ六)、秦 伊之(「地蔵菩薩霊験記」巻五ノ九)、衛門三郎などもある。往生伝に橘朝臣守輔(拾遺往生伝)、老尼安楽(同上)、僧円観(後拾避往生伝)、僧長増(「今昔物語」巻15第15)、県主時春(三宝絵詞)。入定伝説に お定神さん(川内町音田)、聖人家(松山市畑寺)、赤鬼法性院(面河村杣野石墨山)、重慶上人(長浜町櫛生)などがあって、森正史「えひめ昔ばなし」(定に入った話)にくわしい。
 七不思議には松山城(「伊予の民俗」32号)、松山(「伊予奇談伝説」14)、石手寺(松山市)、大瀬(内子町)、大野ヶ原(野村町)、立岩川(北条市)、22連隊(客野澄博「二十二聯隊始末記」)、伊予(別冊「歴史読本」昭和58年7月10日 新人物往来社)などがある。また、武勇・力持・畸人の伝承も県下の各地域でみられる。これらの伝説の多くは「昔話」の形態をとって語り継がれてきた。その概要は 第二節「昔語」に記述することとし、ここでは、武芸譚 棚橋伝兵衛(小松町)、松山の七不思議(松山市)、松根の旗印(宇和島市)を紹介する。

 小団兵衛物語(小松町) むかし、小松の藩に、棚橋伝兵衛というさむらいがおったそうな。このさむらいは背がたいそう低かったが、ほかのさむらいと同じ長さの刀をさして土の上を引きずるようにして平気で歩いていたそうな。ところが、このからだに合わん長い刀をどんなにしてぬきさししたんかわからんほどの、居合の名人だったそうな。みなはこのさむらいを小団兵衛と呼んでおそれていたそうな。ある時、この小団兵衛がぶらりとしばい見物にでかけたんじゃ。しばいはおもしろいんで、小団兵衛もいっしょうけんめい見よったんじゃ。ところが、ひょっと気がつくと後ろの席にすわっとる、ならず者らしい男たちが、なにやらこそこそ話しては、くすくす笑いよるんじゃ。聞くともなしに聞きよると、自分のからだのことや刀のことを、いろいろいいよるのが耳にはいってくるんじゃ。小団兵衛は腹がたったが、いつものことなんで、あんまり気にもかけずにそのまましばらく見よったんじゃ。ところが、ますます図にのった男らの中のひとりが、きせるの火を小団兵衛の頭の上にふきつけ、「たばこぼん」の代りにしたんじゃ。小団兵衛の頭がちょうど男の胸ぐらいの高さじゃったそうな。小団兵衛はもうこらえられんようになったんじゃ。それから何ときかすぎて、なんのことはなしにしばいがはね、お客らはしばいのことなんか話しもて木戸をくぐって、ぞろぞろと出て行き始めたんじゃ。小団兵衛の頭を「たばこぼん」にした男も木戸をくぐろうとして、頭をさげたひょうしに首がぽろっと落ちてころげたんじゃ。たちまち、小屋じゅう大さわぎになって、すぐ役人がとんで来たんじゃ。この中におっただれぞにちがいないということになって、刀を持っとる者みなが調べられることになったんじゃ。ひとりひとり、役人の前に刀をぬいて見せたけんど、それらしい刀は見あたらなんだんじゃ。小団兵衛の番がやってきたので、刀をぬいたんじゃ。けんど、それがあんまり速いんで、役人の目には見えんかったんじゃ。こまった役人は、「すまぬ、もう少しゆっくりやってもらえまいか。」と、たのんだんじゃ。「こうか。」と、また、ぬいて見せたが、いっこうに見えんのじゃ。「もう少しゆっくり。」「もう少しゆっくり。」何回しても同じことじゃった。とうとう役人も、「もう、ようござる。」と、あきらめてしもうたそうじゃ。(再話・武田健)

