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愛媛県史 民俗 下(昭和59年3月31日発行)

第三節 盆の行事

 七 夕

 六日の早朝、里芋や稲葉の露を集めてきて墨をすり、字の上達を願って五色の短冊に、七夕様・天の川などに始まって和歌や俳句を書いたりして笹に吊す。
 七夕笹は一本立てる所と二本立てる土地とがある。周桑郡あたりでは二本の笹に、横渡しに竹を一本渡し、それに小田原提灯、ほおずき、ふろ豆、茄子などを吊す。また西瓜、南瓜、ぶどうなどの供物を供える。喜多郡長浜町青島では、笹二本を立て、これに麻木を一本横に渡して七夕の掛軸を吊す。これに糸を引っ掛ける風習もある。
 七夕は六日の宵節供に供物をし、提灯に火を点して祭り、七日に笹は川や海に流す。七夕の供物にもいろいろ変わった風習がある。
 まず季節の野菜物であるなす、うり、すいか、それにぼた餅を作って供えたりする。「七夕さん、棚から落ちてキンつめて、なすび三つでこらえかねた」。こんな文句が越智郡の魚島で言われているが、なすは七夕に不可欠の供物である。このなすで牛馬の型を作って供える風が中予や南予にある。越智郡地方ではなすを賽の目に刻んで米と混ぜて供える。これは盆の供物の「水の子」と同じである。また越智郡では、すいかを平年には一二、閏年には一三に切るか切り目を入れて供える。今治市小島ではこの供えたすいかを近所の子供らが、「イオッタカノ(祝ったかの)」と言って挨拶して持ち去って行く。七夕様は初物が好きだというので一般に野菜の初物を供える。それでこの日はどこの畠物を盗ってきてもよいと、公に盗みを認める風習もあった。
 変わった供物では、伊予郡や温泉郡で鮒を容器に泳がせたまま供え、あとで放してやることである。周桑郡地方では、稲藁で青い稲葉を混じえて縄にない、これを家族の男子数だけ輪につくって屋根上に投げ上げる風がある。これをハナゴ(牛の鼻輪)という。朝早く放り上げるのがよいという。この風習は越智郡・今治地方にも見られる。延喜では、男が縄の輪を二個作り、二つを繋いで屋根上に上げている。同郡玉川町ではそれをワンゴといい、火災除けたという。西条市西の川ではそれをゼニグチといっており、周桑郡のものと作り方は違っているが、屋根や軒先などに飾る風がある。男子のハナゴに対して、女子は糸で輪を一対つくって、供える。ハナゴは七夕様が牛を曳いているのであげるのだといい、女は手がたつよう祈願するのだという。伊予三島市富郷町上猿田ではそれをカネワといい、コウゾ糸をつむいで輪にして七日の朝屋根に上げている。
 また七夕には「七夕様に着物を貸す」といって、新調着物を竿に通して掛けたりする。これをボンゴと越智郡魚島や宇摩郡・喜多郡ではいう。ボンゴは盆に着る晴れ着のことであるが、七夕様は腕立ちだから女性が裁縫の上達を願ってそうするのだといわれている。しかし、伊予郡中山町のように「七夕様は貧乏だから着物を貸してあげるのだ」と説明している例もある。

 おおわいこ

 六日の宵節供にいま一つおもしろい習俗がある。「おおわいこ」といって、子供らが南瓜提灯や西瓜提灯をもって村内を練り歩くのである。それでこの提灯のことを伊予市米湊では「おおわいこ提灯」と言っている。この風習は伊予市や伊予郡松前町あたりにあって、提灯を持って次のような文句を囃しながら道路や池の土手などを練り歩くのである。

おおわいこ おおわいこ 夕べ生まれた赤児の子 蟹にお手々(チンボともいう)をはそまれて  あいたやな あいたやな 〈伊予市下吾川〉
おちょうちんころ おおわいこ 夕べできた赤ちゃんが 蟹にチンチンはさまれた 〈同上吾川〉
おわいこ おわいこ 夕べでけた政さんが 欄干橋を通りよって 蟹にチンボをはさまれて  蟹さん蟹さん待っておくれ わしが十五になるまでは 〈同米湊〉

 伊予郡中山町重藤でも「おおめら おおめら」と言いながら歩くという。伊予市の場合も同様であるが、この文句が何を意味するのか解しかねる。しかし、別に何も文句は伴わないで、ただ提灯を持ち歩いたり、橋上において流水に提灯の火を映したりする風の土地がある。あとで述べるが、七夕には盆行事の前段階の要素が多分にあるので、それとの関連を前提において考えると祖霊迎えの行事でなかったかと推測される。

