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愛媛県史 民俗 下(昭和59年3月31日発行)

六 小正月の行事

 正月三が日を大正月というのに対し、一五日中心の正月を小正月と称している。小正月は一五日の左義長が主体となるが、なお農耕の予祝儀礼がある。小正月の予祝儀礼は、本県の場合、南予地方に集中して見られるのが注目される。
 一般に小正月行事は、(1)予祝行事、(2)年占、(3)火祭り、(4)小正月訪問者、に四分類することができるのであるが、以下この分類に従って述べることにする。

 予祝行事

 作物の豊凶を農耕開始に先立ってかくあれかしと祝福祈願する行事が予祝行事である。ぬるで、みずき、やなぎなどの木の枝に餅や団子をちぎって取り付けた餅花、農作物の結実の模型である粟穂、粥を炊いて農作を占ったり、大豆を焼いて天候、作柄を判定したりする「豆たげし」、果樹に呪術を施す「成木責め」など数々の民俗がある。

 粟 穂

 粟の穂型のものをぬるでなどの木を用いて皮を削り、これに竹の柄をつけてあたかも粟の穂が稔って垂れているように作った模型をいうのである。伊予郡の山間部、上浮穴郡、喜多郡、西宇和郡、東宇和郡、北宇和郡などいわゆる南予民俗圏内に普遍的に行われていた習俗で、これを神棚(恵比須様)にまつり豊作を祈るのである。
 たとえば、伊予郡中山町や喜多郡地方では、一般に割竹を鈎型に曲げてその先に長さ一〇cmくらいのフシの木の皮をはいで差したものをアワンボと称し、四日に恵比須棚に供えるのである。広田村高市では、ヌルデの木を用い、粟の穂・餅搗き杵・味噌搗き杵の三種をつくり神棚に供えた。久万町下直瀬でも一四日をアワノトシノヨサ(粟の歳の夜)といい、フシめ木(ぬるで)でアワンボ(単にアワともいう)、キネ(杵)と称するものをつくり神棚に供えたり、門口に吊したりする。一五日には村童がキネをもって各家々の祝い打ちをして廻る。
 三瓶町では、一四日をアワといい、五倍子の太い枝を一〇cmくらいに切り、竹を二股に割った先にさして恵比須様に供えていた。野村町でもアワンボといい、恵比須様ヘアワンボカケをした。子供らがこの粟穂を売って廻る土地もあるが、それを三瓶町の一部ではカイツリといったのである。城川町のアワンボは松の木を軸にして、これに鈎に曲げた細竹六本を立て、その先にフシの木で作ったアワ三つを取り付け、他の三本には松の芯をとってさす。これを一四日のカナミコサマ(道具祭り)に供えるのである。肱川町予子林では一三日にアワンボをつくった。また同町では一五日に粟穂を作り、各神棚にこれを供える。この日は道具休めであるのでカナミコサマにも供えた。さらに組内のまつり神などにも供えた。
 なお粟穂の行事は道具休めと一対の行事として行うのが一般的習俗であるので、次に道具休めについて述べておく。一般に道具休めは、山林道具、農具などを縁先や屋内の土間に莚を敷いて並べ、鏡餅、神酒、米などの供物を供え、燈明をあげてカナミコサマを祭るのである。これを「道具の年取り」といったりもするのであるが、生産用具に感謝しかつ労務の安全を祈願したのである。
 上浮穴郡や伊予郡広田村では、一四日をクワガマサマノトシノヨと称し、鍬、鎌、臼などに注連をつけ、膳を供えた。東宇和郡宇和町では赤飯を炊いて供えたという。これが赤飯を炊く一年の最初であって、この日は山から茅を取ってきて箸をつくり、それで食事をしていた。
 この行事には子供が参加するという特色が見られるのであるが、三間町ではその供物の餅や注連飾りを子供らが集めて回り、注連飾りはオシメヤキをして焼却するが、餅はシメモチといって子供大将の権限でもって子供らに分配していた。なお、温泉郡中島町怒和にも一五日に道具の神様に道具類をまつる習俗があった。

