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愛媛県史 民俗 下(昭和59年3月31日発行)

第二節 春から夏の行事

 初朔日

 二月朔日をハツツイタチ、タロウツイタチ、ナラビツイタチ、ヒシテ正月などという。
 ヒシテ正月は一日正月ということである。それで仕事を休み、何かカワリモン(ご馳走)をこしらえ、正月に準じた祝いをした。それで越智郡魚島のようにヒトヒ正月という所もある。ハツツイタチは最初の朔日ということである。もとは正月一五日が正月行事の中心だったし、年が明けての最初の一日は二月一日になるのでかくいったものといわれる。タロウツイタチも同じことである。太郎は長男の一般的呼び名であるからである。温泉郡中島町などではナラベツイタチと呼んでいるが、これも正月に準ずる意味からである。また今治市馬島のようにシマイ正月と呼ぶ所もあった。おもしろいのは「小正月」と呼ぶ言い方のあったことである。
 俳人、小林一茶の『寛政七年紀行』中に、「二月朔日を小正月と言て、雑煮の仕納となん、此地のならひ也。召仕新しき哉小正月」とある。一茶が寛政七年(一七九五)讃岐国から松山の栗田樗堂を訪うたときの一章である。俳句の「召仕新しき哉」は奉公人(下男下女)の出替わりのことを言ったものと思うが、二月一日はまたそのような日でもあったのである。
 二月一日を「二月入り」と称し、特別な感覚で受けとめる風が一般に見られる。南予地域ではこの言い方が一般化していて、奉公人の出替わり日とされていることからデガワリともいった。
 伊方町の町見地区では、二月入りには一般に業を休む。下男下女の出替わり日であった。三瓶町では若餅を搗いたり、ご馳走を作って食べた。また城川町下相では、餅を重箱に詰めて氏神である八幡社に集まり、大神宮様のお祭りに供えてからこれを撒餅した。三間町でも二月一日をデガワリという。またお伊勢様のお祭りなので伊勢踊りを行う。日吉村では、女衆の出替わり日といっていた。
 なお、伊予市・伊予郡・松山地方では二月入りといえば郡中(伊予市)の谷上山宝珠寺の縁日を想起する。谷上山(四五六m)の頂上に、太古、愛比売命が誕生されたという伝承の「夜光の井戸」がある。五穀豊穣の守護神として崇拝され、そこに祠を創建して「田神さん」と称し、農民の信仰を受けるに至ったのが始まりで、後ここに寺院を建立したとの縁起がある。他に光り物の信仰伝説などもあって広く農民の信仰を集めている。
 この外、二月一日は南予地方では村落の役員改選の日であったり、若者組新加入の日であったり、若嫁が里帰りする日でもあった。すなわち、宇和町稲生部落では、この日、青年団の入団式として伊勢踊りを行っていたのである。なお、家に不幸事があって正月が不都合であったりしたときは、この二月一日に門松・注連飾りをして遅ればせの正月祝いをする風が昭和二〇年代まで各地で見られた。

 年祝い

 年祝い(年賀・厄ぬぎ)は二月一日に限っているわけではないが、だいたいこの日に祝う風が多い。男の四二、女の三三、男女六一 (還暦)、七七(喜寿)、八八(米寿)などを祝う。女の三三歳の祝いは親元から帯を贈ることになっている。男の四二歳は「腕で祝う」といわれ自力で祝うほどのものでなければならないとされていて、津島町などではこれをオトシマツリといっている。すなわちいちばん大きな責任のある客呼びの機会であって、三日も四日も祝う風であった。
 第一日目はルイ(親類)全部が集まり、神職を招いて屋祈祷をする。二日目はフツカモリといい、組内の主人たちが全部集まって来る。ミカモリ(三日目)にはその家内全部が来る。四日目はイタナガシといって世話方全部にご馳走するという風であった。
 また曽我鍛の「随筆豆郷土」(伊予史談九四号)によれば「春はまた年賀の宴がここかしこに催された。男は四十二と六十一の還暦、女は三十三、なお稀には古稀の七十、喜の字の七十七、米寿の八十八、九六の九十六の長生きを祝うなどの寿宴なども開かれたが、一般にはまず前記の三者で、近親から八木、着物、帯、酒樽などを贈り、宴は昼夜両三日にわたり、最後の日は柴焚きと称し、ご馳走資料の残りたるものに多少買い足してこれを補充し、内輪の慰労宴が開かれたように記憶する」と述べている。
 八八の祝いには男は桝のトボウ(斗棒)を、女は茶袋や腰紐を八八こしらえて返礼に贈ったりした。その記念の斗棒が神社に奉納されてあるのをよく見かける。
 東予地方では、各自が神社に参詣して神職に祈祷をしてもらうのが一般的である。なお、八幡浜市穴井や越智郡吉海町のように女性が個人ないしツナギ(連名)で息災を祈って地芝居の衣装を寄進したりすることが以前にはみられた。(厄年・年祝いについては第八章第二節参照)

 二日灸

 二月二日にフツカヤイトといって灸をすえることにしていた。吉海町津島では、肩二点、腰一点をすえたといい、この日すえればよく効くと伯方町北浦では伝えている。長浜町青島では、若衆が村の娘をよんでヤイトをすえさせた。終わるとぜんざいや豆を食べたりして遊んだという。それは大正末期ころまでであった。大三島町浦戸では二日のヤイト日にはメオエといって若い男女が各々宿に集まって灸をすえ合い、また出し合いで五目飯などを炊いた。そのときカケロクといって食べ比べをした。
 なお、これは別に二日灸に限ったことではないのであるが、ヤイトをすえる際にはヤイトギといって何か口にするもの、たいてい炒り豆であったが、それを食べながら灸をすえたものである。ヤイトギとはヤイトトギの約まった語と思うが、ヤイトの日には必ず用意したものであった。