 笹流し

 七夕笹は七日の夕刻までに川や海に流す。所によっては子供らが部落中のものを集めて流したりしている土地もある。北条市安居島の七夕流し、越智郡大三島町肥海の笹流しは、七日の早朝の退潮時に行っており、沖へ流れ去るほどよいという。とくに宗族に旅に出ている者があるときは、笹にわらじを結びつけて流した。脚気除けの呪いだという。温泉郡重信町では笹の一枝を折り取って機織機に結びつけていた。松山市三津浜などでも織機の鳥居に笹の色紙をとって飾っていた。機織の上達を祈ってである。
 七夕笹に呪力を認める習俗もある。田畑に立てると虫除けになるという所、家の出入口にその一枝を挿して悪病除けの呪物にする所もある。前者は南予地方に一般に見られる風習であり、後者は東予方面に見られる。例えば越智郡玉川町竜岡木地、宇摩郡の山村ではその一枝を家の出入口に挿す風があった。また南宇和郡西海町内泊では、七夕の笹竹で釣竿をつくると魚がよく釣れるといっている。

 七夕雨と物洗い

 七夕は天の河を隔てた牽牛星と織女星とが、年に一度の逢瀬を許される日ということで、雨の降らぬことを願うのであるが、これは中国から伝来した伝説である。またその由来を説いた民話が各地にある。しかし、農民の側では一粒でも雨が降ったほうがよいという。六日の晩、雨が降れば悪病がはやらぬと松山や中予地方一帯では言っているが、喜多郡地方では、七夕さんが会うと風の神が生まれるから三粒でも降ったほうがよいという。また南宇和郡城辺町では、お祇園様と七夕様は夫婦である。七夕にこの夫婦が会うと疫病がはやるので雨が降らぬといけないのだという。
 七夕には泳がねばならぬとする伝承がある。また反対に禁ずる伝承もある。今治市小島では七夕を「泳ぎ節供」と称しているが、この日泳げば上手になるとむしろ奨励する伝承もある。「七回半泳がにゃいかん」という伝承はその一つであるが、この日は人間のイド(肛門)を抜く恐ろしいエンコ (河童)が茄子の木にくくりつけてあるから大丈夫だなどという土地もある。また、七夕には物洗いや井戸替えをした。とくに油気のものを洗うによい日と言われた。女性は髪や櫛箱を洗った。神仏具類を洗うのに最もよい日にもなっていた。この日はまた井戸替えをする日で、井戸ざらえをした。
 つぎに牛馬を洗う風もあった。それで越智郡地方では「牛節供」といい、ダニを落とすために海で牛を泳がしたりした。そのダニをエンコがとりに来るので、それで泳ぐことを禁じている例もある。一方、喜多郡肱川町などの山村では、牛を四ツ(午前一〇時頃)までに川を渡せばシラミが落ちるというので渡らせる。
 以上、七夕の習俗には水との関連性が強く認められる。つまり、ミソギの習俗がみられるのである。女子の裁縫・機織り、習字など技芸の上達を祈るのは乞巧奠の星祭りの習俗の影響であって、これは平安時代以来の上流社会の風習が民間行事に普及したのである。しかしこれに対し民間における七夕には盆との関係が濃いのが特色といえる。七月七日を「七日盆」「七夕盆」という所は多い。この日、盆花を迎えたり、墓掃除をして花立てをするのである。この日墓参をする所も多く、それをハナオリといっている。