 左義長

 四日朝に除去して休めておいた門松、注連飾りなどを一五日に焼却する行事を左義長という。左義長は各戸でする場合と地域共同体行事として実施する場合とがあるが、本県の場合、前者は中・南予地方の民俗事象になっており、後者は東予地方の民俗的特色となっている。左義長は、一般にトンド、ドンド、トンドサン(越智郡)、トウドウサン(周桑郡)、トウドウバヤシ(新居浜市)、トウドバヤシ(八幡浜市)、トンドバヤシ(越智郡伯方町)、トウドサン(宇摩郡)、ドンドバヤシ(中島町)と呼ばれている。すなわち、トウド・トンド系と、オカザリハヤシ(中予一帯)、オシメハヤシ(南予一帯)、オカザリアゲ(上浮穴郡)など、シメハヤシ系がある。しかし、なお特異な呼称として周桑郡や越智郡の一部などでいうシンメイサン(神明様)がある。
 ハヤスは焼くの忌詞である。注連飾り、神札など聖物を焼却するのを言う一般用語である。この左義長は一五日が一般的であるが、四日や一一日にする土地がある。また温泉郡重信町、松山市湯山のように二十日正月にする地域もある。
 左義長が現在も盛大な火祭りになっているのは、越智郡・周桑郡・新居浜市大島などで、いわゆる芸予諸島と高縄半島地域である。この火祭りは高縄半島部では盆の火祭りと地域的に重なっていて、たいへん注目されるのである。以下、県下の代表的な左義長の火祭りについて述べることにする。
 周桑郡地方の左義長は特に「神明祭り」と呼んでいるが、四日に除いた注連飾りを一四日に集めてトウドハンを巻く。太い青竹を支柱にしてこれに注連飾りを円錐形に巻いた藁小屋を言うのであり、子供らはこのトウドウハン(小屋)の中に二、三人ずつ入って徹夜で番をするのである。トウド小屋は、昭和二〇年代までは各組毎に設けられて、その夜を「宵トウド」といったりしていたが、「宵トウドサンを祝って下さい」と子供らが各戸を訪問して注連飾りや金・菓子・餅などを貰い集めて廻る風があり、また、子供や青年も混じって他組のトウドを荒らし合ったり、奪い合うなどの行為がなされた。一五日の未明、部落はずれの広場、田畑、池堤などにかき出し、トウドハヤシをするが、そのとき「トウドやサンキチや小豆餅ははやくすえた。餅のこげは今日ばかり、今日ばかり」と歌うのである。各戸から手に手に青竹に挾んだ餅を持参して焼く。またはやし終わった灰を縄目のまま家に持ち帰って戸口や周囲などに撒く。蛇・毒虫の侵入や落雷、火災除けの呪いとされている。またこの際一緒に古い神符や習字の書き初めをはやす。書き初めの灰か高く上がると手が上がる(上達する)といって喜んだ。トウドハヤシの歌は周桑・今治地方に伝わるもので、『今治夜話』に「童謡云、唐土乎左義長、餅の欠も今朝計、云々」とある。また「賑は敷物ハ唐土の餅の欠と於山参りの垢離時、小祭りのにはかや玄猪の五輪搗」ともあり、近世における賑やかな年中行事の一つになっていたのである。
 菊間町佐方でも神明様という。一五日に子供らが竹でやぐらを造り、「どんどじゃ、はげっちょじゃ」と唱え、鉦・太鼓ではやしながら村内を練り廻ったうえ、海岸にかき出し、注連飾り、神札などとともに焼く。このときやぐらに飾ってあった短冊のついた笹の枝を奪い合う。それを家に持ち帰って門口に刺して災難除けにしたのである。また残り火で餅を焼いて食べる。当地のこの行事は現在は子供がやっているが、以前は青年の行事であったという。