 松山の七不思議(松山市) 一、かた目のフナ むかし、むかしのことじゃった。弘法大師というえらい坊さんが、松山の南山越の里を歩きよると、さかなをやくにおいがしてきた。ちかよってみたら、おじいさんが、家の前で一ぴきのフナをやきよった。フナは、もうかた面をやかれて、うごかんようになっとった。かわいそうにおもうた弘法大師は、お金をだして、そのフナをゆずってもろうた。そうして、ちかくの井戸にはなしてやった。すると、ふしぎなことに、かた面がやかれたフナが生きかえり、げんきにおよぎだしたということじゃ。じゃが、やかれた片方の目だけは、つぶれたままじゃったそうな。それから、このあたりの泉や池には、片目のフナがすむようになったということじゃ。〈かた目ブナの井戸〉というのが、いまも木屋町にのこっとる。 二、紫井戸 その井戸のちかくに、〈紫井戸〉と呼ばれる井戸があるんじゃ。いまは、どうしたことか、水がかれてしもうて、から井戸になっとるが、むかしは、すみきった水が、こんこんとわく泉じゃった。この井戸は、一日七かい水の色がかわるが、だいたいはむらさき色に見えるといわれて、ふしぎがられとったようじゃ。三、お菊井戸 むかし、むかし、お菊という、それはきれいな御殿女中がおった。お菊には、小姓の庄之助という恋人があった。ところが、楓という御殿女中も、庄之助がすきになったんじゃと。それで、なんとかふたりのあいだにわりこもうとしたんじゃが、庄之助の心はうごかなんだ。それをうらんだ楓は、殿さまの刀をぬすみだして、庄之助の小姓部屋の天じょううらにかくしたんじゃ。殿さまのだいじな刀がのうなったというので、殿中は大さわぎになった。やがて、天じょううら見され、ぬすんだのは庄之助にちがいないというので、とりしらべをうけた。庄之助は、無実をさけびつづけたが、うたがいははれなんだ。その夜、庄之助は無念のなみだをのみながら、切腹した。それをかなしんで、お菊も初七日の夜、堀之内の井戸に身をなげたんじゃ。そんなことがあってからというものは、夜な夜な、この井戸の底から、女のすすりなく声がきこえるようになったそうじゃ。それは、お菊の亡霊がなきよるのじゃといううわさがひろまった。そして、その井戸には、だれもちかずかんようになったという。これがもとで、楓の悪事がわかって、手うちになったそうな。明治になってから、堀之内に松山二十二連隊がおかれ、兵舎がたてられた。ある夜、歩哨に立っとった兵隊が、お菊荘戸のちかくで女のゆうれいにでおうた。兵隊は、銃剣をもって、とっしんしてゆうれいをついた。とおもたら、弾薬庫のかべに銃剣をつきさしとった。その兵ひとりじゃあない。それからのちも、歩哨の兵たちがゆうれいを見たことがたびたびあって、そこのかべには銃剣のあとがたくさんのこっておったという話じゃ。 四、毘沙門坂の大入道 城山の東のふもと、いまの東雲神社の石だんの下に、むかし、毘沙門坂という坂道があったんじゃ。ここは、まわりの木のおいしげった、さびしい道で、めったに人もとおらなんだそうな。この坂に、とほうもなくでっかい大入道がすんどったというんじゃ。その大入道が、かた足を東雲下におろして、もういっぽうの足をまえにだすと、御幸寺山をこえて、山越までとどいたそうじゃ。大入道が、足をおろしたあとが、〈足あと石〉と呼ばれて、東雲神社の石だん下の岩に、くぼみとなってのこっとる。また、太山寺の経ヶ森は、あるとき、この大入道のなげた石でできた山じゃそうな。 五、星見の池 久保田町に〈星見の池〉という池が、いまものこっとる。どうしてこんな名がついたかというたら、この地には、ひるまでも星がうつって見えたからじゃという。ずっとむかし、菅原道真という人が、みやこから九州の太宰府へおわれる途中、この松山へたちよったそうじゃ。そのとき、この池のきれいな水にうつる昼の星を見て、うらないをしたという話じゃ。道真は、すぐれた学者で、右大臣にまでなったんじゃが、反対派の人に、つみもないのにおとしいれられ、九州へやられたんじゃ。道真は、昼の星を見て、なにをかんがえ、なにをうらのうたんじゃろうかのう。 六、ふしぎ太鼓 松山城の西南部に、石手川という川がながれとる。その川の土手を夜中にあるいとったら、どこからともなく、ドン、ドン、ドン、ドンという、太鼓の音がきこえてくるんじゃと。だれがならしとるんじゃろうかとおもうて、音をたよりに、どんどんあるいていっても、音にちかよることはできなんだそうじゃ。西でなっとるとおもうて、西へ行くと、東からきこえ、東へいくと南からきこえるというぐあいじゃ。この音は、むかし、土佐の長宗我部の大軍とたたこうてほろぼされた、河野一族の亡霊が、無念をはらすためにうちならす陣太鼓の音じゃといわれて、おそれられたものじゃ。 七、こんにゃく橋 三番町から花園町へまがるところに、むかしは橋がかかっとったんじゃと。その橋は、こんにゃく橋とよばれとったそうな。どうして、こんな名がついたかというと、その橋をわたろうとしたら、こんにゃくのように、ぶるぶる、ぐらぐらとゆれるけんじゃそうな。もし、その橋の上でころんだりしたら、三日いないに死んでしまうといわれたほどじゃ。そのゆれるわけがどうしてもわからんので、「橋の下に大ナマズがすんどって、人がとおるたびに、そいつがわるさをしよったんぞな。」と、うわさをしおうたそうじゃ。昭和二十年の松山空襲のとき、そのあたりに爆弾がおちたんじゃと。そのころはもちろん、もう川も橋もなかったんじゃが、爆弾であいたあなをのぞいてみたら、なんと、川があって、水がいきおいよくながれよるんで、みんなびっくりしたそうじゃ。(再話・宮野英也)