 とぼしぞめ

 盆は祖霊祭りということで、正月と並ぶわが国の二大年中行事である。前年の盆以降、新亡者があった家はとくにアラボン、シンボン、サラボンなどと、普通の家よりも早く盆の準備にかかり、祭壇を設けて丁寧にまつりを行う。また親戚・知人などが盆見舞いに来る。「今年は思いもかけぬアラボンでございましておさびしゅうございます」などと挨拶を言うのである。
 新盆の家では六月二九日か三〇日に、施餓鬼幡を立て盆燈籠の点し始めをする。それでこの日をトボシハジメ、トボシゾメ、トボシイレなどというのである。トボシゾメには身近な親戚が集まって、施餓鬼幡を立てたり、燈籠を飾ったりして新仏の供養をする。それを喜多郡長浜町では「燈籠見舞い」といっており、施餓鬼幡を立てるのをハタオコシと上浮穴郡などではいっている。盆燈籠はこの日から一か月間点すことになっており、最後の日をトボシアゲという。
 施餓鬼幡は新盆の家の印で、盆燈籠もそうであるが、三年間、盆ごとに立てることになっている。マネキバタといっている所もあるように精霊迎えの目印である。幡は白木綿でつくり、寺にて文字を書いてもらう。招き幡の幡竿は枝付きの竹の先端部をはねたものを用いる。越智郡宮窪町でタカハタ(高幡)と称しているようになるべく高く立てておく風でもある。盆燈籠や施餓鬼幡は三年後の盆が終わると海や川に流すか焼却してしまうのであるが、それを「燈籠流し」といっている。しかし、この流す場面を他人に見られるのを宮窪町では忌みる風である。しかし、施餓鬼幡を寺の境内に立てて、家毎に立てない風習の土地がある。越智郡伯方町や南宇和郡内海村などをはじめその例は多い。
 さて施餓鬼幡と燈籠とは一対のものであったと思われる。現在では幡は屋外に、燈籠は軒先や屋内に吊されることが一般的になっているけれども、本来は一対でなかったかと思われる。伊予郡広田村高市などでは、庭先に十文字型の燈籠竿を立て、これに幡が結びつけてある。さらに燈籠から縄を屋内に引き込んで、屋内の精霊棚につないでいるのである。また越智郡宮窪町では、精霊棚と高幡がセットになっている。伊予三島市富郷町でも同様形式の精霊棚を設ける風であるが、この民俗は精霊棚・施餓鬼幡・燈籠が魂祭りのための一対の施設であることを物語っている。

 精霊棚

 盆棚ともいうが、盆には臨時の祭り棚、或いは祭壇を設けて、これに位牌を安置し供物を供えて祭ることになっている。盆棚は①室内に特別に作る所、②屋外平家の軒下など戸外に施餓鬼棚だけ設ける所、③こういう臨時の施餓鬼棚や祭壇を設けずに仏壇を飾りつけて済ませる土地とがある。
 ①の祭り方をするのは南予地方で、座敷に祭壇を設ける。棚に芭蕉の葉を敷き、女竹・そうはぎ・ほおずき・ふろう豆・かけそうめんなどで飾り、中央に位牌を安置し、御霊供膳をはじめ種々供物をしてまつる。また必ずその一隅で餓鬼仏を併せて祭っており、それには供物を里芋の葉にくるんで供える。
 ②の祭り方をするのは、中予及び東予である。しかし松山地方では廃止した所が多い。②の祭壇は一般にセガキダナと呼ばれ、餓鬼仏の供養棚と見られていて、精霊棚とか水棚(魚島)と称している。軒下に棚を設け、四隅に樒か杉の葉を立て、四方と中央に施餓鬼札をつけた簡素なもので、ここに餓鬼仏をまつるため、なすをはじめちょっとした供物を供える。この施餓鬼棚を設ける地域では、仏壇そのものに飾りつけをして盆祭りをしている。すなわち、家の精霊と餓鬼仏(外精霊)とを分離してまつっているのである。

 精霊迎え

 精霊迎えは七月一三日か一四日の宵、なるべく早く迎え火を焚いて行う。一三日は新盆の家で、一般の家では一四目とする土地もある。麻木殼か松明を燃やして迎え火とするが、場所は、墓地・川端・海辺・門口など区々である。迎え火と送り火の場所を変える例もある。
 松山市窪野町では、一四日の昼までに供物を持って墓参りをし、麻木穀を焚いてその火を線香に移し、その明りについて祖霊は家にもどってくるものとされている。送るのは一五日の夕刻で、家の門口で送り火を焚き、「この明かりで丈夫に帰って下さいませ」と言う。
 伊予郡広田村では、一四日に川端で火を焚き、「この明かりでおいで下さい」と言って、提燈に火をつけて家に帰る。家に入る時は「仏さんを連れだってもんたぞ」と言ってから入り、仏壇に火を移す。送るのは一五日で、また「この火の明かりでついておいでなさい」と言って川端に行き、送り火を焚いて送っている。この作法を海辺の村だと浜辺でやるのである。同郡中山町では、一四日に「お精霊様、残りがかりのないように、この明かりでおいでなさい」と言うそうであり、この時に「便所の神様」を一緒に呼ぶことになっている。一五日夕方、送り火を焚いて送る。
 中島町二神では、ホゴを背負って墓地に行き、松明を墓前に供え、迎え火を焚いて、祖霊をホゴに乗せて迎えてもどる。また松山地方でもおんぶをして連れもどる風があった。城川町などでは、「この明かりで来ちゃんなはい」と言い、家の前で迎え火を焚く。そのとき米を持って行って供え、家内中で迎える。送る時には「爺さん、婆さん、この明かりでおかえりなはい」と言う。
 上浮穴郡小田町では、一三日にセンゾンサマを迎える。迎え火は家の前か四つ辻で焚く。その火を線香につけ、この燈についておいでなさいといって迎えたり、おんぶの恰好をして案内してもどり、座敷に降ろす風をする。そのときの入り口は玄関ではなく座敷口である。座敷にはタマダン(盆棚)が構えられていて、棚には芭蕉葉を敷いてある。上段に位牌、中下段は花・線香・供物をする。供物は三角錐に盛り上げた紅白の米粉団子、餅、お茶湯、野菜、栗、御霊供膳などである。
 魂迎えをすると、まず御仏飯を供える。あとは毎日三度の御霊供膳を供える。またミズマツリをする。茄子を賽目に刻み、少量の米と混ぜて皿に盛り、この上にソハギの枝で水を振りかけて拝むのである。ソハギは仏の箸だといわれている。魂送りの日には、西瓜か、茄子、とうきび、菓子、ふろ豆を供える。
 越智郡玉川町高野では、迎え火は家の門口で焚き、送り火は墓で焚く。そのとき川砂を盛った上にオガラを置いて焚いている。新盆の家の場合はこれを百本焚くのである。