 大三島町肥海では、大きな松のリンギを四角型に組み、これを台に松の芯木を立ててトンドをつくる。二面を、注連と藁で覆い、それを竹で押さえる。一二段(閏年は一三段)に押さえ、他の一面を裏白と笹の葉で覆う。上部は円筒型につくり、これに竹の輪を三段にして結び付ける。竹の輪には輪切りにした橙が通してある。最上部には大竹を割ってつくった大扇(日の丸と三日月)が飾られ、またこれら飾り物に村娘らの手芸品や書き初めをつけて飾る。このトンドをあとで青年らが担くのであるが、そのときトンドの安定を保つため二本の張り縄で引っ張る。その役は今年青年に入団する新入りの任務であった。南北両組に分かれて持つが、途中、湿田に足を踏み入れたりしなければならぬ。冬の湿田は冷たい。それを我慢しながら注意して引くのが新参の責務であった。トンド焼きのあと、この青年たちは改めて入団するのである。宮窪町余所国では、浜側と向側 (山手)の別があって、それぞれの若衆宿で男女別のトンド様を作る。浜側はトンドサンといい男が作る。向側は女がつくり、シンメイサンと呼んだ。一四日に短冊・幟・旗などでもってトンドサンを飾り、一五日に両社明神の庭に運んでから浜に出してはやすのである。一五日は若衆組の加入脱退の祝い日を兼ねていた。
 温泉郡中島町ではドロドロバヤシというが、一四日をヨイ(宵節供の意)、一五日をコイワイ(小祝い)、小節供、一五日節供などという。部落共同体の行事として子供組でしている。同町吉木では四部落が競争で小屋をつくる。小屋の切り崩し合いをしたりするため、不寝番がついた。一五日の夜中にいっせいにはやし、よく燃えるのを競う。この火で焼いた餅を食べると夏病みせぬといい、その灰を屋敷に撒いたり、燃え残りの竹を屋上に放り上げて悪病・火災除けの呪いとするのである。
 以上のように、左義長が村童や青年の手でなされる地域では、大がかりな火祭りが展開されるのが特色となっているが、これはまた肥海や余所国のように若者組加入の通過儀礼の機会でもあったのである。換言すれば、反対に子供組脱退を意味しており、そのための通過儀礼の機会であったことが認められるのである。総論においても述べたが、芸予諸島と地方の高縄半島部にはこの子供組や若者組の年齢階梯制が顕著に見られるのがいま一つの民俗的特色になっている。新居浜市の沖合いの大島の左義長は、この年齢階梯制の典型的事例の最たるものである(上巻第四章第四節「年齢集団」参照)。
 正月注連飾りの処分を大がかりな火祭りで行う地域があるのに対して、ごく簡単に処理する風習のところがある。中予や南予地域が一般にそうである。しかし、全く皆無ではない。所によっては、地区でまとめて注連はやしをする所がある。たとえば、八幡浜市や西宇和郡内である。
 瀬戸町塩成ではオカザリハヤシといい、子供らがお飾りを家々から集めて海岸で焼く。そのとき餅か金を貰う風である。餅を焼いて食べると夏病みしないといわれており、また黒焦げに焼いた餅を海に投げ込み、その餅が浮いたら縁起がよいといわれる。灰を持ち帰って家の周りに撒いて蛇除けの呪いをする。このように、注連はやしの餅や灰に特別の呪力を認める風は全国的な民俗である。
 以上、小正月の火祭り(トンド)を主体に述べてきたけれども、小正月はまたワカモチを搗いて正月神を祭りなおして送る節日であった。盛大な火祭りこそしないが、それぞれの地区や家々で注連飾りを処分するのはそのためである。その処分方法は、焼くか海・川に流すか、または聖地と見なされている場所や大木の根元などに納めるなどの方法がとられていて、決して粗末に扱わないのである。
 要するに小正月は、正月の終焉の日であったから、それでオクリ正月といったりするのであるが、小正月の性格を直截に表現したものといえる。