 初午と初卯

 二月最初のウマ(午)の日をハツウマといい、稲荷をまつる風がある。また各地の稲荷神社では初午祭が行われる。伊予市稲荷や三間町戸雁の稲荷神社初午祭が盛大に行っている。戸雁の稲荷神社の初午には市が立ち、商人が来て社頭で種子物を売ったりした。昔は種田があってそこの種籾を参拝者に授与する風があった。伊予市の稲荷神社では京都伏見の本社の「験の杉」の故事にならってか、災難除けの御神杉や春駒笹の縁起物を参詣者に授与している。また高縄半島地域の稲荷社には「福木投げ」の行事が普及している。
 初午の早く来る年は火に早いといわれ、火災の発生し易い年ということで火の用心に心掛けた。稲荷といえば商業繁盛と結びついてそれが第一義的に理解され普及しているが、元来は農神信仰から発生したものと言われる。それは稲荷神社の祭神が宇迦御魂神(衣食住の守護神)―特に穀物の神の信仰に関係があるからである。二月は農耕開始月で田の神が活動を開始する月である。農神の去来する日―「社日」があったり、「春亥の子」の民俗があって、民俗信仰と結合し易い素地がある。
 次に、初午のコトスボの民俗について見てみよう。大三島町肥海では、初午の日は赤飯を炊き、家族数だけ萱茎箸をつくってこれで食べる。別にコトスボという藁すぼをつくって中に赤飯を入れ、縄目には萱の箸をさし通してこれを家の屋根に投げ上げるのである。悪病除けのまじないであるが、烏がこれをくわえるのをよいとする風がある。なお、箸は家族数だけでなく平年は一二膳、閏年は一三膳作って縄にさし通す家もあった。
 これと同様の民俗を宮窪町ではイノチゴイ(命乞い)といった。剌した箸で飯を食うまねをすると病気をしないといわれ、また屋根に投げ上げたスボを烏がくわえて行けばその家は幸福であるといわれた。上浦町盛や瀬戸でもコトスボという。藁苞をつくってこれに飯を入れ、家族数の箸とコト神の箸一膳を添えて供えており、また伯方町伊方では、家族数と烏夫婦の数(二膳)の箸を刺して朝屋根に放り上げるのである。これに似た風習は、山形県東村山郡などにもあって、二月八日に家内の員数だけの団子をみず木の枝にさし、それに唐辛子一本、付け木一本を添えて家の表と裏口とに立てておく。これを烏団子といって、烏が翌朝までに食うようなら無事、もし変事の起きる場合は食わぬといわれている。コトの神様とは厄病神と考えられる。一ツ目の神と言い伝える土地もあるが、前記東村山郡でも烏団子に添える付け木に目一つの顔などを書くという。すなわち、厄病神を追い払う日であったから、この日を特に命乞いと称したわけで、無病息災を祈ったのである。この場合、その厄を運び去ってくれる烏は山の神の使いと考えられている。
 初午に対し二月最初の卯の日を初卯という。八幡神社には「卯の日祭」を行う神社がある。宇和島市周辺地域では和霊神社に参詣する風がある。本県で注目される二月初卯の習俗では上浮穴郡小田町田渡の新田八幡神社のそれである。俗に「ボボ市」と呼ばれた。その理由はこの祭りの夜に限り、白手拭いを被っている女性には自由に言い寄ることが許されたという。それで縁結びの神という俗信にもなったのであるが、卯の日祭りの始まりは明治二〇年代からでそんなに古いことではないとする説もあり、野合うんぬんを否定する者もあれば、実見的主張をする者もあってさまざまである。

 彼 岸

 「暑さ寒さも彼岸まで」「彼岸過ぎての麦の肥、はたち過ぎての子の意見」という諺があるように、彼岸は季節の折り目で、農耕上の目安になっている。
 彼岸といえば先祖を祭る日、墓参をする日として古くから重要な年中行事の一つであった。彼岸は梵語の波羅密多(paramita)を訳した「彼岸に到る」の略で、生死の境を此岸とし、現世の煩悩を解脱し、涅槃の世界に到達することをいう仏教の教理から出た語である。また彼岸会という言い方をするが、これはこの日金剛般若経を転読したことから起こったものという。この般若経転読のことは、延暦二五年(八〇六)二月、崇道天皇(追尊天皇で光仁天皇皇子早良親王のこと)のために修法されたのが初見である(『日本後紀』)。また彼岸の語は平安時代の文学にも散見する。すなわち源氏物語に「十五日彼岸のはじめにて…」、また「彼岸のはて」あるいは「二月十九日になりぬ。(中略)ひがんに入りぬれば…」とあるのである。
 かく彼岸は仏典の教理に基づいたものであるけれども、仏事の彼岸会は本地のインドにも中国にも行われておらずわが国独自の行事と見られている。言うまでもなく彼岸は春秋二回あるが、一般に仏事は春彼岸に行っている。彼岸の期間は七日間で、初日をイリとか彼岸の入りといい、中日をチュウニチ、終わりの彼岸明けをサメという。彼岸には家の仏壇で祖霊を祭り、墓前にもハナ(樒)を立てるが、初日の花立てはイリバナといって忌みる。これをヒガエリバナ(日帰り花)という所もある。
 春彼岸前に新亡があるとアラヒガン(新彼岸)とか初彼岸といい法事を営むのが普通である。早目に親類縁者などは供物を持って彼岸見舞いに行く。秋の彼岸には全く墓参をしないとはいえないが、一般に仏事はしない。「秋の彼岸はオヤより団子」といわれ、彼岸団子、ぼた餅などを作って食べる。

 彼岸養い

 彼岸に嫁が里へ土産を持って休みに帰るのをヒガンヤシナイという。親養い、春休み(彼岸休み)ともいい、嫁の楽しみの日であった。中島町大浦では、嫁の里の両親を招待して祝っており、同町睦月では、春の彼岸には嫁の里から贈答をし、秋には反対に婚家からおはぎを作り、イレコ(木箱)に入れて嫁を休みに行かせるのをいった。この土産物を土居町でも彼岸養いというのであるが、団子、豆飯などである。中島地方は彼岸養いの盛んな地域の一つで、西中島では嫁の里親が生きている間は、小豆飯を彼岸養いに贈らねばならないと言われている。城川町下相では親を生き仏として彼岸見舞いをするのだといい、その土産も小松町石鎚地区ではトウキビやタカキビ団子、あるいはすしをつけて持参することになっているなど、彼岸養いの風習は盆のイキミタマと同性質のものと見ることができる。
 越智郡菊間町では「親養い」といって餅を持参する。上浮穴郡美川村では、ぼた餅を持って里へ行くといい、一般に彼岸養いの土産は餅である。小松町では、結婚最初の彼岸に嫁は実家へ春休み(彼岸休み)といって里帰りをすることになっているが、そのときウチアゲ(婚礼)の際に贐を貰った家へ餅を土産に持参する。五合餅、七合餅など紅白一重ねの餅を重箱に入れて配るのである。婚家へ帰るときも婚家でその通りする習慣であった。重信町下林などではよもぎ餅を搗いたり、紅白餅をイレコに入れて嫁の里へ彼岸見舞いに持参していた。また婚家へもどるときには、同じく里から餅を搗いて返礼をする慣習であった。
 彼岸養いは日帰りとしたもので「親養い汲む茶も飲むな」といわれている。反対に秋の彼岸は何もしないので「秋の彼岸は親知らず」といわれる。彼岸がこのように婚家と嫁の里との贈答儀礼の機会であることは、日本人の祖霊観念と関係があるのではないかと思われる。