 盆 飯

 盆に子供らが集まって河原や浜辺に仮小屋を作り、めいめいが米や野菜などを持ち寄って自炊をし、寝泊まりして一日を楽しく過ごす風習が、本県の南予地域一帯にあるが、これをオボンメシ・ボンメシ・ハマメシ・オナツメシなどという。
 一本松町では、ボンガマともいっており、一五日の行事である。盆がまの飯を食うと元気になるといわれている。津島町では、ボンメシといい、一四日に少女だけでしている。ヤドを決めて、そこに集まってしているが、以前は川原でしたという。東宇和郡や北宇和郡ではオナツメシという。宇和島市の戸島や嘉島ではハマメシといっている。男女別々の組をつくり、盆休みで浜に引き揚げてある漁船に、舟ブキと呼ぶ萱の簀の子の屋形を作り、一三日から一五日までここに寝泊まりし、食事をするのである。遊子でもハマメシといい、女児がする。
 大洲市でも、一五日に子供らが男女別に組をつくって、川原に小屋掛けし、ボンマンマをする。その米は七戸の家から集めて来て炊くことになっていた。飯ができると、それを柿の葉に盛り、米を出してくれた家々に配って廻っていた。喜多郡肱川町予子林なども似たような風習であった。
 盆飯の風習は上浮穴郡小田町、伊予郡中山町や広田村などにも行われている。これがまた本県における盆飯習俗の限界でもある。小田町では、一四日・一五日・一六日となっているが、子供(特に女の子)ら四、五人がグループになり近くの川原に出かけ、盆飯を炊く。これを柿・ハス・里芋などの葉に盛って食べるのである。その様態からカワラボイト(河原乞食)と呼んだりしているが、盆飯を食うと夏ジケ(夏負け)しないという。
 さて、この盆飯の風習は広田村をその北限とするものであるが、遠く離れて越智郡の魚島にも見られるのである。しかし、これはテンテコメシと呼んでいる。すなわち、盆の一五日に、テンテコ踊りと呼ぶ民俗芸能があって、これが島をあげて賑やかに展開されだすと、少女たちが、各墓地を回り、墓前に供えてある松明を集めて来て、これでもってテンテコメシを炊くのである。昔の出陣のための炊き出しを模したものだという伝説があるが、やはり盆飯の風習と見られる。
 川之江市金田町や妻鳥町にも盆飯の風習があった。金田町では一五日の行事で、子供らが盆前になると家の近くの樹木の上に、樹木の枝を利用して足場を設け、そこに五、六人が座れる程度の広さの座敷(桟敷)を作り、ここを拠点にして遊ぶのである。そしてこの揚座敷が盆飯を楽しむ場所になるのである。妻鳥町ではこの行事をボンママタキと称している。
 以上が本県における盆飯の民俗とその分布のあらましである。川之江市のそれは、徳島、香川などの民俗との関連性が考えられるが、いずれにしても民俗文化の分布圏を知る資料として興味深い。

