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愛媛県史 民俗 下(昭和59年3月31日発行)

三 年祝いの習俗

 厄 年

 男四二、女三三歳といった特定の年齢が災の起こりやすい、障りの多い年として忌み慎まれる風がある。この特定年齢を厄年と呼ぶ。ある村落で厄年とされる年齢が、他の村落では年祝いとして一生に一度の大盤振舞いを伴うこととか、厄落としのことを年祝いということ(双海町法師)、三三の祝い・四二の祝いという表現があること(北条市小川谷)などから、厄年は厄除けと同時に年祝いとしての盛大な儀礼を伴う年齢といえる。日本民俗学では、この厄年が、神祭りに参加する資格を得る神聖な年齢=役年でもあると考えられ、また人生の一定時期において、なるたけ多勢の人たちと「共食」することにより、新しい活力を得ようとする観念で貫かれている点が注目されてきたのである。
 事例1 新居浜市大島―女三三、男四二歳を厄年といい、男女六一・七〇(チョウ七)・七七・八八・九〇・一〇〇歳を年祝いという。
 事例2 関前村岡村―男二五・四二・六一歳が厄年で六一歳を大厄と呼び、この年に餅を搗いて近所親類に配る。女は一九・三三歳で、三三歳は大厄といわれ、里から親子帯もしくはヘコオビを貰う。
 事例3 久万町下畑野川―男の厄年は、二五、四二、六一、七七、八八歳、女は一九、三三、六一、八八歳で、うち最初の二五歳・一九歳のほかは年祝いである。
 事例4 津島町御槇―厄年は男一九、二五、四二、六一、八八歳、女一九、三三、六一、八八歳である。
 右の諸事例から、厄年と年祝いの年齢は、地域により区々であるが、一般的に男二五、四二歳、女一九、三三歳、男女共通に六一、七七、八八歳を厄年という。なかでも男四二、女三三、男女六一歳は大厄と呼び、これらには前厄、本厄・後厄があるといわれる。