 社日と農神去来

 社日は春秋の二回あり、本来中国渡来の年中行事であるが、いつしか日本固有の民俗信仰と融合して農村の年中行事に定着した。春の社日は立春から第五の戊の日、秋の社日は立秋から第五の戊の日である。社日は本拠の中国では后土(土の神)をまつる日となっているが、わが国にあってもそうで、この日は土を休める日で、土を移動したり土地に鍬を立てることを忌みるなど地神祭りをする日であった。
 たいてい各村々には地神社とか社日社と呼ぶ小祠がある。社日社、三宝神、五穀神などと刻んだ自然石を建立して信仰している所もある。社日には組中の者が出て、そこで一同でオコモリをしたりする。それを「地神講」と呼んでいる所もある。わが国には、春は山の神が田の神となって野に降り、秋には再び山の神となって山に帰るという農神去来の神観念がある。この素朴な神観は本県ではもうだいぶん廃れてきて、多くは家の神と習合して恵比須や大黒天に変容した伝承になってきている。その辺の事象を少し眺めておきたい。
 道後平野の穀倉地帯である松山市井門町あたりでは、山に棲む田の神が春の社日には村に降りてきて、秋の社日には稲作を終えて山に帰る。また二月社日には天から神様が稲穂をくわえてきて籾を播き、八月社日にはそれをくわえて天に上がるのだと伝えている。また同市久谷地区でも、春の社日には歳徳神が馬に乗って農作に来られ、秋の社日には亥の神様になって牛に乗って帰られるのだといっている。
 同じ伝承は各地にあって、同市小野地区や伊予郡砥部町などでもいわれている。ここでは大黒が出雲へ田作りに行くので朝供物をして祭り、秋の社日には仕事を終えて帰るので夜遅く供物をして祭るといっている。
 しかし一般にはこの古風な農神の信仰伝承は廃れて、家の神と習合した去来観のほうが広く分布している。前述の「出雲へ田作りに行く」という伝承も、大黒天と出雲の大国主神とが混同したものであるが、本県の農家ではそれをオイブツサマと呼んでいるのである。
 温泉郡重信町あたりでは、春の社日にはオイブツサンが家から田へ作りこみに出られるので、早朝に赤飯を炊いて供え、秋の社日には作って帰られるので夜供物をする。伊予市本郡や伊予郡中山町などでも同じ伝承を伝えている。中山町では春の社日にオイブツサンが畑作を見廻りに行くのだという。喜多郡肱川町予子林でもオイブツサンが作の番に出なはるので、春の社日には弁当を早朝炊いて見送り、秋には芋やとうきびなどを供えて祭る。同町小藪ではオイブツサンが作場まで出なはるといっており、上浮穴郡地方でもそう伝えている。
 また北宇和郡や南宇和郡も同型の伝承地帯である。吉田町東蓮寺谷では、春の社日にはオサンバイサンが田に出るから御飯を炊いて弁当を恵比須様の棚にあげる。子の刻に出るので早朝に起きて炊くのだといっている。そして八月の社日には再び家に帰る。津島町岩淵には、部落の氏神境内に「社日社」の自然石があって、それを村人は地主大神、社日様、作神様などと呼んでいる。ここではお正月様が節分からお社日様になり、お社日様は春はシツケにもどり、秋には取り入れに来るので餅を搗いてまつるのだと伝えている。宇摩郡新宮村では、春の社日はお社日さんが作をつくってくれるので、一升桝に二分目の餅を入れて供えることになっていて、必ず早朝に餅を搗いた。秋の社日には夕方に餅を搗き、一升桝にいっぱい盛って供える風であったという。
 以上見てきたように、本県においては田の神は春秋の社日を目安に去来するとの観念があって、それも家から田へ、田から家への去来観が成立していることが知られるのである。秋の社日は収穫を祝う目的から色づいた稲穂を地神社に掛けるホカケの儀礼があったり、焼米をつくって供えたりする習俗があるが、この収穫儀礼については既に「農耕習俗」(上巻第二章第一節)の項で触れたので略する。

 八社参りと七鳥居参り

 社日はだいたい彼岸中に来るのであるが、社日は一日なのに彼岸は七日間である。これには次のような民話がある。

大昔、彼岸と社日という相撲取りがおった。両者が取り組むことになった。そのとき彼岸が言った。「ちょっと待ってくれ、一膳飯を喰うてくるから先に行きよってくれ」というのである。
社日は彼岸をたまがしてやろうと思って、その間に榎の木に登り、彼岸の来るのを待っていて石を投げつけた。ところが運悪く石の当たり所が悪かって彼岸が死んでしもうた。
社日は彼岸をたいへんあわれみ、すまんと言って彼岸は七日間まつり、社日は一日でこらえた。

伊予郡広田村高市に伝わる民話であるが、同地では「一膳飯を喰って榎の木の下を通られん」との諺の由来譚として語られている。
 社日でもう一つ注目される習俗は社日参りである。八社参りとか七鳥居参りといって各地それぞれ地域内の神社を巡拝するのである。松山地方や周桑郡では八社参り、越智郡・宇摩郡では七鳥居参りといっている。
 社日参りの要領は、部落の氏神を起点にするか、反対に最後にする。またその年の明き方から廻り始める所などがあって一様でない。いまでは土地土地の便宜によっているようであるが、以前は決まった作法があったのかも知れない。しかし、この習俗も昭和三〇年代から下火になってきたようである。
 松山地方の農村で巡拝する八社参りは「八社八幡」と呼ばれ、松山城を中心に周辺の八社の八幡神社を一般には言っている。すなわち、湯月八幡(道後の伊佐爾波神社)、桑原八幡(畑寺)、日尾八幡(久米)、正八幡(小栗の雄郡神社)、日招八幡(保免)、山崎八幡(南江戸の朝日八幡社)、還熊八幡(山越)、勝山八幡(味酒の阿沼美神社)の八神社である。
 周桑地方でも旧郡内八社の八幡社を選んで、五穀豊饒を祈って巡拝する。高知八幡神社(丹原町高知)、甲賀八幡神社(東予市上市)、保内八幡神社(同市円海寺)、鶴岡八幡神社(同北条)、徳威八幡神社(同吉田)、綾延八幡神社(丹原町田野上方)、福岡八幡神社(同町今井)、湯座八幡神社(同徳能)の八社である。
 宇摩郡地方では、土居町内の村山神社(津根)、井守神社(中村)、天満神社(下天満)、土居神社(入野)、三島神社(小林)、八雲神社(上天満)、伊太邸神社(土居)の七社参りをいう。
 七社参りを越智郡や北条市では七鳥居参りといっており、これをすれば中風を病まぬとか長病みしないで楽に死ねるというのである。また、越智郡には社日は年中でもっとも良日で、建前(新築)、婚礼などにまがり障りのない日だとの観念がある。
 このような習俗は各地にあるわけで、山梨県東山梨郡では七所詣りといっており、石の鳥居のある七社を参詣する。しかし、大きな川を渡るとご利益が流れてしまうというので、川を渡らないようなコースで参拝する。また、中風にならぬという俗信もある。また、熊本県球磨郡でも秋の社日に七鳥居といって、早朝に七社を巡拝する風がある。京都府中郡や和歌山県那賀郡では、日は彼岸であるがこのように巡拝することをオトモ、丹後ではヒノトモといっており、共通した習俗を伝えている。
 本県の八社参りや七鳥居参りの習俗は、農民の信仰兼娯楽であり、同時に農事視察であったところに興味深いものがある。(社日講については第四章第三節を参照)