 盆さば

 盆に魚(さば)を食う習俗がある。両親揃って健在な者の特権で、必ず塩鯖を食べる。周桑郡丹原町などには「盆に来い 鯖食わそ」という言葉もあって、一五日は人間のお盆ということで魚を食べるのである。越智郡宮窪町では、それを「盆魚」と称している。また宇和島地方においてはサシサバという。やはり一五日の食習で、大良鼻では朝の食膳に両親健在なれば二切れ、片親なれば一切れをつけることになっている。日振島では両親揃った者に限られている。
 今治市小島でも盆サバといって一四日に両親生存している者が生魚を食べる風がある。盆サバは朝食時に食べるそうであり、同市馬島ではオゾウモンと称して乾物を食べることになっていた。

 盆 礼

 盆には親や仲人親などを訪問、贈答をする慣習がある。これをボンセイボ(盆歳暮)という。また嫁の里帰りする日でもあり、これをヤブイリという。越智郡玉川町では、そうめん、茶、下駄などを持って盆礼に行くいわゆるお中元を同町高野ではオタルという。盆礼に行ったときには「結構なお盆で」と挨拶する。
 ヤブイリは一月と七月の一六日の二回ある。この日は地獄の釜の蓋が開く日といわれ、奉公人も休みが貰えた。それで盆の一六日を「後の藪入り」と北宇和郡三間町などではいっている。この日は殺生を禁じていた。魚をとると魚の目ができるという俗信があったし、泳ぎに行くのを禁止する風であった。

 盆の火祭り

 小正月の火祭り(左義長、トンド)に対して盆にも火祭りがある。小正月のそれが東予の民俗的特色であることはさきに述べたが、盆の火祭りの場合も東予の民俗的特色といえる。それをサイト、マンドなどというのであるが、これも子供組の主管である。
 周桑郡では一四日と一六日の晩に、センドマンド(千燈万燈)といって、麦わらを束ねた松明を作り、それを手に手に子供らが持って、各部落ごとで池や川原の堤防に勢揃いし、火をつけて「せーんど、まーんど」と叫びながら振り回すのである。
 越智郡玉川町はいまもこのマンドが盛んで、それを主催する子供組の組織も現存しており注目される地域である。子供組は、大将(一三歳)、本手、新手などの年齢階梯制があり、大将はきかしたものである。マンド山というのがあり、ここに竹・麦わら・松の木などを寄せ集めてクロ(小屋)をつくる。また松明をつくる。これがサイトであるが、それを一列に一二本立て並べるのである。別にもう一本、特別長いサイトを用意する。日が暮れると、まず一二本のマンドにつぎつぎと火が点ぜられる。この間、半鐘が打ち鳴らされる。二つの長いサイトの火を大きく右に左に揺れ動かす。それを遠くから見ると猫が鼠を追っかけるように見えるところから、これを「猫と鼠」と呼んでいる。
 ついでクロに点火する。火柱が立つようにクロが激しく然え上がり、やがて燃え尽きる。「マンド カカンド」とはやしながら、大将が勇敢に竹竿でもって燃え落ちたクロの火を大きくはねる。火柱が立つ。壮観な火祭りである。
 同町古屋谷でも一二歳までの少年が三組に分かれて、それぞれ別の場所で行っており、一二日から一六日まで行う。一四日を迎え万燈、一六日を送り万燈という。同畑寺でも小屋とサイトを作って一三日にやる。桂では麦わらでサイトを作り、あぜ道を走り廻ってから最後に寄せ焼きすることになっている。
 北条市難波地区では「火やろ」という。庄、上難波、中通、下難波の四地区の一〇歳から一六歳までの少年が各地区ごとに集まって、大将の指揮の下に松明をつくり、一四日の夜と一五日の夜、迎え火と送り火の「火やろ」をする。夕闇にゆらぐ火の玉が印象的である。
 越智郡朝倉村では龍門山の万燈焚きが著名であった。ここの万燈焚きに行って、山から下りるときは「さがろう」と言わねばならぬことになっている。もし「帰ろう」と言うと白い首なし馬が出てくるか、だれか人が行方不明になるといわれている。また同郡大西町では、万燈焚きをナンマイドウといっていた。
 このマンド焚きは、松山市和気地区にも行われており、それをヤーケドと称した。やはり子供組行事で、一四日と一五日に行っていた。大川の堤上に麦わらや竹を各戸から集めてきて、大小のわら小屋とせんち(便所)小屋の三小屋を作り、これに火を放つのである。このとき子供らがサイトを手にして「ヤーケド ヤーケド」とはやしながら川上から川下へと火を点じるのである。一五日には送り火を焚く。本行事は、志津川・高木・馬木・平田・大内・内宮の六地区の行事であった。
 もう一つ注目される火祭りとして、伊予郡松前町大間の「火流し」がある。一四日に部落二か所の墓地に子供らが麦わらを持って集まり、火をつける。「お爺も、お婆もみな来いよ」と呼ばわりながら墓地内をめぐり、終わって部落内を貫流する大川にもどり、麦わらに火をつけて川に流すのである。
 一五日にもつづいて火流しをするが、このときは「来年じゃー 来年じゃー」とはやす。子供たちは流れ消え去って行く浄火に祖霊との訣別を惜しむのである。なお一四日に「百八灯」の行事もしている。
 いま一つ類似の火祭りとして温泉郡川内町吉久と畑川に火祭りが行われていた。一時中絶していたが、近年復活した。やはり川土手に大小の小屋を作る。これをホンモト・コモトと呼ぶ。サイトを立てており、百八灯というのである。川流れした亡者供養のためであろう。「太郎も来い 次郎も来い」と水死した友の霊を慰め呼ぶように呼ばわるのである。別に本行事をターラバイともいっていた。