 厄除け

 厄年に襲いかかるといわれる厄難を逃れるために、厄ぬぎ、厄落とし、厄祓いと呼ばれる厄除けの祈願または呪法が次のように行われる。
 (1)神社・寺院での祈願と参拝等 伊予三島市中之川では男四二、女三三歳を厄と称し、ヤクバライをする。正月元日の早朝に氏神へ参詣し祈願する。その帰りにはな緒を切った草履を捨ててくる。この時、昔なら三三文のお金を一緒に落とした。家では親類一同が集まり三日間、昼夜ぶっ通しの酒宴が続けられた。また瀬戸町大江などでは、香川県の金毘羅宮へ参詣する。東予市から川之江市にかけた東予地方では、二月一日の二月入りの日に氏神に詣でて厄祓いをしてもらい、大きな神札を受けて帰る。
 (2)節分の夜等の厄除け呪法―節分の晩に神社へ御神楽銭と米一升を持参して神主に拝んでもらう。また四つ辻に人の目につかないようにそっと豆と銭を捨ててきた(吉海町、生名村、松山地方、上浮穴郡内ほか)。その他、年の数だけ豆を食べて厄落としをする(肱川町ほか)、四つ辻に藁を持って行き火をたき、一厘銭を火の中に入れて、火を見ずに帰ってきた(柳谷村松木)、ヤクノガレ・ヤクオトシといって大豆を厄年の数だけ炒って橋の上から捨てたりする(中山町)などさまざまである。また正岡子規の句に「四十二の古褌や厄落し」がある。四つ辻に古褌を落として帰ったり、手拭い・櫛など身につけていたものを落とした(松山地方)。厄除けは節分以外にも行われる。たとえば、東予地方に多い「厄ぬぎの草履」を鼻緒を切って四つ辻に捨てる時、男は餅を付け、女は髪道具を付けて落とした。また石垣の上に歳の数だけ小銭を置いた。四二円とか四二〇円というようにしてもよい。女は着物を脱ぎ捨て、別の着物に着替えてもどる。捨てた着物は他人に拾ってもらうこともある。捨てられた銭や着物は、厄年をすませた人でなければ、絶対に拾ってばならなかった(新宮村)。ヤクノガレを正月三日(オオトシノヨル)・正月一五日の夜・生まれた日にするところもある(中山町)。
 (3)弓祈祷・神楽・伊勢踊りなどによる厄落とし―伯方町では旧暦正月一一日(現在、新暦二月一一日)の弓祈祷(初祈祷)で厄落としをする。的に土器や扇子を吊して、それを射抜いてもらう。見事に射抜くと祝儀を出す。広田村高市では年賀といって、女三三、男四二、男女六一、七〇歳は、旧二月二二日に春神楽を催し、それによって厄除けをする。厄年の者が神楽料を負担して、神社の春祭りに神楽を奉納するところは、大洲市・喜多郡・西宇和郡・八幡浜市などに多い。個人の家に神楽太夫を招いて、神棚のある座敷で神楽を奉納するところもある(八幡浜市)。城川町高川・宇和町あたりでは二月一日に氏神様の初ごもりとして、伊勢踊りを奉納し厄に当たる人たちの厄落としの御祈祷を組中で行っていた。三崎町の八幡神社の氏子は、正月に神社で厄除け祭を行ったのち、浜辺で伊勢踊りを奉納する。また四二歳の厄年の者のうち、一名が秋祭りの神輿渡御に際し、天狗面を奉持して先導役になり、他の者が神輿を担ぐことになっている。
 (4)贈り物―前掲事例2のほか三三歳の女に兄弟が厄逃れの帯を贈るところもある(吉海町椋名)。久万町では里の親が、ウロコ状模様の帯を贈る。帯がなければヒモでもよいという。この帯をイノチナガメとかヤクノガシの帯という。長いものを贈るのは「長生きしてほしい」という願いがこめられているのである。また女三三歳の厄年に、里方から羽織着物(宮窪町)を、六一歳の厄年に長着を贈るところもある(小田町)。
 (5)その他―宮窪町浜では、男女六一歳をアトヤクといい、旧正月の松の内に六一個の銭(昔なら六一文銭)をエビス様の社で撤いた。近くの人が集まってきて、それを拾った。ただし厄年の家の者は拾ってはいけなかった。西海町内泊では厄年に塩餡の餅をつくる。三瓶町和泉では、女三三、男四一一歳に、厄を除くための祝いをし、また村や寺に対して金品の寄付を行った。