 常楽会

 二月一五日の仏事でジョウラクエまたはオネハン(お涅槃)という。旧二月一四日の晩から一五日にかけて行われる釈迦入滅の日にちなんでの行事である。
 お涅槃の盛んなのは東予であろう。同宗派の寺院が順廻りで行っている。周桑郡丹原町の寺では、涅槃絵を掛け、ソギを参詣者に渡す。参詣者はこのソギを買って杓でこれに水を掛け、経木場に流して亡者の霊を弔うのである。経木場は蘇鉄の葉で囲った簡単な施設であるが、本堂と善の綱を引いて結んでいる。また、前の常楽から後に死者のあった家では、新亡者の形見の品(またはお布施)をもって常楽の寺へ参り、その菩提を弔う。寺では形見の品を善の綱に吊すのであるが、これを三年間続けるのである。なお、常楽会には、この機会に檀徒から寄付募金をして寺の営繕をしたりする。またダシを作って参詣人に見せる。檀家の者が部落単位や組単位で競争で作って奉納するのである。浄瑠璃、ならし芝居、浪花節、万歳などの余興を行う所もある。
 寺へお涅槃の申し込みをするのを新居浜市あたりでは、「寺へかけものに行く」という。現金を納める場合でもそういう所がある。新亡者の戒名・氏名を僧侶が読み供養読経をすると、亡者の魂が出現するといわれる。小松町の香園寺では、故人の日常使用していた遺品を掛け吊し、その遺品を通じて故人を偲ぶのである。かく遺品を掛け吊すのでカケモノをするとの言葉まで生じたものである。
 宇和町には、涅槃講があって部落中の者が寺に集まって飲食をともにし、住職からお説教を聞く。美川村日野浦では、光明寺にて昭和一〇年代まで大数珠くりをした。鉦、太鼓に合わせて念仏を唱えて無病息災を祈った。それが終わると酒盛りをするが、解散するとき供物にした椿の葉を各自持ち帰って念仏会参加の印とする風であった。

 雛祭り

 三月三日、四日はヒナゼックという。桃の花の季節なので桃の節供といったりするがヒナマツリともいう。雛人形を飾り、菱餅、あられ、白酒、瀬戸貝などの供物を供えてまつる。現在は御殿造りや豪華な内裏雛を飾ることが一般化しているが、それ以前は紙人形や土人形を飾った。
 これは宇和島藩の場合であるが、文政の頃の桜田某の随筆によれば、「雛遊 雛のこと宝暦明和の頃迄は御家中始め床に御定の寸法の紙ひな三対に膳を備有事何方も同じ。乍ㇾ去追々譲り受けたる雛も有らば、奥の方にて人の不見所へ長持等の蓋の上へ並べ立て、夫に膳を供へる事なりき。初節句の処は右三対の雛の前にて酒を飲む。肴は正月の引合にて数は不増。何方にも萵苣のしたしものに、釣干大根のハリハリ胡麻かけは有れども、今時の様に鯛の浜焼、夫もかうじて焙ろく焼・雄子の羽盛、何時から取出すか鯉の活盛。兎角いり酒は口に付く刺身肴、生身がないと飲めんと言ふ放気者もあり。価の高い酒を飽くほど飲むに及ばぬ事、昔は此の様な事はなかりき。」とある。これによって分かるように紙雛が武士の家でも普通であったのである。それが華美になる傾向もあったので、宇和島藩でも松山藩でもたびたび倹約令をもって自粛を命じている。
 前年の節供後に生まれた女児のある家へは親類、知人から歓びとして初雛を贈る。初雛の家は旧二月二八日頃に雛を飾り、歓んで来てくれた人々を招待して初節供を祝う。これは東予市、周桑郡地方の風習であるが各地共通した習俗である。三月節供は女の節供の異名もあるように女児誕生の場合のみ初雛を贈るように見られているが、松山地方のように男児の場合にも雛人形を祝う風もある。普通は天神雛を買った。「松山天神」や「野田天神」(重信町野田)などの土天神が贈られた。越智郡地方では広島県の「三次天神」を贈る。
 雛(人形)は節供が済むと流すのが本義であるが、いつの頃からか丁寧に紙などで包んでしまわれるようになった。そのときオミヤゲといって紙に豆を包んで入れている。また嫁入りの時には自分の雛を持って行く風もある。また女が死亡したときや古雛は氏神などの雛捨場に納めたり、海や川に流す。伊予郡松前町の松前地区では「淡島様のところへ早く着くように」との願いをこめて海に流した。
 雛節供には桃の花を飾ることは既に言ったが、これを越智郡大三島町肥海では、各家々で母屋の軒に桃の小枝と柳の枝を取り合わせたものを二~三尺おきに三か所に挿す風がある。そして以前には餅を搗いて親類へ配っていたという。初節供祝いの案内に餅を配って行って案内する風は松山地方でも行っていたことだが、最近はしなくなったようである。

 雛あらし

 四日をヒナアラシと称し、雛に供えた供物やご馳走の重詰弁当を持って山野や海浜に出向き、一日飲食して楽しむ風がある。これをハナミとかナグサミという。「山遊び」「磯遊び」ともいう。変わった言い方では川之江市金川のように「山ひ」「浜ひ」と称する所がある。また南宇和郡地方では節供のウラツケといっている。雛あらしで遊びに行く場所はだいたい土地土地によって決まっている。最近では交通機関の発達や自家用車の普及であちこちの行楽地へ遠出する者が多くなり、古くからの伝統的な雛あらしはなくなりつつある。
 松山市津吉町にはハナミセ山があり、同市北吉田町にはセク山(お節供山ともいう)というのがある。四日をヒナアラシというのは、伊予市、伊予郡の山村から上浮穴郡、東宇和郡、北宇和郡地方などである。久万町上直瀬では、三日も四日も山遊びに行くが、四日には村の若衆が娘の家々を訪ねてご馳走を食べて廻り、文字通りヒナアラシをしていた。同様の風は北宇和郡地方にもあって、吉田町大良鼻では、三日には磯遊びに行き、四日には山遊びに行く。ただし三日の午後には若衆が家々のヒナアラシに行っていた。また津島町御代川や松野町目黒などにもこの風があった。西宇和郡や喜多郡各地でも雛あらしをするが一般にはヒナオクリと称している。特に長浜町青島ではシオヒといい、浜の弁天様へ行って弁当をひらく。この日は潮がよく干るので「三日のヨメナキ潮」という。四日にも浜に出て弁当を食べる。
 また所によっては神社などに参籠して飲食する土地もある。津島町下灘では三日は雛節供で休業し、四日をソウゴモリ(総籠り)といった。また近所の遍路道に出て遍路に接待をしていた。肱川町予子林、玉川町などでも部落の神社でお籠りをする風であった。雛あらしに四国遍路にお接待をする風は松山地方の遍路道周辺の村々でも行っていて、若連中の行事であった。
 つぎに四日をとくにナグサミとかオナグサミという所がある。松山地方や周桑郡などである。また花見という所もある。この日は別に花があってもなくても花見というのである。ナグサミは「慰む」が体言化した語である。この日、陽春の野外に出かけ家族や隣人が飲食することは慰安そのものであり、楽しいことである。正岡子規も「なぐさみや花はなけれど松葉関」の句を詠んでいる。これと同じ習俗は長崎県の対馬にもあり、「春慰み」といっている。三日に部落こぞって磯に出て終日遊ぶので「瀬祭り」ともいうそうである。
 本県の三月節供には雛節供というかつて形代に穢れを移して流した祓いの行事と、山遊びや磯遊びという野外飲食の習俗が習合している点が注目されるのである。昔から「ノラ(怠け者)の節供働き」といわれているように、この日は家にいて仕事をしてはならぬ日、つまり、神祭りの日であったのである。春の農事開始を控えての祭りであったと考えられるが、その古俗を本県の三月節供の民俗は暗示している。