 松根家の旗じるし(宇和島市)(図表「松根家の旗じるし(宇和島市)」参照)
 海の上には、なまり色の雲がはげしくうごいていた。山からふきおろしてくる風には、雪がまじっている。お城も、町なみも、今夜はまっ白く雪におおわれるかもしれない。松根新八郎は、人どおりのたえたとおりをあるいていた。あるやしきのまえに、女がたたずんで、邸内をじっとうかがっていた。女は新八郎をよびとめて、ぞっとするようなつめたい声ではなしかけた。「このやしきの主人に用事があってきたのですが、門に護符がはってあるので、足がすくんでしまってはいることができません。あの護符をはぎとってくださいませんか。」見ると、お宮さんの神ふだがはられている。新八郎は、女の顔があまりにもおもいつめたようすなので、あわれにおもい、護符をはがした。女はとてもうれしそうなようすをして、新八郎の顔をじっと見つめたが、なにもいわないで、やしきの門をすこしあけたかとおもうと、そのわずかなすきまから、すっとやしきの中にはいった。まもなくやしきの中から、すさまじい声がした。それは人間のさいごのさけびのようだった。新八郎はおどろいた。「なんじゃ、なにごとじゃ。」新八郎は、あわてて門のまえにひきかえした。そこにさきほどの女が男の首をさげて、にっこりしながら立っている。むねんそうに目をつりあげた首からは血がしたたっている。おもわずとびかかろうとした新八郎に、女はいった。「わたしは、このやしきの主人にころされたのです。どうしてもうらみをはらしたくてやってきましたが、護符のためにはいることができませんでした。あなたは、しんせつにも護符をとりのぞいてくれました。おかげで、わたしは、このとおりあだをうつことができました。あなたのおかげです。」新八郎は、びっくりして女のはなすことをきいた。女は、ことばをついで、さらに、「いま、わたしは、あなたのごしんせつにむくいるために、なにもさしあげるものをもっていません。それに、あだをとってしまったいまとなってみれば、この首にも、うらみはありません。わたしも、この首もおなじところをさまよっています。せめてものご恩がえしに、このなま首をおうけとりください。」といったかとおもうと、すがたがきえた。あとには、ただ、なまなましく、血にそまった首が雪の上にころがっていた。新八郎は、そのなま首をもちかえり、じぶんのやしきのすみの竹やぶにうすめ、ほこらをたててまつった。それからの新八郎は、戦場へいくときは、じぶんの旗じるしと、かぶとの前立てになま首のしるしをつけた。それが、〈松根の生首〉と人びとにいわれて、新八郎の勇名を世にひろめることになった。そして、松根家は、ますます、さかえて家老の職についた。このなま首の旗じるしは、宇和島の伊達博物館にいまものこされている。                    (再話・秋田忠俊)

※宇和島市宇和津町 金剛山大隆寺の本堂横に三基の石板と一体の地蔵がある。石板にはそれぞれ「人間院命終一無居士 元禄十四年六月十九日 松根氏」「実常院性道寿軒居士 享保五年七月十日 松根新八郎」「即往了古居士 元禄十年五月二十日 内山田善哉」、石地蔵には「幻性希有信女 正徳二年二月四日」と書き入れがある。石地蔵は松根の首塚、あるいは生首さんといわれ、古来、頭の病気に霊験ありとされる。松根の旌旗は二畳くらいの大きさがあり、血が流れている生首が描かれている。伊達博物館に寄託されている。

奥方に化けた古狐(道後公園)

奥方に化けた古狐(道後公園)


喜左衛門狸

喜左衛門狸


殿さん道の首なし馬

殿さん道の首なし馬


北が森のドンコ

北が森のドンコ


姥桜

姥桜


量集録

量集録


ごぜ石

ごぜ石


黄金づくりのニワトリと小判(川之江市)

黄金づくりのニワトリと小判(川之江市)


大洲城の人柱(大洲市)

大洲城の人柱(大洲市)


金山出石寺(八幡浜市)

金山出石寺(八幡浜市)