 柱祭り

 高い柱の上に朝顔の花形の火受けをつけ、燃料を入れておき、下から松明を投げ入れて点火する行事を柱祭りという。八幡浜市五反田の「柱祭り」は県下唯一で、大仕掛けである。
 一四日晩、村人たちによって一二~三間ほどの柱の上に設けたジョウゴに、麻殼の火の玉を投げ入れるものである。その由来は山伏の怨霊説である。昔、金剛院という修験者がいた。彼は五反田の元城主摂津豊後守実親(南方殿)の客分であった。たまたま萩森城主宇都宮彦右衛門房綱と合戦することになった。そのとき彼は長崎方面に廻国中であった。主家の急を知って彼は直ちに帰城するべくとって返し、夜、松明をともして元城に入ろうとしたが、城内の者がそれを敵と誤認して射殺した。
 元城はその後間もなく落城したが、そのため金剛院は怨霊に化して多くの人を悩ませるようになったのである。里人はこれを恐れ、その霊を慰めるために本行事を始めたというのである。
 この柱祭りの行事を静岡県富士宮市の一部では「投げ松明」といっている。また富士川沿岸の村々でも行われていて、水死者の霊を慰めるためだと伝えている。柱祭りの行事はこのように一般に非業死を遂げたものの霊を迎えて、これを鎮める目的のものであった。なお、五反田の柱祭りは、九州の彦山あたりの山伏の影響が考えられる。

 百八燈

 盆には仏説の百八煩悩に基づき、百八把または多数の松明を焚いて精霊の祭りを行う。ローソクや線香で行うほうが今では一般的になっているが、いずれも「百八燈」と呼んでいる。二四日の「地蔵盆」の行事や寺院の「施餓鬼供養」に行ったりもする。
 西条藩の地誌『西条誌』(巻三)に、「百八燈」として「これは七月一六日夜、漁師共喜多浜の大土手に登りて松明を焚く。其算無数にして何ぞ百人といはん 百人と云数は仏家の百八の鏡の類なるべし これは龍神にささげ、又年中網する魚鱗へも罪ほろぼしに手向祭るの心とかや。豺・けもの祭り、獺・うをを祭るの類なるべし。塘数町の間に焚列て大地焦るばかりに見ゆ。また塘上にて躍をも催し、龍神を慰たてまつる。」とある。このような慰霊供養の目的から百八燈は行われてきたのである。
 このほか「高ぼて上げ」も類似のもので、盆にはこのように火を焚いて精霊に献ずる行事が多い。タカボテアゲはもっぱら南予地方に見られる行事である。例えば東宇和郡野村町予子林では七月二〇日に山の神に高ぼてをあげるといい、ホテを作って道の側に立て、鉦をたたき念仏をあげるのである。
 上浮穴郡小田町寺村の「山の神の火祭り」もじつは百八燈であって、もとは旧七月二〇日に行っていた。これは同地区中組の行事で、一五人の当番人が出て実施してきたといわれ、文政六年(一八二三)記録の「当番人控帳」が残っている。