 かいつり

 小正月かその前に子供や若者が家々を訪問して物を貰って廻ることをカイツリという。高知県の力イツリは有名であるが、本県でも南予地域を中心ににこの民俗が残っていた。
 伊予郡中山町では、一四日に子供らが幼児を背負って「オカイツリに参りました」と言ってゼニサシを持って家々を廻礼して物を貰って歩く風習があった。幼児を伴っての複数であるところに縁起を担いでいたのであろう。伊予市の郡中あたりでも浜の青年がカイツリに来ていたという。
 南宇和郡では一一日の夜、若衆二人が一組になって、夜着を着るなど変装して家々を門付けて廻る。各家はそれを予期していて餅や銭を渡した。もし宵のロから戸閉まりをして応対しない家があったりするとケチだと悪評をたてられ、悪戯されたりした。北宇和郡松野町上家地なども同様であった。
 カイツリで貰った米や餅は、特別な呪力を持つものと考えられていた。津島町御槇あたりでは七軒の家から貰ってくることになっていて、それを小豆粥(フクワカシ)にして食べると夏病みしないといっていた。これをトキノカユという所もある。同町岩淵ではゼニサシを作って、これを持って家々を訪問しホービキセンをもらった。ホービキは一種のくじ賭博みたいなものであって、藁しべに銭を通しておいて、それをくじ引きしたのである。また同下灘では、子供らが手に手に竹棹を持ち、家の窓や門口から竹棹を差し入れ、その棹先で餅を釣り上げて帰る風であった。
 瀬戸町川之浜では節分に子供らが縁起物を作って親類に持参し、代わりに菓子や銭を貰うのであるが、その縁起物をカイツリといった。フシの木を削って花型につくり、これを竹に刺し、その先に松の芯や松葉を刺した一種の縁起熊手みたいなものを持ってカイツリをしたのである。先述の粟穂と似たものである。
 カイツリの待遇がまずいと若衆がその家に悪戯をする風のあったことは先に述べたが、その行為をホタルククリと称した。南予の村々では青年たちに半ば公認された特権行為であった。ホタルバン、ホタルカケ、ホータロクビリともいった。一四日の晩、村の若衆が平常悪評されている家に対して制裁的な悪戯をなし、好評の家には藁製の宝船を持ち込んで祝福したのである。
 肱川町予子林では、青年が訪れて来て「外祝儀にしますか、内祝儀にしますか」という。外祝儀というのは祝儀を出さぬ時の仕打ちで悪戯をするのである。津島町岩淵ではホータロクビリといい、厄年者のいる家へ青年が船を作って持ち込んだ。広見町目黒では新婚の家にホタルカケをしていた。ホタルカケは、一四日の晩にすることになっていたので、その夜を、内海村平碆ではホタルバンといったのだそうで、どんな悪戯も一切御免、お構いなしということであった。それで一夜明けてみるとびっくりするような悪戯が村中のここかしこで見られたのである。例えば、村の船二、三隻が山上にあげてあったり、寺の石の六地蔵が家の入口や娘の枕元に置いてあったり、井戸水が汲めないようになっているなど何をしでかすやらわからぬ仕来りがあったのである。
 カイツリは温泉郡川内町井内でも行われていた。同地大平の出身である北川淳一郎は、「年中行事の一つにかいつり(粥釣りか)というのがあった。これは季節が正月の厳寒の時だったと思う。藁で三、四寸の小さなこよりをこしらえて、それを子供が、夜更けて家々を廻って「かいかいかい」と言いながら戸の隙間からその藁ごよりを一、二本さし込むと、家の内から戸を細目に開けて、餅だったかをくれるのである。このかいつりもまもなくやんでしまった。後年村へ帰った時人々に訊ねてみてもはっきり憶えている人は無かった。」と述べている。

 若恵比須

 大晦日には福の神が舞い込むから入口(玄関)の戸を少し開けておくものだとの伝承があったが、恵比須・大黒様などの縁起物をもって訪れる者があった。「縁起物いらんかな」と言ってやって来るのである。年頭の縁起物ということで縁起を担いで少々高価とは思うが値切りもせずに受け入れる風であった。縁起物売りはまだ続いている地域もあると思うが、この神像を恵比須棚にまつって寿福を祈るのである。
 また正月三が日の間に「若恵比須」の来訪がある。恵比須神、大黒神、七福神などの神像を刷った神札を「若恵比須が舞い込んだ」と言って配って来るのである。以前は山伏が出していたのを、今では民間人が代わって頒布している所もある。子供や若い衆に委託して配布している所もあって、若衆が顔を頬被りでかくして訪ねて来ていた所もあって、それを松山市北梅本などでは「福入り」といった。