 こんやま

 三月節供には子供らは必ず山や川原で陣屋遊びや戦争ごっこをして一日を楽しんでいた。いつ頃からの習俗かは不詳であるが、吉田町では村の付近の山の頂上、または中腹の眺望のよい所に子供らが集まって食事をして遊ぶ風があった。「三月三日千度戦万度勝也」などと書いた旗を立て、それをゲンジといったそうである。同じ風習は城辺町深浦を中心に岩水、垣内などにもある。節供前になると近くの山にやぐらや城を菰や莚を持ち寄って作り、そこに小旗や大漁旗を立てて飾る。二日の夜から泊まり込む所もある。以前は、やぐらや城の壊し合いをしたり、旗の奪い合いをしたらしく、同じ行事を山口県下関市では「源平遊び」といっている。
 なお本県の三月節供の特例として八幡浜市真穴地区における座敷雛の風習がある。当地独特の雛飾りで、今年初節供を迎える女児のある家だけの行事である。家の座敷に岩や海砂でもって豪華な箱庭をつくり、そこに親類、知己から祝いに貰った雛人形を配置して飾るという趣向のものである。家々によっては専門の庭師に頼んで造る家もあって、互いに座敷飾りを競う。ただしこれは長女出生の場合だけである。

 灌仏会

 釈尊の誕生日と伝える四月八日の灌仏会には各寺院では、れんげ草をはじめ野の花でもって屋根を葺き飾った花御堂を本堂前に設け、これに銅製の誕生仏を浴仏盆と呼ぶ水盤に安置する。参詣者は竹の柄杓で甘茶をこの誕生仏に注いでは祈願をする。そして甘茶を受けて帰る。
 甘茶には格別の呪力があると信ぜられていて、家族で分けて飲む。またこれで墨をすり、「千早ぶる卯月八日は吉日よ、神さげ虫を成敗ぞする」とか、「卯月八日のちる日に神さげ虫を成敗する」とか「茶」とだけ書いた紙片を逆さにして家の柱や入口に貼っておくと長虫が入らぬといわれている。また甘茶を家の周囲にまいて百足や蛇除けの呪いをする。
 宇和島市や北宇和郡では、この日は柴餅をはじめて作る日である。南宇和郡城辺町でも八朔(旧八月一日)から四月八日までの行事には搗き餅であるが、四月八日以降八朔までは柴餅のものだとされている。
 また、四月八日に山に登って花を摘み、天上あるいは山上から神迎えをするために、花を立てて祭る風が近畿地方中心に見られるが、本県にも相似た習俗がある。すなわち大三島町肥海では、この日マルウツギという灌木の小枝を折って来て家の軒に四か所さす。岩城島ではつつじの花をとって来て、墓や仏前に供えている。小田町本川にも同様習俗があるらしく、宇和島市祝森では、権現様のお春祭りなので、鬼ヶ城のシャクナゲをとって帰って苗代や神棚に立てることをする。
 なお、この日に蚊帳の出し初めをする。そうすると夏が無事に越せるというのである。さらにこの日の天候で今年の夏の天気占いをする。つまり、雨がもし降れば日照りだというのである。しかし、伊予郡、温泉郡地方ではこの反対を言っている所もある。

 宵節句

 五月節供は男の節供、端午の節供などという。端午の端ははじめての意味で、五月のはじめの午の日のことである。五の字の重なる重五、すなわち五月五日をさすことになった。この日、粽をつくるのは中国の風習で、楚の屈原が汨羅に身を投じて死んだのがこの日であったことからその霊を慰めるために粽を水に投ずるのだという起源譚が流布している。
 前日の四日をヨイゼック(宵節供)といい、菖蒲、よもぎ、萱、せんだんなどの香草を一つに結わえて屋根上に投げ上げたり、軒先に挿したりする。これを「屋根ふく」と一般に言っているが、それを宇摩郡新宮村などではヤネフキといっている。この習俗の理由については、各地さまざまの言い伝えがある。例えば松山市湯山では、屋根(住居)を浄めるためだという。その他、悪病除けのため、この夜毒が降るからその毒除けの呪いだというところ、伊予郡広田村のように火災除けたといっている所もある。
 旧暦五月はサツキと称し、年中でとくに重要月とされている。昔から正、五、九月と称し、正月、五月、九月をオモツキ(重月)と称して慎重な態度で日常生活を過ごすべき月―つまり物忌みすべき月と言われてきた。石鎚講、山の神講、荒神講、日待ち、月待ちなど、村落社会の信仰行事もこの月に行う風が広く見られるのも、そのためである。
 五月は田植月である。サツキと呼ぶ古称があるのはサナエ(早苗)を植える月―田植月ということである。サツキとは、サの神を祭る月の意という。農神のサンバイ、田植女のサオトメ、稲苗のサナエ、農神の送迎をサオリ・サノボリという。すなわち、サは稲霊(農神=田の神)であるが、このように農神を祭り、生活にかかわる田植えをする月であるので、農耕民族にとっては重要月といわれたのである。
 さて、宵節供は一名「女の家」という。五月五日をいうこともあるが、近松門左衛門の「女殺油地獄」に「五月五日の一夜さを女の家と言ふぞかし」とあるが、愛知、岐阜などの中部日本の諸県令四国の一部でも「女の家」「女の夜」の言い方が残っている。本県では、喜多郡肱川町予子林で、四日一晩だけは女に家を貸してもらえる日だといっている。これを「女の屋根ふく」というのであるが、神奈川県でもこの日、菖蒲や餅草を家の長押に挿すことを女の屋根をふくといっている。また、中島町津和地や喜多郡長浜町青島では、菖蒲酒を五日の朝最初に女に飲ませるのはそのためだといっている。菖蒲酒と娘の関係は、安産のためとか蛇に魅入られないためという所もあり、これにまつわる昔話もある。この女の家の民俗は、五月が季節の変わり目であり、物忌み月で、その祭りに男が出払ったあとを女ばかりが家に籠っていた習俗があったらしく、その名残りであろうと説かれている。なお、香草の菖蒲を髪に挿したり、鉢巻にしたり、菖蒲湯、菖蒲枕などの呪術習俗があるが、これも物忌みに服している標徴であったかと思う。