 精霊流し

 盆に家々に迎えた先祖様、精雲を送り流す行事である。期日は一五日か一六日で、場所は辻、村境、川、海などである。盆棚(水棚)を解体し、供物を蓮の葉や里芋の葉につつみ、川や海に流す所、麦わら舟をこしらえて流す所などがある。また「団子流し」と言っている所もある。しかし、新盆の家の場合は、三年目に「燈籠流し」をするので「燈籠送り」ともいう。
 麦わら舟による精霊送りが現在も盛大に行われているのは西宇和郡瀬戸町川之浜や大久である。その舟を瀬戸町ではオショロブネといい、新盆の家が協力して造る。これに故人の好物を入れて沖に運び、帆をつけて流すのである。浜辺では家族たちが砂浜に線香を立てて、船が見えなくなるまで念仏をあげながら見送る。温泉郡中島町怒和では、紙人形、その他のものを載せており、船名を「精霊丸」と付けている。
 燈寵流しは、盆燈寵そのものを焼却する行事で、これは南予地方に特徴的な習俗である。これに対し、板の上に行燈風な燈籠をのせ、ローソクの火を入れて川や海に流す燈籠流しがある。これも各地に行われており、夏の夜の風物詩になっている。

 盆踊り

 盆にはどこでも盆踊りがある。盆踊りはもともと精霊の供養のために踊られるものであるが、現在ではそのもとの趣旨目的を失って、単なる娯楽として踊っている盆踊りも多い。しかし本県にはまだその信仰性や宗教性を保持した供養踊りとしての盆踊りが各地で行われているのはうれしいことである。盆踊りなどの民俗芸能については第七章で取り扱うことになっているので、ここでは盆と芸能とのかかわりを述べるにとどめたい。
 盆踊りは初めにも触れたように、原初的には新亡や祖先の供養踊りが目的である。それでそのような目的をもつ地域の盆踊りには、踊り場に祭壇を設けて位牌や写真を並べ、供物、供花を供えている。このような状態は島嶼部と南予地方の盆踊りに特徴的に見られるのである。
 温泉郡中島町は各地区とも盆踊りがよくはずむ土地柄である。元怒和では新盆の家を中心に行われており、青年団が中心になって盆踊りを運営する。それでかなり早くから種々構想が考えられるのである。新盆の家は、新亡の位牌・写真・供物・供花を仏壇風な箱に飾り、当日はこれを背負って踊るのである。一四、一五、一六日の三夜、夜を徹して踊り抜かれる。踊り子は変装をする。新盆の家からは酒や西瓜・菓子などの振舞いが出る。
 新亡の位牌や写真を背負って踊る風は越智郡上浦町や同郡岩城村などでもしている。岩城村では位牌を背帯につけて踊っている。
 盆踊りには必ず仮装踊りがある。それをバケルと一般に称している。盆踊りのおもしろさはここにあるわけであるが、盆踊りの盛んな土地というのは、そのような変装出演が伝統になっている所であるといえる。また盆踊りを「亡者踊り」という所がある。新亡・祖霊のための供養踊りを顕示したものである。
 越智郡魚島の盆踊りは櫓を組まない。輪踊りであるが、外踊りと中踊りの二重の輪踊りをする。外踊りは一般人が踊り、四ッ竹を鳴らす。中踊りは若者が仮装して踊るのである。楽器は締太鼓だけであり、太鼓打は太鼓をたたきながら音頭を出しつつ外踊りを踊るのである。なかでも特異なのは婦人の参加である。婦人も四ツ竹を持つが、必ず一ちょうらの着物を着て笠を被り、顔を黒布で隠すのである。いかにも亡者踊りさながらの芸態である。新盆家からは踊り子に対し振舞い酒が出る。それを「踊りを買う」といっている。
 南宇和郡内海村では踊り場に新仏の燈籠を点し、笹竹に手拭い・ハンカチ・団扇などを吊り下げて踊り場に立てておき、踊りが終わるとそれを踊り子たちに分配する。菓子や酒を振舞ったりする所もある。施餓鬼供養として行っている所もある。新亡家の家で踊ってから、会場に集合する慣習の所もある。これを越智郡大三島町明日では「門念仏を踊る」といっている。また喜多郡長浜町青島のように一四日は亡者踊りをし、一五日には魚供養の大漁踊りをする所もある。
 以上は、盆踊りが本来亡者踊りであって、新亡霊のたましずめであることを見たのである。一方盆には崇りをする神や精霊(餓鬼仏・無縁仏)が訪れると考え、それをもてなしたあと、踊りに巻きこんで村外に送り出すのもある。盆踊りには輪踊り型と行列型の二型態があり、行列型は精霊送り出しの要素が強いといわれるが、もともと両者は別のものではなかったであろう。本県には行列型盆踊りはないけれども、魚島をはじめ各地で仮装踊りが伝統的に見られるのは風流ということもあるが、その基盤には精霊送りの真意があったものと考えられる。なお、言い残したが越智郡吉海町津島の盆踊りはカベリモンと称し、頭上に燈籠様のものをつくり、それを戴いて踊っている。やはり変装をするのである。このように盆踊りは精霊と深くかかわっているのが古態であったのである。