○明きの方から若恵比須 若大黒  あげましょう(松山市市坪)
○若恵比須 若大黒 吉凶草木 吉をあげましょう(松山市生石町)
○明き方から 若大黒 若恵比須 吉凶 草木よし(松山市高岡町)

など縁起のよい文句を唱えてやって来たのである。家々ではそれを心得ていて、桝に米・餅・銭などを入れて縁側に出して置いておくと、神札を置いて帰って行くのである。各家ではこれを恵比須様や年徳神の棚に貼っていた。
 村里に来訪する門付芸人には、節季候、万才、春駒、鳥追い、お多福などとりどりの趣向を凝らした一団が門付をしながら渡り歩いていた。これらはいずれも物乞いのたぐいであったから早く消滅したのである。
 宇摩郡地方では、明治二〇年代までは、春駒・餅搗き・お多福・鶴亀・おいべっさん・お半長右衛門・猿廻し・ひょうたん廻し・俵持ち・でこ舞わし・やっこ・四つ竹左衛門語り・あほだら経・豆売り・ほうらの貝などが来ていたという。ずいぶん多様な芸人が入れ代わり立ち代わり来訪していたものである。ついでに同地方を訪れていた春駒の文句を次に記しておく。

おくさん御赦免なさいませ 初の宮のお多福女郎でございます
戎さんや大黒さんのおこづけ 春は早々福山から一分小判は降ってくる
奥さんは箒でもって掃き寄せ 旦那様は滅多無構にはかり込む
これも富貴の相 福には何もお構いなさるな
隣の七兵衛様まで とうしみのしたしもの 石のこんこで軽石の握り飯よばれて参じました。
春よし 米よし 実もよし おほう。

 やぶいり

 小正月のしまいはヤブイリである。一六日には嫁や奉公人がそれぞれヒマを貰って親元へ休みに帰るのを薮入りというのである。この日は地獄の釜の開く日で、一般に風呂を沸かさぬ日だと周桑郡地方でいっている。宇和島市祝森では、農休日ということで土地に鍬を立てるなという。西宇和郡ではトキヤスミ(時休み)といい、越智郡上浦町盛ではトキビといっており、同郡伯方町伊方では他出を忌む日だといっている。ただし、奉公人の出替わりは、南予では二月一日と八月一日になっており、一六日のヤブイリは中予と東予の風習である。東予地方ではこの日必ず墓参をする。南予では不動様や閻魔様の開帳日ということで寺院は参詣人で賑わうのである。
 一六日は仏事始めで墓参をしたり、「念仏の口明け」をする。これを念仏始め・真言始めともいう。一二月一六日をシマイ念仏というのに対し、念仏の口明けであるが、この間一か月間は組内に死者が出ても葬式の鉦を鳴らさぬ慣習である。