 五月幟と伝説

 五月節供には幟や吹抜き、鯉幟を屋外に立てて飾る風がある。今日ではどこへ行っても見られる風景であるが、このように庶民一般に普及を見るようになったのは近世以降のことである。それが年々華美になるところから、幕府や諸藩はしばしば法令を出して自粛を促したりしている。なお現在見られるような、あちらにもこちらにも林立した景観は昭和三〇年代になってからである。
 鯉幟は吹抜きから案出された男児の成長を願う飾り物であるが、この外観に対して屋内に飾る座敷幟、具足がある。これは菖蒲を尚武に通わせて始まった武家の風習であったのが、江戸時代に一般化したものと解されている。ともかく男児の節供にふさわしい飾り物であるが、県下の風習としては五歳まで飾って以後は飾らない風があり、それを五歳のタテアゲと称し、改めて祝い直す風もある。
 さて、この五月幟を立てることを禁忌とする村や家がある。県下におけるその例は案外多く、しかもその理由や原因が中世末期の戦乱に由来した伝説であるのが注目される。つぎにその概要を列挙しておきたい。
 事例1 周桑郡丹原町川根 異説もあるが、昔、新城ヶ森に大男がいて、ときおり里に出て来て村人に相撲を挑むので村人は困っていた。ある時、不思議な男が現れて、その大男と相撲を取り、彼をやっつける。大男は村人に詫びて、「村に幟を立てさえしなければもう出て来ない」と言い残して姿を消した。以来、村人は幟を立てれば新城ヶ森に赤幟が立つと言って恐れ、だれも幟を立てなくなった。
 事例2 新城ヶ森の大男に、ある時、一人の村人が「どうして人を見ると角力をいどむのか」と尋ねたら、大男は「村に幟さえ立てなければその訳を言ってやろう」と言った。村人は以後幟を立てないことにしたが、ある年新出という所にその禁を破って幟を立てた者があった。すると幟から大蛇が下がって来た。それで村人はますます恐れをなし、幟を立てなくなった。
 事例3 昔、耳兼城主が、川根の東光寺を焼き討ちしたことがあった。それで村人は強く城主に反抗するようになり、そのため川根には五月幟を立てさせなくなった。
 事例4 端午の節供に幟を立てていたら、敵がそれを目当てに来襲して来て、遂に耳兼城が落城した。以来、川根では五月幟が禁忌となり、立てると蛇が上るといわれた。
 事例5 同町久妙寺の今井家では五月幟を立てぬ。立てると耳兼城に赤幟が立つというので忌まれている。
 事例6 同西屋敷の御子塚(若宮様)の近所でも五月幟や祭礼幟をいっさい立てることを禁じている。立てれば悪病が流行するという。
 事例7 越智郡玉川町 五月幟は平家の印ということで、同町の大下や鬼原の者は源氏の子孫だから立てぬのだという。また同町中村の森部落でも五月幟はタブーである。昔、源平合戦で敗れた平氏落人が当地を開拓したためといわれる。また、森家の祖先(掃守様)が幟に巻かれて死んだので立てぬことになった(但し、座敷幟はよいという)。同町奈良ノ木でも五月幟を立てない。
 事例8 松山市伊台町 享禄三年(一五三〇)、勝加城主河野近江守通遠は手勢を従え、潮見の城山を攻めたが戦利なく、単騎馬を駆って居城に引き揚げていたところ、松里の鼻のあたりで、庄屋の家に立ててあった五月幟が風に靡く音に馬が驚いて立ち上がり、全く動かなくなった。通遠はそこでこれまでと、刀を抜き追手の敵と渡り合ったが遂に討死した。里人は通遠の心中を察し、五月幟さえなかったらと、以後は村内のタブーとなった。
 事例9 同市末町やその周辺にも五月幟の禁忌がある。昔、菊の森と城山に城があった。戦争があって五月五日に城山勢は近づく敵の旗を五月幟と間違えて安心していたために敗れた。以来、末部落から川上地区では絶対に五月幟を立てなくなった。
 事例10 同市福音寺町や星ノ岡町でも五月幟はタブーである。ある家の男児が幟竿の下敷きになって死んだとか幟に巻かれて死んだのでとかで、その崇りを恐れて立てぬことになったという。
 事例11 伊予郡双海町 天正年間に上灘の由並本尊城主稲葉帯刀は、長宗我部軍が幟を押し立てて攻め寄せて来たのを、五月幟と見誤り、不覚をとって戦死した。その後、岡部落で男児が生まれて五月幟を立てると必ず死ぬので、城主の崇りであろうということになり、現在でも五月幟は立てない。
 事例12 西条市中野 木挽原に石川備中守の弟源吾の墓がある。源吾は氷見の高尾城を守備していたが、塩出・徳永等の讒言にあい、ここにおびき出されて殺害された。丁度五月節供の頃であったので、幟竿で攻め囲まれ、遂に討たれたのであるが、以後崇りをなすようになる。五月節供に幟を立てれば、暴風起こり、竿を吹き折るので、木挽原辺では五月幟を立てないことになった。(西条誌巻八)
 その他東予市黒谷、旦之上の長井氏、旦の天王組、今治市郷の阿部一族、越智郡吉海町などにも五月幟をタブーとする伝説がある。
 以上が本県における五月幟伝説である。そのタブーとする理由説明は各地各様であるけれども、つづまるところは横死の崇りに尽きるようである。悪疫流行とか不吉の前兆という説もあって、子孫にこのタブーを厳守させる目的もあるが、その背景は非業死による怨霊信仰に帰するようである。つまり「御霊信仰」である。

 御霊節供

 五月節供を古老はゴリョウゼックという。単にゴレイ、あるいはゴリョウという土地もある。ゴレイ、ゴリョウもともに御霊の意で、御霊会のことである。広島県や対馬でもゴレイ、ゴリョウエといっている。御霊会といえば、京都の八坂神社の御霊会(祇園祭)を思い浮かべるが、この祭りは激しい力で崇りをなすような死者の怨霊(御霊)を鎮めることから始まった祭りである。これが天王信仰と習合して祇園信仰となるのであるが、これが疫病神の信仰である。
 五月節供には粽をつくる。粽は保存しておいて産婦の乳の出をよくするため食べさせる風がある。また除病に効験があるということで、家の出入口に年中吊しておく。これを「祇園さんにあげる」のだと言ったり、風邪にかからぬ呪いだという。小松町石鎚あたりでは、サンキラの葉や萱の葉で米粉団子を包み、またトチの葉で包んだタカキビ粉団子と一対にして六日に氏神に供え、それを家に持ち帰って、戸口に吊しておく風があった。

 牛の節供

 五月五日は牛の使役を禁じていた。この民俗についてはすでに上巻(第三章第二節 牛馬市と牛の民俗)で触れているので略するが、五月には五日のみでなく数日牛を休める日が決められていた。土地によって多少の差異があるが、五月五日を牛節供とする民俗は、東・中予ではあまり見かけない民俗で、南予にはかなり広い分布をもって伝承されており、地域的特色をなしている。
 この牛の休日をカンニチ(坎日)とかゼンジツ(禅日)という風もある。肱川町あたりでは、五月卯の日をカンニチと称し、牛馬を休め、田植えもしない。この禁を破れば災難があると伝えている。また越智郡岩城島ではゼンジツという。やはり牛を休めると餓鬼の責を免れると伝えている。
 五月中、牛の使用を禁ずる民俗は奈良、山口県などにもあり、徳島県麻植郡では五月四日を牛の正月という。ともかく、五月の牛の使役を最も必要とする時期に、わざわざ牛の使役を禁じたのは、五月の物忌みを家畜にも及ぼしたもので、それほど五月は重月と見られていたからである。