 盆と競技

 盆に盆綱といって綱引きをする所があるが、本県には小正月にはあったが盆にはない。しかし、盆に競技的催しをする風がある。
 南宇和郡内海村平碆で、昭和一五年ごろまでカギカケということをしていたという。何の目的でやったのか不詳であるが、盆の一五日に年寄たちが寺で念仏をしたのも赤飯を食べて浜に出、そこでまた鉦を打って念仏をするのである。念仏が終わると集まってきた子供らに赤飯を分与する。そのとき子供らが木のカギを用意していて、それを老人の帯に引っかけ、老人が倒れるまで引っ張っていたという。
 西条市黒瀬には「笹踊り」と称し、村人が東西に分かれて笹竹でもって相互に打ち合いをする。盆の一五日の晩の行事で飛騨守神社の境内で行う。もとは若者たちの行事であったらしく、めいめい笹竹を持って集まり、二組に分かれて相対し、「ノッポイダーヤ ノッポイダーヤ」と囃しつつ激しく打ち合うのである。かなり乱暴な打ち合いをするけれども怪我をするようなことはないと村人は信じている。とくにこれまでに願掛けをしている者は必ず参加することになっている。笹踊りの笹はあとで枝を折って持ち帰り悪魔除けのまじないにするのである。
 この笹踊りによく似た風習に「竿打ち」というのがあった。もう八〇年余り前ということであるが、越智郡大三島町宗方で、盆の晩に子供組が竿竹で打ち合いをしていたという。
 温泉郡中島町の野忽那では和船競漕があった。三隻の和船を仕立て、大小二組の六チームを編成して盛大に行われたが、太平洋戦争後廃止された。これが終わると娘たちが出て若者を接待し、大盤振舞いをしていた。
 越智郡魚島のテンテコ踊りも一種の競技である。盆の一五日に退潮した砂浜で行われる。島を東西二組に分け、めいめい変装をしてこれに参加するのである。行列を編成し、先頭に二人のダイバンがつく。サキダイバン、アトダイバンといい、鬼面をつけ若者が、前者は笹束を両手に持ち、後者は六尺棒をもつのである。このダイバンの先導によって行列は進行して行くのであるが、「テンテコテンテコテンテコヤ」と打つ太鼓の拍子にのって二人のダイバンが格闘劇を演じるのである。相互に激しく斬り結ぶように活動するのであるが、サキダイバンがアトダイバンを笹束でもって露払いをする所作を繰り返し、テンテコヤの拍子のあと、「コリャセー ソリャセー」の掛け声がかかるとサキダイバンがアトダイバンに笹束を戴かせるのである。
 この動作を繰り返しつつ東西から行列は進行して行くのであって、その間の距離約百mくらいである。中の浦と呼ぶ浜辺には祭壇が設けてある。これが中央であって両隊列はここを目指して練り込むのである。やがて両者が祭壇前で相会するが、そこから両者併列縦隊になってそのまま祭壇へと向かう。これをテンテコの練り込みというのである。
 この練り込みのとき、東西のサキダイバンが交替することになっている。この練り込みで祭壇にたどり着いてこの行事は終わるのであるが、そのとき踊り子たちが一斎に「砂まき」をするのである。東西に分かれ激しく砂をぶっつけ合うのであって、昔は力が入り過ぎて喧嘩になり、怪我人を出したほどであった。勝負を決するというほどのものではないが、砂撒きがこの行事の見どころであったのである。
 踊りが終わるとダイバンの笹を見物人が奪い合って一枝ずつ持ち帰る。家の戸口に挿して悪魔・悪病除けのまじないにするのである。
 なお、このとき少女たちが浜辺にクドを築き、墓前に供えられている松明を集めてきてそれで飯を炊くのである。それをテンテコ飯といっている。伝説によれば、本行事は吉野朝時代にいた篠塚伊賀守が戦いに敗れてこの島に逃れたが、彼は敵の来襲に備えて操兵の訓練をした。すなわちテンテコ踊りはその遺風であるというのである。またテンテコ飯は、そのときの炊き出しの遺風だというのである。伝説はともかくとして、このテンテコ飯が盆飯の風習であることはすでに述べたとおりである。