 鬼の金剛

 念仏の口明けに村境に大きな藁草履を作って吊す風が南予の諸地域にあり、特色ある民俗区画を形成している。それを鬼の金剛というのであるが、鬼が履く金剛草履ということだ。仁王門の金剛力士が履く大草履を金剛草履というのである。久万町下畑野川では、人通りの多いところにシメナワを張り、中央に鬼の金剛(一尺ばかしの足半草履)と、ベントウ(小豆飯)を藁すぼに包んで一緒に吊り下げておくのである。悪魔退散のためである。箸をつける所もある。
 広田村総津では、四辻や川端に縄を張って鬼の草履をつけ、縄目に数膳の箸を突きさして添えている。組々の念仏行事で、太鼓を打ちながら、ナムアミダブツの念仏を唱え、終わって酒宴をして解散する。あとで「奉唱念仏百万遍専祈五穀豊饒病失忽除攸」のお札をもらう。
 伝説によると、昔、総津に亀の丈なる男がいた。念仏酒に酔って道に寝ていたら、そこへ山姥が山女郎を連れて通りかかる。山姥は亀の丈を見かけ、連れの山女郎に「ここにお念仏様がおるけんよけて通れよ」と言うのである。そういう声を聞いて亀の丈は不思議に思ったが、考えてみると、それは今日のお念仏のお札を髻に結わえつけて寝ていたからで、その功徳によるものと気付いたのである。そして一層村人たちもありかたく思うようになったのである。
 念仏の口明け行事の功徳を説いた伝説であるが、喜多郡肱川町では、この日の鬼の飯を食べると夏病みせぬと伝えている。宇和町永長の鬼の金剛は超巨大草履で知られている。保内町や瀬戸町などでは、百万遍念仏のあと、天下泰平、五穀豊饒を祈願して大草履を塔婆に差して部落入口に立てている。鬼の金剛の行事は、久万町父野川、面河村渋草、柳谷村本谷、広田村多居谷、肱川町大和、内海村家串、城辺町緑ほかで現在も行われている。
 家串では一・五m以上もある大草履を泉法寺の仏前に供え、参列者一同が住職の読経に合わせ、ナンマイダブツと唱えながら大数珠を繰る。行事が終わると大草履を部落の東西入口にある大松に供えるのである。
 この外、この日を「お日待」と称し、大般若経を転読したり、百万遍念仏供養をしている所が多い。部落安全を祈願する仏事始めであるとともに、部落の初寄りであることが多いのである。

 お日待

 神職や僧侶を招いて行うか、山伏に拝んでもらう。俗に年始祈祷、初祈祷、組祈祷、春籠りなどの呼称があるように部落の安全、五穀成就を祈願し、そのあとは新年宴会と初寄り合いを兼ねている。またお日待の語が示すように、宿元(当元)に籠って夜を明かし日の出を拝んでから解散するのが古例であったが、現在は昼間にしたり、夜半で解散しており、本当の日待ちをするところはなくなった。各家に小餅一重ねに祈祷札を配布する。また組境には関札を立てる。「日待講」ともいうのである。例えば伊予郡広田村高市では、宿の縁側に新しい荒薦を敷き、神職に来て貰って朝の日の出を拝み、夕方の日の入りを拝んで貰った。神職は宿の者の厄払いをして帰った。
 日待には「春日待」と「秋日待」があるが、春日待には当主が餅を搗いて一重ねずつ講員に配り、一升桝に盛って供えていた御飯を夕食時にみんなに分配して食べた。昼間にお籠りをして宴会をする。なお、南予諸地域では別に個人的にお日待を拝んでもらう風があり、座敷口に注連を張っている。

 マスヌケ

 小正月の行事を久万町下直瀬ではマスイレといった。一四日の夜、前年に嫁さんをもらった家へ若い衆が藁で造ったマスイレというものを持参する。その家では桝に餅を入れ、酒一升を出しておく。新入りの小若い衆が家人の隙をみてそれを奪ってくるのだが、その家の者は待ち構えていて、小若い衆が入って来るなり、水をふっかけ油で練った鍋墨を顔になすり付けるのである。これをマスヌケというのであるが、新郎はこれを最後に若衆組からノク(退会)のである。
 また、長浜町青島や越智郡魚島村では、朝、新嫁さんを見かけると「祝いましょう」と言って顔に鍋墨をつける風があった。魚島では明治二〇年頃まで行われていたという。