 五月節供と競技

 五月節供には、相撲、印地打ち、菖蒲叩き、凧あげ、綱引き、競馬、騎射、競舟などの競技を行う風が各地にある。現代的にはスポーツの一種といえるが、信仰的要素が底流にあって稲作の豊凶を占う年占と考えられている。以下、本県におけるこの日の行事について見てみることにする。
 〈凧節供〉 凧は一般には正月のものであるが、本県の喜多郡五十崎町・内子町、伊予郡中山町などいわゆる内山地区では五月のものであった。それで五月節供を別名「凧節供」と呼んだ。現在、実際に凧あげをしているのは五十崎町だけになったが、三百年ばかり昔から、男児の立身出世を祝って始められたという。
 現在は新暦五月五日(昭和三六年から)に行っており、小田川の清流を挾んで五十崎と天神とが凧の落とし合い(凧合戦)をする勇壮な行事である。当地は大洲和紙の製造が盛んであり、かつ竹所で原料が手近にあることによってこのような行事の発生をみたものと考えられる。喧嘩凧は畳二枚敷きぐらいで、空中で相手の凧綱をガガリという刃物を綱につけて切り、落とし合いをするのである。
 〈一人相撲〉 大三島町の大山祇神社の御田植祭に奉納される神事相撲で、相手なしの文字通りの一人相撲ということで全国的にも有名である。古くから瀬戸の一人相撲といわれ、島内の瀬戸部落から出て奉仕するしきたりである。以前には親子相撲、兄弟相撲というのもあった由であるが、明治以降廃絶したという。
 さて、一人相撲は全国的にも珍しい相撲である。かつては和歌山県伊都郡隅田八幡宮をはじめ、五十崎町の宇都宮神社などあちこちに行われていたらしい。名のとおりの一人相撲であるけれども、実際に相手があって取り組んでいるように演技するのである。その相手は田の神の精霊であると言われる。勝負は三番勝負で二対一で人間が負けることになっており、これで豊作が約束されるとしたものである。
 〈印地打ち〉 石合戦のことである。徳川家康が幼時、安倍川原の石合戦を観戦した話が有名であるが、この印地打ちが本県でも行われていたらしいのである。何分これは危険を伴うところから徳川幕府も寛永年中に全国的に禁令を出したほどで、本県でも安永年中(一七七二~)ごろまで行われたようである。すなわち、『宇和島吉田両藩誌』によれば「印地打なる戯は古くは盛に行はれたるも安永の頃は全く廃れて其跡を絶ちたりとも言ふ」とある。
 この印地打ちに似た行事に「水かけ」があった。伊予郡砥部町麻生の市ノ瀬河原で五月五日村の少年らがやっていたもので、明和八年(一七六八)頃まで盛大に行われていたらしく、『御替地古今集』にその模様が記されている。

 麦うらし

 苗代ごしらえ、籾播と一連の農作業が終わって一段落つくと、あとは麦刈りを待つばかりの農閑期となる。この麦刈り前の麦秋のひと時を昔の人は「麦うらし」と呼んでいた。
 いつ頃からそのようなことが始まったのかは不詳であるが、「麦うらし興行」と称して、芝居、デコ芝居(文楽)などこの麦秋前になると毎年決まって行われていた。村の有志が請け負って小屋掛けし、数日間催すもので、めいめい重箱に食物を詰めてそれを見物に行ったものである。昭和一〇年頃まで見られた。とにかくこの催しをしないと麦が熟れないように言われたものである。
 この農村娯楽をムギウラシと称したのに対して、やはり嫁が生家へ里帰りするのをまたそう呼んでいた。若嫁が里へ麦うらしで休みに行くときには、土産としてたいていぼた餅やすしなどを持参した。これは松山地方の一般的風習であったが、東予地方では、米、サワラ、タイなどの魚を持参した。これをマメネング(豆年貢)といった。東予地方では、このタイ(桜鯛という)やサワラの初物を「鯛初穂」とか「魚初穂」と呼んでいた。この習俗は香川県あたりにも見られた。
 香川県では別に日は決まっておらぬが、鰆や鯛の出盛りに親類知己を招待して御馳走をするのでそれをハルワスレ(春忘れ)といった。村人たちは、花見に行ったり、新嫁は魚を持って里へ行ったりする。また、春島、魚初穂・麦うらしとも言うようであるが、とくに仲多度郡ではサワラブルマイという。
 麦うらしを春忘れというのは本県でも言っていたし、岡山県令福岡県でも言っており、だいたい本県中予の民俗と似た風習である。

 虎御前の涙雨

 五月二八日に降る雨を「虎が雨」「虎御前の涙雨」といっている。
 この日、曽我十郎祐成が富士の裾野で仇討の本懐を遂げ、討死した。それを十郎の愛人である大磯の虎御前が悲しんで流した涙が雨になったのだというのである。
 伊予郡中山町や北宇和郡では「虎御前の涙雨」、喜多郡長浜町や東宇和郡では「曽我兄弟の涙雨」といっており、喜多郡肱川町では「五郎十郎の涙雨」といい、この日は大なり小なりの雨が降るものと信じている。ともかくこの日は仕事を休んで雨を待望するむきがあるが、本県では、南予地域にのみある伝承である。
 『大洲旧記』大瀬村の条に曽我五郎十郎首塚のことが見え、「五月二十八日には、其塚より霊出て雨ふり出し、此国中雨ふらずと言事なし。当年より十年程は雨降らずとも有。」とある。曽我の首塚伝説は『大洲随筆』にも見えており、「曽我五郎時宗、同十郎祐成共に河野三郎祐泰が子也。祐泰かって工藤左衛門尉祐経が為にはかられ死す。兄弟孤と成りて曽我太郎祐信が家に養育せられ、成長して敵祐経をねらふ。時に建久四年、将軍頼朝富上野に狩し給ひ、此時兄弟御陣へ打入り敵祐経を打取りし事曽我物語及び東鑑などにも見えて人の知る所也。御所を騒がせし罪に依りて兄弟共に生捕られ終に首を刎られたり。その亡骸を富士の裾野に埋めて神霊と号す。此時、曽我の忠臣に鬼王といふ者有り。宇和島鬼ケ城の者也。兄弟討死の後再び本国へ帰へらんと志しが、此時十郎の首を盗取りて帰り、此所に埋めしとぞ。その塚は大瀬村字井山といふ所に有り。往還より十丁ばかり上りて谷間の中に二つ建てり。(下略)」とある。
 大瀬乙成の椎木駄馬の首塚がそれであるが、以前には盛大な祭りが行われていたし、とくに首から上の病気に霊験があるというので祈願者も多かったそうである。また、長浜町や伊予郡中山町でも、この涙雨を待望する風であった。
 なお、五月二八日を「肥の口があく」日とする民俗もある。すなわち肥草山の草刈りの開業日ということだ。松山市北梅本をはじめこの地域ではこの日から山の草刈りの口開けになっていたのである。