 年祝い

 年祝いは年賀などともいう(魚島村・岩城村・中島町・広田村ほか)。
 事例1 伊予三島市中之川…男四二、女三三歳に厄祓い、六一歳のお祝いをする。酒・米・白木綿をお歓びとして持参し、神前に供える。白木綿はのちまでとって置き、当人が死んだ時の白装束に使う。
 事例2 上浦町瀬戸…六一、八八歳が年祝いである。赤子にかえるというので、男は赤い着物、女は腰巻きなどの赤いモノを身につけ、一升か一俵の米を持って神社に行き祈祷してもらう。旧正月一五日までに二、三日かけて祝う。近年は出費がかさむ理由から、正月一五日にまとめて年祝いをする。
 事例3 中島町…七七、八八歳を年賀として祝う。八八の祝いに、男は桝の棒(トカキ)を、女は腰紐や茶袋を八八個つくって、知人・親戚一同に贈る習わしである。同町睦月では何かの都合で、その年に年祝いができず、翌年に延期した場合は「ヌゲを祝う」といった。
 事例4 中島町野忽那…厄祝いは正月の吉日を選んで、親戚中が早朝から集まって来て、餅を搗く。この餅搗きの時は何をやってもよく、手伝い人はもとより、そこらに居合わせた者の顔に墨を付けたり、水を掛けたり、鶏を放したりの狼ぜきをした。
 事例5 松山市久谷町つづら川…八八の祝いに近親者へ記念品として「ヒ」を配った。ヒはひと握りほどの太さの竹を二〇cmくらいに切り、その一端を斜めにとがらして、米俵に突きさし米を取り出すもので「八十八」と刻み込んでいる。
 事例6 野村町小滝…男四二、六一、女三三歳の厄年に賀寿の祝い(年祝い)をする。親戚・友人を招いて、祝宴を催す。帰りにはタチガラケといって大杯(ムサシ)に満々と酒をついで、客に飲んでもらう。また往来へ四斗樽を出し、通行人の誰彼なく、酒飲みを強いた。
 事例7 津島町御槇…四二歳のオトシマツリは、ヨダメシと称して、大きな客呼びの年祝いをするのである。大家では親戚や村内から贈られる米が百俵以上にも達するほどであった。客呼びは、一日目、ルイ(親類)を招き、太夫さんにオトシの祈祷をしてもらう。二日目(フツカモリ)は組内の主人たちを、三日目(ミッカモリ)はその家内全部をそれぞれ招待し、四日目はイタナガシで世話方全員にご馳走をした。女三三歳の年祝いもこれと同様である。
 以上の諸事例から、年祝いは、地域性ゆたかな儀礼とみることができる。よく、「四二は腕で祝い、六一は子が祝い、八八は孫が祝う」といわれる。事例6・7のように、大厄の男四二、女三三歳でも、単に厄落としの儀礼のみにとどまらず、盛大な祝宴を開いたり、また中島町二神島のように正月二八日に村中に餅を配ったりして、多数の人たちとの「共食」を伴うことが注目される。事例7のような数日間にわたる祝宴は、三瓶町鴫山でも年賀の宴と称して伝承された。年祝いの贈り物として、米(八木)または米に関係が深いモノ(トカキ棒)が多い(事例1・2・3・5・7)。これは、米に何か特別な力が備わっており、その米を媒体とする生命の活性化を期待する心意が働いた伝承と理解できる。八八の祝いには赤い頭巾などが孫から贈られるところが多い(宇和町・大洲市・砥部町)。四二歳の年祝いをヨダメシというのは、事例7のほかに中山町・柳谷村(ここはヨダメシのほかに運ダメシともいう)・美川村・三間町ほか広範囲にみられ、この歳は、上手に世渡りができるかどうかを試す年だとか(中山町)、生活が安定するかどうかの分かれ目であるとかいわれる(美川村)。また六一歳の還暦の年祝いがすめば、隠居をし、表ヅキアイは子に譲るところがある(双海町・広田村高市、肱川町ほか)。
 事例8 内海村柏…男四一歳になると、六月一日に親戚・朋輩を呼んでヤクイリの式をする。その翌年つまり四二歳になった年の二月一日にヤクオトシまたはヤクヨケの大祝宴を、七日間にわたって開いた。ヤクイリからヤクヨケまでの約八か月間、本人は特に慎み深く身を持して生活を送る。年三度の荒神籠り・宮籠りに出席するなどもろもろの神事につとめて参加する。またヤクイリの時に、太夫か法印を招いて念入りな身祈祷をしてもらう者や「お四国」の巡拝に出かける者もいた。
 この事例のように、ヤクイリの儀礼を伴う四二歳の年祝いは、南予地方に多い。同じ内海村の家串では、厄年の前年の二月一日にヤクイリといって親戚・知人が御祝儀を持ってくる。その年の八朔(八月一日)にその人たちを招いて盛大なご馳走を振舞う。さらにその翌年の八朔にヤクオトシとして赤飯を炊き親戚・知人を再び招いて酒宴を張るのである。
 年祝いの年齢は、先の諸事例であげた年齢(女三三、男四二、男女六一、七七、八八)のほかに、七〇(三瓶町鴫山・三間町・瀬戸町三机・新居浜市大島ほか)、九〇(新居浜市大島ほか)、九六(瀬戸町三机・三瓶町鴫山ほか)、九九(一本松町ほか)、一〇〇歳(新居浜市大島・八幡浜市大島)などがある。
 事例9 津島町御槇…年祝いにアイドシ(同一年齢者)を招いたり、贈り物を受けると、勝ち負けが生じるといって、アイドシ同士は祝いに行ったり、また贈答をしない。
 この事例のような年祝いにおいて同一年齢者同士のイワイアイコを忌む風は、魚島村などにもあった。また中島町野忽那では、アイヤミを忌むといって、親子・夫婦の間でもそれぞれが厄年にあたる者同士ならば、共に飲み食いをしない。三日間ほど互いに別火にする習わしすらあったのである。