 綱引き

 『宇和島・吉田両藩誌』風俗の条の藩内諸令達類中に、左のような記事がある。

     元文二年(一七三七) 一月十一日
先年は於町年始綱引きと申儀有之侯処中絶の由、当年より相勤度段承届、十五日於袋町有之由の事

 現在、運動競技の花形として各地で催されている綱引きは年占の意味をもち、必ず神事を伴って行われた。東日本各地では小正月の時に、西日本では盆行事の一つとして、九州では仲秋の名月に行われるのが通例であるが、宇和島では小正月に実施されたようである。一度中絶していたのを元文二年に再興したのであるが、いつ頃まで存続していたかは不明である。しかし、宇和島市日振島明海にその行事が現在も続いているのである。同地ではオジュウゴンチ(お十五日)と称し、一六日の朝、小豆粥を炊き、それをいただいた後、注連を海にアマス(捨てる)が、表社堂(床のある表の間)に張っていた大注連だけを全戸から集めて一本の大綱にし、これを部落の者が引っ張り合いをするのである。同市蒋淵でも一四日に綱引きがあった。昭和一〇年代までで、横浦・豊の浦・宮市の三か浦の者が引き合っていた。各戸のお注連を子供と老人が集めてきて、太さ直径七~八寸・長さ一四~五間の綱にない、これを子供と若い衆で引き合うのである。このとき村の娘も出てきて子供側に加勢した。庄屋(宇都宮家)の前の浜で一時間ほど引き合った揚げ句、勝負はつけないで綱を海に流して終えていたという。

 ハツカ正月

 正月二十日をハツカ正月という。この日で正月が完了するということでシマイ正月という所もある。「二十日正月骨ざらい」(今治市小島)とか「骨正月」(松山市石井地区)といったりもするが、用意していた正月魚も骨のみになって食べるところもなくなったので言われだしたものであろうが、ともかく正月も二十日で完了するのである。それで普通注連飾り等は一五日にはやすのが一般であるのに、わざわざ二十日にはやす地域が温泉郡重信町や松山市湯山などに見られる。
 また二十日正月を伊予郡広田村高市では、小正月、歌正月、女正月などといったそうである。この日門松の松葉を囲炉裏にくべてふすべ、貧乏神を追い出すまじないをした。この青松葉ふすべの習俗は東宇和郡城川町でもしていた。これは七月にする土地が多いのだが、このように二十日にする所もあったのである。なお二十日正月を小正月ということは松山市太山寺あたりでもいっていたことであるが、この日は仕事を休む日になっていた。昔は正月一か月といわれていた時代があるが、この日が新年行事の折り目の日であったのである。シマイ正月の呼称が端的にそれを証明している。なお、この日ヤイト(灸)をすえるとよく効くと北宇和郡日吉村などではいい、南予地方ではヤイトをすえる日であった。それで伊予郡中山町ではヤイト正月ともいっていた。
 二十日正月には「麦ほめ」とか「麦よし」といって麦畑に出で麦作をほめてもどる習俗が県下各地に行われていた。この民俗は農耕習俗の項(上巻 第二章第一節)で述べたので重複を避けるが、いま一つこの日は腹いっぱい大食をする日だとされていた。南予ではこの日ひもじい目をしたら一年中ひもじい目を見なければならぬと言っていた。

 山の神祭り

 二十日正月には山の神祭りをする。山の神の祭日は一般に正、五、九月の九日であるが、これは山仕事専従者の山の神祭りである。
 本県の農民のあいだでは二〇日をその祭日とする所が多い。丹原町高松では、この日山へ行くことを禁じている。それは山で神々が集まって雑煮を炊き、会合なさる日なので、山に行けば罰があたって身体が弱くなるからだという。松山市和気地区でもこの日は山の神がご馳走を煮ているから、その煙が眼に入ると眼がつぶれると伝えており、同興居島では怪我をするという。温泉郡中島町では、ブレにあたって病気になるといっていたし、同町野忽那では大きな相撲取りが出てきて人を捕るのだという。重信町上林でもこの日山の神のオツヤをする。
 伊予市米湊では山の神の正月ということで山行きを禁じている。南予地域でも一般に山の神のお籠りというのをする。東宇和郡城川町では、二〇日に山へ行って味噌汁の匂いをかいだら怪我をするとか、馬鹿になるといわれ、津島町の御槇地区では、お籠りするとシシ(猪)が畑を荒らさぬのだという。それで当地方では毎月の一九から二〇日にかけて山の神祭りをし、特に正、五、九月にはお籠りをするのだと伝えている。
 次に山の神祭りで変わっているのは周桑郡小松町の場合である。山の神講があって、当元が組内の者を案内するのに、鎌の柄でオウコ(天秤棒風のもの)をたたいて廻るのである。たたき方は「ココン コン コン」と叩くのであるが、これはこの日以外はしないことになっている。叩けば山の神がお出ましになるというのである。