 焼餅節供

 旧六月一日の六月入りを越智郡島嶼部ではヤキモチゼック、温泉郡中島町や東、中、南予の各地ではハガタメといっている。ヤキモチは麦粉を練ってつくった焼餅をいい、ハガタメ(歯固め)は寒餅を剥いで乾燥させた餅をいう。
 大三島町浦戸では、焙ろくで径三〇cmくらいとやや小型の小麦団子を焼いて神仏に供え、嫁の里にもこれを贈っていた。それで焼餅節供というのだが、同町肥海では、この団子をツツボでつくるところからツツボ節供と称した。ツツボとは、脱穀の際に落ちこぼれた麦をいうのであり、それを集めて製粉し、焼餅をつくったのである。
 今治市馬島・小島でも焼餅節供という。また上浦町瀬戸、玉川町、菊間町ではハガタメ団子という。中島町では、団子や餅をつくって神仏に供え、歯の頑丈を祈った。ところが、この越智郡地方の焼餅団子に対し、中予や南予では正月の寒餅でつくったハガタメ(乾餅)を食するのである。カキモチともいう。温泉郡重信町や喜多郡肱川町では、六月一日の朝、この歯固めを焼いて神前に供え、それに大蒜を添えて食べていた。歯の健康を試すまじないからであった。
 伊予郡中山町では、六月一日に、正月に他家から貰った焼餅を小さく切って乾餅にしたものを焼いて食べており、喜多郡地方ではそれにさらに大蒜を食べていた。変わった例では、北宇和郡吉田町のように、三宝に柿の葉を敷き、その上に大蒜、乾餅を載せて床の間に祭り、当日まだだれも家に来ないうちに敷居上に家族数ほどのヤイト(灸)をすえていた。東宇和地方でも歯固めといい、カキモチを食べていた。
 文政の頃の宇和島藩士桜田某の随筆によれば「雪水に浸して餅を乾かし、六月朔日にこれを食す。すなわち夏氷を用ふる遺意なり。是は正月の餅をかきもちにして置き、六月朔日には歯固めと言ふで食す古風なり」とある。宇和島地方では、この日を「歯固め氷」と称し、氷を食べると歯が丈夫になるといわれていた。氷といってもそれは天然氷で、鬼ケ城のツララを篠駄馬に囲っておき、六月一日から市中に売り出していたわけで、宇和島に製氷会社ができる頃まで続いていた。

 嬶の利上げ

 北宇和郡や喜多郡の一部で六月一日をカカノリアゲという。嫁の親に聟の方から酒一升を贈る風習で、これは親生存の間続けることになっている。津島町では、新夫婦で嫁の里の親に酒一升と餅を贈る風習であるがそれを同町岩渕ではナツイリ(夏入り)ともいっている。
 要するに婚家先と嫁の里との贈答の機会であったわけで、津島町下灘のように八月一日にしている例もある。同地では夫婦同伴で、酒一升と蒸し飯を妻の里に贈った。蒸し飯は、五色飯ともいい、米・粟・高きび、えんどう、そら豆などの混ぜ飯で、当地方では節供の餅以上の御馳走とされている。また、喜多郡の嬶の利上げは、一二月八日の「八日吹き」にしている土地もある。肱川町ではお歳暮のことをいったりもする。

 ハヤリ正月

 六月一日の民俗は、この日がちょうど一年の半期であることから祝うようになったものであるが、本県には東予の焼餅節供型の民俗、中、南予の歯固め型の民俗の二タイプがある。
 焼餅型は麦の収穫祝いを兼ねるものとの見解があるが、あとで述べる「半夏生のはげ団子」やうどんを食べる食習のことを考え合わせると一応うなずけるかと思う。
 歯固め型は歯固めの字義が証明するように歯の丈夫さを試す意図があり、特に歯固めは正月餅で製した餅菓子なので、それを食べれば呪力が得られると考えられたからであろう。いずれにしても一年の半季に際し、神仏を祭り、生命の更新をはかり、新たな気分で後半季を無事息災で過ごそうとした儀礼であったのである。
 それで、この日をハヤリ正月と称し、臨時に正月を祝い直す風もあったのである。世の中が不景気であったり、災禍が続発したりすると、年重ねをしてこの不運な年を早く忘却の彼方へ追いぐる目的から、六月にもう一度正月を祝い直したのである。この措置は中世末から近世にかけて、たびたび法令をもって実施された記録があるが、本県にもそのような事例があったらしいのである。『宇和旧記』に「寛文八申年新正月と言事はやり、誠の正月の如く祝へり。其時久枝村長七と言者、彼正月を祝はんとして…」とあるのがそれで、「新正月」がそのいわゆるハヤリ正月の意である。

 半夏生

 夏至から数えて一一日目が「半夏生」で、俗にハンゲと称しており、新暦七月二日ごろにあたる。この日で梅雨明けになるので「半夏のはげあたま」といい、農家では「半夏半作」といってこの日までに田植えを終わらせる風であった。田植の早い地域ではこの日を「田休み」に当てる所もある。それを東予市や周桑郡では「総さんばいあげ」といっていた。
 半夏生には禁忌が多い。上浮穴郡や温泉郡重信町などでは、穴のあいた物を食べてはならぬという。それは中に虫が入っているからだというのであるが、北宇和郡津島町あたりでもいっている。伊予郡中山町では、山にある果物には悪魔がとりついているから食べてはならぬといい、東宇和郡宇和町では梅を食べると頭がはげるという。とにかく物忌みしなければならぬ日になっていたようである。そしてこの日には麦団子やうどんなどをこしらえて食べた。「半夏のはげ団子」という。先にこの日に田休みをする風があったといったが、川之江市金田町などでは、若嫁が田植の疲れをいやすために四、五日ぐらい里へ休みに行く風であった。魚などを土産に持って行くのであるが、これを「嫁の足洗い」と称していた。

 土 用

 土用は立春、立夏、立秋、立冬の各季節ごとにそれぞれ一八日間あるが、今日では夏の土用だけに通用している。いよいよ盛夏となるので暑気あたりや夏病み防除の目的から「土用うなぎ」「土用しじみ」などを食べる食習がある。また小豆、大蒜、韮などを食べていた。宇和島地方では、土用入りに、小豆を男子は七粒、女子は一四粒、それに大蒜と吊し柿を西方を向いて水に浮かして飲むか、土用中に大蒜を一つ焼いて毎朝用いれば暑気あたりしないといわれた。
 また、土用中には「土用籠」「土用祈祷」などといって、神社・寺院・庵などにお籠りして無病息災を祈ったり、稲作の成長や病害虫駆除を祈る「稲祈祷」や「虫祈祷」(虫送り・実盛送り)をした。土用祈祷は土用入りまたは三日ぐらいまでの間に行われる。東予地方の特色は大般若経のはいった唐櫃の下をくぐる風のあることである。「おはんにゃはんをおくぐりなさいませ」と言って家々に訪ねてくると、家族中でその下をくぐる。所によっては大般若箱を担いで土足のまま座敷にまで上がったりすることもある。
 海岸の村では潮浴びをする。西宇和郡伊方町では、朝潮・夕潮を浴びる。そうすると年中悪病にかからぬと周桑郡の海辺の村ではいっている。また、東予には土用入りにかまどの灰をさらえて屋外に出しておけば、火災が起こらないといわれている。

 虫祈祷と実盛送り

 稲の害虫―主としてウンカ退治の目的から行う農村行事を虫祈祷という。虫送りともいい、南予ではとくに「実盛送り」といっている。それぞれ地域的な特色があって興味深い。
 この虫祈祷に関連して、稲作に関する民俗―水口祭、さんばいおろし、さのぼり、雨乞い、御田植祭等一連の農耕儀礼があるが、すでに上巻の「農耕習俗」に含めて述べているので、ここでは再述しない。

 夏越し

 夏越し祭りは六月祓いのことで、ナゴシ、ナゴセ、ワゴシ、ワヌケなどという。夏を無事息災で越すよう祈願することから夏越しというのであるが、そのとき茅の輪をくぐる。それで輪越し、輪抜けともいう。輪抜けは南予地方の呼称である。西条市のようにオナゴセハンというのもある。神社から配布された人形を当日参拝して神社に納めお祓いを受ける。そのとき茅の輪の芽を一本抜いて持ち帰り、家の玄関の柱に挿して悪病除けのまじないとする風が川之江市などにある。